1305年(嘉元3年 乙巳)
 

3月21日
  最勝園寺禅閤山内亭に移る。
 

4月6日
  [卯の刻に]大地震。占文に云く、大人慎みと云々。

4月10日
  [午の刻に]亦地震。

4月22日
  子の時に禅閤鎌倉の舘焼失す(大多和讃岐の尼恵鑒の局より出来す)。

4月23日
  子の刻、左京権の大夫時村朝臣[六十四歳]誤って誅せられをはんぬ。子息親類殃を
  脱しをはんぬ。

*[保暦間記]
  春の比、駿河守宗方と申すは、貞時の従弟なり(時頼孫、修理亮宗頼子なり)。師時
  に超越せらるる事を無念にして、本より心武く驕心の有ければ、師時を亡さんと巧み
  けり。貞時が内の執権をし、侍所の代官なんどをして、大方天下の事を行けり。その
  比左京権大夫時村(義時孫、政村子)師時相合て、将軍家の執権の連署す。時村が孫
  右馬権頭熈時と申は、是も貞時の聟なり。仍って時村その比仁躰なりければ、先彼を
  討て、その後師時熈時等をも討んとする程に、宗方多人を語う。
 

5月2日
  時村討手の先登の者十二人首を刎ねらる。
   和田の七郎茂明(預 三浦の介入道、使 工藤の右衛門入道)
           茂明逐電しをはんぬ
   工藤中務の丞有清(預 遠江の入道、使 諏方の三郎左衛門の尉)
   豊後の五郎左衛門の尉光家(預 陸奥の守、使 大蔵五郎兵衛入道)
   海老名の左衛門次郎秀綱(預 足利讃岐の入道、使 武田の七郎五郎)
   白井の小次郎胤資(預 尾張の左近大夫将監、使 長崎の次郎兵衛の尉)
   五代院の九郎高頼(預 宇都宮下野の守、使 廣澤の弾正の忠)
   赤土左衛門四郎長忠(預 相模の守、使 佐野の左衛門入道)
   井原四郎左衛門の尉盛明(預 掃部の頭入道、使 粟飯原左衛門の尉)
   比留新左衛門の尉宗廣(預 陸奥の守、使 武田の三郎)
   甘糟左衛門太郎忠貞(預 兵部太輔、使 工藤の左近将監)
   岩田の四郎左衛門の尉宗家(預 相模の守、使 南條中務の丞)
   土岐の孫太郎入道鏡圓(預 武蔵の守、使 伊具の入道)

5月4日
  駿河の守宗方誅せらる。討手陸奥の守宗宣、下野の守貞綱既に攻め寄せんと欲するの
  処に、宗方殿中(師時の舘、禅閤同宿)の騒擾を聞き、宿所より参らるるの間、隠岐
  の入道阿清宗方の為に討たれをはんぬ。宗方が被官処々に於いて誅せられをはんぬ。
  御方に於いて討ち死にの人々、備前の掃部の助貞宗、信濃の四郎左衛門の尉、下條の
  右衛門次郎等なり。疵を被る者八人と云々。

[武家年代記]
  宗方誅せらる(隠謀露顕に依ってなり)。隠岐入道阿清討ち死に。討手の大将陸奥の
  守宗宣、宇都宮下野の守貞綱と云々。備前掃部助貞光、信乃四郎、下条右衛門二郎討
  ち死に、同手負い八人と云々。東早馬万年馬の允、工藤新左衛門の尉同二十七日六原
  に着く。これに依って、六原より鎮西並びに長門へ御使いを遣わさる。松田八郎左衛
  門の尉頼直、齊藤帯刀兵衛基明、南方の使者は向山刑部左衛門の尉、善新左衛門の尉、
  北方の使者は神保十郎、石河弥二郎等なり。同日京を立ちをはんぬ。

[駿河北山本門寺文書]
**伴野出羽三郎大野彌六料福本尊銘文
  伴野出羽三郎・大野彌六は、嘉元三年五月四日駿河守(宗方)謀叛の大将なり。朝敵
  たるの上は、石川孫三郎源義忠の手に懸かり、これを打ち取ると雖も、後生は仏道を
  成さしむる所なり。仍って三十五日の為書き写し件の如し。
    嘉元三年五月四日

5月9日 [金沢文庫文書]
**金澤貞顕書状
  世上の事珍事に候、その間の子細、寂円を以て申さしめ候、恐々謹言
    5月九日            越後の守(貞顕花押)
  明忍御房

5月14日
  禅閤並びに相州(師時)、武蔵の守久時の亭に移る。今日評定始め。

5月15日 [金澤文庫文書]
**金澤貞顕書状
  今月四日の御文、同十一日に到来す。委細承り候いをはんぬ。世上両度の勝事、更に
  筆墨の覃所に非ず候、殊に京兆(時村)の事、誤って逢夭せられ候の条、歎かざるべ
  からず候か、然れども造意既に露顕するの上は、天下定めて無為に属さしめ候か、(後
  略)
    五月十五日           越後の守(貞顕花押)
  明忍御房(御返事)

5月16日 [金澤文庫文書]
**倉栖兼雄書状
  (前略)別の子細有るべからずの由、御教書に載せられ候の上は、披見せらるべきの
  旨、その沙汰有り。評定衆・在京人已下悉く御前に召され、読み聞かされ候いをはん
  ぬ。この上は異議有るべからざるの処、京中連々騒動す。御内の若輩、また或いは弓
  箭を帯び、或いは甲冑を隠し宿直す。侍所に仰せ、当番の外祇候すべからざる由、禁
  制を加えられ候と雖も、漫に隠居す。恐怖の膓、肝を焼き候き。仍って御内と云い、
  京中と云い、此の如く嗷々す。(略)爰に今月七日夜(子の刻)駿州(宗方)御事、
  御使上洛の間、造意此の如く露顕するの上は、世上自然静謐す。別して天下の為、殊
  に御内の為、悦ばざりべからず候、(後略)
    五月十六日           掃部助兼雄(花押)
  謹上 明忍御房(御返事)

5月27日 [武家年代記]
  八幡宮熱田社の水船に鳩二十一死すと云々。同寅の刻、彗星艮方に出現す。同六月九
  日已後見えずと云々。
 

6月8日 [金沢文庫文書]
**金澤貞顕書状
  関東騒乱の後、世上すでに無為に属すの由承り候、尤も以て喜悦に候、その後何等の
  事候や、京都当時は殊なる事無く候なり。扇十本、茶一裹これを進せしめ候、彼と云
  い是と云い、誠に乏少に候、殊に憚り候、恐々謹言
    六月八日            越後守(貞顕花押)
  明忍御房

6月20日 [島津家文書]
**関東御教書
  異賊防御の事、早く鎮西の所領に居住し、凶徒襲来せしめば、防戦の忠を致すべきの
  状、仰せに依って執達件の如し。
    嘉元三年六月二十日       相模守(師時花押)
  下野彦三郎左衛門の尉殿
 

7月16日
  金寿御前逝去しをはんぬ。
 

8月1日
  引付頭、一久時、二宗泰、三熈時、四時高、五道雄

8月5日 [佐々木信綱旧蔵]
**亀山上皇置文
  立坊の間の事、院並びに持明院殿の御返事此の如し。夜鶴の思い奔波を絶せず。至孝
  の志を以て謝さるべきものなり。且つはこの旨を以て、必ず関東に仰せらるべきもの
  なり。事ごとに前の右府候(公衡)へは仰せ合わさるべきなり。成人に及ばずと雖も、
  書置此の如し。遠方へ達せらるべきなり。
    嘉元三年八月五日

8月7日 [島津家文書]
**関東下知状案
   早く嶋津下野前司法師をして土里平太左衛門の尉法師の所領を領知せしむべき事、
  右、先例を守り、領掌せしむべきの状、仰せに依って下知件の如し。
    嘉元三年八月七日        陸奥守平朝臣(宗宣在御判)
                    相模守平朝臣(師時在御判)

8月21日
  引付頭、一久時、二熈時、三基時、四時高、四道雄
 

9月15日 [亀山院崩後仏事記]
**後宇多上皇院宣
  亀山院御葬礼、明後日(十七日)たるべく候、辻々並びに法華堂門前守護の事、武家
  に仰せ遣わせらるべく候、仍って言上此の如し。この旨を以て、洩らし申し入らしめ
  給うべし。経世誠恐頓首謹言。
    九月十五日           右中弁経世(上)
  進上 伊豆守殿
 

11月11日 [薩藩旧記]
**鎮西御教書案
  異賊用心結番参否の事、薩摩の国守護代本性注進の状一巻此の如し。早く不参の実否
  を尋ね問い、交名人等に於いて、面々の請文を執り進さるべきなり。仍って執達件の
  如し。
    嘉元三年十一月十一日      上総の介(政顕在判)
  河内六郎殿

11月18日 [旧典類従]
**平重棟書下
  異国用心結番参居候事、今月十一日の御教書此の如し。仰せ下さるるの旨に任せ、勤
  番之次第、分明の散状申さるべく候、仍って執達件の如し。
    嘉元三年乙巳十一月十八日    平重棟
  大隅助三郎との
 

12月21日 [東山御文庫記録]
**後宇多上皇院宣案
  相模の国河匂庄の事、尼円念の譲り状に任せ、三善氏(土与女)進退領掌せしむべし。
  てえれば、院宣此の如し。以て状す。
    嘉元三年十二月二十一日     右衛門督(御判)
  河匂庄の事
    院宣つかはされ候
 

閏12月29日 [坂口忠智所蔵文書]
**為尚覆勘状
  大隅国異賊警固番役、去る四月より勤仕せられ候いをはんぬ。仍って執達件の如し。
    嘉元三後十二月二十九日     為尚(花押)
  佐多孫九郎殿

[島津家文書]
**酒匂本性覆勘状
  警固の事、去る正月より今月に至り(但し七・八月不参)勤仕せられ候いをはんぬ。
  仍って執達件の如し。
    嘉元三閏十二月二十九日     本性(花押)
  下野彦三郎左衛門の尉御代官