1327年(嘉暦2年 丁卯)
 

1月18日 [武家年代記]
  近衛北殿薨ず。
 

2月20日
  万寿院の塔供養。導師は清拙和尚。
 

3月5日
  相州禅閤二所、三嶋へ参詣。

3月22日
  興福寺の金塔以下焼失す。性真禅師の合戦に依ってなり。

[神明鏡]
  南都七大寺の衆徒等確執の事共有て合戦に及。興福寺へ押寄て焼払けるに、淡海公の
  御時本尊の御首入んか為に、龍宮より求得給たりし面光不変玉もこの時失ぬ。この寺
  を焼ける摂州の水田の荘司左衛門則狂成。圓明院の前の河に入て、あら熱やと呼て狂
  死に死けり。今度焼処、金堂、講堂、西金堂、南圓堂、鐘楼、経蔵、三面の僧房、四
  面廻廊、法華堂、南大門、東金堂等なり。
 

4月17日
  引付頭、一茂時、二道順、三貞直、四延明、五道準

4月27日 [極楽寺文書]
**後醍醐天皇綸旨
  摂津の国兵庫、渡辺、神崎三ヶ津の商船目銭の事、諸社神人同供祭人並びに供御人等
  の船自由対捍を停止し、大佛殿拂葺料足として、今年より八ヶ年に至り、関務を致し
  修功を終えらるべし。てえれば、天気此の如し。仍って執達件の如し。
    嘉暦二年四月二十七日      左大弁(資房花押)
 

6月
  宇都宮の五郎高貞、小田尾張権の守高知、蝦夷の追討使として下向す。
[鎌倉大日記]
  奥津軽の住人安藤秀長郎従季兼逆心、小田尾張の守大将として合戦す。安藤誅さる。
 

9月7日
  修理大夫従四位下陸奥の守平の朝臣維貞卒す(四十三)。
 

12月21日
  [新造の]御所に御移徙。