3月13日
正五位下行相模の守平の朝臣高時所労に依って出家す(二十四)。その後世間聊か騒
動す。
3月14日
寅の刻に若宮降誕す。
3月16日 [保暦間記]
舎弟左近大夫将監泰家、宜執権をも相継ぐべかりけるを、高資修理権大夫貞顕に語て、
貞顕を執権とす(貞顕は義時子に五郎實泰が彦、越後守實時が孫、金澤越後守顕時子
なり)。爰に泰家高時母儀(貞時朝臣後家、城大室太郎左衛門女)これを憤り、泰家
を十六日出家せさす。この事泰家もさすが無念に思ひ母儀も憤り深きに依て、貞顕評
定の出仕一両度して出家しをはんぬ。
[金沢文庫文書]
**金澤貞顕書状
愚老執権の事、去る十六日朝、長崎新兵衛の尉を以て仰せ下され候の際、面目極まり
無く候、当日評定を始行せられ候いをはんぬ。出仕の人々、予、陸奥の守(維貞)、
中務権少輔(貞縁)、刑部権大輔入道(摂津親鑒)、山城入道(二階堂行貞)、長崎新
左衛門の尉(高資)(以上東座)、武蔵の守(守時)、駿河の守(貞直)、尾張の前司
(高家、遅参)、武蔵左近大夫将監、前の讃岐権の守、後藤信濃入道(以上西座)、
評定目六並びに硯役信濃左近大夫、孔子布施兵庫允、参否安東左衛門の尉候き、奏事
三ヶ条、神事、仏事、乃貢の事、
3月20日
東宮(後二条院一宮)薨御す(二十七)。
3月26日 [高野山文書]
**金澤貞顕書状
逐って申す
相州(高時)御出家候間、同所遂に素懐なり。
3月29日
工藤右衛門の尉祐貞蝦夷征罰の為に進発す。
4月24日 [保暦間記]
相模守守時(武蔵守久時男、時に武蔵守)、修理大夫維貞彼両人をも将軍の執権す。
これもが僻事したりとぞ申ける。
5月13日
引付頭、一茂時、二顕実、三道順、四貞直、五延明
7月24日 [皇年代略記]
光厳院立太子(十四)
7月26日
祐貞季長を虜え帰参す。
* 同月、持明院本院第一宮(量仁親王)を以て東宮と為す。東使は摂津の右近大夫将監
親秀。
11月18日 [武家年代記]
北山内府入道殿薨ず(三十七才、西園寺実衡)