2月18日
越訴頭宗秀
引付頭、一宗宣、二久時、三宗泰、四熈時、七道雄
2月25日 [萩藩閥閲録]
**関東御教書
大慈寺丈六堂造営用途の事、支配内銭六貫文を被る。来六月中沙汰し寺に送り、請取
を執り進せしむべきの状、仰せに依って執達件の如し。
正安四年二月二十五日 相模守(師時判)
武蔵守(時村判)
光富名地頭
5月11日
信濃の国諏訪の上宮白竜を成す。虚空に向かい現れ、本宮に帰座す。
5月12日 [武家年代記]
寅の刻、花木折るの由注進す。
5月20日
小壺より黒雲起って鶴岡の社壇に至る。唐竹二本(囲六寸、長三丈)の内、一本は上
宮の楼門を貫き、一本は若宮三島の前に立つ。その気名越、塔の辻子に及び、在家悉
く破損す。摂津の国の御家人小箸左衛門三郎茂光並びに清左衛門の尉頼定法師が従類
等突死せらる。
5月27日
鳩(二十七)八幡熱田社の拝殿に入り、水船に上がり死す。
6月1日 [出羽中條家文書]
**関東御教書
源氏申す越後国加地庄高濱条内、加地左衛門太郎秀定所領半分の事、重ねて訴状此の
如し。秀定両度の下知を叙用せずと云々。河村余五相共に、當庄を莅む。先の下知に
任せ、下地を氏女に打ち渡さるべきの状、仰せに依って執達件の如し。
正安四年六月一日 相模守(花押)
武蔵守(花押)
和田十郎殿
8月28日 [薩摩延時文書]
**薩摩守護代酒匂本性覆勘状
石築地修理の事、三丈貮尺延時名分、勤仕せられ候いをはんぬ。恐々謹言。
正安四八月二十八日 本性(花押)
延時三郎入道殿
9月11日
引付頭、一宗宣、二久時、三宗泰、四宗方、五時家、六熈時、七道雄、八道厳
9月14日
最勝園寺供養。将軍御出有り。導師は源恵僧正、勝長寿院別当。
10月5日 乙丑 晴 [吉続記]
関東相州禅門の嫡子(生年五歳か)、去る月三十日他界の由、飛脚六波羅に着くと云
々。本より足も立たず、息災せずの由その聞こえ有り。存内の由人以てこれを存ずか。
10月8日 [肥前青方文書]
**平岡為政書下案
肥前国異賊要害石築地並びに楯、旗、征矢の事、度々催促の処、今に沙汰無しと云々。
何様の事に候や。不日に勤仕せらるるなり。若しくは遅々に於いては、注し申すべく
候。仍って執達件の如し。
正安四年十月八日 左兵衛允
白魚九郎殿
10月15日 [肥前青方文書]
**肥前守護代平岡為政覆勘状
肥前国要害石築地を構う事、五嶋中浦郡内田地貮町分、柏濱壹尺七分高破損並びに裏、
勤仕せられをはんぬ。仍って状件の如し。
正安四年十月十五日 為政(判)
白魚九郎入道どの
10月18日 [黄徴古簡集]
**六波羅下知状案
八塔寺は、清浄結界の地たり。鎌倉殿御祈祷所たるの間、甲乙人等乱入狼藉すべから
ざるの由、承久三年八月懸札を下さるの処、院主圓能律師が坊舎、去る月十三日夜炎
上するの時、彼の札御判所焼失せしむと雖も、状文に於いては、相残る所なり。所詮、
寺中より四方一里の内に於いて、甲乙の輩狩猟並びに杣採りを致すべからず。もし違
犯の族出来せば、交名を注し申すべきの状、下知件の如し。
正安四年十月十八日 [六波羅北方北條基時]
左馬の助平朝臣(在判)
[同南方金澤修理大夫貞顕]
中務大輔平朝臣(在判)
12月7日 [大隅有馬家文書]
**島津久時書下案
役所の警固並びに構えの事、関東度々の御教書に就いて、国に於いて度々これを催促
す。見参の時、直に申し候いをはんぬ。また當参の時、催促度々候。一向に沙汰無く
候の条、存じ知り難く候。近日関東の御使い下向の由、その聞こえ候。今月中その功
を遂げらるべく候。是非返状を承り、存じ知るべく候。恐々謹言。
十二月七日 久時(在判)
宮里郡司殿
12月16日 [金澤文庫文書]
**金澤貞顕書状
上総入道(實政)殿去る七日(子の刻)他界せしめ給うの由、飛脚小原木左衛門二郎
・伊豆三郎兵衛の尉、今日(酉の刻)到来す。荒瘡に依って去る二日より不例と云々。
持村を以て馳せ申さしめ候なり。定めて御悲歎少なからざる御事等候か。察し申さし
め候。兼ねてまた寺中当時何事か候か。京都殊なる子細無く候。就中、中書一級御免
の御教書、一昨日(十四日)到来す。悦び承り....
12月20日 己卯 晴 [吉続記]
夜に入り関東の事書三通(梨下門跡の事、国々津料関米停止の事、宗像社替領等禅林
寺殿に進すべき事)、入道相国の許よりこれを付けらる。