1334年(元弘4年、正月28日改元 建武元年 甲戌)
 

*[太平記]
  (前略)四門の警固には、結城七郎左衛門親光、楠河内守正成、塩屋判官高貞、名和
  伯耆守長年なり。南庭の陣には、右は三浦介、左は千葉大介貞胤をぞ召されける。こ
  の両人、かねてはその役に随うべき由領状申したりけるが、その期に臨んで、千葉は
  三浦が相手に成らんことを嫌い、三浦は千葉が右に立たん事を忿って、共に出仕を留
  めければ、天魔の障碍、法会の違乱とぞ成りにける。

1月4日 [皇年代略記]
  東福寺火事。

1月23日 [皇年代略記]
  皇子恒良親王を以て皇太子と為す。
 

2月21日 [島津家文書]
**後醍醐天皇綸旨
  薩摩の国市来院名主職、豊後の国大田郷地頭職(菊王丸跡)勲功の賞として、知行せ
  らるべし。てえれば、天気此の如し。これを悉くせ。以て状す。
    建武元年二月二十一日      左衛門権の佐(岡崎範国花押)
  嶋津上総入道舘

2月26日 [円覚寺文書]
**後醍醐天皇綸旨
  當寺領越前国山本庄、元の如く知行相違有るべからず。てえれば、天気此の如し。仍
  って執達件の如し。
    建武元年二月二十六日      左衛門権の佐(在判)
    円覚寺長老禅室
 

3月9日 [鎌倉大日記]
  本間渋谷の一族各々鎌倉に打ち入り、聖徳寺於いて合戦す。鎌倉の大将渋川義季、或
  いは生け捕り或いは討ち死にしをはんぬ。政所執事三河入道行証この合戦場より逐電
  し、行方知らず。
[梅松論]
  この事京都へ注進申たりし程に、去年召置れし金剛山の討手の大将、阿曽霜臺、陸奥
  右馬助、長崎四郎左衛門尉、辺土にをいて誅せらる。
 

4月21日 [豊前大栄寺文書]
**後醍醐天皇綸旨
  豊前の国寶光明寺御祈願所として、寺領相違有るべからず。てえれば、天気此の如し。
  仍って執達件の如し。
    建武元年四月二十一日      右少弁(甘露寺藤長花押)
  道密上人御房

4月28日 [島津家文書]
**後醍醐天皇綸旨案
  大隅の国守護職の事、先例に任せ、沙汰致せしむべし。てえれば、綸旨此の如し。こ
  れを悉くせ。
    建武元年四月二十八日      勘解由次官(中御門宣明)
  嶋津上総前司入道舘
 

5月1日 [豊後利根文書]
**後醍醐天皇綸旨
  豊後の国津守庄、勾保内一法師半分(瀧下末安と号す)田地等地頭職、首藤新左衛門
  の尉俊秀当知行相違有るべからず。てえれば、天気此の如し。これを悉くせ。以て状
  す。
    建武元年五月一日        式部大丞(花押)

5月3日 [肥後壽勝寺誌所収]
**足利尊氏御教書写
    源朝臣
  肥後の国壽勝寺の事、去る元弘三年九月二十九日の綸旨の趣に任せ、未来の際を盡く
  し寺領を全うせしむ。甲乙人の乱入狼藉を停止し、専ら国家安寧の誠精を致し奉らる
  べき者なり。仍って執達件の如し。
    建武元年五月三日
  東明和尚

5月9日 [豊前大栄寺文書]
**後醍醐天皇綸旨案
  豊前の国寶光明寺門前河原、荒馬瀬より車瀬に至るまで、殺生を禁断すべし。てえれ
  ば、天気此の如し。仍って執達件の如し。
    建武元年五月九日        右少弁藤長
  道密上人御房

*[神明鏡]
  春の比、大塔の宮国々へ兵を召事あり。内々は高氏を罰せんとの御企なり。(中略)
  君大に逆鱗ありて、この宮を流罪し奉るべしとて、結城判官親光、伯耆守長年に仰て
  召捕奉て、直義方へ渡。鎌倉に下奉て、二階堂の谷に岩蔵を掘て居進。南の御方とて
  女房一人計給けり。
[梅松論]
  兵部卿親王護良、新田左金吾、正成、長年、潛にゑいりょを請て打立事度々に及とい
  へども、将軍に付奉る軍勢その数をしらざる間、合戦にをよばゞ難儀たるべきにより
  て、無異の躰にて北山殿へ臨時の行幸度々に及しなり。
 

*[神明鏡]
  春の比、筑紫に上総掃部助高政、左近大夫貞義平氏の一族として前亡の余類集、所々
  に逆党を招き出んとす。また河内国の賊徒等佐々目僧正とり立て、飯盛山に構る由聞
  ゆ。伊豫には赤橋の駿河守か子息駿河の太郎時茂と云者有て、立烏帽子の峰に城を構
  る由聞へけれは、竹の僧正を召されて、天下安鎮の法を行はる。
 

6月7日 [梅松論]
  兵部卿親王大将として将軍の御前に押寄らるべき風聞しける程に、武将の御勢御所の
  四面を警固し奉り、余の軍勢は二條大路充満しける程に、事の躰大儀に及によって、
  当日無為になりけれども、将軍よりいきどほり申されければ、全くゑいりょにあらず。
  護良親王の張行なり。
 

7月9日 [摂津多田神社文書]
**少貮頼尚書下写
  去る七月九日謀叛人上総掃部助高雅、同左近大夫貞義等誅伐の時、軍忠を抽んずる由
  の事、申し状を給いをはんぬ。注進せしむべく候。仍って執達件の如し。
   (建武元)十一月二十九日     頼尚(判)

7月18日 [肥前来島文書]
**大江通秀着到状
  今月九日上総掃部助高政、同上総左近大夫将監貞義以下謀叛の事、同十二日承り及び
  候に就いて、肥前の国御家人御厨庄大嶋次郎通秀馳参せしめ候いをはんぬ。この旨を
  以て、御披露有るべく候。恐惶謹言
    建武元年七月十八日       大江通秀(裏花押)
  進上 御奉行所
 

8月5日 [覺園寺文書]
**後醍醐天皇綸旨
  伊豫の国新居西條庄の内得重、得恒、福武、稲満等四ヶ村、相模の国覺園寺領として、
  知行相違有るべからざるの由、天気候所なり。仍って執達件の如し。
    建武元年八月五日        左衛門権の佐(岡崎範国花押)
  如日上人御房

8月12日 [豊前田口文書]
**少貮妙恵軍勢催促状
  上総掃部助高雅、同左近大夫貞義已下の輩与党の事、当国地頭等を相催し、対冶すべ
  しと云々。早く仰せ下さるるの旨に任せ、来二十九日出京するの間、用意を致し、同
  じく下国せしめ、合戦の忠を致さるべく候。仍って執達件の如し。
    建武元年八月十二日       妙恵(少貮貞経花押)
  田口孫三郎殿

8月21日 [八幡古文書]
**後醍醐天皇綸旨案
  豊前の国入學寺地頭職護国寺に付けらるる所なり。夏衆已下寺僧等知行致し、専ら勤
  行すべきの由、下知せらるべし。てえれば、天気此の如し。仍って執達件の如し。
    建武元年八月二十一日      宮内卿(在判)
  八幡検校法印御房
 

9月10日 [島津家文書]
**後醍醐天皇綸旨
  鎮西警固の事、日向、薩摩両国に於いては、その沙汰を致し、殊に忠節を抽んずべし。
  てえれば、天気此の如し。これを悉くせ。以て状す。
   (建武元年)九月十日       左衛門権の佐(花押)
  嶋津上総入道舘

9月12日 [島津家文書]
**足利尊氏施行状
  鎮西警固並びに日向、薩摩両国の事、綸旨に任せその沙汰を致さるべきの状件の如し。
    建武元年九月十二日       (尊氏花押)
  嶋津上総入道殿
 

10月22日 [梅松論]
  夜、護良親王御参内の次を以、武者所に召籠奉て、翌朝に常磐井殿へ遷し奉り、武家
  警固し奉る。宮の御内の輩をば、武者の番衆兼日勅命を蒙りて、南部工藤を初として
  数十人召預けられる。

10月30日 [保暦間記]
  兵部卿親王、我御宮(入道親王妹腹)二歳に成せ給う宮を位に付け奉て、尊氏以下去
  るべき武士を打て、天下を我儘にせんと思立賜ふ。主上驚せ給て、兵部卿親王を内裏
  にて取奉て、尊氏舎弟左馬頭直義が鎌倉に有けるに預置る。
[梅松論]
  同十一月親王をば細川陸奥守顕氏請取奉て関東へ御下向あり。宮の御謀叛真実はゑい
  りょにてありしかども、御料を宮にゆづり給ひしかば、鎌倉へ御下向とぞ聞えし。宮
  は二階堂の薬師堂の谷に御座有ける。
 

11月18日 [豊後詫摩文書]
**足利直義施行状案
  大友詫磨別当太郎宗直申す、相模の国大友郷の内田地壹町、屋鋪壹所の事、矢田余一
  濫妨を致すと云々。早く綸旨並びに牒に任せ、宗直に沙汰を付すべきの状件の如し。
    建武元年十一月十八日      直義在御判
  上杉左近蔵人殿

11月25日 [豊後入江文書]
**後醍醐天皇綸旨
  豊後の国岩室村地頭職(高政跡)勲功の賞として、塚崎次郎貞重知行せしむべし。て
  えれば、天気此の如し。これを悉くせ。以て状す。
    建武元年十一月二十五日     左衛門権の佐(花押)
 

12月26日 [法華堂文書]
**足利直義御教書
  右大将家法華堂禅衆職の事、元の如く相違有るべからざるの状件の如し。
    建武元年十二月二十六日     左馬の頭(花押)
  大夫阿闍梨御房