永保のころ奥六郡がうちに清原眞衡といふものあり。荒河太郎武貞が子、鎮守府将軍武則
が孫なり。眞衡が一家はもと出羽国山北の住人なり。康平のころほひ、源頼義貞任をうち
し時、武則一万余人の勢を具して御方にくはヽれるによりて、貞任、宗任をうちたいらげ
たり。これによりて武則が子孫六郡の主になれり。それよりさきには貞任、宗任が先祖六
郡の主にてはありけるなり。眞ひら威勢父祖にすぐれて国中に肩をならぶるものなし。心
うるはしくしてひがごとををこなはず。国宣を重くし朝威をかたじけなくす。これにより
て堺のうちをだやかにして兵おさまれり。眞ひら子なきによりて海道小太郎成衡といふも
のを子とせり。年いまだわかくて妻なかりければ、眞衡、成衡が妻をもとむ。当国のうち
の人はみな従者となれり。隣国にこれをもとむるに、常陸国に多気権守宗基といふ猛者あ
り。そのむすめをのづから頼義朝臣子をうめることあり。頼義むかし貞任をうたんとてみ
ちの国へくだりし時、旅のかり屋のうちにて彼女にあひけり。すなわちはじめて女子一人
をうめり。祖父宗基これをかしづきやしなふ事かぎりなし。眞ひらこの女をむかへて成衡
が妻とす。あたらしきよめを饗せんとて、当国、隣国のそこばくの郎等ども日ごとに事を
せさす。陸奥のならひ地火爐ついてとなんいふなり。もろもろのくひ物をあつむるのみに
あらず、金銀、絹布、馬鞍をもちはこぶ。出羽国の住人吉彦秀武といふ者あり。これ武則
がはヽかたのをい又むこなり。昔頼義貞任をせめし時、武則一家をふるひて当国へ越来て、
桑原郡営の岡にして諸陣の押領使をさだめて軍をとヽのへし時、この秀武は三陣の頭にさ
だめたりし人なり。しかるを眞衡が威徳父祖にすぐれて一家のともがらおほく従者となれ
り。秀武おなじく家人のうちにもよほされてこの事をいとなむ。さまざまのことどもした
る中に、朱の盤に金をうづたかくつみて、目上に身づからささげて庭にあゆみいで、たか
庭にひざまづきて盤を頭のうへにさヽげてゐたるを、眞衡、護持僧にて五そうのきみとい
ひける奈良法師と囲碁をうちいりてやヽひさしくなりて、秀武老のちから疲てくるしくな
りて心におもふやう、われまさしき一家の者なり。果報の勝劣によりて主従のふるまひを
す。さらむからに、老の身をかヾめて庭にひざまづきたるを、久しく見いれぬなさけなく、
やすからぬことなりとおもひて、金をば庭になげちらして、にはかにたちはしりて門のほ
かに出で、そこばくもちきたる飯酒をみな従者どもにくれて、長櫃などをばかどのまへに
うちすて、きせながとりきて、郎等どもにみな物の具せさせて出羽国へにげていにけり。
眞衡囲碁うちはてヽ秀武をたづぬるに、かうかうしてなんまかりぬるといふを聞て、眞衡
おほきにいかりて、たちまちに諸郡の兵を催して秀武をせめんとす。兵雲霞のごとく集れ
り。日来をだやかに目出たかりつる六郡、たちまちにさはぎのヽしる。眞衡すでに出羽国
へ行向ぬ。爰に秀武思ふ様、われは勢こよなくをとりたり。せめおとされんこと程をふべ
からずと思ひて支度をめぐらすやう、みちの国に清衡、家衡といふものあり。清衡はわた
りの権大夫経清が子なり。経清貞任に相ぐしてうたれにし後、武則が太郎武貞経清が妻を
よびて家衡をばうませたるなり。しかれば清ひらと家ひらとは父かはりて母ひとつの兄弟
なり。秀武この二人がもとへ使をはせていひをくるやう、眞衡にかく従者のごとくしてあ
るは、そこたちはやすからずはおぼさずや。思はざる外のこといできて、せいをふるひて
既に我もとへよする也。そのあとに、そこたちいりかはりてかの妻子をとり家をやきはら
ひ給へ。さて眞衡をやうやくかたぶくべきなり。そのひまをもとめんに、此時は天道のあ
たへ給ふ時なり。眞衡妻子をとられ住宅をやきはらはれぬときかば、われ雪の首を眞衡に
えられん事、さらさら憂にあらずといひをくれり。こヽに清衡、家衡よろこびをなして、
せいをおこして眞衡がたちへをそひゆくみちにて、伊沢の郡白鳥の村の在家四百余家をか
つかつ焼はらふ。眞衡是をきヽて道よりまどひかへり、まづきよひら、家ひらとたヽかは
んとてはせかへる。清ひら、家ひら又聞て勢あたるべからずとてまたかへりぬ。さねひら
両方のたヽかひをしえずしていよいよいかりて、なをかさねて兵を集てわが本所をもかた
め、又秀武がもとへもゆかんとていくさだちすることはかりなし。

永保三年の秋、源義家朝臣陸奥守になりてにはかにくだれり。眞ひらまづたヽかひのこと
をわすれて新司を饗応せんことをいとなむ。三日厨といふ事あり。日ごとに上馬五十疋な
ん引ける。其ほか金羽、あざらし、絹布のたぐひ、数しらずもてまいれり。眞衡国司を饗
応しをはりて奥へかへりて、なを本意をとげんために秀武をせめんとす。いくさをわかち
てわが舘をかためて、我身はさきのごとく出羽の国へゆきむかひぬ。眞衡出羽へ越ぬるよ
しをきヽて、きよひら、家ひら又さきのごとくをそひきたりて眞ひらが舘をせむ。其時国
司の郎等に参河国の住人兵藤大夫正経、伴次郎兼仗助兼といふ者あり。むこしうとにてあ
ひぐしてこの郡の検問をして、さねひらがたちちかくありけるを、眞衡が妻つかひをやり
ていふやう、さねひら秀武がもとへゆきむかへるあひだに、清ひら、家ひらをそひきたり
てたヽかふ。しかあれども、兵多くありてふせぎたヽかふにをそれなし。たヾし女人の身
大将軍のうつはものにあらず。きたり給ひて、大将軍として、かつはたヽかひのありさま
をも国司に申さるべきよしをいひやれり。正経、助兼等これを聞て事とはず、さねひらが
たちへきたりぬ。清ひら、家ひらよせきたり。すでにたヽかふ。
 (以下欠文)

武ひらは国司追かへされにけりときヽて、みちのくにより勢をふるひて出羽へこえて家衡
がもとに来ていふやう、きみ独身の人にてかばかりの人をかたきにえて一日といふとも追
かへしたりといふ名をあぐる事、君一人の高名にあらず、すでにこれ武ひらが面目なり。
このこくし世のおぼえ、むかしの源氏、平氏にすぎたり。しかるをかくをひ帰し給へる事、
すべて申すかぎりにあらず。いまにおいてはわれもともに同じ心にて屍をさらすべしとい
ふ。家衡これをうけよろこぶ事かぎりなし。郎等ともにいさみよろこぶ。たけひらがいふ
やう、金沢の柵といふ所あり。それはこれにはまさりたるところなりといひて、二人相具
して沼柵をすてヽかなざはにうつりぬ。

将軍の舎弟左兵衛尉義光、おもはざるに陣に来れり。将軍にむかひていはく、ほのかに戦
のよしをうけたまはりて、院に暇を申侍りていはく、義家夷にせめられてあぶなく侍るよ
しうけ給る。身の暇を給ふてまかりくだりて死生を見候はんと申上るを、いとまをたまは
らざりしかば、兵衛尉を辞し申てまかりくだりてなんはべるといふ。義家これをきヽてよ
ろこびの涙ををさへていはく、今日の足下の来りたまへるは、故入道の生かへりておはし
たるとこそおぼえ侍れ。君すでに副将軍となり給はヾ、武ひら、家ひらがくびをえん事た
なごヽろにありといふ。前陣の軍すでにせめよりてたヽかふ。城中よばひ振て矢の下る事
雨のごとし。将軍のつはもの疵をかうぶるものはなはだし。相模の国の住人鎌倉の権五郎
景正といふ者あり。先祖より聞えたかきつはものなり。年わづかに十六歳にして大軍の前
にありて命をすてヽたヽかう間に、征矢にて右の目を射させつ。首を射つらぬきてかぶと
の鉢付の板に射付られぬ。矢をおりかけて当の矢を射て敵を射とりつ。さてのちしりぞき
帰りてかぶとをぬぎて、景正手負にたりとてのけざまにふしぬ。同国のつはもの三浦の平
太為次といふものあり。これも聞えたかき者なり。つらぬきをはきながら景正が顔をふま
へて矢をぬかんとす。景正ふしながら刀をぬきて、為次がくさずりをとらへてあげざまに
つかんとす。為次おどろきて、こはいかに、などかくはするぞといふ。景正がいふやう、
弓箭にあたりて死するはつはものののぞむところなり。いかでか生ながら足にてつらをふ
まるゝ事にあらん。しかじ汝をかたきとしてわれ爰にて死なんといふ。為次舌をまきてい
ふ事なし。膝をかヾめ顔ををさへて矢をぬきつ。おほくの人是を見聞、景正がかうみやう
いよいよならびなし。ちからをつくしてせめたヽかふといへども、城おつべきやうなし。
岸たかくして壁のそばだてるがごとし。遠きものをば矢をもちてこれを射、近きものをば
石弓をはづして是をうつ。死ぬるもの数をしらず。伴次郎兼仗助兼といふ者あり。きはな
きつはものなり。つねに軍の先にたつ。将軍これをかんじて薄金といふ鎧をなんきせたり
ける。岸ちかくせめよせたりけるを、石弓をはづしかけたりけるに、すでにあたりなんと
したりけるを、首をふりて身をたはめたりければ、かぶとばかりをうちおとされにけり。
甲おちける時、本鳥きれにけり。かぶとはやがてうせにけり。薄金の甲は此ときうせたり。
助兼ふかくいたみとしけり。

国司、武衡あひくはヽりぬと聞ていよいよいかる事かぎりなし。国の政事をとヾめてひと
へにつはものをとヽのふ。春夏他事なく出立して、秋九月に数万騎の勢をひきゐて、金沢
の館へ趣き、すでに出立日、大三大夫光任年八十にして、相具せずして国府にとヾまる。
腰はふたへにして将軍の馬轡にとりつきて涙をのごひていふやう、年のよるといふ事は口
惜くも侍るかな。生ながら今日我君所作し給はんを見るまじき事よといひければ、きく人
みなあはれがり泣にけり。

将軍のいくさすでに金沢の柵にいたりつきぬ。雲霞のごとくして野山をかくせり。一行の
斜雁の雲上をわたるあり。雁陣たちまちにやぶれて四方にちりてとぶ。将軍はるかにこれ
をみてあやしみおどろきて、兵をして野辺をふましむ。あんのごとく、草むらの中より三
十余騎のつはものをたづねえたり。これ武衡かくしをけるなり。将ぐんのつはものこれを
射るに、数をつくして得られぬ。義家の朝臣先年宇治殿へ参じて貞任をせめん事など申け
るを江師匡房卿たち聞て、器量はよき武士の合戦の道をしらぬとひとりごち給ひけるを、
よし家が郎等聞て、わが主ほどの兵をけやけき事いふおきなかなとおもひつヽ、よし家に
此よしをかたる。義家これを聞てさる事もあるらんとて、江師の出られけるところにより
てことさら会釈しつヽ、その後彼卿にあひて文をよみけり。よし家はわれ文の道をうかヾ
はずば爰にて武ひらがためにやぶられなましとぞいひける。兵野に伏時は雁つらをやぶる
と云事侍るとかや。

柵をせむる事数日にをよぶといへども、いまだおとしえず。将軍、つはものどもの心をは
げまさんとて日ごとに剛臆の座をなんさだめける。日にとりて剛に見ゆる者どもを一座に
すへ、臆病にみゆるものを一座にすへけり。をのをの臆病の座につかじとはげみたヽかふ
といへども、日ごとに剛の座につく者はかたかりけり。腰瀧口季方なん一度も臆の座につ
かざりけり。かたへもこれをほめかんぜずといふ事なし。季方は義光が郎等なり。将軍の
郎等どもの中に名をえたる兵どもの中に、今度殊に臆病なりときこゆるものすべて五人あ
りけり。これを略頌につくりけり。鏑の音きかじとて耳をふさぐ臆のもの、紀七、高七、
宮藤王、腰瀧口、末四郎。末四郎といふは末割四郎惟弘が事なり。