1326年(正中3年、4月29日改元 嘉暦元年 丙寅)
 

3月13日
  正五位下行相模の守平の朝臣高時所労に依って出家す(二十四)。その後世間聊か騒
  動す。

3月14日
  寅の刻に若宮降誕す。

3月16日 [保暦間記]
  舎弟左近大夫将監泰家、宜執権をも相継ぐべかりけるを、高資修理権大夫貞顕に語て、
  貞顕を執権とす(貞顕は義時子に五郎實泰が彦、越後守實時が孫、金澤越後守顕時子
  なり)。爰に泰家高時母儀(貞時朝臣後家、城大室太郎左衛門女)これを憤り、泰家
  を十六日出家せさす。この事泰家もさすが無念に思ひ母儀も憤り深きに依て、貞顕評
  定の出仕一両度して出家しをはんぬ。

[金沢文庫文書]
**金澤貞顕書状
  愚老執権の事、去る十六日朝、長崎新兵衛の尉を以て仰せ下され候の際、面目極まり
  無く候、当日評定を始行せられ候いをはんぬ。出仕の人々、予、陸奥の守(維貞)、
  中務権少輔(貞縁)、刑部権大輔入道(摂津親鑒)、山城入道(二階堂行貞)、長崎新
  左衛門の尉(高資)(以上東座)、武蔵の守(守時)、駿河の守(貞直)、尾張の前司
  (高家、遅参)、武蔵左近大夫将監、前の讃岐権の守、後藤信濃入道(以上西座)、
  評定目六並びに硯役信濃左近大夫、孔子布施兵庫允、参否安東左衛門の尉候き、奏事
  三ヶ条、神事、仏事、乃貢の事、

3月20日
  東宮(後二条院一宮)薨御す(二十七)。

3月26日 [高野山文書]
**金澤貞顕書状
  逐って申す
   相州(高時)御出家候間、同所遂に素懐なり。

3月29日
  工藤右衛門の尉祐貞蝦夷征罰の為に進発す。
 

4月24日 [保暦間記]
  相模守守時(武蔵守久時男、時に武蔵守)、修理大夫維貞彼両人をも将軍の執権す。
  これもが僻事したりとぞ申ける。
 

5月13日
  引付頭、一茂時、二顕実、三道順、四貞直、五延明
 

7月24日 [皇年代略記]
  光厳院立太子(十四)

7月26日
  祐貞季長を虜え帰参す。

* 同月、持明院本院第一宮(量仁親王)を以て東宮と為す。東使は摂津の右近大夫将監
  親秀。
 

11月18日 [武家年代記]
  北山内府入道殿薨ず(三十七才、西園寺実衡)