朝家に文武の二道あり。たがひに政理を扶く。山門に顕密の両宗あり。をのをの護持を致
す。是聖代明時の洪業より出て、神明仏陀の余化にあらずといふことなし。しかるに本朝
神武天皇五十六代清和天皇の御子、貞純親王六代の後胤、伊豫守源頼義朝臣の嫡男、陸奥
守義家朝臣八幡殿と号す。堀川院御宇永保三年に奥州の任に赴く。爰にみちのくに奥六郡
を領せし鎮守府将軍清原武則が孫、荒河太郎武貞が子眞衡が富有奢過分の行跡より起りて、
一族ながら郎等となれりし秀武ふかきうらみをふくみて合戦をいたす。其余殃広に及で、
つゐに武衡、家衡をせめられしに、大軍ちからをつくし勇士名をあぐる戦ひそのかずをし
らず。此間に大将軍陸奥守の武徳威勢上代にもためしすくなく、漢家にも又稀なり。所謂
雪の中に人をあたヽむる仁心は陽和の気膚にふくみ、雲の外に雁をしる智略は天性の才智
に蓄ふ。或は士卒剛臆の座、はかりごとをもて人をはげまし、あるひは凶徒没落の期、掌
をさしてこれをしめす。仍て寛治五年十一月十四夜、大敵すでに滅亡して残党ことごとく
誅に伏す。其後解状を勒して奏聞、叡感尤はなはだし。俗呼でこれを八幡殿の後三年の軍
と称す。星霜はおほくあらたまれども、彼佳名は朽ることなし。源流広く施して今にいた
りて又弥新なり。古来の美歎、誰か其威徳を仰がざらん。世上のしるところ猶ゆくすゑに
つたへ示さん事を思ふ。後漢の二十八将其形を凌雲台に写す。本朝賢聖障子名士を紫宸殿
に図せらる。故に今此絵を調をかしむる所なり。就中に清和御代殊に吾山の仏法を崇とす。
其徳好を思ふに流を斟では必ず源を尋ぬべきことはりあり。況や又当時天下の静謐し海内
の安全、しかしながら源氏の威光山王の擁護也。これらの来由につきて、此畫図東塔南谷
の衆議として其功を終ふ。狂言戯論の端といふことなかれ。児童幼学の心をすヽめて鑚仰
の窓中時々是を披て、永日閑夜の寂寛をなぐさめ、家郷の望の外よりこれをもてあそびて、
嘯風哢月の吟詠にまじへんとなり。後素精微のうるはしき、丹青の花春常にとヾまり、能
筆絶妙の姿、金石の銘古に恥べからず。彼此共に益あり。老少おなじく感ぜざらめや。時
に貞和三年、法印権大僧都玄慧、一谷の衆命に応じて大綱の小序を記すといふことしかり。