1301年(正安3年 辛丑)
 

1月22日 [武家年代記]
  時基室(貞時女、宗経養君)逝去す。
 

3月24日 [皇年代略記]
  後二條院即位(太政官廰)。
 

5月12日
  若宮降誕。御験者助の僧都実助。
 

8月
  引付頭、一久時、二宗泰、三時家、四宗方、五宗秀

8月3日 [武家年代記]
  丑の刻、貞時出家す(法名崇演)。

8月13日
  寅の刻、彗星東方に出現す。光芒三尺余、数日増光して一丈。

8月22日
  引付頭、一久時、二宗泰、三時家、四熈時、五宗秀

8月23日
  相州出家す。

[保暦間記]
  貞時出家(法名崇演)して、最勝園寺と号す。入道嫡男高時未だ生まれざるの間、将
  軍家執権を従弟相模守師時(時に右馬権守)に申付たり。時頼の孫、武蔵守宗政子な
  り。彼師時は貞時聟なり。その上師時をば時宗が子たるなりければ此の如く計けり。

8月24日 [皇年代略記]
  花園院立太子(五、後伏見院継嗣未だ生れず。仍って養子としてこれを立つ)。
 

11月4日 晴 [吉続記]
  顕空上人この両三日関東より上洛す。條々申す事等、密々に参院し申し入る。行藤入
  道の上洛一定すと云々。立坊の事関東物騒沙汰後悔の気有り。然れども御治定長久た
  るべき由、行藤入道を以て申し入るべしと云々。予関東に下向するの時、今度の立坊
  御理運の次第、委細申し披き□□使者申せしめば、愚臣の高名、公私悦ぶべからず。

11月7日 晴 [吉続記]
  東使出羽前司入道(行藤)上洛すべきの由、その聞こえ有り。

11月18日 辛丑 晴 [吉続記]
  武家の使者入道相国の状を帯し参らしむ。予中門に召し使に相逢う。状に云く、貢馬
  (毛付在り)、御物(目六在り)の事、関東の状此の如し。披露せしめ給うべし。
   進上
    帖絹百疋
    紫染衣百端
    紺染衣百端
    綿千両
   右進上件の如し。
     正安三年十月十六日      沙彌道暁(上)
   御物(解文在り)、貢馬(毛付在り)、例に任せ沙汰進上せられ候。この趣を以て
   披露せしめ給うべく候。恐惶謹言。
     十月十五日          相模守師時
                    武蔵守時村
   進上左京権大夫入道殿

11月21日
  異国船若干薩摩の国甑島に着く。大風吹き賊船逐電しをはんぬ。

11月23日 [吉続記]
  東使今日入華の由、その聞こえ有り。

11月24日 己未 晴 [吉続記]
  東使行藤入道今日今出川に向かう。晩頭前右府参らしむ。東使の事申し入るべきか。
  常御所に参り、東使間の事を尋ね申す。御譲位の事遅速す。叡慮有るべし。雑訴の事、
  一向聖断たるべきの由、申せしむと云々。

11月25日 庚申 晴 [吉続記]
  関東の状並びに事書二通(御譲位の事、雑訴聖断たるべき事)一見すべきの由仰せ下
  さる。御譲位の事書には、先々御使いを下され子細を申さるるに依って恐悚少なから
  ず。両御流践祚依違すべからず。遅速叡慮に在るべし。雑訴已下の事、一向聖断たる
  べし。武威を募るの輩、用いらるべからずと云々。
   関東の状に云く、行藤法師を以て言上せしむ。万里小路殿に申し入れしめ給うべき
   の由候なり。
  関白参らしめ給う。関東申すの趣珍重の由申さる。立坊の上は、御冶世有るべからざ
  る程の由、富小路殿祇候人等これを称す。今此の如き申し入れ、政道の為天下の大慶
  なり。公私の慶びなり。今度下向の時、委しく申披くの致す所なり。両御流践祚依違
  すべからざる事、この段先度下向の時、国二主有るべからず。後嵯峨院御素意分明の
  由申しをはんぬ。この段猶仰せ遣わさるべき事なり。

11月26日 辛酉 晴 [吉続記]
  昨夕の関東御事書等、予筆を染む。坊城前中納言祇候せしめ、御事書等猶子細有るの
  間、暫く下さるべからざるの由申し入れをはんぬ。
 

12月2日 丁卯 晴 [吉続記]
  時に深更に及び、申さるるの旨委しく聞こし食され、その旨御存知有るべし。両方の
  御使競い下向す。頗る軽忽の由、御意を得るべきなり。

12月10日 晴 [吉続記]
  戌の刻に入道相国の状到来す。武家の使者申す詞これを相添う。異国薩摩の国子敷島
  に襲来す。兵船一艘これに着き、海上二百艘ばかり見ゆ。鎮西より飛脚関東に下向す
  と云々。