1335年(建武2年 乙亥) [武家年代記]
 

1月21日 [宗像神社文書]
**後醍醐天皇綸旨
  長門の国凶徒蜂起するの由、その聞こえ有り。早く下向せしめ、且つは彼の国に発向
  し、且つは社家警固の沙汰を致すべし。てえれば、天気此の如し。これを悉くせ。以
  て状す。
   (建武二年)正月二十一日     右中将(花押)
  宗像大宮司舘

1月23日 [肥前龍造寺文書]
**龍造寺善智着到状
  朝敵上野四郎入道並びに越後左近入道等長門の国府に楯籠もり、謀叛を発すの由、承
  り及ぶの間、肥前の国龍造寺左衛門次郎入道善智、着到宿に付き直仕候。この旨を以
  て御披露有るべく候。恐惶謹言。
    建武二年正月二十三日      沙彌善智上
  進上 御奉行所
         承りをはんぬ(頼尚花押)

1月24日 [筑後上妻文書]
**宮野寂恵着到状
  筑後の国宮野四郎入道寂恵、朝敵上野四郎入道以下の輩誅伐せんが為に馳せ参らしめ
  候。この旨を以て御披露有るべく候。恐惶謹言。
    建武二年正月二十四日      沙彌寂恵
  進上 御奉行所
         承りをはんぬ(花押)
 

2月11日 [豊前田口文書]
**少貮頼尚書下
  謀叛人越後左近将監入道、上野四郎入道以下の輩、長門の国府佐加利城に於いて誅伐
  の時、合戦を致し生虜せしむ由の事、申し状給い候いをはんぬ。注進せしむべく候。
  仍って執達件の如し。
    建武二 二月十一日       頼尚(花押)
  田口孫三郎殿

2月30日 [薩摩比志島文書]
**内裏大番(三月一日より)勤仕致すべき薩摩の国地頭御家人交名の事
  (次第不同、但し當参分)鎧直垂、てうつかけ有へし
  大隅二郎三郎       式部孫五郎入道      周防蔵人三郎
  渋谷小四郎入道      渋谷新平二入道      渋谷彌二郎
  矢上左衛門二郎      智覧四郎         渋谷彦三郎入道
  光富又五郎入道      指宿郡司入道       朝岳孫三郎
  比志嶋彦太郎
    建武二年二月三十日
 

3月17日 [島津文書]
**後醍醐天皇綸旨
  大隅の国守護職に補せらるる所なり。その旨を存じ、沙汰を致すべし。てえれば、天
  気此の如し。これを悉くせ。以て状す。
    建武二年三月十七日       左衛門権の佐(花押)
  嶋津上総前司入道舘

3月20日 [葉室文書]
**足利尊氏書状写
  今度鎮西蜂起の砌、軍忠を抽んでらるるの旨、義詮申し越し候。武功の働き驚き入り
  候。自今以後率爾の戦い無用に候。委細の儀武光に申し含め候。馬飼領玉名郡の内貮
  拾七町充て行い候。安堵の上は、芳恩を謝すべき候。恐惶謹言。
    建武二年三月二十日       尊氏(判)
  葉室右京大夫殿

3月28日 [寶戒寺文書]
**足利尊氏寄進状案
  奉寄 圓頓寶戒寺
    相模の国金目郷半分の事
  右、相模の守高時(法名崇鑑)天命すでに盡き、秋刑忽ちに臻る。これを以て、当今
  皇帝仁慈の哀恤を施され、怨念の幽霊を度らんが為に、高時法師の旧居に於いて、圓
  頓寶戒寺の梵宇を建てらる。爰に尊氏武将の鳳詔を奉り、逆徒の梟悪を誅す。征伐時
  を得て、雄勇功を遂ぐ。然る間、滅亡の輩、貴賤老幼男女僧俗勝計うべからず。これ
  に依って金目郷を割分し、寶戒寺に寄す所なり。これ偏に亡魂の恨みを宥め、遺骸の
  辜を救わんが為なり。然れば則ち、皇帝久しく殷周の化を施し、愚臣早く伊呂の功を
  固む。仍って奉寄件の如し。
    建武二年三月二十八日      参議源朝臣(在御判)
  圓頓寶戒寺上人
 

7月
  先代一族並びに諏方の祝、信州より蜂起せしめ鎌倉に打ち入るの間、足利源宰相家征
  夷将軍の宣旨を蒙る。
[神明鏡]
  京都の支度相違しけるに、国々の凶徒等は止事を得ず一定したる事なれば、東国北国
  蜂起す。就中、東国大将相模次郎時行は相州次男なり。嫡子萬壽丸と云は、叔父五代
  院の右衛門預けしを、相模滅亡の刻に、新田へ返忠して失せけり。去をこの男時行、
  諏訪三郎、三浦介入道(時継)、若狭五郎判官、芦名入道を始として、坂東の大小名
  五十余人與力しければ、その勢は二萬余騎鎌倉へ責上る。小山判官秀朝、渋川の刑部
  大輔武州にて出合、散々に攻戦う。秀朝打負て自害す。

7月23日 [鎌倉大日記]
  兵部卿の宮東光寺に於いて、直義の為に生害せらる。
[保暦間記]
  直義朝臣防戦難く、無勢の間鎌倉を出て、成良親王を具し奉て京都へ上る。その時預
  置奉る兵部卿親王、元より野心御座ければ伴い奉るに及ばず打ける。その親王は既に
  王子を出て、四明の窓に入り給ひて、天台座主に列り賜しぞかし。御心武く渡せ給ひ
  て、還俗し御座て、元弘の乱を宗と御張本有しぞかし。然ども如何なる御業に今角な
  らせ給らん。御骸をだにも取隠し奉る人も無りき。

7月25日 [鎌倉大日記]
  先代余類相模の守次郎時行鎌倉に入る。渋川義季、小山秀朝、細川頼員討ち死に。退
  治の為に尊氏御下向。所々に合戦、平氏敗軍す。

7月28日 [保暦間記]
  相模次郎鎌倉へ打入、関東の侍並びに在国の輩は皆鎌倉に付て、天下また打返して見
  えける程に、京都の騒動斜めならず。
 

8月2日
  進発。凶徒追伐の為に関東へ御下向。
[鎌倉大日記]
  尊氏時行と戦い屡々これを破る。これに於いて尊氏鎌倉に入る。自ら征夷将軍と称す。
[梅松論]
  京を御出立あり。この比公家を背奉る人々その数をしらず有しが、皆喜悦の眉をひら
  きて御供申けり。三河の矢作に御着有て京都鎌倉の両大将御対面あり。

8月12日 [法華堂文書]
**北条時行奉行等連署状
  右大将家法華堂禅衆清弁申す、相模の国林郷大多和村の内田、在家の事、寺領たるの
  処に、違乱の仁有りと云々。その謂われ無し。所詮、関東静謐の上は、元の如く知行
  せしむべし。もし制止に拘わらざる輩は、交名を注し申すに就いて、罪科に処せらる
  べきの状件の如し。
    正応四年八月十二日       宏元(花押)
                    貞宗(花押)
                    高泰(花押)

8月15日 [鶴岡八幡宮文書]
**三浦時明寄進状
   寄進奉る 鶴岡八幡宮
   上総国市原郡内の年貢用途五拾貫文の事
  右の旨趣は、天下安穏、泰平自身、寿福長遠、息災康楽、子孫繁昌の為に、寄進し奉
  るの状件の如し。
    正慶(建武)二年八月十五日   若狭守時明

8月17日 [系図]
  葦名盛貞(二郎左衛門尉判官)、夜中先代蜂起の時、尊氏方として片瀬に於いて父子
  討死、正伝庵月庵道圓と号す。

8月26日 [神明鏡]
  左馬の助直義はこの由を聞て、無勢にては中々悪かるべしと、将軍の宮を具足奉り、
  鎌倉を落られける。
 

9月3日 [神明鏡]
  直義勢を併て五萬余騎取返して、また鎌倉参向す。相模次郎これを聞て、名越式部の
  大輔大将として東海東山両道責上らんとて、その勢三萬余騎、鎌倉を立んとしける夜、
  大風吹家々を破ける間、方無くして軍勢五百余人大仏殿に逃入て居たりける。

9月7日 [神明鏡]
  式部大輔鎌倉を立、遠江佐夜中山を越へ、橋本に陣を取る。

9月8日 [神明鏡]
  相公この由を聞、平家の陣へ押寄て、終日闘けるに、平家打負引退す。これを始に数
  ヶ度の合戦に平家打負けり。源氏の先懸には仁木細川の人々なり。箱根山こそ海道第
  一の難処なれとて、平家爰にて固く支へしを、佐々木佐渡判官入道道廣身命を捨馳上
  り、散々に戦て爰をも打破て、それより鎌倉まで攻懸られて、諏訪三河守を始として
  宗徒の大名四十三人、大御堂の内へ走入て、各々自害しけり。

9月19日 [梅松論、8月と有り]
  鎌倉へ攻入たまふとき、諏方の祝父子、安保次郎左衛門入道道潭が子自害す。相残輩
  或降参し或責落さる。

9月20日 [到津文庫]
  関東も足利殿御下向候間、凶徒等悉く追い落とされ候。無為に鎌倉へ御下着候間、諸
  方静謐無為、返す々々目出たく候。三浦介入道一族二十余人、大船に乗りて、尾張国
  熱田浦に打ち寄せられ候ところ、熱田大宮司悉くこれを召し捕え、一昨日京都へ進ら
  せしめ候間、首を刎ねられ、大路を渡され候後に、獄門に懸けらるべきの由、治定候。
  (後略)
[系図]
  時継、中先代に與し、尾州熱田に於いて虜われ、六條河原に於いて誅せらる。三浦の
  介従五位下。

9月27日 [宇都宮文書]
**足利尊氏下文
              (尊氏花押)
  下す 三浦介高継
   早く領知せしむべき、相模国大介職、並びに三浦内三崎・松和・金田・菊名・網代
   ・諸石名、大磯郷(高麗寺俗別當職あり)、東坂間、三橋、末吉、上総国天羽郡内
   古谷・吉野両郷、大貫下郷、摂津国都賀庄、豊後国高田庄、信濃国村井郷内小次郎
   知貞跡、陸奥国糠部内五戸、会津河沼郡議塚ならびに上野新田(父介入道道海跡本
   領)の事
  右人を以て、勲功の賞として充て行う所なり。てえれば、先例を守り沙汰致すべきの
  状件の如し。
    建武二年九月二十七日
 

10月23日 [鶴岡八幡宮文書]
**三浦高継寄進状
   寄進 鶴岡八幡宮
    上総国眞野(市原)郡椎津郷内田地壹町の事
  右、且つは天長地久、現世安穏、子孫繁昌の為に、子々孫々に至るまで、この料田に
  於いては、その煩いを致すべからず。仍って寄進の状件の如し。
    建武二年十月二十三日 三浦介高継

*[保暦間記]
  然所に故兵部卿親王の御方、臣下の中にや有けん。尊氏謀反の志有る由讒し申て、新
  田右衛門佐義貞を招て、種々の語ひをなして、左中将に申成て、上野国は尊氏分国な
  り。義貞に申充けり。尊氏上洛せば道にて打べき由を義貞に仰す。上卿は中務卿親王
  (主上一宮)、公家殿上人その数、武士には義貞を大将軍としてさるべき侍在京武士、
  西国畿内の勢数万騎発向す。奥州より顕家卿後迫に責上るべき由宣下せられけり。
 

11月2日 [薩摩入来院文書]
**足利直義軍勢催促状案
  新田右衛門の佐義貞を誅伐すべきなり。一族を相催し、不日に馳せ参るべきの状件の
  如し。
    建武二年11月二日       左馬の頭(御判)
  渋谷新平二入道殿

11月8日 [鎌倉大日記]
  直義所々に合戦す。

11月10日 [帰源院文書]
**足利直義下文
  下 畠山上野孫太郎貞康
   早く信濃の国市村左衛門入道跡を領知せしむべき事
  右の人、勲功の賞として、宛行う所なり。てえれば、先例を守り、沙汰をいたすべき
  の状件の如し。
    建武二年十一月十日
   源朝臣(直義花押)

11月17日 [島津家文書]
**後醍醐天皇綸旨案
  大隅の国守護職に補せらるる所なり。その旨を存じ、沙汰を致すべし。てえれば、天
  気此の如し。これを悉くせ。以て状す。
    建武二年十一月十七日      右衛門権の佐(御判)
  嶋津上総の前司入道舘

11月19日 [神明鏡]
  義貞京を立て鎌倉へ進発す。その勢七千余騎、大小名三百余人、その勢六萬余騎東海
  道を下る。

11月22日[皇年代略記]
  花園院御落餝(三十九、法諱遍行、戒師法勝寺慈鎮上人)。
[肥前松浦文書]
**後醍醐天皇綸旨
  足利尊氏、同直義已下の輩、反逆の企て有るの間、誅罰せらるる所なり。松浦小二郎
  入道蓮賀鎌倉に発向せしめ、軍忠を致すべし。てえれば、天気此の如し。これを悉く
  せ。
   (建武二年)十一月二十二日    右中将(花押)

[肥後阿蘇家文書]
**堀河光継奉令旨
  一族を相催し、鎌倉に発向し、合戦の忠を致すべし。帰参の時、別して勧賞に行わる
  べきの由、仰せ下さるる所なり。これを悉くせ。以て状す。
   (建武二年)十一月二十二日    (花押)
  阿蘇大宮司舘

  注進する軍勢等の恩賞の事、帰参の時、急ぎその沙汰有るべきの由、仰せ下さるる所
  なり。存じ知らるべし。これを悉くせ。以て状す。
   (建武二年)十一月二十二日     (花押)
  阿蘇大宮司舘

11月23日 [神明鏡]
  足利相公、左馬頭殿と談合ありて、鎌倉を立給ふ。吉良、石堂、桃井、細川、斯波、
  仁木を始として、外様の大名には小山判官、佐々木佐渡判官入道、土岐入道、三浦、
  佐竹、小田、宇都宮、武田、河越、高坂始として、その勢二十萬六千余騎。

11月27日 [神明鏡]
  三河国矢矧の宿に着にけり。義助六萬余騎にて押寄、散々に攻戦。直義軍利非ずして、
  鴛坂へ引退、義貞いよいよ大勢に成責ければ、爰をも引退、駿河手越に陣を取る。散
  々の合戦、爰をも引退、箱根坂に支て合戦。
 

12月5日 [梅松論]
  二日下御所(直義)数万騎を率して、手越河原に馳向て終日入乱て戦ける。かかりし
  ほどに、討死手負数をしらず御方利を失ひし間、武家の輩多く降参して義貞に属す。

12月10日 [神明鏡]
  讃岐より高松三郎頼重注進、足利一族細川卿律師定禅去月二十六日旗を挙、近国凶徒
  等悉順の由申けり。

12月11日 [神明鏡]
  両陣相支処に、鎌倉勢土岐存幸、三浦因幡守、赤松筑前守馳加って、竹の下より野七
  里の敵を打靡しかば、義貞の大勢散々に成にけり。箱根坂の軍破て、義貞引退、勝乗
  て直義攻上。去程に官軍また利失て所々の合戦に打負て、尾張国阿子賀洲俣にて引退。
  備前国住人兒島三郎高徳か許より注進しけるは、去月九日当国の住人佐々木三郎左衛
  門尉信胤已下国人等定禅か語を得て、福山の城に楯籠由申けり。
[鎌倉大日記]
  尊氏鎌倉を立ち合戦、御上洛。

[新納文書]
**足利尊氏下文写
  下す 嶋津下野四郎時久
    早く日向の国新納院地頭職を領知せしむべきの事
  右、勲功の賞として充て行う所なり。先例に任せ領掌すべきの状件の如し。
    建武二年十二月十一日

[肥後阿蘇家文書]
**上島惟頼軍忠状
  上嶋彦八郎惟頼申す軍忠の事
  右、今月十一日、筥根山城に於いて、垣楯際に攻め寄せ合戦を致す。惟頼疵(左肩上
  腰骨)を被ること此の如し。軍忠を致す上は、後規の為に、御一見状を給わんが為に、
  言上件の如し。
    建武二年十二月二十七日
               承りをはんぬ(花押)

12月12日 [梅松論]
  京勢駿河に引退き佐野山に陣を取処に、大友左近将監官軍してその勢三百余騎にて下
  向したりけるが、御方に参らすべきよし申ける間、子細有まじき旨仰られける程に、
  当所の合戦矢合の時分に御方に加りて合戦の忠節を致す。

[筑後大友文書]
**狭間正供着到状写
  着到 (伊豆の国佐野山御方馳参の時これを給う)
    大友一族大炊四郎入道正供殿
  右、着到件の如し
    建武二年十二月十二日
               承り候いをはんぬ(三浦因幡の守、在判)

12月13日 [梅松論]
  はれまをまたずして伊豆の国府に攻入給ふ処に、義貞以下の輩水呑の陣を引打て通夜
  没落しける。三嶋明神の御前を過て海道へ出る時分に御方はせ合て辰巳二時の間合戦
  し、爰にをいて畠山安房入道打死す。義貞勢わづかにして富士川渡しけるとぞ聞えし。

[大友文書]
**足利尊氏軍勢催促状
  新田右衛門の佐義貞を誅伐せらるべきなり。一族を相催し、不日に馳せ参り、軍忠を
  致すべきの状、件の如し。
    建武二年十二月十三日      (花押)
  大友千代松丸

12月14日 [梅松論]
  是より両将鎌倉に御帰有て関東を御沙汰有べきか。また一議に云、縦関東全くし給ふ
  とも、海道京都の合戦大事なり。しかじかただ一手にて御立有べしと有ければ、十五
  日海道に向ひ給ふ。

[肥前深堀文書]
**大友貞載施行状案
  新田右衛門の佐義貞を誅伐せしむべき由の事、関東御教書此の如し。早く仰せ下さる
  るの旨に任せ、一族を卒し、参上せしむべきの由、肥前の国地頭御家人に相触るべき
  の状件の如し。
    建武二年十二月十四日      左近将監(在判)
  守護代

12月15日 [肥前志賀文書]
**後醍醐天皇綸旨
  足利尊氏、直義等、反逆の企て有る間、追討せらる所なり。大友志賀蔵人太郎能長鎌
  倉に発向し、軍忠を致すべし。てえれば、天気此の如し。これを悉くせ。以て状す。
   (建武二年)十二月十五日     右中将(花押)

*[神明鏡]
  丹波国より確井丹波守盛景申入けるは、十二月十九日当国住人久下彌三郎時重以下国
  人等、悉御敵に成ぬと注進す。

12月23日 [豊後廣瀬文書]
**少貮頼尚施行状写
  新田右衛門の佐義貞誅伐せらるる事、去る月二日の関東御教書の如く、早く一族以下
  の軍勢等を相催し、馳せ参るべしと云々。仰せ下さるる旨に任せ、不日に参上せらる
  べく候。仍って執達件の如し。
    建武二年十二月二十三日     太宰少貮(花押)
  中村孫四郎入道殿

12月27日 [肥後阿蘇家文書]
**宇治惟時見知状写
  今月十一日、筥根山に於いて、垣楯の際に攻め寄せ合戦の忠節を致す。両所疵を被り
  候の條、見知せしめ候いをはんぬ。仍って状件の如し。
    建武二年十二月二十七日     惟時(花押)
  上嶋彦八殿

12月28日
  橘正成平等院を焼く。
*[梅松論]
  京方の山法師道場坊阿闍梨宥覺山徒千余人を相語らひて、国人案内者たるにこそ、江
  州伊岐代官を俄に構て引籠る。

12月30日 [梅松論]
  武蔵守師直を大将として大勢を率して、彼の城に押寄て一夜の中に攻落す。この所野
  路の宿より西、湖の端なれば、討もらされたる者共は舟に乗て落行けるとぞ聞えし。
  去程に御手分あり。勢田は下御所大将、副将軍は越後守師泰。淀は畠山上総介。芋洗
  は吉見三河守。宇治へは将軍御向あるべきなり。