2017年    溝手康史



2018年1月
「登山者ための法律入門 山の法的トラブルを回避する 加害者・被害者にならないために」 (山と渓谷社)
 
972円 1月12日刊行
  

 土地所有権を含む財産権の保障とその自由な行使が資本主義経済を支えている。しかし、ロバート・ライシュが述べるように、自由な市場をいかに規制するかが重要である。ヨーロッパでは財産権の行使や自由競争を制限する考え方が強い。しかし、日本やアメリカでは、自由競争の規制緩和が主流となっている。アウトドア活動の分野は、もともと、無法状態であり、強固な財産権の保障の前でアウトドア活動は、無力である
自然へのアクセスの問題は、自由な財産権の保障をどれだけ制限できるかという問題であり、自由競争の制限の問題である。
 欧米ではこの問題が何十年も前から意識され、土地所有者とアウトドアでのレクレーションを求める庶民の間で闘争がくり返された。その結果、ヨーロッパでは、多くの国で自然へのアクセスの法的な権利が認められ、拡充されてきた。しかし、日本では、その点が意識されず、アウトドア活動が無法状態にある。無法状態では、事故が起きれば、簡単に制限・禁止できる。


2017年12月27日
トムラウシ事故ガイドら書類送検
 2009年のトムラウシ事故についてガイドらが送検された。マスコミ何社かから取材があった。ガイドの刑事責任は明らかだが、注目されるのは、ツアー会社の元社長が送検されたことだ。起訴されるかどうかは未定だが、ツアー会社の社長が送検されるは初めてである。 
 一般に、ツアー会社の幹部はツアーに立ち会っていないので、事故に対して因果関係を持ちにくい。学校での山岳事故で引率していない教師や校長、那須の雪崩事故で現場にいなかった高体連の委員長、列車事故でのJR社長、原発事故の東電社長や総理大臣、津波被害における学校の校長や市長などは、刑事責任を問いにくい。民事責任は比較的広く認定されるが、刑事責任は謙抑性の原則がある。世論は、「悪い奴らをすべて処罰しろ」となりがちであるが、人間のミスに関する刑罰は限定が必要であり、
どこかで線引きが必要である。
 元社長が起訴されるかどうかはまったく不明であり、今後、注目される。



2017年12月16日

貴乃花が警察と検察を取り違え
 これは、よくある話。
 「警察と検察」、「警視庁と警察庁、検察庁」、「消防庁と東京消防庁」、「弁護士と弁理士、司法書士」、「法律事務所と法務事務所」、「科料と過料」、「訴訟と調停」、「調停委員と裁判官、審判官」、「被告と被告人」、「刑事上の過失と民亊上の過失」、「法律と行政指導」などの違いを知らない人は多い。
 そのようなことを指摘すると、多くの裁判官は、「そんなことはないでしょう」と言って信じないようだ。法律家の常識は、法律家の間でしか通用しない。

 「弁護士から○○と言われた」と言う人がいたので調べて見たら、その人の言う「弁護士」とは法務事務所の司法書士だった。
 「調停時に、裁判官から○○と言われた」という人がいたので、調べてみたら、その人の言う「裁判官」とは、調停委員のことだった。調停委員は法律の素人であることが多いが、それを知らない国民が多い。
 相談者が「裁判で決まった」と言うので調べてみたら、調停で合意したのだった。相談者は、自分で合意したという自覚がなく、「裁判所が決めた」と理解していた。調停を裁判だと考えている人は多い。国民の半分は、調停と裁判の違いがよくわからないのではないか。
 新聞記者は、刑事裁判の被告人のことを「被告」と記事に書く(これは間違いである)。
 民亊、刑事、家事と言ってもフツーの人にはわからない。家事事件を、火事のことだと思う人が多いようだ。学校の教師でも、家事事件の意味を知らない。学校の教師からも、「債権者とは何ですか」という質問を受ける。これでは、学校で消費者教育はできない。教師は学生時代に大学で、消費者、法律、事故のリスクマネジメント、野外活動などを学ぶ学ぶ必要がある。
 
 問題は、多くの国民が、法律を知らないことを当たり前だと考えている点である。法律は、「お上」や一部の専門家だけのものだと考えている人が多い。しかし、「法律を知らないことで不利益を受けるのはあなたたちですよ」と言いたい。ここでいう「あなたたち」は国民をさしている。



2017年12月15日
「増税ラッシュ、佐川長官に怒りの声」というマスコミ記事のおかしさ
 この記事のタイトルを見て、??と感じる人がどれだけいるだろうか。
 増税は、法律に基づくのであり、法律は国会で決まる。それを決めるのは、首相や自民党である。それを支えるのは、選挙の結果であり、国民の投票である。官僚は、国会が決めたことを執行するだけであり、官僚を動かすのは政治家である。さきの選挙で自民党が「大勝」したことが大増税につながった。佐川氏は増税とは何の関係もない。増税をもたらしたものは、選挙結果である。佐川氏への批判は、政府に対する不満をかわす役割を果たす。ある種のスケープゴート。ヒットラーが、当時の国民の不満を諸外国やユダヤ人に向けさせたように、あるいは、江戸時代に農民の幕府への不満を商人に向けさせたように、為政者は常に庶民の攻撃先を作出する。政府への不満を公務員個人への非難に切り替え、公務員の首を切って決着させる。

 森友学園問題で佐川氏は首相や政府の意向に忠実に従っただけで、それに従わなければ、自分が左遷させられるだけである。主君に忠実な官僚。主君に忠実な役人は、忠臣蔵では殺人罪さえ犯しても、国民から賞賛されるのだが。表面的な現象を見て情緒的に反応し、しばらくたてば、忘れてしまう国民が多い。増税に国民が不満を持っても、次の選挙の時には国民は増税のことは忘れているだろう。税金の使い道を考えずに国民は選挙で投票をしている。それが、日本と北欧などの先進国の違いである。


2017年12月13日
伊方原発運転差止決定
 この決定を出した広島高裁の裁判長は、知っている人だが、これまでに、行政側敗訴の判決を多数出している。もし、そのような判決をだしていなければ、高裁長官になってもおかしくなかっただろう。地裁所長をした後に現場の裁判官に復帰したのは、裁判所の出世コースにいることを自ら拒否したのだろう。間もなく定年退官なので、国民向けの退職時の置き土産といったところか。


2017年12月9日
富士山、ヘリ救助中の落下事故判決
 京都地裁平成29年12月7日判決は、遭難者のつり上げ中の落下について消防隊員に過失がなかったと判断をし、静岡市の損害賠償責任を否定した。
 判決文を見なければ詳細は不明だが、つり上げ用具の選定が適切かどうかが裁判の争点だったようである。


2017年12月6日
NHK受信料・最高裁判決

 「やはり」という感想の判決。最高裁の判断は政治的、政策的なものである。最高裁は政治には逆らえない。それはあらかじめ予想されたことだ。代理人弁護士は、ほとんど弁護士費用をもらわずに、ボランティアで裁判をしたのだろうが、最高裁で争うことは賢明な方法ではなかった。


2017年12月5日
トムラウシ事故の送検
 2009年のトムラウシのツアー登山事故について、近日中にツアー会社の関係者が送検されるらしい。マスコミから何件か取材があった。仮に送検されても、起訴されるかどうかはわからない。たとえ公判請求がなされても、判決は執行猶予付きの刑になるだろう。過去の山岳事故の裁判の有罪判決はすべて執行猶予付きの禁錮である。

日馬富士の事件
 マスコミ大騒ぎしているが、略式起訴されて罰金になるだろう。事件としては軽微な事件である。
 

2017年12月4日
NHK受信料問題
 12月6日の最高裁判決の前のコメント
 テレビを設置したら自動的にNHKの受信料が発生するというのはおかしい。NHKの利用を強制することになるからである。現在のNHK受信料は、設置料であって受信料ではない。テレビを設置して設置料が生じるのはわかるが、受信可能であっても受信を拒否する自由がある。「NHKを見ること」を国家は強制できない。強制的にテレビ設置料を徴収することは、税金にほかならない。たばこ税や酒税、ガソリン税などと同じである。それは、テレビがぜいたく品だから課税するということか?なぜ、テレビだけ課税するのか?とれるところから取るのが日本の税金。それは江戸時代から変わらない。
 NHKが映らないテレビを製造すべきではないか。たぶん、かなり売れるだろう。それは国が許さないか? テレビ購入者からテレビ税、放送税を徴収する方法はNHKを国営にする必要があるだろう。
 現在、受信料の多くが、高額なNHKの職員の給料に使われている。受信料が税金になれば、NHKは国営になり、給料は公務員のレベルに下がる。


2017年11月24日
国際自然環境アウトドア専門学校(新潟県・妙高市)で講義
 午前4時過ぎに家を出て、東京経由で妙高市で3時間講義をした。日本でアウトドア活動を教えている専門学校は、ここしかないとのこと。それにしても、広島から妙高市までは遠かった! が、一日で往復可能という点は驚きだ。

六甲山を歩く
 この日、日帰りできないことはなかったが、神戸で新幹線を下車し、25日に六甲山を縦走した。9時間歩いた。六甲山では1年間に何十人も遭難しており、遭難が多いのはなぜなのかという点を自分の目で確かめる必要があった。
 縦走路は、車道を歩いたり車道に沿った整備された歩道を歩くもので、はっきりいってつまらない。しかし、登山口から稜線に出るまでは尾根や沢が入り組んでおり、通常の登山を楽しむことができる。市街地のすぐのそばにこれほど地形の複雑な山があることに驚かされる。六甲山の地形は興味深い。広島市でも、武田山などは、市街地から登山道が始まり、六甲山と違って自然の山の中を縦走できるが、六甲山ほど地形が複雑ではないので、たとえ道に迷っても市街地に出やすい。六甲山は、山頂や稜線は観光地だが、山麓は自然が残され、地形が複雑で道迷いしやすい。リスクのある登山道と観光地のハイキング道が混在している点が、事故につながるのだろう。初心者が熟練者向きの登山道に入りやすいことが遭難につながるのだろう。熟練者と言っても、山歩きの熟練者と登攀の熟練者を区別する必要がある。山が危険だから遭難するのではなく、自分のレベルを超える登山をするから遭難するのである。


       


2017年11月23日
自然の中を歩く権利、Rights to roam
 イギリスでは、歩く権利はフットパスを歩く権利だと思っていたが、そうではなかった。2000年に、Countryside and Rights of Wayという法律が制定され、フットパス以外の場所でも、歩く権利が認められた。スコットランドでは、この権利は、サイクリングやキャンプの権利を含む。北アイルランドは、土地所有者の政治的な力が強く、ヨ−ロッパの中でもっともこの権利が保障されていない国とされている。先進国の多くが、この権利を保障している。多くチェコスロバキアでも、自然を利用する権利がする権利が認められているが、道以外の場所での森の通行通行はできない。自由な市場の規制が少なく、財産権の保障の厚いアメリカでも、レクレーション法でアウトドア活動が保障されている(ただし、私有地での規制は強い)。
 日本は、先進国の中ではもっともアウトドア活動の法的保障のない国だが、法律に基づいて運用されていないので、アウトドア活動が目立たなければ事実上どこでもできる場合が多いという不思議な国だ。目立てば叩かれる。



2017年11月18日
破産事件は増えたのか?
 平成27年の破産事件数が増加したことがマスコミで取り上げられている。これが、「破産が多い」という間違ったイメージをもたらしやすい。平成27年にほんのわずか破産事件数が増えたが、6万4000件であり、平成15年の25万2000件に較べれば、激減している。
 平成15年以降破産事件が減った理由がよくわからないという意見があるが弁護士の利息制限法による計算が一般化し、過払金請求や債務整理を手がける弁護士が増えたこと、裁判所が破産債権に関して利息制限法計算を求めるようになったことなどが関係しているだろう。平成15年以前は、債務整理対象者でも破産申立をした方が簡単で弁護士の収入にもなるので、破産申立をする弁護士が多く、裁判所もそれを容認していた。しかし、裁判所の破産事件数があまりに増えすぎたので、裁判所が破産債権のチェックにうるさくなったということである。その後は、貸金業法改正や貸し出し規制が破産事件数の減少に影響している。
 現在、社会の格差が拡大しつつあり、今後、破産事件数はほんのわずかだが、増える可能性がある。非正規雇用者や高齢者の破産は若干増えるだろうが、あくまで破産が激減していることにかわりはない。



2017年11月17日
韓国と北欧の違い
 
韓国では政府高官が不正行為で続々と逮捕されている。韓国と北欧、ドイツ、スイスなどの違いのひとつに、法の支配の有無、コンンプライアンスの有無がある。韓国では、法律はあくまでタテマエであって、実態は、コネ、情実、利権、血縁関係、人間関係によって政治、経済、社会が動いている。それが、社会の効率の悪さや生産性に影響している。日本、中国も、韓国と似たようなものである。世の中は法律では動いていない。たとえば、日本では、職場の上司から飲食を誘われてそれを断ると昇進に影響しやすいが、欧米ではそのようなことはない。それが法的なコンプライアンスである。協調性を重視するだけの企業は、生産性に劣り、グローバルな競争に勝てない。


2017年11月14日
埼玉県の防災ヘリの有料化の範囲
 
埼玉県の防災ヘリの有料化は、条例上は、「県の区域内の山岳において遭難し」、防災ヘリの救助を求めた者とされているが、それをl規則で、山頂から〇〇キロメートル以内の山域に限定している。条例上は、すべての山岳を含むが、それを議会を通さない規則で制限するというおかしな仕組みになっている。議会は山岳でのすべての防災ヘリを有料化したのだが、県知事がその適用範囲を制限したことになる。
 おそらく、
条例を執行する知事部局としては、「有料化の範囲が特定されなければ、行政の執行ができない」と考えたのではなかろうか。条例に、登山者の除外については告示に委ねるという条例の規定になっているが、山岳の範囲の指定をを規則に委ねるという委任規定はない。ヘリ有料化の範囲は条例の核心をなす部分であるから、有料化の範囲は条例で明確にするする必要があり、有料化の範囲を議会が知事に丸投げすることはできない。
 岐阜県の登山届け出条例で規制範囲を条例に明記したのは、そのためである。埼玉県の条例でも、岐阜県条例のように、条例に別表をつける必要があった。しかし、岐阜県条例では別表記載の区域が危険であることが、危険区域での登山届け出を義務づける理由になったが、埼玉県では、別表記載の区域でヘリを有料にする理由は、「別表記載の区域で山岳事故が多く、ヘリの安易な要請が多い」ことが理由になりそうだが、それは事実か? いずれにしても条例に別表がついていないので、有料化の範囲について議会で議論がなされていない。議会のコントロールの欠如。
 埼玉県では、条例ではなく規則(これは、議会の議決は不要)によってヘリが有料化される区域が決定される。さらに、遭難者が移動した場合、どこが遭難場所なのかという問題がある。東京都の区域で遭難し、埼玉県内に移動した場合、どうなるのか。ヘリのピックアップ地点が遭難場所であれば、できるだけ山頂から離れた場所に移動してピックアップしてもらえば無料になる。遭難者は稜線に引き返せばヘリが有料になり、沢を下降すればヘリが無料になる。これでは、危険な下降を勧めて遭難を助長するようなものだ。山頂からかなり離れた場所での遭難は、有料化の対象とならない。観光客、釣り人、山菜取り、研究者等も規制区域ではヘリは有料である。
 規制区域外ではどんなにヘリを悪用しても無料であるが、規制区域では正当なヘリの利用は有料である。川や海では、安易な事故でもヘリは無料である。GPSが普及しているので、ヘリ有料化の範囲があらかじめデータとして入力されていれば便利かもしれない。そんなソフトが出るかもしれない。

 ヘリ有料化の効果はほとんどなく、今後、埼玉県に年間20〜30万円の収入が入るかもしれないが、ヘリの悪用防止にはならないし、今後、ヘリの事故が起きるかもしれない。無意味な条例だが、埼玉県がこの条例で一躍有名になったことは間違いない。埼玉県議会の自己満足と政治的パフォ−マンスの面が大きいのだろう。


 まったくおかしな条例である。こんな条例を制定するようでは、トランプの出すおかしな命令と大差ない。おかしな世の中になったものだ。

 


2017年11月12日

ボランティア活動について
 すぐれた仕事はボランティア活動、ボランティア的活動によってなされることが多い。
 ボランティア活動をするには、収入を得る生業が必要である。ボランティア活動は生業ではない。なぜなら、ボランティア活動では収入を得られないから。弁護士のすぐれた仕事も、しばしば、ボランティア的に行われる。配偶者の収入や年金収入のある弁護士は、ボランティア的にすぐれた仕事をすることが可能だろう。
 研究者も、すぐれた仕事はボランティア的である。すぐれた研究で収入を得ることは難しい。大学の教師が受け取る給料は、研究の対価ではなく大学で学生を教えることの対価である。すぐれた研究をしてもしなくても、給料はもらえる。優れた研究=収入ではない。
 作家はすぐれた作品を書くから収入を得るのではない。作品が売れるから収入を得るのである。すぐれた作品=収入ではない。



2017年11月10日
タイでのツアー中の事故

 11月8日、タイでツアー中に自動車事故で日本人4人が亡くなった。事故の原因は、自動車の運転手の運転ミスにあるようだ。
 事故の損害賠償はどうなるのだろうか。
 海外旅行での死亡事故の場合、ツアー会社は1人について2500万円を支払う特別補償金制度がある。しかし、これを超える金額の補償の義務はツアー会社にはない。ツアー会社に事故の責任があるかといえば、過去の裁判例からすれば、否定される。通常、自動車の運転手はツアー会社の社員ではなく、現地業者に委託しただけであり、ツアー会社
に使用者責任は生じない。ツアー会社が事故を予見することも無理であり、過失がない。パック旅行中のバス事故について、ツアー会社の責任を否定する裁判例が多数ある。学校教育の場では、ツアーを業者に丸投げしたケースで、ツアー業者を学校の履行補助者と認定して学校の損害賠償責任を認定した裁判例がある(カヌー実習)の事例。通常の観光旅行では、委託した現地業者(輸送業者、オプショナルツアー業者)は日本のツアー会社の履行補助者として認められていない。学校教育の場では生徒は保護の対象だが、観光旅行では観光客は保護の対象ではないようだ。
 旅行者は現地の運転手やタイの業者に損害賠償請求をするほかないが、おそらく支払い能力が不十分だろう。タイの自動車保険制度がどうなっているのか調べる必要がある。
 本来、ツアー会社は、パック旅行の前にそのようなリスクを説明する必要がある。事故がが起きても、特別補償金しか出ませんよ、と。それをしないことが多い。日本では、交通事故で損害賠償を受けるのが当たり前だが、海外旅行ではそうではない。それが海外旅行のリスクである。



2017年11月9日
九州大学でのアウトドアの正課実習中の事故

 平成成28年9月6日に、九州大学総合科目「フィールド科学研究入門“屋久島プログラム”」実施期間中に、大学生が屋久島の安房川で亡くなった。大学から事故報告書が公表されている。大学の正課実習中の事故としては、平成20年の愛知大学の栂池高原スキー事故がある。この事故については、裁判で引率教師が執行猶予つきの禁錮刑の判決を受けた。民亊上は、大学が損害賠償賞金
を支払ったと思われる(裁判になっていない)。
 大学の正課授業中の事故については、引率教員に安全管理義務があり、大学の責任が認められやすい。屋久島での事故についても、大学の報告書を読む限り、大学の法的責任はまぬかれないだろう。刑事責任については、引率教師の過失を認定することは可能だろうが、自然のリスクがもたらす場面では刑事責任が生じる範囲を限定すべきである。すべてのミスに関して刑事責任を追及すれば、自然の中での文化的活動ができなくなる。日本は、過失事故の刑事処罰の範囲が欧米よりも広い傾向がある。医師の刑事事件、山岳ガイドの刑事事件など。
 近年、大学の成果授業としてフィールドワークが増えており、そこには、大学構内や街中での実習とちがって、自然がもたらすリスクがある。自然の中では、そのリスクを管理できる能力が求められる。大学では研究者の水難事故なども起きており(東京大学での事故など)、実験室とアウトドアの違いを理解する必要がある。
 アウトドア活動のリスク回避については、訓練を要する能力が必要である。リスク回避の能力が欠ける場合には、「アウトドア活動をしない」という選択になる。屋久島のケースでは、「安房川で学生を泳がせない」という方法である。このようにすれば、引率者に「川での遊泳で事故のリスクを回避する能力」は不要である。リスク回避の能力の欠如を自覚しない引率者が多い。小、中、高校の授業中の事故は、だいたいすべて、そうである。

 大学の正課実習と違って、大学のクラブ活動は大学生の自律的な活動であり、大学が負う安全管理責任の範囲は限られ、大学生の自己責任が原則となる
法的には大学生は大人として扱われる。学生であっても、クラブ活動では、「自分の命は自分で守る」という自立性が求められる。そこまで考えてクラブ活動をする大学生がどれだけいるだろうか。高校生の時から自立性を養う教育をしなければ、選挙権だけを与えても、また、大学生の管理を強化するだけでは、そのような自立は無理ではなかろうか。
 
あらゆる活動にリスクがあるが、特にアウトドア活動には、自然がもたらすリスクがある。リスクを理解し、リスクを承認し、リスクをコントロールすることが大切だが、それが無理であれば自重することが必要である。
 自然のリスクをどこまでコントロールできる
かを判断することが大切だが、それが難しい。そのため、小学校では、「川にに近づくな」という指導になるが、生涯、川に近づかない生活はできない。どこかで川のリスクを学ぶ必要がある。それを教えるのはどこか。日本では、川のリスクを教える場がない。



2017年11月8日
てるみクラブの倒産
 てるみクラブの倒産の背後に過剰な競争がある。詐欺事件がlクロ−ズアップされるが、詐欺がなくても、倒産すれば、多くの消費者被害が出る。政府が過剰に旅行会社を認可することが過剰な競争をもたらし、それが倒産につながる。市場が限られているのに、多数の企業が濫立すれば倒産するのは当然である。ある程度の倒産を見込んだ競争社会である。野放しの低価格競争が倒産をもたらす。
 長距離バスツアー会社は、倒産だけでなく、事故をもたらす。ツアー登山でも、事故と倒産を繰り返している。
 タクシー会社が濫立すれば、倒産する。タクシー会社の労働環境の悪さがタクシー運転手の質の低下や乱暴な運転を招いている。タクシーは、突然の車線変更、強引な割り込み、急停止、急加速をすることが多く、事故も多い。
 薬局、小売店も倒産する。   
 予備校や塾が濫立すれば、倒産する。
 不動産業者も倒産している。
 倒産する住宅建設業者とマンション販売会社、団地造成業者。欠陥住宅の被害者は多い。
 介護施設や福祉施設の競争は、劣悪な労働環境と介護環境をもたらし、多くの事件や事故をもたらす。  
 獣医学部もどんどん作れば、いずれ獣医学部がつぶれるだろう。加計学園一校だけならそれほどではないのかもしれない。うまくやったものだ。
 政府は大学院を過剰に作り、食えない博士を増やしてきた。教育大学院、会計大学院で国民から金を吸い取る。
 法科大学院を濫立させ、食えない弁護士を増やしたため、多くの法科大学院がつぶれつつある。
 大学の数を増やして就職できない学士を増やした。多くの大学が淘汰されつつある。
 日本ではほとんどの資格が過剰であるが、それは過剰に作り出すからである。濫立しないのは、医師だけである。医師連盟の政治献金のたまものか。資格と税金のばらまきで国と国民の借金が増えていく。
 そのような政策は大学や企業にとって都合がよいが、被害を受けるのは国民である。過剰な競争が一部の者に巨万の富をもたらす。自由競争を適正に規制するのは政府の役割だが、政府は規制緩和政策をとっている。
そのような政府を国民は選挙で選択し、リスクを選択した。
てるみクラブの被害者はあくまで社会的少数者であり、選挙に影響しないのだろう。賢明な政府は賢明な国民に宿る。



2017年11月2日
田舎が住みにくい理由
・仕事が少ないこと、賃金格差。公務員の正規と臨時の賃金格差
・水道料、下水料が高い。1か月に1万2000円くらいかかる。これだけをとっても、「自治体選びに失敗した」と考えてしまう。
・保育料が高い。これでは若者は住めませんね。
・ゴミ回収費用がかかること。ゴミ回収袋は1袋が数百円もする。これだけでも、田舎に住まない方がよいのでは?
・福利厚生面で都会に劣ること
・地域の義務的な行事、役職が多いこと
・人間関係が窮屈で、地域が閉鎖的であること。排他的であること
・慣習に縛られ、新しいことを受け入れにくいこと
・学校、文化施設などの不十分さ

 田舎では、現金収入が少なくても暮らしやすい点をアピールすべきだが、現実には、家賃を除けば、田舎の自治体では、福利厚生費が高く、自治体サービスを受けるのに手間取ることが多い。田舎の自治体は、年金生活者が増えることを歓迎しない。年収のない資産家も歓迎されない。住民税が入らず、介護サービスが増えるからである。若者の移住者を歓迎するが、若者の仕事が少なく、保育料が高く、排他的であり、よそ者が住みにくい。
 田舎では教育熱が強く、自治体が進学塾を設置したりしている。田舎の塾に通うくらいなら、都会に住んだ方がよいのではないか。そのようにして育った子供は、大きくなれば都会に流出するだろう。
 農業や林業で雇用創出を考える必要があるが、実際には、自治体は、企業誘致や観光業に多額の税金を投入し、失敗している。全国の田舎の自治体がどこもかしこも工場を誘致し、観光客を呼び込もうとしているが、企業と観光客の数が限られているので、すべての自治体の思惑を実現するのは無理である。田舎で工場勤めをするために、都会から田舎に移住する人がどれだけいるだろうか。
 田舎の自治体は、表面的には移住者を歓迎するが、実態としては住みにくい。田舎の人口が急速に減少しているのは、経済的な面を含めて田舎に住む魅力やメリットが乏しいからである。年金生活者や年収のない資産家は田舎でも暮らしやすい。

 「総務省「田園回帰に関する調査研究会」の中間発表というものがある。2005〜2010年のデータをもとにしているのだが、その5年間で約27万人が都市部から過疎地域へ移住していることがわかる。」という記事があった。1年間に54,000人では大勢に影響しない。都会への流入者の方がはるかに多い。さらに、おそらく、ここでいう過疎地地域は比較便利な田舎であり、限界集落などは含まないだろう。都会から近い比較的便利な田舎は今後人口が増える可能性があるが、本当の過疎地は、いずれ集落や自治体が消滅するだろう。すでに消滅した自治体は多い。


2017年10月23日
プロ野球広島ーDeNA戦の感想・・・・リスクマネジメントとは何か
 広島の監督は、選手の状態を見て臨機応変に判断せず、情緒的なパターン化した采配の傾向がある。昨年の日本シリーズとまったく同じであり、去年もまったく同じことを書いた。

 
この点、DeNAの監督は有能だ。DeNAの監督はダメージを受ける前に(点をとられる前に)早目にピッチャーを代えようとするが、広島の監督はダメージを受けてから(点を取られてから)ピッチャーを代える。ダメージは目に見えるのでそれほど考えなくても判断しやすいが、ダメージを受ける前に判断をするには考えなければならない。
 リスクは、ダメージが生じる可能性をさす。ダメージが生じる前に対処する方法とダメージが生じた後に対処する方法の違い。両監督の采配は対照的である。采配が的中するかどうかの問題ではなく、リスクマネジメントの考え方の違いである。
 登山では、ダメージを受けてから、たとえば、転落事故が起きてから手を打ったのでは手遅れである。野球ではダメージを受けても人が死ぬことがないが、登山ではダメージ=死である。登山では、ダメージが生じる前に対処しなければならない。
 日本では、ダメージ、実害、事故が生じた後に重い腰を上げて対処する方法がとられることが多い。自然災害、原発事故、ツアーバス事故、イジメ、過労死などがその例である。事故が起きた後でも関係者が見て見ぬふりをすることも多い。前例踏襲のパターンで動く日本の社会では、リスクに機敏に対応して臨機応変に対処するには、かなりの勇気と思考力がいる。前例踏襲のパターンの中で育った者は、それからの脱却が難しい。
 ダメージが生じてから対処するのは、リスクマネジメントではない。リスクマネジメントはリスクが現実化することを防ぐことを意味する。日本では、リスクマネジメントが軽視される。日本では、リスクから目をそむけて安心を得ようとする傾向があり、それが政治的スローガンになる。欧米では、リスクの現実化を防止する考え方が当たり前である。大リーグの指導者やラミレス監督の考え方がその例である。
大リーグでは、データに基づいて選手を交代させ、短期決戦ではペナントレースの先発投手を中継ぎで起用したり、抑えで使ったりする。
 
ヒヤリハットから学ぶことがリスクマネジメントの能力を養ってくれる。野球でも、たまたま運よく打たれなかった場合でも、ヒヤリとさせられた場面から学ぶことが大切なのだが、それをしない指導者が多い。「打たれなくてよかった」と考えたり、自分の采配に自信を持つといずれ失敗する。誰でも不快な体験は早く忘れたいものだ。ヒヤリとする体験は不快な経験のひとつである。

 リスクに対処するする臨機応変の判断ができるためには、経験と考える力が必要である。それは誰でもできることではないが、指導者やリーダーにはそれが必要である。リスクに対処できる者でなければツアーガイドになるべきではない。
 野球では、監督の采配が的中したかどうかという評価がなされるが、登山の引率者は、采配が当たるかどうかという考え方をしてはならない。いずれの
場合も、リスクを回避することが、ダメージを防ぐことにつながる。

 指導者以外の一般人の場合、経験がない人はどうすればよいのか? リスクマネジメントの能力がなければ、登山や野球ができないということではない。指導者以外の人は誰でも専門家ではない。最初は誰でも初心者であり、すぐに経験を積むのは無理である。経験、判断力に欠ける場合は、リスクを犯さないという方法になる。登山では自分の能力を超える登山をしないこと、ツアー登山などでは、少しでも調子が悪ければ、すぐに下山させる方法になる。経験の足りない者が経験者と同じことをすれば、失敗する。
 リスク回避力の不足する指導者の場合、参謀、アドバイザー、顧問からのアドバイスが重要である。周囲がイエスマンばかりであれば失敗する。日本の組織はイエスマンで固める傾向がある。おそらく、野球も同じだろう。登山でも野球でも科学性が必要である。DeNAの監督は、データを重視する科学的野球、広島の監督はパターン化された勝利の方程式野球であり、後者は、マニュアルがあると安心する日本人に歓迎される。日本では、リスクマネジメントが嫌われる。リスクマネジメントの話をすると、非難されているように感じるらしく、「そんなに責めないでください」と言われることがある。そういう人は、失敗するとひどく落ち込み、自分を非難する。日本人にうつ病が多いのは、リスクマネジメントの欠如と無関係ではないのだろう。
 一般に、勝つための野球はドラマが少なく面白みに欠ける。それは事故を防ぐための登山がドラマが少なく面白みに欠けるのと同じである。登山におけるドラマとは遭難である。遭難事故が起きて一斉に非難する対象があることを心のどこかで歓迎する人たちが国民の中にいないわけではない。

 野球と登山は関係ないと考える人が多いが、人間行動としての共通性がある。登山は頭を使うスポーツだが、野球も同じだろう。特に、指導者はそうである。



2017年10月23日
衆議院選挙
 選挙の結果、自民、公明の政府与党が衆議院の議席の3分の2を占めた。国民の25パーセントしか自民党に投票していないが、自民党が議席の75パーセントを占めた。選挙で投票をしないのは不信任のあらわれだが、結果的に与党を支持する効果をもたらす。
 政府与党が議席の多数を占めるのは、現在の小選挙区制のおかげであり、国民から支持を得ていることにはならない。国民の一部の支持しか得ていないのに選挙制度の結果、政権が強大な権限をふるう状況は発展途上国では珍しくない。

 

 いずれ、日本は事実上、破産するが、
できれば、私が死んだ後にしてほしい。
 
今後、原発事故は必ず起きるが、事故が大規模かどうかは、その時の運次第である。確率的に人間は必ずミスを犯すから。
 富士山は必ず噴火分するが、できれば、私が死んだ後に起きてほしい。
 今後、戦争が起きる可能性が高いが、できれば私が生きている間に起きてほしくない。
 自然災害は必ず起きるが、これも確率の問題。
 これらに対処するのがリスクマネジメントである。
 「安心と安全」の政治的スローガンは、慢心と事故・災害につながる。

 これらをどするかは、民主制のもとでは、国民が選挙で選択するほかない問題なのだが、・・・


2017年10月19日
アディーレの業務停止による混乱
 法律事務所のアディ−レが業務停止を受けて混乱が生じていることがマスコミで過剰に報道されている。しかし、旅行会社、不動産会社、証券会社、保険会社、サラ金などが倒産をすれば混乱はもっと大きいのであり、アディーレ関係の混乱はそれらほどではない。大企業を含めた企業の不正は日常茶飯事であり、法律事務所が一般企業と同様に競争が激しくなれば、さまざまな問題が生じることは避けられない。個人事務所でも業務停止を受ける弁護士は多く、混乱の程度がアディーレほどではないだけのことだ。

 アメリカでは、街中のいたるところに、「着手金無料で損害賠償金をとってあげますよ」という弁護士の広告が氾濫しているらしい。アメリカでは裁判をする人が多く弁護士も多いが、日本では、裁判をする人が少なく裁判件数も減っているのに弁護士の数を増やした。過払い金請求事件が大幅に減った現在では、アディーレのような法律事務所の広告が過剰になる。東京の法律事務所が地方の田舎でも派手な広告をしている。

 最近、弁護士の過剰広告が蔓延している中でアディ−レがたまたま見せしめとしてやり玉にあげられた面はあるだろう。残業ただ働きの見せしめとして電通が起訴されたのと同じである。「どこでもやっているのに、なぜ、うちだけが?」という思いが電通にはあるだろう。アディーレも同じである。「期間限定セール」は多くの企業や販売店でもやっているのに、なぜ、弁護士会だけが過剰広告に重い処分をするのか? この程度?のことではどこでもやっているではないか。処分が重すぎるなどの声がある。
 どこでもやっていることがまさに問題なのだが、アディーレを重い処分にし、「法律事務所は一般企業や個人商店とはちがいますよ」と、弁護士会全体の信用を維持しようという狙いが弁護士会にはあるだろう。不都合な部分を切り捨てて身内を守ることは、どの組織でも行うことだ。弁護士会よ、お前もか。
 

2017年10月18日

遭難をなくすつどい(京都市、京都府山岳連盟)、講演「山岳事故の法的責」

   講演内容 
      山岳事故の概要 
      事故事例 山岳会の山行、講習会、ツアー登山、登山教室、公募登山
      登山で生じる法的責任
      事故を回避するために必要なこと
      法的紛争を回避するために必要なこと


 
参加者77人で満席。多くの質問があり、関心の高さがよくわかった。

 


2017年10月16日
那須雪崩事故最終報告書
・事故の経過、原因、問題点、教師、高体連、教育委員会の行うべきこと、安全管理の提言などが多く盛り込まれている。このような安全管理を行えば事故は起きないはずだが、それはあくまで理屈上の話。現実の人間はどこかでミスを犯す。人間はそこまで完璧にできないものだ。
・登山が趣味だという教師は多くない。登山が趣味程度の教師ではリスク回避力が十分ではない。教師が技術、経験、判断力を養うために何年もかけることは現実には無理。教師が2,3回の講習会を受講すればリスク判断ができるようになるわけではない。
・現実の教師、学校、教育委員会は多忙であり、登山にだけそんなに力を入れることは無理。学校では、登山よりも柔道やラグビーの方が事故率が高い。あれもこれもすべてを完璧にこなすスーパーマン教師を求めても無理ではないか。教育委員会は、登山よりもイジメ問題などに時間をとられる。教育委員会職員と教師の残業を増やすだけ。
・登山の素人である教師、学校、教育委員会の職員にどれだけの管理ができるだろうか。
・この報告書は春山講習を安全に行うためにさまざまな提言をし、理想論を展開している。
・栃木県の春山講習は実態は雪山登山であり、リスクのある登山である。これは高校で行うべきではなかった。

 現実や実態を踏まえて考えれば、高校や講習会ではリスクのあることをしないことが必要。高校の雪山講習はゲレンデのような場所で基本的なことを教え、それ以上のことは自己責任型の自主登山で行うべきである。たとえば、山岳会ではリスクのある訓練が可能だが、それは自己責任である。学校にあまりにも多くのことを期待し、教師がそれに応えようとするところに、無理が生じやすい。日本特有の学校文化が背景にある。日本の学校文化と会社文化が多くの問題をもたらしている。


2017年10月12日
小選挙区制度の問題点
 
小選挙区制度は、たとえば、選挙区の得票率が49%対51%で分かれる選挙区が100あった場合、51%の得票率の政党が100議席を獲得することになり、世論が政治に反映しにくいという問題がある。


2017年10月11日
北欧などでは、なぜ残業がないのか
 北欧、ドイツ、スイスなどでは、残業がなく、休みもとりやすい。学校の教師はカゼをひけば休みをとる。なぜ、それができるのかといえば、それができる制度、法律になっているからだ。そのような法律は国会で作る。日本の国会ではそのような法律を作らない。なぜかといえば、残業規制を求める国民の意見が国会議員に反映しないからだ。
 企業や役所は、人を雇用する側は、残業を歓迎する。その方が人件費がやすくすむからだ。その意向を組む国会議員は残業を規制しない。格差社会の中で力のある階層が国会議員を支持する。
 あなたは、残業規制を推進する議員に票を入れていますか。
 それをしなければ、今の制度が続き、残業がなくなるには、たぶん100年くらいかかるだろう。選挙では、誰かを当てにしてもダメで自分で選択するほかない。「誰がしてくれるのですか」ではなく、選挙でそのようにするのは、「自分でしょ」。


2017年10月6日
産科事故で医師の刑事事件立件
 大阪の産科事故について刑事事件として立件されたが、今後、起訴されるかどうか不明。起訴されれば有罪になることが多い。日本では、無罪判決は滅多に出ない。有罪になっても、通常、執行猶予付き判決で放免される。有罪になれば、産科事故が減るかというとそうではない。注意をしていても、確率的に産科事故は起きる。医師が委縮するだけのことだろう。
 山岳事故でもツアーガイドが有罪になれば、ツアー登山中の事故が減るかというと、そうではない。もともと、ツアー登山中の重大事故は、年間、1件あるかないかであって数が少ないので、今まで以上に減るということはないだろう。刑罰を科すことでミスを減らす考え方は、故意に近いミスや悪質なミスには当てはまるが、医師、山岳ガイド、パイロットなどには当てはまらない。たとえば、刑罰を科すことで仕事上のミスをなくし、会社の業績を上げる方法は、最悪の方法だろう。刑罰を科すことで勉強をさせることも同じ。



2017年9月30日
ニンニクを植える
 畑にニンニクを植えた。下の写真の感じ。今年は、畑に、人参、ピーマン、オクラ、ねぎ、トマト、じゃがいも、紫蘇を植えていた。いちじく、栗、柿、タラ、ブルーベリー、ジューンベリー、ぶどう、サクランボ、梨、すもも、びわの木もある。いずれも、1〜数本程度。

     


2017年9月26日
クリーニング店での長期保管品
 長期間クリーニング店に預けたまま引き取りに来ない衣類が問題になっている。衣類の所有権は永久に続くので、永久に返還請求が可能だからだ。
 同種の問題は、駐車場の放置自転車、放置自動車、遺失物、賃貸アパートの遺物、遺品、飲み屋のキープボトルなどでも生じる。
 裁判所は、裁判所の駐輪場に放置された自転車について、「1か月以内に引き取らない場合には、処分します」という掲示をして処分している。私も、それで、しばらく裁判所の駐輪場に置いていた5万円の自転車を処分されたことがある。 え?そんなことができるの?という感じだが、裁判所はできるようだ。裁判所は、裁判の被告になることが恐くない。
 しかし、一般の市民は、この方法をとることは、勧められない。パチンコ店の駐車場に放置された自動車をこの方法で処分できるかというと、絶対に損害賠償責任が生じないとは言い切れない。器物損壊罪に問われる可能性もある。庶民と裁判所は違うのだ。
 クリーニング店は、あらかじめ、衣類を預かる時に、一定期間引き取りに来ない場合には、処分する旨の約款をとりかわしておけばよい。個々のクリーニング店では、それをする勇気がないだろうから、全国のクリーニング店が一斉にそのような約款を定める集団的母船団方式、横並び方式が日本ではあっているだろう。



2017年9月25日
あやしげな弁護士を求めるあやしげな電話
 夜、事務所に、「最近、若い弁護士が食っていけないと聞いたのですが、若い弁護士に顧問を頼みたい。先生は、若いですか」という電話がかかってきた。「30年弁護士をしている」と返答すると、「わかりました」と言って電話が切られた。アメリアの弁護士は、あくどい仕事を行うのが当たり前になっており、弁護士の評判が非常に悪いが、日本の弁護士も、うさんくさい職業にみられているのだろうか。司法改革はアメリカを手本にしたのだから、当たり前といえばその通りだが。


2017年9月21日
天竜川事故・無罪判決
 「浜松市の天竜川で2011年、川下り船が転覆し乗客ら5人が死亡した事故で、業務上過失致死罪に問われた運航会社「天竜浜名湖鉄道」の元船頭主任の控訴審判決公判が20日、東京高裁で開かれた。大島隆明裁判長は「転覆の現実的な危険性を認識できたとは考えられない」として、禁錮2年6月、執行猶予4年とした1審静岡地裁判決を破棄、逆転無罪を言い渡した。」

 この事件については、一審判決時にコメントしたことがある。現場にいなかった主任の刑事責任を問うのは行き過ぎである。これは、ツアー登山中の事故について、現場にいないツアー会社幹部の刑事責任を問うことに似ている。最近、過失責任の厳罰化の傾向がある。


2017年9月16日
近所に猿が出た
 
近所に10数匹の猿がいた。

 近所の家でくつろぐ猿の親子

         

 
家の前は鹿の通り道。畑は、カラスに荒らされる。猿まで出るとは・・・・熊は、隣町に出ることがある。


2017年9月15日
猿政山での遭難
 近くの猿政山(1267m)で70歳の登山者が行方不明になっているらしい。「家族に庄原市方面の山に登る」と言って出かけたらしい。登山口近くに車があった。警察は、生存の可能性がなくなれば、捜査を打ち切る。家族が困って山岳連盟に相談したのかもしれない。山岳連盟から遭難の連絡があったが、遭難者は山岳連加入団体の会員ではないので、山岳連盟は捜索しない。「誰か、探してあげる人はいませんか」という要請があった。
 広島県には、有料で捜索を引き受ける団体はない。ボランティアで捜索する団体もない。家族が探すのは、難しいだろう。山岳遭難保険にも入っていないだろう。有料で捜索する企業があってもよいが、たぶん採算がとれなのだろう。社会的な理解も得にくい。世論からの自己責任の非難のもとに行方不明者を放置するしかないのか。
 山岳会に入るメリットして、遭難した場合に捜索してもらえるという点があるかもしれない。
 
 猿政山は、以前、山の所有者が登山道を通行禁止にしたのではなかったか。それでも、多くの人が、登っている。立入禁止の看板があるが、登山口駐車場がある。



2017年9月8日
国会議員の不祥事
国会議員の不倫問題などが、しきりにマスコミに登場しているが、
・国会議員の職務行為とプライベートの問題を区別する必要がある。
・国会議員の「失言」や政治資金の問題は、職務行為であり、重要。日本は、職務と私的行為の区別がなされない。教師のクラブ指導、公務員の職務外の行為の規制など。日本では、職業の属人的性格がある。教師は、24時間、教師。会社員は、24時間、会社員か?。休日の接待ゴルフ。日本は生き苦しい。


2017年8月31日
幌尻岳での遭難

 幌尻岳で、日本山岳会広島支部の8人パーティーの3人が死亡する事故が起きた。遭難者は、私の知人ではないが、聞いたことのある名前もある。この支部には、私の知人が多い。
 日本山岳会広島支部は、2016年11月にも、富士山で2人が死亡する事故を起こしている。この時のパーティーの形態に問題があったが、きちんと検討したのかどうか。高齢者と学生というパーティーの編成。初心者の学生の体力に高齢者のリーダーは体力的についていけないが、リーダーとしての立場上、無理をしがちである。 
 日本山岳会広島支部は、多くの山岳会が低迷している中で、誰でも気軽に加入できる会として活発に活動している。しかし、会員の高齢化が著しい。
 ロープを張って沢を渡渉しようとして事故が起きたが、結果からいえば、ロープを張る方法は、事故の防止にならなかった。転倒すると、ザックが顔を押さえつけてしまい、顔が水没してしまうからだ。ザックを先に渡すとか、空身でひとりずつ確保し、流されたら、流れにまかせて岸に流れ着くようにロープを流す方法をとった方がよかったのではないか。ロープを張った状態で、顔が水没することは危険。ロープを張れば、下流に流されることは防止するが、水没まで防止するわけではない。どのような方法がベストか、練習してみる必要がある。事故を防ぐためには、かなり高度な技術と経験が必要だったようだ。

 もちろん、下山を中止すれば事故は起きないが、最初に渡渉した人は、無事にわたり終えており、その人にとって渡渉が危険だったわけではない。事故に遭った人には、渡渉は危険だった。事故のリスク人によって異なる。

 なまじ技術のあったことが、事故を招いた。以前、穂高岳でも、下山中に増水した沢でロープを使って渡渉中に2人か3人亡くなった事故があった。あれも、広島のパーティーだった。中国地方の沢は水量が少ないので、甲川を除き、水流の強さを経験する機会が少ない。ただし、沢登りをする人は、全国の沢に出かけるはずだ。今回の事故は、沢についての経験不足ということになろうか。


2017年8月24日
高校野球を通してみる選手の起用法
 選手の起用法は、監督によってさまざまである。
 パターン化して起用する監督が多いが、失敗することが多い。なぜなら、選手の調子はパターン通りではないからである。臨機応変に選手を起用する方が、成功しやすい。調子のよい者を使うということ。
 プロ野球でも同じ。パターンや過去の経験にこだわる監督は、失敗する。臨機応変の判断=思考力
プロ野球選手からすぐに野球の指導者になる日本のやり方は、指導者としての養成課程がないという問題がある。経験とカンで監督業を行うが、その経験は監督としての経験ではなく、選手としての経験である指導者としての経験の少ない監督は、熟練した指導者を参謀に置く必要がある。

 こんなことを登山で行えば、事故が起きやすい。登山家として実践してきた経験に基づいて、ツアー登山の引率をすれば、事故が起きやすい。ツアーガイドとしての養成課程が必要。自分ができることでも、他人ができるとは限らない。成績優秀者が、よい教師になるとは限らないのと同じ。
 また、登山では、行動をパターン化すると、死を招く。
自然や人間は、パターン通りに動いてくれないからである。
この点は、野球も同じだろう。


2017年8月17日

ペット火葬場が乱立

 
「ペットの火葬場や霊園をめぐるトラブルが後を絶たない。いずれも設置に関し法律で規制されていないためだ。周辺住民が反対するケースがあるほか、ずさんな経営者による問題も顕在化しており、一定の法規制を求める声もある」。
 
 問題は、「最後の資本主義」でロバート・ライシュが述べるように、市場が公正であることである。公正な市場の規制がなければ、国民が不利益を受ける。ペット火葬場が乱立し、過当競争が問題をもたらし、倒産するトラブルも起きている。
 先日、ある福祉施設が倒産したが、そのため、交渉中の施設内の事故について損害賠償請求ができなくなった。倒産は、施設の法的責任を回避する手段になる。福祉施設は、日本では圧倒的に足りないが、それでも、福祉施設が経営不振で倒産する。これは、国の政策の不備による。
 
 弁護士に依頼できない人が多い一方で、弁護士は採算のとれない仕事を断る現実がある。倒産する法律事務所もある。
 田舎では、ガソリンスタンドが足りないが、それでも、田舎のガソリンスタンドは利益が出ず、経営が成り立たない。日本全体が野放しの競争と恣意的な規制で成り立っている。法規制の隙間で、目ざとい者が利益をあげる。加計学園のように。


2017年8月14日

学校の組体操の減少

 小中学校での組体操が2〜3割減っているらしい。組体操が危険かどうかは、実施方法次第である。2、3段の組体操はリスクが低いだろう。リスクマネジメントは、もっとも弱い生徒を基準に考えるべきだが、日本では、平均的なレベルを基準にリスクマネジメントをする傾向があり、それが事故につながりやすい。もっとも弱い者を基準にするリスクマネジメントは、ツアー登山などでも同じである。

 
組体操の事故のリスクは生徒ひとりひとり異なる。
 屈強な生徒とひ弱な生徒では力が違う。事故になるかどうかは、ケースバイケースである。その場で、教師が臨機応変に事故が起きないようにやれば、事故は起きない。事故のリスクはその場で教師が適切に判断すればよい。しかし、教師は、それができるだけの自信がないため、マニュアルをほしがる。臨機応変にリスクを判断できるマニュアルは存在しない。教師がリスクの判断ができないのであれば、組体操は、2、3段とするほかないだろう。
 熱中症予防でも、教師は、マニュアル通りに実施するが、それでも事故が起きる。熱中症になるかどうかは、個人差が大きい。

 この点は、ツアー登山でも同じである。



2017年8月11日

高校野球、プロ野球、登山・・・・リスクの回避
 高校野球の広陵高校ー中京大中京高校の試合で、中京高校は、好投していたピッチャーを途中で交代させ、交代したピッチャーが打たれて逆転された。ピッチャー交代がなければ、勝っていただろう。広陵高校も好投していたピッチャーを交代させたが、そのピッチャーは1塁の守備についた。交代したピッチャーが連打を浴び、1塁にいた選手をピッチャーに戻し、失点を抑えた。1塁にいたピッチャーを戻していなければ、負けていただろう。中京高校との違いは、ピッチャーを交代させても、1塁に残した点である。その点で、リスクを回避した。

 広島カープは、5点くらい取られるまでピッチャーを交代させず、そのために負ける試合が続いている。調子の悪いピッチャーを使い続けるリスクを犯し、毎回、敗戦を招いている。何も考えないと、こうなる。

 2017年の那須の雪崩事故は、雪崩れやすい斜面での訓練というリスクを回避しなかった。それが事故の原因。

 リスクを回避しないのは、リスクを考えないか、軽視するからだろう。その根底に、パターン化した思考や過去の成功体験がある。科学性の欠如。 
 中京高校の監督は、「うちは、継投で勝ってきた」と述べるが、これはパターン化思考の典型である。継投のリスクを無視したことが敗因になった。確率からいえば、そろそろ、継投が失敗する頃だったのだろう。
 広陵高校は、交代させたピッチャーを1塁に残し、ピッチャー交代のリスクをカバーできる体制を敷いたことが勝因になった。
 広島カープの監督は、「最低でも5回までは投げてもらいたい」と述べたが、ピッチャー続投のリスクを無視したことが敗因になった。早目にピッチャーを交代させれば、大量失点によって早々に試合を興ざめさせることはなかっただろう。
 
那須の雪崩れ事故は、過去に講習会で事故が起きていないという成功体験が、現実の斜面の雪崩のリスクを無視させることになった。

 
リスクの判断は、パターン化した思考や過去の成功体験ではなく、現実に基づいて判断することが必要である。現場での臨機応変の判断。それができなければ、失敗する。日本では、パターン化した思考やマニュアル化した思考が好まれる。


2017年8月9日
富士山の落書き問題・・・・フジテレビの取材
・・・・犯人捜しは?
 これについて、電話で取材があった。夕方のニュース番組で放送されるらしいが、関東地方の放送らしい。
 落書きは、器物損壊罪になる。これは、他人所有の動産、不動産の棄損行為である。ペンキが塗られた岩は経済的価値は小さいが、器物損壊の対象にならなことはない。
 文化財の改変は文化財保護法違反になる。

 冬山登山や沢登り、クライミングなどで、テープやリボンをつけるなど、目立たない方法で目印を設置することはしばしばあるが、テープやリボンをつけるだけでは、損壊とはいえない。岩にペンキを塗る場合には、登山道の管理者、土地所有者の同意が必要である。意図的な落書きは違法である。
 落書きに限らず、登山道の崩落、落石、標識が倒れるなどの自体がありうるので、「登山道の管理者」が、迅速に対処することが必要。落書きの発見は、7月14日。街中で道路標識に落書きされれば、すぐに直すが、登山道では、なぜ、こんなに時間がかかるのか。

 自然公園法違反や文化財保護法違反よりも、器物損壊罪の方が明白である。
 器物損壊罪は、親告罪であり、告訴がなければ、有罪にできない。被害届が出なければ、警察は捜査しない。

 誰が器物損壊罪の被害届を出すか。通常は、落書きをされた岩の所有者である。国か?。しかし、国は登山道を管理していないので、告訴しないのではないか。
県は、世界遺産を管理しているが、登山道を管理しているわけではない。また、県は岩の所有者ではない。器物損壊罪の告訴権者は土地所有者である国だろう。
 警察への被害届は、まだ、提出されていないのではないか。これだけマスコミを騒がせた事件で、犯人捜しがなされないことは、問題だろう。昔から、登山道付近でのスプレーによる落書きが時々あるのだが、犯人検挙の話を聞いたことがない。そもそも、被害届けが出されていないからだ。今回は、富士山だからマコミが騒いだのだろうが、犯人を捜査しなければ、今後も、この種のイタズラが続くのではないか。

 文化財保護法違反は親告罪ではないが、これについては、富士山の文化財の指定内容を精査する必要がある。文化財の構成要素のうち、富士山域に登山道が含まれるが、ペンキは、登山道ではない個所に塗られており、文化財を棄損したといえるかどうか。テレビの取材時には、記者の「文化財に指定されている」という説明に基づいて、大雑把な返答になったが、もっと厳密に考える必要がある。


2017年8月8日
大臣の失言
 
大臣の「失言」が多い。日本は、先進国の中で、大臣の質が低い。フィンランドの教育大臣は、教育の専門家であり、かつて、テレビで、何時間も自分の教育論を論じていた。それに較べ、日本の大臣は、「自分は素人」と公言する。それが許す日本の政治的風土。素人を大臣に任命してはならないが、日本では、多くの大臣が、専門家ではない。専門家ではない大臣は、官僚からバカにされるのではないか。大臣に最低限の専門的知識が必要。専門邸知識の習得は何年もかかる。知識がなければ、まともな行政はできない。専門家であれば大臣が務まるというものではないが、大臣は、専門家+判断力が求められる。
 大臣は、国会議員である必要はない。日本で、国家議員を大臣に任命するのは、派閥政治の恩典として、ポストを分与するからである。利権政治の典型ともいえよう。



2017年8月6日
熱中症事故

 高校野球部のマネージャーがランニング中に熱中症で倒れ、その後、死亡した。ランニングは監督の指示だったようであり、学校の安全管理責任が問題になる。
 他方、大学のアメフット部の練習中の事故があるが、学生はオトナなので、学生の自己責任になることが多い。
 学校の安全管理責任については、高校と大学で異なる。
 法的責任とは別に、リスクマネジメントとしては、炎天下での練習をするのはクレージーである。甲子園の大会で事故が起きれば、誰が責任をとるんでしょうね。高校生の自己責任というわけにはいかない。

 私は、かつて、夏の炎天下で40キロ背負って、「暑さに慣れるために」ボッカ練習をしていた。汗が顔から流れるという感じ。マゾが快感になる。これは、クレージーだが、もともとヒマラヤ登山、冬の岩壁登攀などはクレージーなことなので。
 

2017年8月1日

八海山で高校のクラブ活動中に高校生が死亡
 
事故の詳細は不明だが、山岳部ではなく、地学部の活動だったらしい。八海山は鎖場が多く、危険度の高い山である。かつて、40年くらい前に登山を始めて間もない頃、この山に連れて行かれて、けっこう立った岩壁の鎖場があった。「こんなところを登るのか」と驚いたことがある(おそらく、新開道か屏風道)。文科省は、高校生の冬山登山を禁止するが、八海山は、ルート次第ではやさしい冬山登山よりも危険度が高い。
 ただし、高校生はロープウェイで登るコースでの事故であり、危険度は中程度か。

 
教師が引率しており、教師の注意義務違反が問題になるが、一般登山道では、通常、高校生であれば転落することなく登山可能なので、教師の義務違反はないだろう。

 「登山届は提出されず、男子生徒はTシャツとひざ丈ほどのズボン姿だったことが非難されているが、この点は事故とは関係がない。登山届を出していれば事故が起きなかったという関係はない。また、事故後直ちに、救助の通報をしているので、登山届を出しても出さなくても、すぐに救助が行われたはずだ。服装も事故と関係がない。軽装でなければ、事故は起きないということではない。
 装備が十分であれば、事故は起きないと考えがちだが、そうではない。登山では専門的な装備が必要という思い込みがあるが、それは、登山=クライミングや冬山登山のイメージから来るのだろう。山歩きでは、装備は、ほとんど事故に影響しない。サンダルやハイヒールで山歩きをすれば別だが。
 遭難者の救助に4時間かかり、「4時間もかかった」という意見があるが、4時間で遭難者が発見されたことは非常に速かった。山岳遭難ではこのように迅速な救助をしても助からないことが多い。

 今後、自治体が、転落した場所に柵を設置するらしいが、柵の管理責任が生じる。1年に1回は柵を点検する必要がある。また、今後、その種の柵を当てにして、初心者登山者が増えれば、同種の危険のある場所すべてに柵を設置しなければ、「柵のないこと」が事故の原因になりかねない。転落防止用の柵を設置する歩道は、遊歩道である。遊歩道では相応の設備が必要である。八海山の登山道を遊歩道化するのは、費用と管理責任の点で、かなりの覚悟が必要である。

 八海山登山は、学校のクラブ活動の対象にふさわしくない。学校外の自主登山として行うべきだろう。


2017年7月31日

法科大学院低迷、朝日新聞記事の感想・・・加計学園問題は無関係ではない・・・知恵の欠如と利権がらみの政策

記事の内容は以下のとおり。

「弁護士や裁判官ら法曹人口を大幅に増やす狙いで国が設立の旗を振り、ピーク時には74あった法科大学院の半数近くが、廃止や募集停止になったことがわかった。全体の志願者は最多だった04年の7万3千人の1割程度にまで落ち込んでいる。政府は02年、経済のグローバル化や知的財産分野の拡大で弁護士が足りなくなると見込み、年間1200人程度だった司法試験合格者を3千人にする目標を閣議決定。これを受け、大学は法科大学院を次々に新設した。裁判所が受理した事件数は15年は約353万件で、04年より約4割減」

これに関して、
・20年前の予想どおり。やはり破綻したか、という感じ。弁護士の数を増やすだけでは、弁護士が利用されないことを、私は、平成10年以降、何度も述べてきた。庶民は、金がなければ、いくら弁護士が増えても、弁護士に依頼できない。私は、過疎地で20年以上弁護士をしてきたので、よくわかる。

・弁護士を利用しやすい制度が必要。これについて、ある法科大学院の有名な教授は、「国に、弁護士の収入の心配をしろと言うのか」と言ったそうな。弁護士に依頼される事件が増えないのに、全国に法科大学院を作って弁護士を増やせば、大学が儲けるだけで、やがて司法全体がゆき詰まることは、誰でもわかる。この先生が教える法科大学院は、まだ潰れていないので、無責任なことが言えるのだろう。
 また、別の法科大学院の有名教授は、以前、司法試験合格者数を年間9000人にすべきだと主張した。9000人は、当時の法科大学院の学生数である。つまり、全員合格ということ。これは、「獣医学部をどんどん作る」という発言と大差なく、真面目に司法を考えているとは思えない。この先生の所属する法科大学院は、たぶん、潰れたはずだ。法科大学院の教授がこの程度のレベルでは、法科大学院制度が破綻するのは当然。大学の先生は、知識は多いが、「判断」になると、素人以下のことがある。福島原発事故も、そのようにして起きた。
 
 ドイツやスイスでは、資格は、国家資格が多く(それは私立大学がないのと同じj理由だろう)、職業的な国家資格は、必ず職業としてなりたつように設計される。スイスのフォレスター(森林官)や上級フォレスターなどは、公務員として収入を保障される。それが、ドイツやスイスの林業を成り立たせ、しかも、賢明な管理を可能にしている。スイスのフォレスターの資格制度は、「知識と技術を身につける教育」に主眼があり、学校を作ることが目的ではない。この点で、すぐに大学、大学院というハコモノを作りたがる日本と大違いである。いかに税金をかけずに資格を管理することが必要だが、日本がやたらと税金をかけたがるのは、資格や教育が利権と結びついているからである。 
 北欧の教師の資格も、職業として成り立つように設計にされている。その結果、フィンランドでは、教師がもっとも人気のある職授業になっている。そこには、日本、韓国、中国のような野放しの資格制度がない。それが資格先進国とそうではない国の違いだろう。
 職業として成り立つかどうかを無視して、職業的な国家資格を作り、国民に資格取得のために金を使わせることは、国家によるある種の詐欺である。日本では、それが当たり前になっているので、詐欺に対する不感症になっているのだ。

・司法改革は、司法試験合格者数を、かつての500人から3000人に増やそうとしたのだが、弁護士の需要を見ながら少しづつ慎重に数を増やすことが必要だった。それを平成元年頃から行うべきだった。それが賢明な政策だが、日本にはこれがない。弁護士を増やすだけであれば、法科大学院は必要なかった。そもそも、なぜ、法科大学院を作ったのだろうか。
 多数の法科大学院を作れば、一気に弁護士を増やすことになる。法科大学院を作れば、大学に学生が集まるという大学の思惑があった。当然、法科大学院の学費と国の補助金が大学に入る。国は、大学の独立法人化によるムチの政策だけでなく、大学に恩恵を与えるアメの政策も必要だった。国と大学の思惑の一致が法科大学院政策だった。これを、財界、マスコミ、一部の弁護士が賛同し、当時の日弁連会長の中坊公平(その後、 刑事事件で失脚)や頭でっかちの理想派の弁護士集団がこれを推進した。
 法科大学院で金を使う国民はほんの一部の人に限られ、多くの国民は司法をほとんど利用しないので、国民は関心を持たなかった。すべて、国民にとって上からの改革だった。
 この構図は、獣医師を増やすために今治市に獣医学部を新設するのに似ている。日本には、理念に基づく政策ではなく、あるのは利権がらみの政策。日本では、政治、政策、教育、福祉、公共工事などが、利権の対象になっている。

・当たり前のことだが、政策決定には、現実認識が出発点になる。しかし、司法の実態を知らない先生たちが、政策提言をするところに問題がある。
科学性のない政策は、必ず破綻する。司法改革でいえば、司法の実態を知らないエライ先生たちが、都会のコンクリートの中で、理屈と数字だけを見て考えた内容が、司法改革だった。それは、現実の経過によって否定される。それが科学である。そもそも、日本の司法には科学がない。

・朝日新聞の論調の変化。かつて、朝日新聞は、法科大学院政策を推進する立場に立っていた。法科大学院の推進一辺倒の記事から、多少は現実を直視するようになったようだ。さすがに、新聞社も、今さら、「法科大学院政策の推進」は言えなくなったのだろう。大学は、新聞社にとって大スポンサー。新聞を賑わす大学の派手な広告。

・今後必要なこと。「日本の従前の司法改革」の改革。司法を利用しやすいものにすること。司法支援制度の拡充と訴訟の印紙制度の撤廃、日本的な几帳面すぎる手続きをやめること。結論が同じであれば、煩雑で几帳面な手続きかどうかは重要ではない。日本の社会は、あまりにも無駄が多い。書面主義の廃止、裁判所、弁護士、検察庁、大学、研究者の業界の血の入れ替えなど。実務と現実を知らない研究者の問題性。どんな学問でも、現実現場から学ぶことが前提になるが、日本のほとんどの法学者は現実の裁判や司法の実態を知らない。
 一定のポストに就くには法曹資格を必要とするなどの義務付けが必要。ドイツやオランダではそうなっている。日本でも、国や自治体の法曹資格者の雇用が若干増えたが、すべて短期雇用の使い捨て。弁護士が不安定雇用労働者になりつつある。これでは、司法の未来は真っ暗。もっと、まじめに考えて法曹を雇用することが必要。
 
 森友学園、加計学園、法科大学院・・・・これらは、日本における政策決定の問題性を示している。
国民の利益にならない税金の無駄遣いが、無数にある。


2017年7月28日

今井絵理子議員の不倫問題
これについては、
・政治の問題ではなくあくまで個人的な問題であること
・相手の市議会議員が妻と別居中であり、別居後(婚姻破綻後)に交際が始まったとすれば、交際は違法ではない。
・今井絵理子も独身であること
・政治家が誰と交際しようと政治とは関係がない。ただし、総理大臣が自分の権限と関係のある加計氏と交際するような場合には大問題だが。

 これがフランスで起きたとすれば、フランス人は、おそらく、次のような会話をするだろう。
「今
井絵理子に恋人ができたんだって?」、「それはよかったねえ」 
 あるいは、 
「それがどうかしましたか」
 
フランスでは入籍しない夫婦が多いので、問題にならなのではないか。
 かつて、フランス大統領のミッテランに「隠し子」がいることが発覚した際、フランス国民の反応は、「ミッテランに子供がいたんだって? それは、よかったねえ」の類が多かったらしい。フランス国民のこのような反応に、スキャンダル事件にしたかった日本のマスコミはがっかりしたらしい。

 外国の例を持ち出すと、必ず、「ここは、日本です」という反応を条件反射のようにする人が多い。「ここが、日本だから、外国の例を話すのです。フランスでは、こんな話はしませんよ」と言うと、たいてい憎まれる。
 フランス人も日本人も同じ人間であり、日本で、なぜ、個人的な問題が政治に関する事柄と区別されないのかが、問題なのだ。公務員が、勤務時間外でも、公務員としての行動を要求されるのはなぜか。日本は、プライベートであることが許されない社会なのか。
 
 そんなつまらないことよりも、今井絵理子氏が議員になってから、どのような実績を上げたのかが重要である。議員としての実績よりも、週刊誌やテレビのワイドショーの話題作りに貢献するようでは、どうしようもない。元タレントが議員になること
の問題性。
 下らない話題ををテレビで放映することは、公共の財産である電波の無駄遣いである。松居一代のパフォーマンスを放映することと同じ。
公共の財産である電波の公共的利用はどうあるべきか。そんなことを今井絵理子氏の不倫報道から感じた。


2017年7月27日

第三者委員会の問題性
 
日本では、事件や事故が起きる度に、第三者委員会が設置されている。私も、自治体と国のこの種の第三者委員会の委員になったことが2回ある。
 第三者委員会には、あまりにも多くの問題がある。
 事件や事故が起きる度に設置していたら、きりがない。重大な事件に限るが、世の中には重大な事件は無数にある。1年間に死亡事故だけで、何千件もある。事故以外に社会的重要な出来事は、無数にある。それらをすべてについて、第三者委員会を設置するわけではない。
 第三者委員会を設置するのは、行政にとって、それが都合がよい場合である。たとえば、世論の非難が強い事件であり、第三者委員会の設置が政治的に都合がよい場合である。森友学園、加計学園などの問題では、第三者委員会は設置されない。第三者委員会の設置は、世論から行政への非難を交わすことが目的であることが多い。
 調査の対象が多ければ、第三者委員会は常設するほかない。日本の学校では、常設の第三社員会が必要ではないか。北欧では、教育委員会は、もともと公平な委員で構成され、日本の第三者委員会を常設化したイメージである。北欧では、イジメなどが起きれば、教育委員会の審査が、日本の第三者委員会の審査と同じ機能を果たし、効率がよい。 
 第三者委員会の設置では、誰を委員に選任するかがもっとも重要だが、これがもっともいい加減である。委員の選任は、通常、行政の一本釣りである。委員選任の時点で結論が見えている。行政は、結論を見据えて委員を選任するので、これほど不公平な手続きはないが、国民は公平だとごまかされやすい。ある種の儀式。
 事務局主導。第三者委員会の報告書は、事務局が作成し、第三者委員会の責任で出す。事務局は、担当部局の公務員。委員に、事務局の書いた報告書を自分ですべて書き直すくらいの覚悟がないと、事務局主導になる。分厚い報告書を委員が自分で書くのは時間的に大変。事務局は、それを仕事にしているが、委員は、別の職業に従事する合間に委員会に出るだけなので。
 委員会で事実調査ができるとは限らない。証拠の評価など、委員は不慣れ。裁判以上にずさんな事実認定をすることが多い。それなら裁判の方がまだマシだろう。しかし、国民は、裁判にあまり期待できないから、第三者委員会に期待するのだ、が、第三者委員会は裁判ほど公平ではない。

 結局のところ、第三者委員会は、無駄が多く、機能しないケースが多い。現在の教育員会は、イジメ問題を隠蔽するだけで公平に解決できないという行政に対する不信感が第三者委員会を設置させるのだが、第三者委員会も行政が設置するので、大差ない。
 似たような制度をたくさん作っても、すべて機能しない点は、他の分野でも同じである。司法でも、少額事件手続、特定調停、ADR、労働審判、筆界特定制度などいろんな制度を作るが、あまり利用されない。労働審判も、訴訟で足りるはずだが、訴訟が機能しないので、労働審判を作り、審判もあまり機能しない。労働審判が機能しない理由は、訴訟が機能しない理由とほとんど同じである。制度があまり利用されないので、「周知が足りない」と考えて、広報に税金をかける。無駄が無駄を生む構図。
 制度を作るだけならタダだが、それを利用しやすい制度にするには、税金をかけなければならない。弁護士を大幅に増やしたが、弁護士の利用に金がかかるので、弁護士があまり利用されない。法科大学院をたくさん作ったが、弁護士と法科大学院の人気が低下し、多くの法科大学院がつぶれた。おまけに大学の法学部まで人気が低下した。教育の場でも、安上がりの制度をいくら作っても、うまくいかない。本気で実現しようとすれば、金がかかるが、そのような制度はひとつでよい。無駄な制度を作れば作るほど制度の維持に税金がかかる。

 このような無駄な仕事が日本の生産性の悪さと長時間労働につながる。日本は、スイスよりも、税金が高いが、無駄が多いので、スイスよりも働かなければならず、幸福度が低い。

 
第三者委員会などの現在ある制度でをイジメ問題などに対処できるように改革することが、もっとも効率的である。それには賢明な知恵が必要である。日本に欠けているのは知恵である。


2017年7月22日

富士山のマチガイ標識の落書き
 富士山でイタズラで間違った標識の落書きが問題になっている。7月14日の発見から、かなり経つが、関係機関がこれから対処方法を協議するとのこと。まだ、ラクガキが消されていない。
 なぜ、そんなに対処に時間がかかるのか?・・・・・それは、「ここがが日本だから」

 マッターホルンで落石のためにルートの一部が崩落したことがあるが、すぐにヘリで責任者が視察して、関係機関が協議し、責任者が数時間後にルートを閉鎖した。そして、インターネットで情報を世界に流したそうだ。
 この対応の違いはどこから来るのか。
 まず、マッターホルンではルートの管理者が明確で管理されているが、富士山では、登山道の管理者はよくわからない。土地所有者は明確だが、土地所有者が登山道を管理しているわけではない。そんなバカな? と思うが本当である。登山道の整備に自治体が金を出しているが、管理者ではない。もし、登山道の管理責任者がいれば、管理者が数時間もあれば、対処方法を決定できる。自然公園法とか、文化財保護法の関係は、電話で関係機関に電話で了解を得ればできるはずだが、日本では、「そのような前例」がないとできない。文書の根回しで何か月もかかったりする。上高地の歩道の整備は、何年もできないでいるらしい。
 第2に、スイスでは、決定手続きが明確で、決定が速い。日本では、関係機関の協議は、電話ではダメで、文書で案内を出し、日時を決めて会議を開くのだろう。会議では報告だけで決まらないことも多い。決定は、事務局の根回しであうんの呼吸で決まったりするが、とにかく時間がかかる。
もし、スイスであれば、落書きの消去は、1日でできるのではないか。
 もっとも、日本は、インドよりはマシだと思うが。インドでは、ものごとが決まるには役所間の接待(いわゆる官官接待)、補助金という名の賄賂、コネが必要。あるいは、何年もかかる。

 
こんなことが、日本の生産性を悪くし、長時間労働につながる。
 スイスは、日本以上に資源がないが、日本よりも、労働時間が短く、収入が多い。国民の幸福度も高い。

 どこが違うのか。国民と政治家が違う。


 テレビで、富士山登山の渋滞ぶりが放映されていたが、まるで東京の山手線の混雑をみるようで、唖然とした。不快指数200パーセント。それだけで富士山は2度と登りたくないと思った(以前、富士山では、山頂の御鉢の中で高所ビバークの訓練をしたことがある。富士山は、実際に登ると変化に乏しく、遠くから眺める山だと、その時感じた)。



2017年7月20日

最高裁、コンサート、落雷死訴訟

 野外コンサートでの落雷死事故について、最高裁は、損害賠償責任を否定した。予想どおりの判決。
 最高裁平成18年3月13日判決は落雷事故で損害賠償を認めたが、これは、高校のクラブのサッカー大会中の落雷事故のケースである。学校の教育活動では落雷の予見可能性を広く認め、安全配慮義務を認めるが、一般の行事では、安全管理義務はあるが、それほども重いものではないので、落雷に対処することまでは不要ということ。学校関係行事では、落雷に対処することが必要。
 学校関係の活動>コンサートなどの催し物>友人・仲間での活動という順で注意義務を考えることになる。


2017年7月17日

那須雪崩事故検証委員会中間報告について
 この報告書の感想。
 那須雪崩事故について多くの不十分な点の指摘をすることは可能だが、完璧であることを要求すれば、往々にして、実践で使えないことが多い。すべてを実施しようとすれば、もっとも重要なことが抜け落ちやすい。事故のファクターのトリアージが必要なのだ。

 実践的な観点からいえば、事故当日、樹林帯を抜けて尾根に出たところで、行動を中止すべきだった。この判断力の有無が決定的だった。
 
雪崩の危険性の認識は、「それにふさわしい知識と経験」による。単に登山経験が豊富なだけではダメである。報告書によれば、1班と2班の引率教諭はかなりの冬山経験経験があった。この経験が過信となり、進んでしまったのではなかろうか。自信がなければ不安を感じやすいが、経験があると過信し、判断ミスを犯しやすい。登山ではよくあることである。 引率教師は、自分が過去に雪崩に遭った経験があれば(あくまで、雪崩で生きていれば、の話だが)、尾根に出た時点で不安を感じて引き返しただろう。木のない斜面を見れば、雪崩の危険を感じなければならない。それはほとんど本能的な感覚だろう。何となく「雪崩のにおい」を感じるかどうか。山岳会の登山ではでは、「雪崩のにおい」を感じながら、「雪崩ないことを祈って」登ったことが何度もある。ただし、不安を感じていると、無意識のうちに、可能な限り斜面の端を登り、早く危険地帯を脱したくなるのだが・・・・・・ただし、こんなことは、講習会ではできない。単に、冬山経験が豊富というだけでは、「ふさわしい知識と経験」とはいえない。冬山経験の豊富な登山家で雪崩で遭難死した人は、無数にいる。不安と謙虚さをもたらすような経験が必要。それがなければ、無理をしないことが重要だ。スキーゲレンデでの訓練で終われば、物足りないが、講習会はそういうものだ。登山の講習会で満足しようなどと期待するのは間違っている。

 雪崩の知識を、使えるような形で習得すること。雪崩の被害経験は、知識の真剣な理解を可能にする。雪崩講習会は、役に立つ場合もあれば、役に立たない場合もあるだろう。真剣味の問題。那須の事故の教師らは、登山研修所の研修を含めて何らかの登山研修を受けている人が多かった。私も、何度か雪崩講習を受けたことがあるが、自分が雪崩に遭った時は、そんな知識はどこかへ吹っ飛んでいて、役に立たなかった。反省。今では、雪崩に関する自分の判断がもっとも怖い(自分の判断に自信が持てないということ)。登山は、自分の判断に自信を持った時が、一番怖い。大自然の脅威の前では、人間の判断など実に頼りない。東北大震災や集中豪雨を見よ。登山では、大いに不安を感じ、謙虚になるべきである。



 
2017年7月13日
電通の違法残業事件

 電通の違法残業事件が、略式裁判ではなく、正式裁判に付されることになった。どこがちがうのかといえば、書面による裁判か、公開の法廷で行われるかどうかの違いである。刑が重くなるわけではない。刑は罰金刑である。世論の非難を考慮した扱いだが、問題は、この事件だけを特別扱いしても意味がないという点である。

 日本中で違法残業が当たり前になっている。学校の教師は、夜9時頃まで仕事をし、土、日は、クラブの指導をするのが当たり前である(違法とはされていないが)。民間企業では、「定時に退社する」人は、仕事をサボル人のレッテルがはられるようだ。これは、残業を禁止するヨーロッパでは考えられないことだろう。日本も、法律上は、残業禁止なのだが、禁止がザルなのである。民間企業を取り締まる役所での仕事が、「違法残業が当たり前」の状態では、厳しく取り締まるはずがない。
 国の官僚の深夜労働も残業代未払いであり、違法であるが、世論はまったく関心を示さない。私の友人の公務員は、51歳で自殺したが、慢性的な過労状態があったことは間違いない。なぜなら、ほぼ100パーセントの官僚が、慢性的な過労状態にあるからである。私は、35年前に地方公務員をしていたが、帰宅時間は、早くて夜10時、遅い日は、午前1時だった。それから、「夕食」を食べる。その日は、午前7時前には家を出なければならない。残業代は、月に30時間分しか出ない。予算措置でそのように決まっていた。「太陽を見ることのない」生活に嫌気がして、公務員をやめた。公務員が、もっとまともな仕事をしていれば、そのまま公務員を続けてもよかったのだが、現実は、そうではなかった。しかし、弁護士になっても、仕事の癖が抜けず、1日に12時間くらい仕事をしなければ、仕事をした気がしない。
 テレビなどで、元公務員の出演者が、役所で朝まで仕事をしていた得意そうに述べても、それを警察が残業代未払い事件として捜査することはない。日本には、残業代未払いが犯罪だという意識がない。

 ところが、世論では、「公務員はヒマなのに、うつ病になる人が多いのはどうしてですか」、「仕事ががヒマな方が精神疾患になりやすいのですか」などという質問を真面目な顔でする人がいる。あるいは、「公務員は、キャリアになるほど給料がよく、残業がない」と勘違いしている人もいた。公務員、特に、国家の中枢にいる公務員は高給をもらって仕事をさぼっているというイメージを持っている人がいることに、驚かされる。公務員の中には、確かにヒマな人もいるが、能力のある人ほど多忙である。多くの国民は、ほとんど何も知らないまま、物事を判断し、選挙権を行使している。すべてを知ることは難しいが、自分が何も知らないことを「知る」ことが大切である。ソクラテスはいいことを言ったが、当時の市民から非難され、抹殺されたのは、当時のギリシャ市民が、自分が何も知らないことを指摘する者を憎んだからである。

 北欧などでは、公務員の仕事は、世論から好意的に評価される。ドイツでは、司法試験に受かって公務員になる人が多い。弁護士よりも公務員の方が人気がある。フィンランドでは、教師がもっとも人気のある職種である。これらの国では、公務員は、国民のために仕事をするよいイメージがあるようだ。しかし、日本では、公務員は、マイナスイメージが強い。
 
 日本の公務員は、政治に従属する傾向が強いことが、このような公務員のマイナスイメージになるのだろう。
 加計学園問題でも、公務員が政治に従属する傾向が見える。内閣府の職員は、政治家ではなく、公務員なのだが、行政の中立性よりも、政治性の方が強い。そのために、内閣府を作ったのだろうが。政治主導の行政に対する反発が、前川氏の発言につながった。

 地方レベルでは、福祉課の職員が、生活保護受給手続きでは、住民の生活を守ってくれるというイメージがあれば、公務員は市民から歓迎される存在になる。しかし、福祉課の職員が、生活保護支給をいかに制限するかという水際作戦に汲々としていれば、市の職員は、市民の福祉を侵害するイメージにつながる。現在の政治が、生活保護支給をいかに制限するかという政策をとり、それを公務員が忠実に執行すれば、公務員の仕事は市民に敵対的なイメージになる。
 政治が国民に敵対的であれば、公務員もそのようなイメージを持つ。
北欧、ドイツ、スイス、オランダなどで、公務員が国民に敵対的なイメージがないのは、そのためだろう。国民に敵対的な政治を選択しているのは、国民自身である。
 

2017年7月8日
スポーツと科学性
・・・・昨日の広島ーヤクルト戦の野球の試合で感じたこと
 この試合での広島の逆転勝ちに、ヤクルトファンがヤクルトの監督に対し、激怒したらしいが、それも無理はない。監督の采配ミスによる負け試合だからだ。
 もともと、この試合は、広島の監督の采配ミスによって、ヤクルトが大差で勝っていた。広島の監督の采配ミスは、調子の悪いピッチャーを使い続けて、点差を拡大させたことにある。素人目にも、広島はわざと負けようとしたのではないかと思えるくらいだ。途中、広島の監督は、試合を「投げた」のだと思うが、選手はあきらめなかった。最終回のヤクルトの監督も、調子の悪いピッチャーを使い続け、予想通り逆点負けをした。ヤクルトは、素人目にも、わざと負けようとしたのではないかと言われても仕方がない。まるで、両チームの監督の采配ミス合戦のようなオソマツな試合だ。たまたま、ヤクルト監督の采配ミスの方が大きかったことが、試合を決した。これが、日本の野球のレベルなのか。
 だいたい、
監督がすることは選手の起用法くらいしかないので、起用した選手の調子を見極める能力が監督に求められるが、それがない監督が多い。経験とカンで選手を起用する傾向がある。調子が悪くても実績のある選手をずっと使うとか、前回うまくいったから、今回もうまくいくだろうとか、パターン通りの起用法、勝利の方程式、我慢の起用法、データの軽視、「監督が腹を立てて、最後まで投げさせる」、「この回は、お前にまかせたぞ」、「気合が入ってなから打たれるのだ」、成功体験に引きずられ、失敗体験から学ばない監督、選手が多い。昨年の日本シリーズでの広島の監督采配も、経験主義に基づく失敗の例である。素人でもしないようなオソマツな采配だった。パターン化した発想は、判断力の欠如の反映である。
 これは、若い裁判官が、パターンに当てはめて事実認定や量刑判断をしたがるのと同じである。あるいは、未熟な登山者が登山のマニュアルを欲しがるのと同じである。弁護士も、最近は、やたらとマニュアルを欲しがる人が増えている。それは、判断能力がないからなのか、判断したくないからなのかわからないが、おそらくその両方だろう。自分で考えることを避ける傾向がある。判断力を養うには、それにふさわしい経験と訓練が必要であり、時間ががかかる。
 
アメリカでは、監督の起用法は、合理的な悦明のつく方法を採用する傾向がある。アメリカでも、監督の起用法は失敗することは多いが、合理的な根拠のある起用法による失敗は、ファンが納得する。そこには、采配が合理的であることを期待するファンの視点がある。
 両者の違いは、太平洋戦争中の両国の戦争指導者の采配の仕方を彷彿させるものがある。科学的戦術と精神主義的戦術の違い。

 一般に、日本のスポーツ指導者は情緒的な経験主義が多く、科学性が欠如する傾向がある。日本では、スポーツ指導者が、科学的な指導法を学ぶ機会がないまま、選手としての実績と知名度だけで、監督、コーチ、指導者になることが多い。そこでは、経験、カン、情緒的な精神主義、思い込みが指導を支配する。根拠のない根性主義が蔓延する。
 
 今年3月の栃木県の雪崩事故も、過去の経験に頼り過ぎた結果、起きた事故である。指導者に、今まで事故が起きていないので、大丈夫だろうという経験主義があった。登山界には、登山の実績があれば、それだけで優れた指導者になれるという勘違いがある。このような勘違いをしても、野球では死者が出ることは稀だが、登山では死者が出る。


2017年7月7日
公文書の非文書化
 以前から、役所では、できるだけ文書を残さないようにする傾向があった。文書を残すと、後で、決定過程が国民にわかってしまうからである。重要なことはできるだけ記録に残さない傾向がある。それが、日本では、今後いっそう加速されそうだ。
 しかし、役所が「非文書化」を進めても、役所と話をする民間人は記録を残す可能性があり、そこからバレるのではないか。「できるだけ隠す」手法には限界がある。

 ドイツなどでは、役所でできるだけ記録に残して後で検証可能な状態にして、不正を防止する考え方をとっている


 
2017年6月29日
「豊田真由子さま」の勘違い

 豊田真由子議員がマスコミをにぎわしている。
 豊田議員の行動は、性格に由来する面があるが、それだけでなく、「自分はエライ」という思い上がりが根底にある。それは、ある種の能力至上主義である。東大法学部・・・厚生労働省・・・ハーバード大学留学・・・・国会議員という経歴の持ち主なのでエライのだが、東大卒の者は、日本に掃いて捨てるほどおり(毎年、何千人か排出されるので)、たいしたことではない。厚生労働省入省者も、私の友人もいるが、自慢するほどのことではない。ハーバード大学留学は、私は英語が苦手なので、若干、エライとは思うが、これも日本で珍しいだけで、アメリカにはハーバード大学の過去の卒業生は、何万人もいる。アメリカ人にとって、英語ができることは、自慢にならない。英語のできる日本人も多い。

 
 
「自分はエライ」という意識は、小さいころからそのように育てられ、あるいは、大人になって高い地位に就くことで、身につく。ある政務官のように、タダの人が国会議員になったとたんに、自分がエラクなったと勘違いする。
 人の能力はさまざまであり、豊田議員はそれなりの能力の持ち主である。
ロールズが述べるように、誰でも生まれるまでは未知のベールに覆われ、生まれた瞬間に格差が生じ、格差は、まったくの偶然の結果である。格差には、財産だけでなく、才能(talent)も含まれるとロ−ルズは言う。競争社会では、才能や才覚があれば、金を稼ぐことができ、それらがなければ落ちこぼれやすい。生れつきの資産だけが、格差をもたらすのではなく、資質や能力が格差につながる。能力は後天的な要素もあるが、先天的な要素も大きい。日本では、「人間の能力差を認めることは差別である」という平等観が強いが、現実に人間の能力格差は存在する。豊田議員の優秀さは、talentというほどのものではないが、かりにそうだとしても、それはDNAの組み合わせという偶然の結果でしかない。それは自慢すべきことではない。自分の能力や優秀さに自信を持ち、他人のミスを許せない人。自分の優秀さは、偶然の結果でしかないのに、自分を特別な存在だと勘違いしている。それが、思い上がりにつながる。
 

 
ロールズによれば、ハーバード大学の学生のほとんどが、格差を当たり前だと考えているらしい。彼らは自分らの能力を特権だと考え、それで金を稼ぐのは当たり前だと考えているらしい。ロールズはハーバード大学教授だったが、ハーバード大学の学生たちは、ロールズの思想にひどく反発したらしい。日本でも、東大やマスコミ関係者にはこのような考え方の人が多い。がんばった者とがんばらない者の間の格差は、当たり前だという考え方や、能力主義、実力主義が支配しやすい。東大でも、能力のある者、力が強い者が勝つのが正義だという価値観が強い。このような価値観は、小さいころから社会や学校が植え付ける。
 しかし、がんばって競争に勝つかどうかは、運と能力と資質が大きく関係する。能力や資質は自分のものではなく、天から授かった偶然であり、自分が努力して得たものではない。誰もが狭い世界に住んでいるので、自分の周囲の狭い似た者同士の同質的な世界では、努力の差が結果の差になると考えやすい。能力の似た者同士の間では、努力の差が結果の違いになる。進学校では、成績の差をもたらすのは、努力の差が大きい。しかし、進学校は、能力の似た者同士の狭い世界である。多くの人が、狭い閉鎖的な世界を生き、生涯を終える。
 しかし、広い視点、広い世界で考えれば、人間の生物的・能力的個体差が存在する。100メートル走で20秒かかる者は、どんなに努力しても、9秒台では走れない。野球センスがゼロの人でも、努力すれば、野球がをすることは可能だが、一流のプロの野球選手になれない。オンチでも、努力すれば、人前で聞かせられるレベルに歌が上達するが、「歌の上手いプロ歌手」になるのは、無理である。誰でも、有名な数学者になれるわけではない。生まれつきの美醜がある。不細工な人が努力すれば美人になれというものではない。これらは当たり前のことだ。能力・個性が違う。
 小さいころから塾通いをして努力をした結果が、東大法学部・・・厚生労働省・・・ハーバード大学留学・・・・国会議員という経歴につながったと考えやすいが、そうではない。小さいころから塾通いをして努力をした者がすべて、そのような経歴を持つことができるわけではない。その経歴の半分は努力や環境によるが、半分は、当人の能力・資質が関係している。能力・資質は、遺伝の結果であって、そのようなDNAを受け継いだことを自慢しても仕方がないが、ハーバード大学では、能力や家庭環境が既得権益になるようだ。それは、アメリカが格差の大きい社会だからである。アメリカンドリームの典型例は、生まれつきの財産はないが能力のある人が出世するストーリーである。能力がなければ、アメリカンドリームの対象にならない。リンカーン、エジソン、大リーグの有名選手、有名女優などは、才能に恵まれた人が努力したケースである。格差の大きい社会では、生まれつき能力がなければ、アメリカンドリームの対象にならないことを誰でも知っている。

 しかし、格差の小さい北欧では、生まれつきの能力や財産が自慢の対象になることは少ないだろう。格差が小さい社会では、能力や財産があってもなくても、誰もが自分の適性に従って努力すれば、幸福になることが可能だからである。美人が玉の輿に乗るサクセスストーリーは、格差が小さい社会では人々の関心を呼ばないが、発展途上国では話題になりやすい。競争的価値観のもとでは全員が幸福になれないが、競争ではなく、個人の自己実現的価値を重視する社会では、全員が幸福になることが可能である。格差の小さい国や、個人の個性をを重視する社会では、能力の違いを認めることを「差別」だと感じる人は少ない。日本は、個性が重視されず、横並び的な価値観が強いので、能力の違いを認めることを「差別」だと感じる人が多い。格差の大きい社会、競争を重視する社会、他人との同質性を重視する社会では、「豊田真由子さま」のような弱肉強食的、差別的価値観が生まれやすい。

 豊田議員は、たまたま、自分が議員ではなく、秘書の立場で生まれたとすれば、どうなるかを考えなければならない。所属する職業、民族、宗教、性別などの違いは、偶然の結果でしかない。豊田議員は、能力がもう少し平凡であれば、小さいころから塾通いをして努力をしても、大学受験に失敗したかもしれない。そういう人は多く、挫折感を味わう人は多い。むしろ、国民のほとんどの人が、高校、大学、就職試験などで、何らかの挫折感を体験するはずだ。官僚、大学教授、裁判官、医師、政治家などの中には、まったく挫折を経験することなく、一生を終える人がいるのは事実だが、そういう人の数は少ない。有名な政治家の子供で、落選したことのない二世議員なども挫折を経験しにくい。今の首相もその1人かもしれない。
 村上春樹が描くように、世界は多重的であり、自分が所属する世界とは違う世界のあることを考える想像力が大切である。現実には、議員は、「落選」することはあっても秘書に「転落」することはないが、理屈としては、生まれる境遇次第では、秘書になることがありうる。もし、自分がそれほど優秀ではないDNAの持ち主として、あるいは、、資産や家族関係に恵まれない環境で生まれたらどうだろうかと考える想像力が必要である。自分が、難病のために15歳で寿命が尽きる運命のもとに生まれたとすれば、今の人生はありえない。立場と世界の互換性。誰でも、自分が今ある状態は、偶然の結果の積み重なりでしかない部分が大きい。

 
優秀とされる人の中に、人格障害的な問題行動がなくても、自分の思い通りにならないと腹を立てる人は多い。
 舛添前東京都知事も、その傾向があった。家庭内のDVもあったらしい。
 大学の同級生で、試験で1科目だけ優がとれずに、机をたたいて悔しがる学生がいた。試験で単位さえ取れればよいと考えていた私は、その光景を不思議そうにただ眺めるだけだった。「住んでいる世界が違う」と感じた瞬間である。その学生は、たぶん、今頃は、東京高裁の裁判長か、どこかの地裁の所長をしているのではないだろうか。 悔しがるだけであればよいが、やがて、年齢が個性を加速させ、また、そいう人が権力を握ると、自分の思い通りにならないと部下や家族に当たり散らす人が出てくる。ヒトラーの人格の偏りの弊害は、彼が、権力を握らなければ、家庭内のDVで終わっただろう。
 大学の同じサークルで頭はよいが考え方が偏狭だった後輩の学生は、卒業後、裁判官として若くして最高裁事務総局に入った。裁判官のエリートコースである。彼は、普段は愛想がよいが、議論になると机をたたいて持論を押し通そうとした。知識は多いが、偏った考え方から出発するので、視野が狭い。法技術的なことしか考えないテクノクラートになるには適任なのだろう。彼は、将来、東京地裁の所長くらいにはなれるかもしれない。そんな人が出世していくんですね。
 私の学生時代の親友は、旧自治省に入ったが、そんな環境の中で神経がまともすぎたせいか、51歳で鉄道自殺した。大学の1年先輩の瀬木氏は、優秀ではあったが、要領が悪いせいか、思ったほど出世できず、定年前に裁判官を辞めて大学教授になり、「絶望の裁判所」という本を書いた。元文部事務次官の前川氏や元通産官僚の古河氏は、おそらく、自分がそれほどエライとは思っていない変わった官僚である。「エライ人」は、「1円の得にもならないバカな発言や行動」はしないものだ。
 
 自分を優秀だと勘違いしていても、豊田議員のように、他人への害悪を及ぼさない限り、問題は表面化しない。内心では、他人を見下していても、決してそれを口にすることはない要領のよい官僚や政治家は多い。多くの政治家は、自分をエライと考えているが、豊田議員よりも要領がよいので、時々、「失言」する程度で終わっている。しかし、政治的な「失言」の方が、豊田議員の「暴言」よりも、よほど重大な事件である。
 自分を優秀だと勘違いしている人は、だいたい完璧主義者である。小さいころから目の前の課題を完璧にこなすように訓練され、それを達成できた者が上に上がっていくシステムのもとで、それが習性になる。目の前のことに目が向くので、完璧主義者はだいたい視野が狭い。豊田議員にとって、秘書が演説会場までの道を間違えたことや、支援者への手紙の宛名を間違えたことが、とてつもなく重大なことだったのだろう。それは、試験で全科目で優をとることが何よりも大切だった学生と同じ考え方である。ゼミのレポートがうまく書けないという遺書を残して自殺した大学の同級生もいた。客観的には、それらはドーデモヨイことだが、当人には、命をかけるほど重大なことなのだろう。
 完璧主義者は、自分が幸福になれず、他人を不幸にする。ここでいう「他人」とは、部下、秘書、家族、子供などである。友人や上司は決して含まれない。だいたい自分よりも弱い者が対象である。常に完璧を目指すので、鬱病になりやすい。鬱病にならない人の中から、時々、「豊田真由子さま」が誕生する。「豊田真由子さま」は氷山の一角にすぎない。キャリア組の公務員の家庭内暴力が多いことは、何十年も前に本多勝一が指摘している。豊田真由子さま」にならなくても、どこかの内閣審議官や政務官のように平気でウソをつく。ウソをつくことに抵抗感がなくなることは、人格障害の始まりである。彼らは、超人的にがんばるのだが、どんなに努力しても幸福感が得られない。
 他方で、少ない成果で満足できる人は幸福である。ブータンの人たちのように、自然の中で暮らす人たちは、そういう人が多い。私は、そんな人になりたい。


 
豊田議員の親は、プライドの高い人だったのだろう。私の親も、農地改革で没落した大地主の末っ子であり、プライドが高く、他人のミスを許せない人だったので、なんとなくわかる。「豊田真由子さま」は他人ごとではない。そういう家族は、だいたい、兄弟姉妹の仲が悪く、壮絶な相続争いをし、弁護士の良い顧客層になる。
 学校では、完璧であることが理想とされる。そのような子供らしさと無縁の不自然な子供時代を送ることは不幸なことだが、そのことに気づくことなく大人になり、高い社会的地位に就くことの方がもっと不幸である。自分が不幸になるだけでなく、周囲に不幸をまき散らすからである。
  
 人間はもともと不完全な自然物であり、自分と他人のミスに寛容であることが必要である。
 「豊田真由子さまの勘違い」は、「豊田真由子さま」だけでなく、社会全体に蔓延しつつあるように思える。パワハラ、アカハラ、DVなど。人工的な生活環境、社会的ストレス、管理された学校教育が、「豊田真由子さま」的現象を生みやすい。
 最近、社会全体で、以前にもましてミスに対する寛容さが失われつつある。
 
 今、世論は、「豊田真由子さま」への非難一辺倒である。豊田議員の行動は、大した事件ではなく、傷害罪はどんなに重く処分されても、罰金程度で終わる。示談すれば、不起訴である。
 今の社会に、豊田議員のような人は多いのであって、珍しいものではない。弁護士はこのような関係者を扱うのは、日常茶飯事である。切れたら手に負えない人は多い。電話で罵詈雑言を述べる事件の相手方。私は何度も脅されたことがある。DVやストーカーは日常茶飯事。弁護士は、毎日、1日に1回は電話もしくは面談で人格障害者と話をする。アメリカでは、10人に1人は人格障害者だと言われている。豊田議員だけが、ことさらに特別な人格の持ち主のように、おもしろおかしく取り上げられ、世論から非難されているが、豊田氏は、たまたま国会議員だったというだけのことであり、この事件は、それほど大騒ぎするほどのことではない。豊田議員がしたことは、イケナイことだが、マスコミ、世論が大騒ぎするほどの事件ではない。私は、豊田議員に同情する。
 豊田議員の発言は、単なる秘書への暴言や暴行であって、他の政治家の失言のような政治的な問題ではない。政治的な発言の方がよほど重要である。豊田議員の問題は、社会的な意味はあっても、政治問題としては小さい。
 失言をする政治家が多いが、国民は、そのような政治家ばかりを選挙で好んで選んでいる。そのような政治家が、地元に利権をもたらしてくれるからだろう。
 日本の社会が賢明になるためには、国民自身がもっと賢明に考えなければならない。
賢明な社会は、国民の賢明な判断に宿る。北欧と韓国の違いは、国民の賢明さの違いである。日本も、国民を失望させる政治家ばかり選挙で選んでいる。

 

2017年6月28日
稲田大臣発言

 
稲田朋美防衛相は6月27日夜、都議選の自民党候補を応援する集会で演説し、「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてもお願いしたい」と述べた。この発言は、国家機関である防衛省、自衛隊、防衛大臣の地位を私的に濫用したもので違法である。国によっては、公的地位を私的に濫用することは刑事罰の対象になる。
 政治家としての「失言」は、「つい、ホンネが出た」のだろうが、その「ホンネ」が問題である。
 
 稲田氏は弁護士出身であるが、その法的な無知に驚かされる。行政上のポストと国会議員の立場の違いは、三権分立のイロハである。議院内閣制のもとで、国会議員が大臣を務めるだけなのだ。アメリカでは、国会議員は、大統領府には入らない。国会とホワイトハウスは対立関係にある。日本では、国会議員が内閣府に入り、官僚を政治的に統制しようとする。それが、加計学園問題である。政治家が行政の中立的な法執行を阻害する。稲田氏や安倍氏は、三権分立や民主主義を経験したことがないので、よくわからないようだ。安倍氏が勉強した憲法は、おそらく大日本帝国憲法なのだろう。

 三権分立や民主主義は中学校で習うが、知識のテストのための知識の暗記で終わる。教師も、三権分立や民主主義をあまり理解していない。国民は、本当の三権分立や民主主義を経験したことがないので、それがどういうものかよくわからない。選挙では、国民は、自分に利益をもたらす政治家に票を入れる。田舎の有権者は、「国会議員は全国民の代表である」と聞くと、腹を立てる。田舎の有権者は、「政治家は、ワシらの代表である。今治市に利権をもたらして何が悪い?」と考える。

 司法試験の科目にも憲法があるが、知識さえあれば、試験に受かるのが実情。本当の理解は、テストのための暗記では得られない。日本の法曹の多くが、テストのために憲法を勉強をし、裁判官や弁護士になったら、憲法は関係ない。司法研修所では、憲法の本は必要なく、それをすべて捨てても、二回試験(司法研修所の終了試験)に受かる。実務についても、ほとんどの法曹は、憲法の本を開くことがない。これは、恐ろしいことだ。日本の司法には、憲法は必要ないらしい。弁護士は、憲法を勉強しても、金につながらないことをよく知っている。無駄なことに時間を使うな。多くの国会議員は、憲法を勉強しても、票につながらないことを知っている。



2017年6月27日
獣医学部の大増設

 
安倍首相は、今後、規制緩和をし、獣医学部を全国にたくさん作るらしい。大学が増えれて、大学が競争するのはよいことだと考える人がいる。ここで考えるべきことは、大学はどうあるべきかという「理念」である。自由競争に委ねるだけでは、「理念」が実現できず、それが損なわれる。獣医学部が増えれば、獣医学部を出ても、獣医にならない人が増えるだろう。なぜなら、獣医の就職先が限られるからである。獣医の数がどんなに増えても、愛媛県に魅力がなければ、獣医は愛媛県に行かないだろう。獣医学部を出ても、愛媛県で獣医をするよりも、東京都庁で一般技師になった方が給料が高いだろう。優秀な人材が都会に集まるのは競争の結果である。
 教育学部を出ても、教師になる人は限られる。これは、教師の就職先以上に、教育学部の数が多いからだ。薬学部を出ても、企業や役所に入り、薬剤師にならない人は多い。保育士の資格を得ても、保育士にならない人は多い。法科大学院を出て
司法試験に受かっても、企業や役所に入り、弁護士にならない人が増えているのは、弁護士の需要が限られているため、弁護士になるよりも役所や企業に就職した方が収入が安定し、待遇がよいからである。
 日本は、需要と無関係に大学や資格を濫増する国である。多ければ多いほどよいという単純な発想。大学を無制限に増やした結果、大卒の資格が無意味になり、大学の定員割れと倒産が続出。保育士の資格者をいくら増やしても、保育士の待遇が悪ければ、保育士の資格者が増えるだけで、保育士が足りない。需要と無関係に大学を濫設する点は、道路、空港、港の建設と同じである。日本が土建国家と言われる所以。
 「最期の資本主義」にもあるように、自由競争のコントロールが賢明な社会につながる。日本の社会には、「理念」なき自由競争、なりゆきまかせが多い。
 
 労働の自由競争が、非正規雇用や低賃金、長時間労働をもたらす。韓国を見よ。北欧との違い。優秀な者は年収1億円、仕事ができなければ給料は0円である。人間に個性と能力差がある限り、有能さの違いがある。人気のある大学に学生が殺到し、人気のない大学はつぶれる。今後、地方の大学は、どんどんつぶれるだろう。今後、地方の大学に入学しても、就職に不利なだけだ。地方は過疎化し、都会に富と人が集まる。それが競争である。それを制限するのが、政策である。獣医の数が過剰になれば、獣医の賃金が下がり、獣医の人気がなくなる。ペットの治療費が下がる地域もあるが、過剰なサービス利益を得る傾向が強まるだろう。過当競争で利益が減れば、どこかで、元をとらなければ食っていけないからだ。獣医資格者の大量生産は、多額の学費を受け取る大学を儲けさせる。適正な獣医の数をコントロールすることが、政策なのだ。

 日本の高校と大学は、ヨ−ロッパに較べれば、数段レベルが低い。日本では、大卒の肩書は意味をなさなくなった。大卒というだけでは、学生の質を保障しない。これは、野放しに大学を作りすぎた結果である。多くの大学で定員割れし、学生集めに汲々としている。たくさん大学を作って、競争をさせ、がんばらない大学をつぶしていく。その過程で多額の税金が使われる。加計学園でも、地元自治体は100億円以上の税金を使っている。森友学園でも同じである。そのようなバカげたシステムを、国民が、選挙でで追認する。
 しかし、ヨーロッパでは、大学の数が少ないので大卒の肩書が権威を持つ。ヨーロッパでは、だいたい大学はすべて国立である。スイス、北欧では、大学は無料。 
 「理念」なき大学の大増設。

 「理念」なき有資格者の大量生産。
 「理念」なき野放しの自由競争


 法科大学院も野放しの大増設の結果、各地で法科大学院の閉鎖に追い込まれている。絶望的な法科大学院政策。そのため、大学法学部まで人気が低下してしまった。それと同じことを獣医学部でも行うのか。国のトップがこのようなことを言うようでは、あまりにも智恵と策がない。それは、トランプと同じだ。もっと「頭」を使うべきだ。


2017年6月24日
豊田真由子議員と加計学園

 
豊田議員の秘書に対する暴言が問題になっている。それに関連して、思ったこと。
 このケースでは、秘書がたまたま録音していたが、もし、録音していなかったらどうなっただろうか。豊田議員は、「そんなことは絶対に言っていない」と主張するだろう。もちろん、離党などしない。
  加計学園問題では、たまたま録音していなかった。もし、「怪文書」がなければ、文書の存在を否定しただろう。たまたま文書が出てきたので、調査をしたが・・・・
 
 これからは、あらゆることを録音しなければならないようだ。アメリカの元FBI副長官のように・・・・・・裁判でも、借用証がなければ、借りたことを否定する人が多いのが現実。
 ところが、調停や裁判では、録音が禁止されている。これは、「録音をすると自由な発言ができない」という理由からである。国会議員や内閣府の職員は、今後は、自分の会話を録音することを禁止するのではないか。

 



2017年6月16日
ウィルダネスリスクマネジメントカンファレンス(Wilderness Risk Management Conference東京、

http://weaj.jp/wrmc/

 「日本における野外救急法の現状と課題」のパネラーを務めた。 
http://weaj.jp/wrmc/keynote/
 野外リスクマネジメント(野外救急法を含む)に関して、さまざまな立場から意見が述べられた。山岳関係の会議では、圧倒的に高齢者が多いのだが、今回の会議は、若い人が多く、活気があった。参加者は、アウトドアプロバイダー、アウトドアガイド、医療関係者、野外教育関係者など。(http://weaj.jp/wrmc/wrmj設立準備委員会委員/

 野外活動に関する各種プログラムは、30年前にアメリカから日本に入ってきたが、それ以前も、日本には、戦前から登山や学校での野外活動の長い歴史がある。日本の伝統的な野外活動の考え方と、アメリカから入ってきた野外活動の考え方。日本の登山界の伝統的な考え方とアメリカナイズされたリスクマネジメントの考え方。その違いと共通性。
アウトドア活動が発展するためには、法的なシステムを含めて多くの課題がある。
 

 

                  


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17年6月15日
日本で残業がなくならない理由

・残業規制法があってもザル法であること
・サービスの受け手(国民)が、残業を要求するような過剰なサービスを求めること、その結果、サービスの受け手も、自分の仕事の場面では、残業をしなければならない。自分が残業をするから、他人にも残業をすることを要求する。自分がががんばるのだから、他人もがんばれという構図。がんばること=長時間労働
・がんばることを重視する情緒的文化が、長時間労働をもたらす。競争が、内容ではなく、表面的なサービス面に現れやすい。たとえば、商品の品質よりも、店員の応対がよいかどうかを国民が重視しやすい。いくらがんばっても、内容が悪ければ競争に負ける。日本は先進国の中で生産性が悪い。不合理な情緒が、効率を悪くする。無駄な会議と無駄な報告書が多い。長時間労働でがんばるかどうかではなく、成果物の内容で競う文化が必要。
・日本は、世界一、サービスにうるさい国である。電車が数分遅れても、苦情が出る。少しのミスも許さない国。他の先進国は、もっと大雑把である。
・仕事以外の余暇の文化がない。
・サービスに対する文化と法律が変われば、残業はなくなる。


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17年6月11日
「無名の大学生」に関する面白い記事
 インターネットに面白い記事があった。
 
 「陸上の男子100メートルで無名の大学生が追い風参考ながら10秒の壁を突破した。10日に神奈川・ShonanBMWスタジアム平塚で行われた日本学生個人選手権の男子100メートル準決勝で、20歳の多田修平(関学大)が9秒94をマークした。」

 何が面白いかというと、「無名の大学生」という点である。当然、この選手は、学生の陸上界や関西では「有名」なはずであり、従前、マスコミが騒いでいなかったというだけのことだろう。そこに、「無名」には、この記事を書いた記者の価値判断がある。マスコミは、自分を基準にして、「有名」かどうかを判断する。世論も同じである。我妻栄は、日本で最も「有名」な法律学者だが、関心のない人には「無名」である。メスナーは、世界で最も「有名」な登山家だが、関心のない人には「無名」である。
 有名かどうかの判断は、ある種の価値判断であり、情報の選択がなされている。しかも、その選択は、通常、恣意的、場当たり的である。
ここでは、「無名」は、マスコミが読者の関心を引くためのテクニックである。「無名」という記事を読めば、読者は、無名の選手の活躍に関心が向く。マスコミ用語の「エリート」などもそうである。マスコミの手にかかれば、早稲田大学卒の会社員なども「エリート」にされ、「エリートなのに、・・・・・・」という記事になる。
 私は、山岳事故に関してマスコミから取材を受けることが多いが、記者が、「よく勉強している」と感じることもあれば、「この記者は何も知らない。それでよく記事がかけるものだ」と感じることもある。もちろん、そういう記者の書いた記事は、トンチンカンなものが多いが、登山について詳しくない読者は、恐ろしいことだが、それに気づかない。記者が何も知らなければ、すべて「無名」になる。「市民ランナー」、「草の根」、「ボランティア」などの言葉も、恣意的に使用されやすい。
 
 読売新聞が、前川前事務次官の飲食店通いを記事にした手法も同じである。違法ではない個人的な行動を、ことさらに取り上げることで、「反社会的行為」であるかのような記事にした。

 
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17年6月8日
獣医学部開設は悲願だった〜前愛媛県知事」という記事について

日本テレビ系(NNN) 6/7(水) 22:15配信記事は以下のとおりである。

 「愛媛県今治市への加計学園の獣医学部誘致を進めた加戸守行・前愛媛県知事がNNNの取材に応じ、四国では獣医師が不足していて、獣医学部の開設は悲願だったと語った。
 前愛媛県知事・加戸守行氏「私が知事時代に一番苦労したのが公務員獣医師の確保でしたから、獣医学部の新設で、感染症対策、それから動物由来の薬の開発、ライフサイエンス等々、果たすべき役割が非常に大きいと、夢が一石二鳥三鳥でかないそうなときにこんな騒ぎが起きてるので怒り心頭です」
 5年前まで愛媛県知事を務めた加戸氏によると、大学誘致をめざしていた今治市には、12年前、加計学園から獣医学部開設の申し出があり、若者の増加で今治市の活性化にもつながるならと喜んで話を受けたとしている。
 また加戸氏は愛媛県知事を在任中、宮崎県で起きた口蹄疫(こうていえき)の四国への上陸を食い止めようとする中で、四国の獣医師不足を痛感したと話した。
 安倍首相と加計理事長が親しい関係にあることは大学誘致の際には知らなかったとした上で、知っていれば「友達なら早くやって下さい」と首相に直訴したかもしれないと述べ、獣医師不足の対策が喫緊の課題だったと訴えた。


 いかにももっともらしい発言だが、少し考えれば、そのおかしさにすぐに気づくだろう。
 まず、四国に獣医師が来ないのは、四国の人気がないからであって、獣医不足とは関係がない。東京で獣医が過剰でも、四国には獣医は来ないだろう。四国の獣医の給料がかなり高ければ、獣医が来るかもしれないが。魅力のある地域、魅力のある職種には、全国から希望者が殺到するはずである。四国に人が来ないのは、地域に魅力がないからである。四国に獣医大学を作っても、卒業生は都会に就職したがるだろう。獣医がよほど人気のない職種になれば、四国で就職する獣医が現れるかもしれないが、それは、歯科医、保育士、介護士が歩んだ道である。いずれにしても、優秀な人材は、四国から都会に出ていきやすい。
 今治市に大学を作ることは、獣医不足とは関係がない。獣医不足の検証もない。この論法は、「地方に法科大学院を作って弁護士過疎を解消する」という論法と同じである。法科大学院が濫立し、卒業生の多くが都会に殺到した。都会に弁護士が溢れ、都会で就業できなくなると、弁護士が地方にも向かったが、弁護士の過剰は弁護士の就業困難をもたらした。弁護士の資格は、歯科医、、保育士、介護士などと同じく、「食っていけない資格」になりつつある。獣医が全国的に過剰になり、獣医が「食っていけない資格」になれば、愛媛県に就職したがる獣医が現れるのだろう。

 今治市に大学を作ることが経済的効果をもたらすこと・・・・・地元の建設業や小売業、大学が雇用をもたらすことなどが、期待されたということだろう。教育を経済的利権の対象にしてはならない。


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017年6月7日
森友学園問題と加計学園問題で問われていること


 これらの問題で問われているのは、法的なルールの公正さである。

 加計学園問題は国家戦略特区が関係しているが、
そもそも、これが、行政上の不公平な扱いを前提としている。特別扱いをする制度を作ってしまうと、コネや思惑が跋扈しやすい。戦略特区の選定自体に思惑がからむ。戦略特区を選定する審議会を作り、その委員の選定が恣意的であれば、結果的に、思惑通りに戦略特区を選定できる。そのうえで、特区でしか実現できないような選定基準を作れば、コネによる政策を簡単に実現できる。
 これは、イジメ問題の第三者委員会の委員の人選を通じて、最初から結論ありきの第三者委員会にすることが可能なのと同じ構図である。第三者委員会は、多くの場合、委員が5人いれば、3人は行政の「息のかかった人物」にすることが多い。
学者も、「行政よりの人」は最初からわかっている。学者も、行政から補助金をもらったり、行政から役職をもらうので、行政にさからいにくい。行政に不利な発言をする学者は最初から委員に選任しない傾向がある。国民は、委員が中立であることを期待するが、現実には、「中立性」は、「安全性」と同じく、存在しない。存在するのは、政治的な傾向の程度(これが中立性のイメージである)と、リスクの程度(これが、安全性のイメージである)である。委員の顔ぶれを見れば、だいたい委員会の結論が予測できる。結論ありきの第三者委員会が多い。このような不公正を可能とする法的なルールに問題がある。第三者委員会の委員の人選を自治体ではなく、第三者機関が行えばよいのだ。北欧では、自治体の教育委員会は、学校、教師、生徒、市民などの代表者で構成されている。

 法律や規則を作り、それに従えば、違法ではないが、合法であれば、不公平でなくなるということではない。今治市の加計学園への土地無償譲渡分と補助金の合計額は100億円に達する。特定の企業に100億円分をタダで与える今治市。それは、自治体破産への道でもある。その過程は不透明である。教育再生会議なども、総理大臣の一本釣りで人選をすることが、不公正な議論をもたらしている。イジメ問題などの第三者委員会なども、行政による委員選任に公平性がまったくない。私も、第三者委員を2回務めたことがあるが、いずれも行政の一本釣りである。
 森友学園問題と加計学園問題でも、行政が情報を隠蔽することが、公平性を失わせている。この種の問題が生じれば、第三者機関が調査するシステムが必要である。アメリカでは、トランプ疑惑に特別検察官が選任されたが、アメリカでは、形の上では、政治から独立した制度があるが、日本にはない。
 かつて司法試験では若い人に下駄をはかせ(特定の受験者に点数を加算するということ)、現在でも、予備試験よりも法科大学院経由の方が司法試験に受かりやすいという不公平がある。このような不公平なことが、法律や規則を作れば当たり前のように行われてきた。最高裁に、る裁判官人事も、最高裁判所に忠実な裁判官を養成するシステムになっている。 
 韓国の大学不正入学問題で逮捕者が出ているが、日本では、スポーツ推薦入学、一発芸入学などは、もともと不公平な入学方法である。日本では、不公平な推薦入学を「不正」と言わないだけのことだが、不公正である。国立大学の医学部で試験に受かっても、年齢が高いことで不合格にしたことを裁判所は容認した。裁判所が、不公平な扱いを容認するのは、裁判所を含めた役所に、不公平な扱いが当たり前の法文化があるからである。
 この種の不公平は、「必要がある」から行うのであるが、この「必要性」を錦の御旗にして、日本では、ナンデモアリである。自治体が企業を誘致するために、企業に土地を無償譲渡したり、水道料金を免除したりしている。要するに、特別扱いである。規定があれば、特別別扱いは違法ではないが、不公正である。それが、当たり前のように行われている。トランプも、「必要性」に基づいて、ナンデモアリの政策を行っているが、日本、韓国、中国、北朝鮮も似たようなことをしている。

 社会の不公正なルールが、格差の拡大と富の偏りをもたらしている。


2017年6月2日
加計学園問題に見える日本の社会構造
 加計学園問題は、文部行政だけの問題ではなく、日本の社会構造の一旦を示している。役所の人事権を内閣が支配こと、文科省のOBが加計学園の経営する大学の学長、加計学園の役員、総理大臣の内閣官房参与になどになること、国税庁や税務署の幹部が退職後、企業の顧問税理士になること、検察官が退職後企業や役所の顧問弁護士になること、自治体職員が、退職後、市から補助金を受ける団体や企業に就職すること、政治家の秘書に陳情すること、政治家が知らなくても、秘書が口利きをすることが多いこと、学校法人や福祉法人、行政外郭団体、さまざまな国家資格が利権の対象になっていること(司法試験のあり方の決定などでも大学の利権が関係している)、政治家のコネで刑事事件が不起訴になることがあること(現在、首相の友人の某テレビ局幹部の不起訴事件が問題になっている。被害者との間で示談ができていないのに、検察庁は、なぜ、不起訴にしたのか、その説明が必要だろう)、指揮権発動、国の審議会や委員会の人事を役所が決めること、第三者委員会などで役所が委員の人選をすること、役所が一方的に規則を定め、そを国民に押し付けること、行政指導の多用など、さまざまな権力構造、利権構造と巧妙な制度の中で日本の政治、社会が成り立っている。
 日本では、これが当たり前とされ、それを無視する者は、企業や役所で昇進できない。日本では、正論を言えば、「空気が読めない」者というレッテルが張られる。それに逆らう者はムラ八分になり、冷や飯を食う。「退職して初めて自由にモノが言えた」という前川氏の発言は、その通りだが、現実には、退職後もさまざまな「しがらみ」があり、自由にモノが言えない人が多い。死ぬ直前に初めて自由に発言をする人もいる。小さいころから、洗脳されてしまえば、日本の社会の実態が「常識」になってしまう。
 

 「最後の資本主義」(ロバート・B・ライシュ)は、市場の法的なルールが不公正であることが格差をもたらしていると述べるが、市場だけでなく、社会の法的ルールが不公正であることが、社会的不公正をもたらしている。ここでいう法的なルールとは、情報や文書の隠蔽、「記憶にない」、「確認できない」などの言い訳が通用するルールなどをさしている。巧妙な制度のカラクリがあり、それがさまざまな利権を支えている。グラムシのいう「文化戦」が必要になる。
 日本では、社会のあらゆる場面で法的なルールが不明朗であり、かりにルールがあっても、ザルのようなルールであったり(残業規制)など、簡単にそれが骨抜きになる。
法律はタテマエであって、法律とは別の次元で世の中が動いている。共謀罪の問題性も、日本では、それが簡単に拡大適用される可能性があるからであり、この点で、法の支配がまがりなりにもなり立っている欧米とは法文化がまったく異なる。アメリカでは、トランプの方針に反対する、官僚や裁判官が当たり前のように行動するが、日本では、反体制勢力は声を上げない。官僚も裁判官も大勢に従う。日本では、日本と欧米では、まったく同じ文言の法律の規定でも、その運用がまるで違うのだ。それは、それが暗黙のルールになっているからだ。
 公正の実現のためには、ルールを明確にし、厳格に適用することが必要だが、日本ではもともと意識的にあいまいなルールを作るうえに、ルールを骨抜きにしやすい。そして、国民がそれを受け入れる傾向がある。


2017年5月31日
共謀罪とテロ防止
 
テロを防止するために共謀罪が必要だという主張がなされている。これは、共謀罪がテロ防止に役立つということが前提の議論である。しかし、その点の検証はない。一般に、処罰対象を広げれば、犯罪を防止できると考えやすいが、現実にはそうではない。現実には、共謀罪を作っても、テロは刑罰で防止できない。欧米は、日本以上に、犯罪取り締まりが厳しいが、それでもてテロが頻発している。日本国内で、現在、テロはないが、それは、共謀罪のような法律ががあるからなのか?  共謀罪は、国民のテロに対する漠然とした不安感に立脚しているだけのことである。共謀罪は、しょせん、気休めであり、その点を誰もがわかっているにだが、それを口にすることは禁句である。欧米では、共謀罪のような法律を作っても、裁判所が厳格にチェックし、厳格な運用が可能だが、日本では、それがなく、もともと法律の運用がザルになりやすい。

加計学園問題

 総理大臣の直接の指示があったかどうかに関係なく、不公正な手続きで獣医学部の新設をしたのであるから、獣医学部の設置を取り消すべきである。

 総理大臣の直接の指示がなくても、自分の配下の者がそれを指示すれば、政治的な責任が生じる。国会議員の秘書が不正をすれば、国会議員が責任を負うのと同じである。

 
メモの存在は、物の存在と、関係者の証言によって確認すべきものである。メモの有無については、メモの現物が存在し、元次官が、「あった」と証言すれば、それが「あった」という証拠になるはずだが、それ以上の証拠は考えにくい。


2017年5月28日
残業国家・日本の構図・・・・サービスの受け手の問題
 日本では、どこでも残業が蔓延しているが、これは、日本の国民の過剰な要求にに支えられている。、
たとえば、
・教師のブラック労働は、国民の教師への部活指導や学級指導の要求に基づいている。
学校で問題が生じる度に、保護者の要求が教師の残業をもたらす。
・企業の低価格とサービスに対する国民の要求が、企業の社員の残業につながる。宅配便の低価格と便利さは、宅配業者の残業をもたらす。

・国民が年金記録の是正要求を、限られた職員数で処理しようとすれば、役所の長時間労働につながるが、国民はそれを当然だと考える。

 サービスの受け手の賢明さがなければ、残業規制は成り立たない。
北欧やオランダでは、宅配に日数がかかってもそれほど苦情は出ないだろう。外国では、日本人のように細かいことにうるさくなく、もっとおおらかである。時間的に今日できないことは、明日すればよい。そうでなければ、残業をするほかない。これをサービスの受け手が受け入れるのでなければ、長時間労働が続くだろう。日本の不合理な情緒文化が、残業を容認している。


2017年5月27日
文科省元事務次官前川氏の発言

 
この発言が波紋を呼んでいる。
 推測するに、「総理の意向メモ」以外に、元次官と政府幹部との間での電話でのやりとりなどもあったのだろう。次官が話をするとすれば、閣僚、内閣府のかなり上の幹部である。文科省が内閣府から圧力を受けたことに、次官はよほど不満だったのではないか。経済主導の官邸の圧力に文科省が反発していたのだろう。

 これは、官僚と「官邸」との対立を示している。官邸による官僚の支配のが強まっており、それに反発する官僚がいる。これは、アメリカのトランプが自分が任命したFBI長官を解雇し、FBIの官僚が反発したことに似ている。前川氏を次官に起用したのは、安倍政権である。FBI長官を任命したのは、オバマだが。官邸が、頭ごなしに官僚を支配することは、官僚の反発を招く。とはいえ、ほとんどの官僚は、政治に従順であり、表立って声を上げる人は極めて少ない。前川氏は、そのような少ない人の1人なのだろう。誰だって、自分がかわいいので、保身に動く。戦争中の杉原千畝氏のようのな行動をとれる人は、少ない。

 このメモは、職務上作成された文書であり、保管義務、情報公開請求の対象となる文書である。


2017年5月19日
加計学園問題・・・・・日本の大学は利権の対象。儲かるかどうかの教育政策

 加計学園獣医学部の設置が総理の意向に基づくものかどうかが問題になっているが、そもそも、日本の大学が政治的、経済的利権の対象であることが問題。

具体的には
・教育大学院の設置
・会計大学院の設置。公認会計士の合格者数問題
・医学部の新設
・獣医学部の新設
・歯学部の大増設と歯科医国家試験合格者数の制限問題
法科大学院の設置、旧司法試験の廃止
など。
 法科大学院の大増設は、当時の日弁連会長の中坊公平、財界、大学業界が、法科大学院を作って大学の存在理由を高めようとしたが、これも法科大学院が濫立して失敗した。中坊公平は、政治的辣腕をふるったが、その後、恐喝事件で失脚した。

 日本はでは、大学の濫立を認める政策をとっているため、国の権限が大きい。国の広い許認可権が、政治家、大学産業が暗躍しやすい理由になっている。しかし、ヨーロッパでは、国立大学しかない国が多い。北欧やスイスでは、国立大学しかなく、大学はすべて、無償である。大学の数が限られていれば、大学や学部の新設をめぐる利権が問題になることはない。日本は、大学や学部の新設が国の広い裁量であるために、大学が利権の対象なりやすい。日本では、だいがぅは、というよりも、教育自体が、経済活動、つまり金儲けの対象である。それだけでなく、進学競争が激しいことが、教育を一大産業化させている。国民は、大が鵜は多ければ多いほどよいと考え、自らを競争に追い込み、教育に金がかかることに苦しんでいる。

 ヨーロッパでは、教育が産業化することを法律で規制している。ドイツで、もし学習塾を設置しようとすれば、法律で禁止するだろう。ドイツでは、小学校で、夏休みに宿題を出そうとした小学校教師がおり、親から苦情が出て、州の法律でそれを禁止した。もし、勉強についていけない生徒がいれば、それを補助することは国や州の責任とされ、日本のように親の自己負担で塾に通わせることは認められない。アメリカだったか、小学校の教科書を家に持ち帰ることが禁止されている。日本の会社でも、自宅で会社の仕事をすることを禁止すべきではないか。すべてお会社がそのようにすれば、本当の意味の実力の競争になる。長時間労働を競う競争では、実力が試されない。ドイツでは、勉強の補習は学校の責任だが、日本では、それは、国民の「自己責任」で塾に通わせる。小学校でも、留年を認めることが、学習する権利の保障と考えられている。日本では、小学校での留年は、「失敗」、「差別」などのイメージをもたらすが、ドイツでは、留年は生徒の親から歓迎される。ヨーロッパでは、日本、韓国、シンガポールなどと違って、学習塾がないので、教育が産業化しない。受験競争の激しい日本、韓国と、そうではないオランダ、ドイツ、スイス、北欧を比べて、経済的競争力に差があるだろうか。オランダ、ドイツ、スイス、北欧の方がよほど経済的的生産性がよい。子供の受験競争は、国際的な競争力に役に立っていない


 大学の数が多ければ多い方がよいという国民の意見が、国の政策を支えている。しかし、誰でも、大学に入れるようになれば、大学卒の肩書が無意味になり、国民が金を使わせられるだけのことである。それで、儲けるのは、大学、金融機関、予備校、教育関連業者である。
 日本は、社会のあらゆる場面で、「儲かるかどうか」が国の政策を左右する。
 マスコミにとって、大学は広告料収入の顧客であり、大学よりの報道をする。文科省は、大学の認可権、予算配分権などを持つので、大学に天下りしている。


加計学園問題・・・・・日本の役所には情報公開がない。情報を隠蔽するために、文書管理法を「活用」している。


2017年5月17日
森友学園、学校予定地の地下のゴミ問題・・・情報の隠蔽・・・森友学園顧問弁護士の行動の問題性

 学校予定地の3メートル以下にはゴミがなかいというボーリング結果が出ていたが、これを森友学園は弁護士の指示で国に提出しなかった。国が、十分に調査することなく、値引きしたことが問題になっているが、森友学園の顧問弁護士は、国から資料の提出を求められたおに対し、不利な情報の隠蔽を指示をしている。それが、国による大幅な値引きにつながっている。森友学園と国の間の不正な取引に顧問弁護士が加担していることになる。
 この種の弁護士の不正な指示は日常茶飯事である。国の顧問弁護士は、国に責任が生じないように情報を隠蔽することを平気でアドバイスするだろう。情報の隠蔽は、弁護士や検察官に当たり前になっている。増加し続ける弁護士間の競争が、これを正当化する。それで、不利益を受けるのは、国民である。


2017年5月14日
田舎のメリットとデメリット

メリット
・地価が安い。居住スペースが広い。庭が広い(庭や畑の草取りが大変だが)。農家は、別荘+大邸宅並みの広さがあるが、中古の農家はタダ同然でも買い手がつかない。
・交通渋滞がない。
・周囲に自然がある。
・都会よりも治安がよい。
・農業やアウトドア活動をしやすい。

デメリット
・インターネット環境が悪い。安芸高田市では、光ケーブルは、安芸高田市が開設したものしかない。このプロバイダーは、安芸高田市内でしか使えない。安芸高田市以外の場所でも仕事をする人は、他のプロバイダーと契約する必要がある。以前、私は、住居のある安芸高田市のプロバイダー、事務所のある三次市のプロバイダー、biglobeの3つのプロバイダーと契約をしていた。とうていビジネスには使えない。三次市のpionetも同じであり、これが、田舎のインターネット文化の実情である。
・文化的環境が都会よりも劣る。田舎の娯楽の中心は、テレビとゲーム、少し離れた街にあるパチンコ店と飲み屋である。アウトドア活動は都会の文化であって、田舎の人はアウトドア活動をほとんどしない。
・重要なことは都会で決まる。都会での会議に出席するのに、時間と金がかかる。
・交通機関が不便。車を運転できない高齢者には、不便である。高齢者はタクシーを利用し、金のない高齢者は家にこもりやすい。
・田舎の人はすぐに車を使うので、運動不足になりやすい。
・学校が少ないので、教育熱心な親は不満を持ちやすい。地元の高校は人気がない。子供を都会に下宿させる人が多い。
・就業先が少なく、給料が安い。都会との所得格差が大きい。
・田舎の近隣関係が難しいことがある。田舎で1人暮らしは孤立感が大きい。都会よりも田舎の方が自殺率が高い。
・都会のような格安品を購入できる店がない。食料品、衣類、電子機器等の物価は、都会と同じか、むしろ高い。地元ではなく、都会で買い物をする人が多い。
・水道・下水料金が驚くほど高い(安芸高田市では、最低でも月額12,000円くらいかかる)。それだけで、ここに住むのが嫌になるくらいだ。
・健康保険料も都会よりも高い。
・ゴミ処理費が高い(安芸高田市では、ゴミ袋1袋300円)。
・保育料も、都会に較べれば非常に高い。
・過疎地の財政状況が悪いから公共料金が高い」という意見があるが、過疎地の自治体では無駄なサービスが多い。例えば、市役所へ行くと、各課の担当者が窓口まで来るので、住民は一歩も動かなくてすむシステムになっている。市役所には人が溢れているのかと思うくらいサービスがよいが、それが職員の残業につながるのだろう。残業ただ働きとなるのか。
・自治体が町内会に交付金を支給するので、町内会費は0円だが、町内会では余った交付金を無意味なことに使用して消化する。無駄なハコモノも多い。これだけ無駄な支出をすれば、税金や公共料金も高くなるわけだ。
・住民は、行政の表面的な無駄なサービスを歓迎し、それが財政を悪化させていることに、考えが及ばない。質の低い自治体を住民が受け入れている。
・自治体が市民に権威的に接する傾向がある。要するぬ、市の職員は住民に対し威張っている。他方、住民の中には、問題が起きるとすぐに自治体に苦情を言う傾向がある。自治体職員のストレスは大きいが、住民も行政にストレスを感じるることが多い。
・田舎では行政指導が多用され、それに従わなければ、村八分になることがある。自治体とその外郭団体を相手に調停申立をしたら、相手方が腹を立て、「すぐに調停を取り下げろ。取り下げたら話し合いに応じてやってもよい」という始末。これでは、田舎では司法が機能しないわけだ。法の支配の欠如に、興味深いものがある。


弁護士にとっての田舎のメリットとデメリット
メリット
・事務所賃料が都会よりもが安い。事務所スペースが広い。
・交通渋滞がない。
・弁護士のいない地域では、弁護士への期待が大きい。
・都会から田舎へ引っ越すと、社会観察、人間観察の場として、よい経験になる。日本の都会は、巨大な田舎社会。国や政府ですら、バレなければ、情報を隠し、すぐに廃棄しようとする。

デメリット
・事件が少なく、事件の単価が小さい。重要な事件がない。田舎では、離婚、借金整理、成年後見などが多く、これらの事件は弁護士でなければできない仕事ではない。司法書士でも可能。田舎で弁護士業をするだけであれば、それほど高度な能力は必要とされない(営業能力は必要だが)。中には法的に難しい紛争もあるが、弁護士への委任が少なく、かりに委任するとしても、都会の弁護士である(合議事件、行政事件、裁判員裁判、殺人事件などの重要な事件は裁判所支部で扱わない)。
・事件があっても弁護士費用を払えない人が多く、「義務的ボランティア」の仕事が多い。
・日本は、弁護士があまり利用されない国であるが、田舎はその傾向が強い。田舎社会は、法律で動いていない。このような「逆境」の中で仕事をするこ弁護士は、苦労は多いが、必要性が高い。田舎の弁護士は、苦労が多く、収入が多くないことを覚悟しなければならない。
・単価が小さく、感情からむ事件が多く、和解が難しい。
知的環境、文化的環境が悪い。

田舎暮らしの秘訣・・・・幸福とは何か 
 田舎の人口が減っているのは、それなりの理由がある。簡単にいえば、田舎に魅力を感じない人が多いからである。
 
 田舎では公共料金が高いので、確実な現金収入のある人(会社員、年金生活者など)が、多くの収入を望まず、できるだけ支出を抑えて、質素な生活に徹する必要がある。できるだけ現金を使わない生活。過剰な消費生活と手を切ること。収入を増やす工夫は難しいが、支出を減らす工夫は誰でも可能である。できるだけ現金を使わない生活。発想の転換。田舎に煌びやかなネオン街があるはずがないが、東京の六本木で飲むことにあこがれる田舎の知人がいた。ニュージランドには、国全体にネオン街がない。
 田舎で都会と同じ消費生活をしようとすれば、田舎は都会よりも収入単価が低いので、都会よりも長時間労働をするか、借金をするほかない。借金の金額が同じでも、それが持つ重さは、都会以上である。田舎では多くの人が、都会並みの消費文化や教育内容にあこがれ、都会並みの住宅ローン・教育ローン・消費者クレジットを負担し、収入が少ない分だけ都会よりも負担が重い。兼業農家は、都会並みに残業をした後に、休日に農業をして、農機具のクレジットの支払いに追われている。仕事に追われる生活をするのであれば、都会の方が賃金が高く、よほど便利である。

 人間の幸福のうえで、収入だけでなく、自由に使える時間もカウントすべきである。1日に2万円を稼ぐが、自由に使える時間のない人と、1日に1万円の収入でも、自由に使える時間が5時間の人では、後者の方が幸福ではなかろうか。1人の収入ではなく夫婦の収入を計算することで、経済的自由が広がる。
 インターネットの活用。インターネットの普及が、 田舎での文化的活動を可能とした。インターネットで、情報収集、文献検索、書籍注文、国会図書館での文献のコピー、出版社との打ち合わせ、意見交換などが可能となった。インターネットの普及が、東京との間の物理的な距離を無くした。それでも、どうしても重要な話し合いをするには、東京まで出向かなければならないが。

 田舎であくせく働かないですめば、趣味的な農業やアウトドア活動などの趣味的な生活を実現できる。日本では、農業収入だけで家族の生計を立てるのは大変であり、年金や配偶者の給与収入があれば、農業をしやすい。弁護士も、配偶者の収入や自分の年金収入があれば、田舎で生きていけるだろう。

 創造性があれば、田舎での生活を楽しむことができる。たとえば、ほんの僅かの畑でも、そこで工夫すれば無限の楽しみが得られる。果実や野菜を育てることを楽しむなど。土地つくりの工夫。雑草や虫、小鳥などの観察。しかし、関心のない人には、畑は雑草が生えるだけの無用の長物である。田畑の管理を嫌う農家が多く、彼らは田畑を放棄するか、コンクリートで固めることを歓迎する。川は、そこで多種多様なレジャーができる。釣り、魚とり、水泳など。しかし、関心のない人は、ただ水が流れているだけのことだろう。田舎には、川をコンクリートで固めたがる人が多い。田舎には、自然を嫌う住人が多い。川は、単に、眺めるだけではすぐに飽きる。大きな岩は、それでボルダリングをする人には、貴重であるが、多くの人は目障りでしかない。
 あらゆるものが、多面的である。見方を変えれば、物事はまったく違った意味を持つ。これは、「物自体」にさまざまな意味があるというよりも、ものごとの意味は人間が与えるのである。
 自然がもたらす楽しみは、受動的なものではなく、人間が主体的に自然と関わりあうことが必要である。創造性のある人には、田舎暮らしは楽しいが、それがなければ、田舎暮らしは、退屈、苦痛だろう。もっとも、田舎で生活が成り立つことが、楽しむ前提であるが・・・・・
  主体的に何かをしようとする人には、田舎でも都会でもどちらでも関係ないが、それがなければ、田舎は不便で住みにくいだろう。私は、「感じ、考え、書く」ことが生活の中心なので、ここでの生活に満足している。しかし、かりに都会に住んでいても、これらの行為は可能である。

                            


2017年5月13日
PTAの何が問題か

 最近、PTAが問題になっている。PTAに限ったことではないが、日本では、義務的なボランティア活動が多い。自治会、子供会などもその例である。多くのボランティア活動が行政を補完する役割を持ち、そのために義務的になる。行政がしなければならないことを民間人にやらせるので、行政から見れば、「やってもらわなければ困る」のである。裁判所の調停委員、保護司、民生委員なども同じである。
 日本では、多くの制度が、行政のためにある。要するに、「お上」のために制度が成り立っている。弁護士も、裁判所の下請け作業をする場面が多い。学校の教師が、クラブの指導をボランティア的に行うのも、それが学校にとって都合がよいからである。このような行政の都合は、住民に利益がもたらされることも多く、住民によって支持されてきた。学校のクラブ活動は、多くの保護者が、それを学校に期待することで成り立っている。保護者が学校にやってほしいことが大量にあり、その一部を学校がPTAにやってもらうという関係がある。国民の学校への依存心が、PTAを必要としてきた。国民が、学校に依存しなくなれば、PTAは必要ではないだろう。裁判が機能すれば、調停は必要ない(裁判上の和解で足りる)。欧米のように、日本的な調停制度は、裁判所の外でのボランティア活動に委ねられるだろう(欧米では、調停は、民間組織が担う)。これは、学校でのクラブ活動が、学校外の民間のクラブチームに担われるのと同じである。
 国民の行政依存傾向が、行政が行うことを増やし、それが、行政の下請的な国民の「義務的ボランティア活動」を増やしている。国民の自律の強い国では、行政の役割と、民間のボランティア活動の役割が、明確である。北欧やドイツなどがその例である。

   
2017年5月
安芸高田市に事務所移転

 私は、広島市内で8年間弁護士として勤務した後に、平成8年に広島県三次市で法律事務所を開設した。当時、広島県北地域の弁護士は、高齢の弁護士が1人だけだった。当時、日本に弁護士会の「公設事務所」は存在せず、弁護士会の過疎地型法律相談センターができて間もない時期だった。島根県浜田市に弁護士がいなかったので、私は、浜田市で開業するか三次市で開業するか迷った。
 三次市での開業は、誰からも支援を受けておらず、「食っていけるか」は、やってみなければわからなかった。なぜなら、当時、人口数万人程度の町で開業する弁護士は、全国にほとんどいなかったからである。私の開業を経済的に支えたのは、公務員をしている妻だった!当時いた三次市のもう1人の弁護士は、元裁判官でかなりの年金を受給しており、生活に困らない人だった。 
 その後、全国的にクレサラ事件が増え、法テラスの司法支援制度ができた結果、人口のが少ない地域でも弁護士の営業が可能となった。当たり前のことだが、人口数万人程度の地域で弁護士の営業は、それを可能とする制度がなければ、困難である。医師は、公的医療保険制度があるので、人口数万人程度の地域でも営業が可能である。公的な制度に乏しい日本では、個人の努力に頼るほかない。この点は、介護や福祉の分野でも同じである。

 現在、三次市内の弁護士は増えたが、安芸高田市には弁護士はいない。私が、安芸高田市で初めての弁護士になる。安芸高田市には、簡易裁判所はない。安芸高田市の人口は約2万9000人だが、中心部の旧吉田町は人口約1万人である。人口1万人の町で法律事務所の経営が可能かどうかは、なんとも言えない。世に中に、必要なことでも、経済的に成り立たないことは多い。それはボランティア活動の対象になる。

 誰もやったことがないことをするためには、若干の創造性と勇気が必要である。もっとも、事務所の移転は、冒険というほどのものではない。ヒマラヤで末登ルートの初登攀としようとするには、命をかけなければならないが、事務所の移転に命をかけるわけではない。事務所の開設に生活がかかることがあるが、命をかけるわけではない。
 誰かがやったことを真似ることや、人の跡をたどることは楽だが、面白くない。「安定」ほどつまらないものはない。初登頂、初登攀の面白さと、ガイドブックをたどる登山のつまらなさの違い。私は、登山の中で、初登頂をめざす登山、特に、ルート開拓が好きだ。


2017年4月21日
アメリカ、日本、韓国、中国、ロシアの利害

アメリカ    
 
北朝鮮の核ミサイルがアメリカに届くことを恐れている。現在は、その可能性は低いので、今、北朝鮮と戦争になることを恐れていない。アメリカは、北朝鮮の潜水艦からミサイルが発射されることを恐れている。戦争をしても、被害を受けるのは在韓米軍と在日米軍であり、アメリカ本土への被害はない。
 

日本、韓国
 戦争になると、日本、韓国が攻撃される恐れがあり、戦争は困る。北朝鮮のミサイルは、日本に届く。日本の原発が狙われる。日本のすべての原発の防衛は無理。アメリカは、米軍基地の防衛を最優先にする。

中国、ロシア 
 北朝鮮が消滅すると、アメリカの同盟国と国境を接することになるので、困る。あるいは、アメリカとの力のバランスが崩れることを恐れる。北朝鮮が存続する体制を望む。しかし、中国、ロシアが戦場になるわけではないので、危機感はそれほどないようだ。戦争になれば、北朝鮮を支援し、シリア、イラク、アフガニスタン状態になる可能性がある。

北朝鮮
 アメリカとの戦争を望んでいないが、体制が崩壊の危機が生じれば戦争をするかもしれない。戦争になれば、北朝鮮は戦前の日本と同じで、国民が玉砕するまで戦うのではないか。この点で、イラク、アフガニスタンとは異なる。山岳地帯でのゲリラ戦は、ベトナム戦争の二の舞になりかねない。

 今、北朝鮮と戦争をしてもそれほど困らないアメリカと、戦争を避けたい日本、韓国では、利害が異なる。日本、韓国がアメリカの外交政策に従うべきではない。


2017年4月15日
千葉県女児殺害事件について
 世の中には、いろんな人間がいるので、おかしな人間が、たまたま保護者会の会長になってもおかしくない。弁護士や裁判官の中に、おかしな人間がるのと同じである。
 加害者と目される人が逮捕され、この人が学校の保護者会の会長だったことから、世論から、「何を信じればよいのか」という声が出ているらしい。これは、日本の「安全、安心文化」の問題性を示している。そもそも、保護者会の会長であれば、絶対に子供に危害を加えないと考えることに問題がある。おかしな人間は、確率的にどこにでもいる。市の職員や警察官であれば、信用されやすく、それが、さまざまな詐欺被害の手口に使われている。集団登校は、保護者に安心を与えやすいが、逆に、集団登校は、無差別殺傷事件の対象になりやすい。日本では、テロの被害ははまだ少ないが、欧米では、多くの人が集まる場所は、テロの標的にされやすい。アメリカと軍事的に組むことは、日本が北朝鮮からの攻撃の対象になるリスクがある。このように、あらゆることにリスクがあることを理解する必要がある。
 このように言うと、必ず、「そうだとすれば、不安でしかたがない」という人が出てくる。誰でも、さまざまなリスクの中で生活しているが、リスクの程度や事故の確率がさまざまである。1件でも事件が起きると、その種の事件が多いと感じることがある。自分が乗った飛行機が墜落する確率はかなり低いから安心してもよいが、絶対に安全ということではない。学校の保護者会の会長が児童殺傷事件を起こす確率はかなり低い。おそらく、飛行機が墜落する確率よりも低いのではないか。北朝鮮が日本を攻撃する確率よりも、低いだろう。しかし、学校の保護者会の会長が会費の使い込みをする確率は、もっと高いだろう。この種の事件は多い。このようなリスク社会の中で、安心して生きていくことは可能であるが、100パーセントの安全性はない。
 
「何を信じればよいのか」という問いに対し、私は、科学的な確率を信じればよいと答えたい。


2017年4月12日
日本が戦争に巻き込まれる可能性
 
アメリカのシリア攻撃は、日本の真珠湾攻撃のようなもので、宣戦布告と言ってよいのではないか。
 アメリカと北朝鮮が戦争をする可能性がある。北朝鮮が、「やられる前にやる」と考える恐れがある。
 韓国への渡航自粛は当然だろう。ソウルなどは、いつ攻撃されてもおかしくない。米軍基地のある日本の岩国や横田は、北朝鮮の攻撃の標的になるかもしれない。中国地方や西日本は危険である。戦争になれば、日本の基地から米軍が出撃するので米軍基地が攻撃対象になる。自衛隊は、米軍を支援するので、自衛隊の基地も攻撃対象になる。
 北朝鮮がアメリカに勝てるはずがないので、まさか攻撃はしないだろうとまともな人は考えるが、日本の真珠湾攻撃の開始と同様に、戦争時にはまともな発想をしないようだ。

 
第一次世界大戦の前は、政治家や貴族は、誰も戦争を予想せず、国際会議で優雅にダンスなどをしていたらしい。
 どこの国でも、多くの国民は、戦争になって、その被害を受けて初めて後悔する。


2017年4月5日
冬山登山とは何か

高校生の冬山登山禁止が話題になっている。これは、あくまで学校での登山の話であるが・・・学校以外の場所で高校生が冬山登山をすることを禁止しようがない。
そもそも、冬山登山とは何か?
冬山=雪山ではない。
冬に雪のない山に登ることも禁止するのか。雪のない山に登り、雪が降りだしたら禁止か。少しでも雪が降ったらダメなのか。
冬のトレイルランニングも禁止か。冬のスキーもダメか。クロカンスキーでhill(山)に登るのもダメか。
東京でも雪が降ることがあるが、冬の高尾山も高校生は登山禁止か?
何センチ以上の雪があれば、登山禁止か。
春に残雪が10センチある場合はどうか。
夏の雪渓を歩く登山はどうか。
富士山では、9月中旬以降を冬山と呼んでいる・・・・・禁止か。
スキーゲレンデでの訓練も禁止か。ゲレンデの傍はどうか。ゲレンデから100メートル離れたら禁止か。
冬の低山でのハイキングも禁止か。これも、冬山登山。

結局、冬山登山禁止には、どうしてもあいまいさが残る。



2017年4月3日
那須、雪崩事故・・・・・不正確な報道
平成29年4月3日のインターネット配信記事に以下の一文があった。

「山岳事故に詳しい溝手康史弁護士は「頻繁に出る注意報だけで雪崩が予見できたとは言えない。登山を中止した判断は一定の安全策と評価できる」と話す。」

 これは、不正確である。私は、登山を中止したことは安全策だが、その安全策としてのラッセル訓練の仕方が間違っていたと述べた。したがって、この訓練を評価していない。登山を中止したことが正しい判断だったことは、当たり前のことであり、わざわざ記事にするほどの問題ではない。
 ラッセル訓練は、樹林帯の中だけにして、稜線に出ていなければこの事故は起きていない。先頭グループの教師が、その場で斜面を観察して雪崩の危険性を判断しなければならない。視界が効かなければ、稜線に出ないという判断になる。これは、現場でなければ判断できない。弱層テストをしてもよいが、弱層テストでは、テストをした場所の雪の状態しかわからず、斜面の上部の雪質はわからない。雪崩は、自分がいる場所よりもずっと上部が雪崩れるのであり、上部の斜面の雪の状態が問題である。自分のいる場所の雪が安定していても、斜面のずっと上は、不安定な雪層かもしれない。1998年のニセコアンヌプリのツアー中の雪崩事故は、その典型例である。ツアーガイドは、弱層テストをして、「今日は雪崩れない」と確信したが、斜面の上部は、そうではなかった。
 先頭グループの教師(死亡)の経験が浅かったこと、ベテランの教師が経験の浅い教師に任せた点が問題だろう。


2017年4月1日

埼玉県で防災ヘリ有料化
 3月28日に、埼玉県で防災ヘリを有料化する条例改正がなされた。

 埼玉県防災航空隊の緊急運航業務に関する条例
 第10条
 県の区域内の山岳において遭難し、緊急運航による救助を受けた登山者等(登山者その他の山岳に立ち入った者をいい、知事が告示で定める者を除く。)は、知事が告示で定める額の手数料を納付しなければならない。

 有料化の対象者は「登山者等」であり、その定義は、「登山者その他の山岳に立ち入った者をいい、知事が告示で定める者を除く」とされている。「山岳」の定義がない。重要なキーワードの意味を条例で規定せず、行政が決める内容になっている。しかし、「山」の定義は不可能である。原野から山への地面は連続的であり、どこに線を引くのだろうか。地面に線が引いてあるわけではない。山と山でない場所の境界はどこかなどの議論は、ほとんど笑い話のネタになる。
 「山岳に立ち入った者」には、観光客、旅行者などが含まれる。登山者と観光客、、旅行者のl区別ができないからである。山の中にある神社の参拝客も有料。
 研究目的の登山を除外するのかどうか不明であるが、研究者の定義も難しい。
 仕事兼趣味の登山はどうなるのか。
 子供の道迷い事故や、山の中で急病になった場合も有料。警察ヘリに依頼すれば無料。林道での事故は、ヘリでなく、救急車を手配した方がよい。
 立法技術的に稚拙な条例。以前、この条例案を聞いた時に、技術的にあまりに稚拙な作文なので、冗談だと思ったくらいだ。おそらく、山の中での事故でも、観光登山中の事故は、手数料を徴収したりしなかったりするだろう。恣意的な運用の不公平。
 条例の各規定の中に、突然、登山者等だけを対象に有料化の規定が出現する奇異な条例。
 条例が日常用語化し、法令の厳密さが失われている。法令があいまいであれば、行政が恣意的に運用でき、法治主義が失われる。アメリカのトランプと同じ傾向。


2017年3月31日
高校生の冬山登山の是非
 マスコミや世論のうえで、「高校生の冬山登山の是非」が議論になっている。
 これは、問題設定自体が間違っている。

 「高校生の冬山登山」と、「高校のクラブ活動の冬山登山」は、まったく別のことだ。これを同視するところに、日本の学校中心社会の問題性がある。高校生がどのような登山をしようと自由であり、それは憲法が保障している。高校生の冬山登山を禁止できない。高校生でもエベレストに登ったり、ヨットで世界一周の冒険を行っている。野口健氏も高校時代にキリマンジャロなどに登っている。高校生は、親の監督に服し、高校生の行動に対し親が責任を負う。

 では、高校のクラブ活動としては、どうだろうか。高校は、生徒の安全管理責任を負うので、夏山であると冬山であるとを問わず、危険性をコントロールできる範囲でクラブを運営すべきである。一律に冬山登山がすべて危険というわけではなく、ケースバイケースだろう。夏でも、数十人が集団で北アルプスなどに登る学校登山は、落雷などが起きると大惨事になるので、すべきではない。一般に、リスクの大きい登山は、学校のクラブではすべきではなく、山岳会などで学校と無関係に行うべきだろう。冬山の訓練などは、山岳会などで自己責任のもとに行うべきである。
 今回のラッセル訓練は、訓練登山としては、判断ミスがあり、山岳会でもすべきではない。樹林帯でのラッセル訓練は、問題はないが、稜線は広い尾根であり、雪崩の危険地帯であるという認識が必要だった。尾根でも、広い尾根は斜面と同じく雪崩の危険がある。これは、現場で雪の斜面を見て判断すべきことであり、現場を見ていない講習会の「本部」では判断できないだろう。人間の判断ミスをどのように防ぐかという問題と、高校のクラブ活動の範囲は、別の問題である。
 日本は、あまりにも多くのことを学校に期待しすぎる。日本の社会は、学校文化と会社文化
に支配されている。


2017年3月30日
栃木県・登山講習中の雪崩事故の今後のこと・・・・・法的な観点から
この事故に関して、いくつか文章を書いたが、今後のことについて、述べたい。

 
この事故について、主催者、引率教師の判断ミスは明らかであり、教師、学校、県は、いさぎよく、法的責任を認めて、謝罪した方がよい。法的な観点からの謝罪は、早ければ早いほどよい。これが遅れれば、泥沼に陥る。役人にまかせてはダメであり、自治体の首長の決断次第である。役人に任せれば、前例踏襲のパターンに従い、過失を否定して、裁判になるだろう。かつての池田小学校事件では、学校側の対応は早く、感心した。今回の事故では、法的責任を争っても、金(弁護士費用、裁判費用など)と時間の無駄である。結論がわかっているのに、儀式のような裁判を長々とやっても、週刊誌とテレビのワイドショーが喜ぶだけで、社会的な無駄である。
 今後、事故の検証委員会が設置されるが、それは、法的責任の有無ではなく(それは明らかなので)、事故の原因や今後の安全管理体制について、検討すべきである。

 関係者の刑事責任は、学校が被害者にきちんと謝罪し、民事責任を負い、示談ができる前提で、検察庁は不起訴にすべきである。起訴すれば、ほぼ確実に有罪になるが、山岳事故では執行猶予が付くことが多いので、どれだけ意味があるか疑問である。
 通常、遺族は、最初から関係者の刑事処分を望むということはなく、事故の関係者が責任を認めず、謝罪をしないことから、関係者の刑事処分を望むようになることが多い。遺族が考える事故の責任とは、事実関係を明らかにし、関係者が謝罪ををし、事故の教訓を後世に残すことになるだろう。「なぜ、この事故が起きたのか」を解明することが、責任の内容である。
 刑事処分を科しても、亡くなった人が生き返るわけではない。亡くなった生徒たちは、指導者である教師を慕っていたはずであり、刑事処分を科すことが亡くなった生徒たちの希望に沿うとは思えない。通常、山岳部に入る高校生は、いろんな意味ですぐれた者が多い。前途ある有望な若者が山で死ぬようなことはあってはならないのであり、この事故を教訓として今後に生かすことが、亡くなった人たちへの弔いになるのではなかろうか。被害者と加害者が憎しみ合って、刑事処分を科してもあまり意味がない。
 山岳事故の防止や、特に、学校における登山のあり方を問い直す必要がある。学校での登山に限らず、学校でのスポーツ全体に、経験や精神主義ではなく、科学的な観点が必要である。日本の社会全体が情緒で動き、科学性が欠如していると感じることが多い。司法も同じである。

 弁護士の立場では、学校が責任を否定して民事裁判になり、教師たちが起訴されて刑事裁判になる方が、弁護士の仕事が増える。しかし、私は、弁護士としてではなく、一登山家として、弁護士の仕事は少なければ少ないほどよいと考えている。多くの国民も同様だろう。弁護士会は、増加した弁護士の生活を確保するために弁護士の仕事を増やすことに躍起となっている。弁護士の数を増やせば、社会全体の紛争の数を増やさなければならなくなり、そここに無理が生じているが、本来、弁護士が必要とされない社会が理想である。弁護士の仕事は、マスコミがもてはやす見かけは別として、実態は、実につまらない・・・・・。


2017年3月30日

栃木県・登山講習中の雪崩事故の記事

弁護士ドットコムに記事が載ったので、転載する。


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那須雪崩事故「賠償責任が発生する可能性は高い」山の法律問題に詳しい弁護士が解説

弁護士ドットコム 3/30(木) 9:49配信

栃木県那須町のスキー場付近で3月27日に発生した雪崩事故は、高校生7人、教員1人が死亡するほか、40人が重軽傷を負う大惨事となった。

巻き込まれたのは、栃木県高体連主催の「春山安全登山講習会」の参加者たち。講習会には、県内高校の山岳部1、2年生の生徒51人と引率の教員11人の計62人が参加していた。

当日は朝から雪で、雪崩注意報が継続発令中。悪天候のため、引率教員らの判断で本来予定していた往復登山を中止し、ゲレンデ周辺で、雪を踏み固めながら進む「ラッセル訓練」をしていたという。

29日、記者会見した県高体連登山専門部の猪瀬修一委員長は「絶対安全だと判断した」と発言。危険な場所には近づかないため、生徒にはビーコン(電波受発信器)を持たせていなかったとも説明した。

栃木県警は業務上過失致死傷容疑での捜査を始めている。今後、責任問題はどうなっていくのだろうか。登山の問題にくわしい溝手康史弁護士に聞いた。

●過去の判例からすると、民事で賠償責任が発生する可能性は高い

今回の事故について、民事責任と刑事責任の両方が問題になります。民事責任は、損害賠償の問題です。登山講習を指導した教員には、生徒の安全を確保すべき注意義務があり、義務違反がなかったかがポイントになります。

国は、過去に何度も、原則として高校での冬山登山を行わない内容の通達を出しています。ただし、国の通達が直ちに法的な注意義務を構成するものではありません。

今回は、雪崩が起きたときに被害を受ける危険の高い場所にいたことが、事故につながりました。引率した教員は「雪崩の危険がない」と考えていたと思われますが、この点に判断ミスがあったということになります。この判断ミスが直ちに法的な過失を意味するわけではありませんが、同種事故の判例の傾向からすれば、民事裁判で雪崩の予見可能性が認められ、教員の過失が認められる可能性が高いでしょう。

なお、公務員である教員に過失があっても、国家賠償法の規定により、教員は損害賠償責任を負わず、代わりに学校を管理する自治体が損害賠償責任を負うことになります。

●近年、起訴された山岳事故の刑事裁判はすべて有罪判決

刑事責任については、業務上過失致死傷罪が問題になります。業務上過失致死傷罪の対象者は、現場で生徒を引率した教員や安全管理に携わった教員です。

かつて、山岳事故は刑事事件で捜査を受けても、不起訴になることが多く、刑事裁判の件数はわずかでした。しかし、近年、過失事故に対する世論の非難が厳しく、1999年頃からツアー登山を中心に、検察官が起訴するケースが増えています。

刑事裁判でも問題になるのは、「雪崩を予見できたかどうか」です。今回の警察の捜査では、どういう経緯で事故の起きたコースでの「ラッセル訓練」が決まったかなどが、調べられると考えられます。

一般的に刑事責任における予見可能性は、民事責任の場合よりも厳格に解釈されます。しかし、近年、裁判所は山岳事故の刑事上の予見可能性を広く認める傾向があり、1999年以降、起訴された山岳事故の刑事裁判はすべて有罪判決が出ています(ただし、すべて執行猶予付きの禁錮刑)。

今回の事故は、スキー場付近の樹林帯での訓練という油断と、講習会の指導者が相当の経験者だったことからくる過信が、判断ミスにつながったと思われます。無雪期の登山を含めて、あらゆる登山にリスクがあることを銘記する必要があるでしょう。過去に、無雪期でも学校登山で大量遭難事故が起きています。

【取材協力弁護士】
溝手 康史(みぞて・やすふみ)弁護士
弁護士。日本山岳サーチ・アンド・レスキュー研究機構、国立登山研修所専門調査委員会、日本山岳文化学会、日本ヒマラヤ協会等に所属。著書に「山岳事故の法的責任(ブイツーソリューション)」等。アクタシ峰(7016m)等に登頂。
事務所名:溝手康史法律事務所
事務所URL:みぞて法律事務所

弁護士ドットコムニュース編集部


2017年3月30日
栃木県・登山講習中の雪崩事故

 栃木県のスキー場で登山講習中の雪崩事故により、8人が亡くなった。
 学校関係の事故としては、1955年の中学校での水泳訓練中の36人の死亡事故、1913年の高等小学校での学校登山中の11人の死亡事故、1967年の高校での学校登山中の11人の死亡事故などに次ぐ大事故になった。
 悪天候のために登山を中止し、スキー場での講習に切り替え、安全策をとったはずだが、 事故が起きた。
 どんな登山のベテランでも、判断ミスを犯すことを示している。熟練した登山家や雪崩の研究者でも、多くの人が、雪崩で遭難死しているという現実を直視しなければならない。冬山講習は、雪のない場所で実施しない限り、雪崩のリスクがゼロではない。誰でも、無理をせず、安全策をとったつもりでも、結果的に、危険な行動をとることがある。
 雪崩のあった場所の地形を見ると、一般的には、雪崩の危険性のある場所だが、傾斜が緩いので、春の時期には雪崩の危険性が低く、山スキーに適した場所のように見える。しかし、大量の降雪があれば、雪崩の危険が生じる。
 登山講習の責任者は、「過去の経験則から、雪崩の起きない場所で講習をした」と述べている。経験則とは、「通常は〇〇である」というものであるが、事故は、通常は事故が起きない場所で、「通常ではない状況」が生じ、起きるのであって、過去の経験則が通じない場合に事故が起きやすい。通常は事故は起きないだろうという経験則は、事故が起きる場合には通用しない。通常事故が起きる場所で行動すれば、自殺行為に近い。今回の事故でいえば、樹林帯は雪崩の危険が低く、尾根上は春の時期には、雪崩は滅多にないだろうが、今回のように春でも大量の降雪があれば、雪崩が起きやすい。春の時期の大量降雪自体が滅多にないことだろうが、たまにはあるということである。この場合、春の時期には通常は雪崩が起きない場所という経験則が通用しない。
 この点は、裁判も同じであって、裁判官は経験則に基づいて判断することが多いが、経験則が通じない場合に冤罪が起きやすい。過去の経験則ではなく、その時その時の状況に応じて臨機応変に考えることが重要だが、それが難しい。判断ができなければ、有罪を否定する方向に考えればよいのだが、現実には、経験則に基づいて有罪判決を出すことが多い。日本では、限りなくクロに近い心証があれば、有罪になりやすい。それが多くの冤罪の背景にある。登山の場合には、経験則に基づく判断は、登山の遂行に進みやすい。それが、多くの山岳事故の背景にある。
 人間が、いかにものごとを知らないか、いかに現実を認識できないかというソクラテス的な自戒が必要である。
機械はそのメカニズムがわかっているので、予見しやすいが、自然や人間(裁判の対象は人間である。これは自然物)はそのメカニズムが解明されていないため、予見が難しい。
 
 雪崩注意報については、春山では毎日雪崩注意報が出るので、雪崩注意報を気にしていたら春山講習ができない実情がある。雪崩注意報が出ていても、すべての場所で雪崩れるわけではなく、雪崩の危険性のない場所は多い。雪崩の危険のないコースを訓練場所に選定すればよかったということである。

 誰でも、安全とか安全でないと考えるが、これは間違いである。安全性は危険性の程度問題である。製造分野では、安全性という言葉を使用せず、安全性を「リスク低減」という言葉に置き換えている。日本の安全・安心文化は科学に反し、情緒の世界である。無雪期の登山であっても、絶対の安全性はない。
 もし、これが、講習会でなければ、登山を中止して、解散しただろう。しかし、講習会では、手ぶらで帰るわけにいかなかったのだろう。そこに盲点があった。講習会主催者の熱意と自信がが災いしたのではないか。

 登山講習中の事故なので、後日、責任問題が生じる。自治体は、スキー場で雪崩が起きることは予見できないなどとして、型通りに責任を否定するので、裁判になり、
裁判で自治体の損害賠償責任が認められるだろう。最終的には、裁判所の中で和解することになるだろう。日本で講習中の山岳事故としては、3件目の裁判になる。公務員である教師は国賠法により免責される。

 教師が刑事責任を問われる可能性が高い。欧米では、山岳事故について刑事責任を問われることがほとんどない。かつての日本でも、山岳事故のほとんどが不起訴だったが、最近は、検察庁は、「どんどん起訴する」方針のようである。それは、過失事故に対する世論の非難を反映している。起訴されれば、すべて有罪になっている。日本では、もともと無罪判決が出にくいうえに、山岳事故に関する限り、2000年以降でいえば、有罪率100パーセントである。有罪にするかどうかは、裁判所ではなく、検察官が決定しているのが実態であり、裁判は儀式に近い。
 落雷事故の最高裁判決では民亊上の予見可能性を広く認め、白馬岳のガイド登山事故の高裁判決では刑事上の予見可能性を広く認めた。この事件でも、刑事上の予見可能性が認められる可能性は高い。ただし、今まで、山岳事故この裁判で、実刑になったケースはない。


2017年3月28日
てるみクラブの破産
 
あらゆる企業に倒産のリスクがある。かつて、山一証券も倒産した。
 消費者が倒産しないツアー会社を選択することは、簡単ではないが、それを自己責任とするのが今の規制緩和の市場経済である。ツアー会社が濫立すれば、必ず、倒産する企業が出る。そうではない政策もありうるが、それにはそれには、「規制緩和」を制限する必要がある。長距離バスツアーの事故なども同じ。山岳ガイドの自由競争も弊害が大きい。「安ければ安いほどよい」という自由競争の制限が必要。


2017年3月25日
ウィンドウズ7を10にアプグレードした場合の不都合、消えたプリアプリケーション

 ウィンドウズ7を10にアプグレードした後に、ウィルスがいたずらをして、プリアプリ(ドライバなど)を破壊した。そこで、パソコンを初期化したのだが、7のプリアプリは回復できなかった。10の通常のプリアプリも入っていない。
 ウィンドウズ10は7に戻らないので、7のプリアプリは回復できないのだろう。7のプリアプリは初期化では消えないが、消えたプリアプリの復活はできない。アプグレード後、1か月経てば、7のデータが消えるということは、7のプリアプリも消えてしまうのだろう。もともと、7なので、10のプリアプリは入っていない。おそらくメーカーに依頼して、7のプリアプリを入れてもらうほかないが、それは、10用のアプリになる。たぶん金がかかる。市販の10用のアプリはもちろん有償である。
 従来、パソコンのリカバリでは簡単に購入時の状態に復帰でき、プリアプリも復活したが、ウィンドウズ7を10にアプグレードした場合には、7の購入時の状態に戻すことを認めないというマイクロソフトの作戦のようである。マイクロソフトの商法に消費者が困らせられる場面は多い。


2017年3月24日
総理大臣夫人の行動の問題性・・・・法的観点から
 総理大臣夫人は自身について、「本当に私は普通の主婦、普通の女性だ」と強調したらしい。しかし、普通の主婦は、あのような行動はしない。普通の主婦であれば、名誉校長の声がかからないし、講演依頼もない。普通の主婦であれば、秘書官が口利きをすることもなく、役人が丁重に回答をすることもない。総理大臣夫人の地位は、総理の妻であることに基づいており、それが一定の政治的効果を持つことが重要なのだ。昭恵氏が、ただのサラリーマンの妻であれば、このように騒がれることはない。マスコミも世論も無視する。総理大臣の配偶者であるからこそ、大きな影響力があり、人々が群がるのである。
 このような公人としての地位を当人が理解していないことに問題がある。政治家の配偶者についても、何らかの法規制が必要である。現在は、政治家の配偶者が金品を受け取っても、収賄罪の対象ではない。政治家の配偶者の口利きは、法規制がないので、何でもできる。政治家の配偶者が弁護士や企業経営者であれば、政治家の影響を考えて取引先が増えるだろう。日本は、韓国と同じく、政治家の親族が政治や利権に関与することが多い。韓国の大統領の親族が経営する企業。発展途上国では、政治家の親族が政治的立場を利用して、必ず、私服を肥やす。日本はそこまでいかないが、似た面はある。利権を動かせない政治家は人気を失う傾向。


2017年3月23日
籠池氏の証言と政治家の親族からの口利き
 
安倍首相夫人の秘書官が籠池氏の要請を受けて財務省に問い合わせをしている。秘書官は公務員であり、これは公務とみなされる。もし、この人が秘書官でなければ、このようなことはしないだろう。それ自体は、違法ではないが、違法とされていない点が、まさにそ問題である。秘書や政治家から、「〇〇をよろしく」という連絡があれば、役人は圧力を感じる。それを無視すると、役人が不利益を受けるのではないかと感じやすい。官僚は、強い者に弱く、弱い者に強い。官僚の上層部は、風見鶏であり、政治の動向に敏感である。安倍首相夫人の秘書からの電話があれば、それなりの対応が必要な「政治案件」になる。政治家からのl口利きではなく、その妻からの口利きであっても、その背後に政治家の影が見えるので、口利きが意味を持つ。このような政治家、もしくは政治家の親族からの口利きを法律で禁止すべきだろう。


2017年3月22日
日・中・韓の関係と独・仏・英の関係
 日本、中国、韓国の関係が悪い。ドイツ、フランス、イギリスの関係も悪いが、内容が質的に異なり、法文化の違いを示している。
 日本、中国、韓国の関係は子供のけんか、田舎の隣人の中の悪さのようなもので、感情的な対立と、得か損かの対立である。ドイツ、フランス、イギリスの仲の悪さは、歴史的な背景や文化、経済の対立があるが、大人の関係である。彼らは、対立はしても、冷静に考えて行動する。
 日本、韓国、台湾では、国会で、怒号、ヤジが飛び交う。日本、韓国では土下座が蔓延している。台湾では国会での殴り合いが多い。欧米の国会では、ヤジはないだろう。韓国、北朝鮮、中国には法律はあってないようなものである。日本の法律はザルが多い。 
 アジアとヨーロッパの違いは、社会、国民、文化の成熟度の違いなのだろうか。


2017年3月21日
大峰山での遭難事例・2016年10月
 
山渓4月号に、2016年10月に大峰山で遭難し、13日後に奇跡的に生還した人の記事が載っていた。
 興味深かったのは、緻密な計画を立てて計画書を提出していたが、それが事故防止に役立っていないこと、計画は用意周到だが、予備の食料を持参しないというリスク意識の欠如などの点である。事故を防止するために登山計画書の提出を義務付ける県が増えているが、計画書の提出自体は事故防止に役立たない。計画書の提出は捜索に役立つが、遭難場所により、捜索は容易ではない。 
 遭難者が生還できたのは、運がよかったことが大きい。崖から転落した時に即死してもおかしくない。
 「おかしい」と感じた時の対処法が未熟なのだが、これは、一般にルートファインディングの能力とは異なる。おかしいと感じたときに、引き返して考えるべきだった。このように迷いかけることは、よくあることである。常に、元の場所に戻れるようにしながルートを探す。よくわからないルートを100メートル進んでも登山道がなければ、その方向はあきらめ、別の方向を考える。元の場所に戻れないところまで行ってはいけない。そんなことは、毎度のことだ。登山は、繰り返し迷うことで、迷う能力が身につく。「迷ってはいけない」と考える人がいるが、そうではない。迷ってもよいのだ。迷った時に考えることが重要なのだ。迷いかける度に、考えることを楽しむのが登山である。
 予備の食料を持っていないなど、登山ではなにがおきるかわからないというリスク意識が弱い。計算された登山になれてしまうと、迷う能力が身につかない。整備された登山道をたどるだけでは、登山の能力は身につかない。迷いかけた時に、本当の登山の能力が試される。


2017年3月20日
情報の隠蔽と官僚の体質

 財務省理財局長の「文書をすぐに廃棄した」という答弁を聞きながら、思った。大学の同級生の秀才の中にあんなタイプの人間がいたな。「優秀かどうか」という能力中心主義。国民の方を見るのではなく、組織の方を見て仕事をする。裁判官にもこのタイプが多い。優秀な人間がすぐれた事実認定ができるという誤解と理屈で事実を認識できるという神話。
 ものごとを勘違いしている人たち。自分の行動が歴史の流れの中でどのような役割を果たしているかが見えないというか、見ない。自分が能力を発揮できること、自分が評価されることが重要なのだ。小さいころからテストの中でそのように育ってきたからだ。裁判官も裁判官ムラでの評価を気にする。血の入れ替えのない官僚機構はそうなる。
 大企業に就職したものも似たようなものである。中小企業に勤める者が例外かといえば、そうではない。人間の共通性なのだろう。誰でもみな小心者である。人は皆、程度の差はあるが、「イワン・イリッチ」(トルストイ)なのだ。

 大学の同級生たちは、役人も会社員も、天下り(再就職)をする年齢になっている。組織に嫌気がさして、再就職しない者もいるだろう。リタイアする時期があっていいなあという気がしないでもない。私も、弁護士の業界と司法界に嫌気がさしている。30年もこの世界にいれば、実情がよくわかる。世の中には、いやらしく姑息な人間が実に多い。

 昔、私が公務員をしていた時、まずいことはできるだけ隠すことは、役所では当たり前だった。この体質は変わらない。今でも、役所は会議の資料を回収する場合が多い。回収した資料を役所は廃棄したかもしれない。そういえば、文科省の会議でもそうだった。当時会った文科省の幹部は、すべて再就職(天下り)しているのだろう。
 役所に限らず、誰でも、自分に不都合なことは隠したがる。友人、夫婦の間でもそうだ。役所も裁判所も、弁護士も同じである。誰でも、他人を厳しく批判するが、自分のことになると大甘である。
 情報の記録化と記録の保存を法律で強制するほかない。日本ではそれをしていない。それをしているように見えても、ザル法なのだ。日本ではザル法が多い。


2017年3月19日
米軍基地建設反対派リーダーの長期勾留

 運動中に逮捕・起訴された沖縄平和運動センターの山城博治議長が18日保釈された。
 山城議長は昨年10月17日に器物損壊容疑で逮捕されて以降、身柄拘束が続いていたが、高裁那覇支部の決定により、逮捕から約5カ月ぶりに釈放された。

 
裁判で否認すれば、証拠隠滅のおそれがあるとみなし、保釈が認められない。裁判官は、先例、前例通りにマニュアル通りに判断を出すのだが、先例、前例がおかしいのだ。
 
勾留は、実質的に刑罰である。人質司法。日本はまだ先進国とはいえない。


2017年3月17日
籠池氏は国会での証人尋問で「証明」の必要があるか。 
 
朝のテレビのワイドショーで、「安倍総理から100万円の寄付を受けたと主張する籠池氏がそれを証明しなければならない。それを証明できなければ籠池氏が偽書罪に問われる」かのような報道をしていた。これは間違いである。
 証人は記憶に基づいて証言すれば足りる。証言はそれ自体が証明のための証拠のひとつであり、証言の証明は必要ではない。証言の「証明」ができなければ偽証罪になるとすれば、裁判で証言する人は誰もいない。偽証罪は、当たり前のことだが、偽証を主張する側に「嘘である」ことの立証責任がある。このような間違った報道をテレビがすることは問題である。「籠池氏に証明責任がある」、「証明できないことは証言できない」という誤解を国民に与える。
 籠池氏の発言が名誉棄損になるかどうかという問題では、民事責任と刑事責任で扱いが異なるが、別の立証責任の問題が生じる。これは、偽証罪の立証責任の問題とは異なる。

 森友学園の問題はPKO派遣自衛隊と同じく、情報の記録化、保存、公開さえすれば、解決できる。現実には、ヤバイことは記録に残さない、記録があっても隠蔽する、廃棄する、公表しないなどの手法がとられている。それを刑罰で禁止することが重要である。記録作成を義務づけ、隠蔽、廃棄すれば刑罰を受けることが必要だろう。


2017年3月15日
WBCに見る日本の文化
 
WBCが盛り上がっているが、そこでの選手の起用法は、日本の監督と外国の監督で大きな違いがある。外国の監督は、選手の調子が悪ければすぐに別の選手に代える。それが合理的な判断だろう。
 しかし、日本の監督は、
・多少選手の調子が悪くても、すぐには選手を代えない。最後まで責任をとらせることがある。
・「お前にまかせたぞ」、「不動の4番」などの言葉が日本人には受けやすい。
・一度失敗しても、同じ方法でリベンジさせることがある。
・科学性よりも、気持ちや情緒、精神論を重んじる傾向がある。高校野球はその典型。先の日本シリーズの監督采配でもそれを感じた。「勝利の方程式」などは、非科学的でナンセンス。科学的根拠がない。これを言うと、野球ファンからいじめられる。
・精神論の重視が、日本人の責任感や頑張りに結びつくが、これは、失敗のダメージが大きい。精神主義に基づく行動で失敗すれば、後悔も大きい。ガンバリズムに基づく失敗は、もっと頑張るべきだったと後悔しやすい。しかし、科学的、合理的な判断をした結果としての失敗は、それ以上の判断はありえなかったと諦めがつきやすい。
・たとえば、投手が2者連続フォアボールを出せば、欧米の監督は投手を代えることがある。次の投手がヒットを打たれて点を取られた場合、投手交代は2者連続フォアボールを出せしたからであって、それはやむを得ない判断だと考えることができる。ヒットを打たれたことは、次の投手の責任であって、監督の責任ではない。
 しかし、2者連続フォアボールを出しても、投手を代えず続投させ、ヒットを打たれて点を取られれば、「あの時、交代させればよかった」という後悔が生じやすい。ヒットを打たれたことは、投手を代えなかった監督の責任だという非難が生じやすい。日本人の精神構造は、精神主義的な判断ー後悔ということの繰り返しが多いのではなかろうか。それは、うつ病の原因になりやすい。
・福島原発事故は、根拠のない信頼と安心感が被害を拡大した。最初から原発に対する不信感があれば、何重にも安全対策を実施し、あのような甚大な被害は生じなかっただろう。
 日本の司法も、科学性よりも、情緒が支配する世界である。
 このような文化は、日本の残業の多さ、過労死、うつ病の多さなどと関係がありそうだ。
 

2017年3月14日
森友学園・・・法の支配の問題性
 この問題については、さまざまな問題があるが、法執行の問題性を指摘したい。
 行政は、法律に基づいて運営されている。あるいは、社会全体が法律によって動いている。土地の売却や学校の認可も同じである。
 しかし、日本では、形式的には法律に基づいていても、現実には、法律を骨抜きにして、恣意的に運用される場面が多い。財務省が適正な価格で売却したと述べ、法律に基づいて学校を認可しようとしていたのはその例である。ドーデモヨイ場面では、法律を形式的に厳格に運用して国民を困らせるが、重要な場面で「融通を利かす」ことが多い。5000円程度の国庫支出の判断では手続きが非常に厳格だが、8億円の価格の減額では融通を利かして手続きを杜撰にすることが可能になる。国民の目は小さい金額の方に向きやすい。行政は昔から、古代から、江戸時代でも、庶民に強く権力に弱かった。法律はタテマエであって、実際は、法律とは別のところで動いているという場面は多い。これは、発展途上国で一般的に見られる傾向である。政治家の口利きなどが通用するのはそのためである。政治資金規正法なども、最初から抜け道を用意している。
 その原因として、法律自体に抜け道が多いという点、法律を運用する役人が、そのような教育を受けてるという点、国民の法律に対する意識、法文化などが関係している。血の入れ替えの少ない組織(企業、行政)では、法律よりも慣例の法が重視される。法律はタテマエに過ぎず、法律とは別の義理、人情、恩義、情緒、利害などを重視する法文化が日本にある。


 
森友学園のケースでは、国有地の売却や廃棄物処理を競争入札にすれば何も問題は生じない。廃棄物処理費用を専門家に鑑定させてもよかっただろう。手続の不明朗さは、豊洲の土地の取得経過や売買契約の内容でも見られ。タテマエとは別の「水面下の交渉」を認めてはいけないのである。この点は、情報公開を徹底させるドイツなどでは自明のことだろう。日本では、情報を公開しない抜け道さがしがさかんである。
 学校の認可手続は、行政や学校と関わりのない第三者を審査会の委員に選任することが必要である。多くの行政関係の審査会の委員の選任が行政の自由裁量に委ねられている点に、審査会制度を骨抜きにする原因がある。原子力規制委員会なども、委員を選定した時点でほぼ結論が見えているといってもよい。
 
今治市の加計学院問題も、経済特区とすることで、合法的におこなっているが、結果としては、コネを利用した疑いがある。

 アメリカは、法の支配のもとに、法律の巧妙で複雑な仕組みのもとに合法的に格差がもたらされている(「最後の資本主義」、ロバート・B・ライシュ)。しかし、日本では、合法的に生み出される格差とは別に、コネや情実に基づいて利益を得るひとたちがいる。これは、違法な場合もあれば、違法すれすれの合法の場合もある。韓国では、日本以上にコネや情実が濫用される。発展途上国では、これが当たり前の状況であるが。


2017年3月11日
煙石氏の最高裁判所無罪判決
 
窃盗事件で逮捕、起訴された煙石氏が、最高裁判所で逆転無罪となった。
 これについての感想。
 1審、2審で有罪になったことの問題性。多くの事件が、1審、2審で終わる。被疑者の多くが、控訴、上告をしない。被疑者が控訴しなければ、1審の裁判官は、「やはり、被告人はクロだったのだ」と考えて、自分の判断に自信を深めるのだろう。被疑者の多くが、「いくら無実を訴えても、捜査官が聞いてくれないので、認めるしかない」と言う。多くの被疑者が無実を訴えていても、自白調書に署名をし、それが裁判で有罪の決め手になる。煙石氏は、たまたまインテリだったので、一貫して否認したが、多くの被疑者は簡単に諦めて、虚偽の「自白」をする。あるいは、控訴、上告までする「強さ」がない。
 無実を訴えていても、1審で執行猶予付きの判決が出ればそれでもよいいと考える被疑者が多い。7万円程度の「軽微な窃盗事件」では、罪を認めて、被害弁償をして示談をすれば、不起訴ないし罰金処分ですむだろう。現実には、無実でも、費用をかけて何年も裁判をする人は多くない。しかし、否認すれば、重大な事件になり、罰金ではすまず、場合によっては、保釈が認められず、長期間勾留される。そんなバカなというような実態が現実にある。まさにカフカの世界である。
 この事件は、認定を争う事件であり、軽微な事件では、たとえ無罪を争っていても上告まではしない被告人が多い。煙石氏の事件はたまたま上告して無罪になったが、多くの同種事件は、1審だけで裁判が終わってしまうのだ。

 
なぜ、無実の人に有罪判決が出るのか。日本の裁判所は、怪しいと考えれば有罪にする傾向がある。裁判官は、ひとたび」、怪しいと思い込めば、反対証拠があっても、「それでも、直ちに犯人でないとは断定できない」などの理屈で有罪にする。「怪しい人間を見逃さない」と考える傾向があり、これが疑わしい人間を処罰する傾向をもたらしている。本来、有罪の立証をする側に立証責任があるのだが、これが無視され、現実には、被告人側が無罪を立証しなければならないことは多い。無罪判決は、そのパターンに当てはまるケースでしか出ない。
 日本の裁判官は理屈に基づいて事実認定ができると考えている。しかし、事実認定は理屈ではなく、人間の認知能力の問題である。これを言うと、直観で判断する裁判官がいたりする。裁判所の「血の入れ替え」がなければ、改革は難しいだろう。
 このような事件こそ、裁判員裁判の対象にすべきである。



2017年3月11日
犬が赤ん坊をかみ殺した事故

 普段おとなしい犬が、生後10か月の赤ん坊をかみ殺す事故が起きた。
 祖父母の家で起きた事故であり、祖父母と両親の心境を思うと、起きてはならない事故だった。私は、犬を室内で飼っており、孫がいる年齢なので、この事故は他人事ではない。
 おそらく、犬には、ハイハイをする赤ん坊が、人間ではなく、異種の動物に見え、野生本能を覚醒させたのだろう。大人しい犬でも、突然かみつくことがある。おとなしい人でも、怒ることがあるのと同じである。99.9パーセント咬まない犬でも、1000回に1回はかみつく。

 この種の事故を防ぐには、
@飼い主が犬の習性を熟知していれば、おとなしい犬でも何をするかわからない点を理解できるだろう。
 しかし、すべての人が、犬の習性を熟知しているわけではない。
 そこで、犬の習性を熟知していない人は、
A飼い主は犬の習性を熟知していないことを理解し、自分が未熟であることを自覚することが重要である。
 しばしば、犬の飼い主は、自分の犬がおとなしいことに自信を持つ。それが、事故をもたらすリスクを高めるのである。

 写真家の星野道夫は、自分が熊に襲われないことに自信を持っていた。それを過信したためにカムチャッカでか熊に襲われて亡くなった。もし、生きていれば、すばらしい写真集を量産しただろう。人類の貴重な財産がささいな判断ミスで失われた。
 東日本大震災で、防災棟や防波堤を過信して、避難せずに、亡くなった人がたくさんいる。
 原発の安全性に対する過信が、福島の原発事故をもたらした。

 山岳事故は、登山経験、技術の欠如から起きるのではない。登山経験、技術の欠如を認識しないこと、あるいは、過信することから起きやすい。登山の素人でも、過信しなければ、事故は起きない。登山の熟練者でも、過信すれば、事故が起きる。飼い犬の事故も、山岳事故も、原発事故も根は同じである。


2017年3月10日
裁判員制度の欠陥
 
裁判員裁判で死刑判決が出ても、控訴審で死刑が取り消されるケースや、裁判員裁判の刑が、控訴審で辺くされるケースが続出している。
 これは、日本の裁判員制度が、市民に量刑を判断させるという致命的な欠陥があるからである。アメリカの陪審制は、陪審員は事実認定をするが、刑は裁判官が決める。市民が刑を決めると、どうしても厳罰傾向になり、従来の判例や最高裁判所判決を無視して、厳罰になってしまうからである。市民が最高裁の死刑判決の基準を無視して、死刑判決を出すのであれば、最高裁判所は必要なくなる。
 他方で、ほとんどの裁判員裁判が事実を認めている事件なので、裁判員は事実認定のえで重視されていない。アメリカの陪審裁判は、無罪を争う事件が多いが、日本では、事実を認めている事件で量刑が裁判員裁判の主な争点になっている。たとえば、万引きや強盗などで無罪を争う事件は、裁判員裁判の対象ではない。
 日本の裁判員制度は、市民に事実認定ではなく、重大事件の量刑判断をさせようとして作られたと言ってもよい。しかし、量刑は法的な価判断なので、裁判官に任せることがふさわしい。事実の認定は、法的な判断というよりも、事実の認識の問題なので、市民の判断が重要である。アメリカの陪審制が、事実認定はを陪審員に委ねるのはその趣旨である。

 私は、裁判員裁判で弁護人をしたことがあるが、感想としては、「裁判員裁判でなくても、判決は同じ」「無意味に多額の税金を使っている」というものである。つまり、裁判員裁判でなくても、判決の刑は同じだったと思われる。もし、殺人事件などで裁判員裁判の刑が従来の裁判例と異なれば、控訴されて、破棄されるだろうということである。裁判員に、従来の裁判例通りの量刑を判断させる裁判員裁判は意味がない。裁判員制度は、従前の裁判官の判断にお墨付きを与えるだけの機能しかない。



2017年3月9日
稲田大臣の発言
 学校法人「森友学園」が運営する幼稚園で教育勅語を素読させていることに文部科学省が「適当ではない」とコメントしたことについて、稲田氏は2006年10月の月刊誌で「文科省の方に『教育勅語のどこがいけないのか』と聞きました」と擁護した。また、稲田氏は、国会で、「教育勅語の精神である日本が道義国家を目指すべきであること、そして親孝行だとか友達を大切にするとか、そういう核の部分は今も大切なものとして維持をしているところだ」と述べた。
 公務員は、憲法や法令を遵守する義務がある。憲法99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と定めている。教育勅語は、現在廃止されており、廃止された法律を擁護することは、法令違反である。また、教育勅語は現在の憲法の趣旨に反するものとして廃止されたのであって、教育勅語を擁護することは、公務員としての憲法の遵守義務に反することは明らかである。
 

2017年3月5日
「最後の資本主義」(ロバート・B・ライシュ)を読む
  著者は、アメリカで中間層が減り、富が一部の者に集中し、富の偏在と格差が拡大したことを、具体的に述べている。これは、自由市場の法的なルールが不公正な結果であり、市場の法的なルールを公正なものにすれば、中間層を復活させ、資本主義経済を救済できると述べる。
 「自由な市場」か「政府」かではなく、どのような市場にするかが問題であり、それは、法的なルール次第だと著者は述べる。市場は人間が作るものであり、私有財産の内容は、法律によって定まる。かつて、トマス・ペインは、私有財産は人間による作為だと述べたそうだ(284頁)。確かに、ヨーロッパでは土地所有権 などの私的所有権の規制が多く、日本とアメリカでは土地所有権などの私的所有権の規制が少ないという違いがあり、私的財産制度のあり方は国によってかなり異なる。市場を自由にすれば、資産、能力などの点で、強い者が勝つのは当たり前だろう。原始時代に獲物の取り合いをすれば、腕力の強い者が勝つ。時代が変わり、「腕力」が「武力」になり、現在は、「資力」と「知力」に変わった。大雑把な印象としては、北欧、ドイツ、スイス、オランダなどでは自由市場の規制が多く、それが格差の拡大を防いでいる。特に、北欧では規制が強い。
 アメリカの格差の拡大は既成政治に対する不満をもたらし、それが、トランプの当選をもたらしたのだろう。しかし、トランプは、共和党であり、格差のいっそうの拡大をもたらしそうだ。アメリカの大衆は、ライシュが期待するほど賢明ではないようだが、著者は希望を持っている。著者は、既成政治に対する対抗勢力の重要性を指摘する。
 第二次世界大戦前のドイツ国民は、もっと賢明であれば、自由な選挙でナチスを選択することはしなかっただろう。国民が事実を知り賢明な選択をすることは、容易ではない。自由な選択が大きな過ちを犯すことは多い。戦後のドイツは、ナチスへの反省から始まったが、アメリカは今までそのような「反省」の機会がない。日本はどうか。
 日本は、もともと市場の規制がけっこうあり、市場がそれほど自由ではなかったので、格差も小さかったが、近年の規制緩和の結果、格差が拡大しつつある。日本でも格差の拡大に対する国民の不満は大きいが、選挙の時は気にしない人が多いようだ。

 国民が賢明な選択をするうえで、市場を形成する法律の仕組みが非常に複雑で、国民の目に見えにくいという問題がある。税制度、著作権法、独占禁止法、会社法、契約、金融、財政、原発の規制基準などを理解することは、一般の国民には難しい。日本の民法、契約法、消費者法、土地規制法、建築法規、教育関係法、公務員法、年金法、税法、環境法、自然公園法、著作権法などの詳細は国民にはわかりにくい。現在は、このような細かい法システムを通して、格差が拡大し、資産と能力が次世代に承継されている。これらの格差の拡大は、法律に基づいているので、違法ではないが、公平ksどうかが問題なのである。中国の格差の拡大も、法律に基づいて行われており、違法ではないが、正義に反するが、公平ではないのである。北朝鮮での処刑も、裁判での死刑判決に基づいているはずであり、北朝鮮の法律では違法ではないのだろうが、正義に反する(戦前の日本の大逆罪や治安維持法違反、韓国の国家保安法違反と同じ)。
 公務員の天下りが問題になっているが、大企業でも退職後に関連団体に再就職する。格差を維持、温存、拡大するシステムは、細かい法令を全体的に分析しなければ、全体が見えてこない。一般の庶民は、難しい本を読まず、マスコミの影響を受けやすい。この本でアメリカとドイツの企業に対する規制の違いが指摘されているが、それを理解しているアメリカの一般庶民は少ないだろう。ライシュは、市場の仕組みを国民が理解することが重要だと述べるが、それが難しい。この点は、日本も同じである。
 複雑な仕組みは専門家でなければわからないが、専門家の多くは役所に所属し、研究者の行政や企業との関係が強まっている。国や企業は大学の資金源と深く関わり、その結果、最近は文部官僚の大学への天下りが増えているようだ。一般に、専門家は専門分野に詳しくなればなるほど、全体が見えなくなり、視野が狭くなる傾向があるが、この本は、著者の幅広い博学によって広い視野から格差や自由市場の問題を考察している。
 ライシュが述べるように、アメリカの市場経済に、「まだ、救済の余地がある」とすれば、日本では、もっと可能性が大きいということになりそうだ。


2017年3月3日
首相夫人は公人か
 
最近、首相夫人が、私人か公人かが問題になっている。
 法的には、法律に、私人、公人という言葉がないので、法的な区別はない。日常用語では、私人、公人という言葉の意味があいまいであり、使う人によって意味が異なる。
 首相夫人が、公費から交通費を支出し、あるいは、公務員が付き添う場合には、公務に準じた扱いをすべきだろう。天皇や皇族がさまざまな団体で挨拶をする場合には、公費が支出され、「公務」とされている。首相夫人が森友学園で講演をした際には、公務員が随行したようである。
 「内閣総理大臣夫人」の肩書を使う場合には、内閣総理大臣の使者とみなされる場合があるだろう。

首相は妻に職務上知りえた情報を話すことができないか
 この点も、テレビのバラエティ番組で問題になっていた。
 公務員には守秘義務があり、家族に機密を漏らすことは守秘義務違反になる。妻、子供、親、兄弟を問わない。裁判官や警察官も配偶者に情報を漏らしてはいけない。たとえば、警察官が、歌手の〇〇を覚せい剤で逮捕する予定だということを妻に話し、妻が、友人に話してマスコミがかぎつけることがある。多額の金が動くだろう。警察官の内妻、婚約者だったらどうか。裁判官が裁判の内容を家族に話だしたら、弊害が大きい。首相も同じであり、政治家の特別扱いはできない。
私は妻に仕事の話をする場合には、抽象化して話す。


2017年3月2日

「開運!なんでも鑑定団」BPO問題
 昨年12月に放送されたテレビ東京系の人気番組「開運!なんでも鑑定団」で、国宝級の「曜変天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)」と鑑定された茶碗をめぐり、鑑定結果を疑問視する専門家が2日、放送倫理・番組向上機構(BPO)に番組内容の審議を申し立てがなされた。

 
実は、この種に問題は、この番組に限ったことではない。視聴率を稼ぐあまり、過剰な表現がなされる。「国宝級」などの過大表現や鑑定価格を表示する企画は、トラブルが生じやすい。美術品の価格は、オークションをしない限り、売値は決まらない。国宝は売り物ではないので価格はつかない。鑑定価格は売値とは異なる。

 過去に、有罪か、無罪かを問う法律的なバラエティ番組などでも、特異な問題と意外な結論を組み合わせて視聴率を稼いでいた。しかし、特殊な判決例を取り上げると、番組終了後、その判決が、控訴審で逆の判決が出て視聴者から苦情が出ることがあった。判例が定着するには、数年単位で考える必要があるが、数年もたてば、事例の珍奇さが失われ、視聴率が稼げない。視聴者があっと驚く裁判例を集めるバラエティ番組は弊害が多い(実際に、放送中止になった)。「ためしてガッテン」なども、行きすぎた解説が、「誤解」を超えて「間違った説明」になることがある。
 この種の番組では、専門家から見て不正確な解説が多い。私が、専門家として、そのように感じる分野は、法律と登山である。登山関係のバラエティ番組では、芸能人が「難峰」に登った場合に、山頂上の多くの登山者を意図的に放映しないように工夫する。「難峰」上に多くの登山者がいれば、映像として拍子抜けするからである。実は、「難峰」ではなく、ポピュラーな山なのである。上からロープで確保しているのに、ロープが映らないように撮影して、難しそうに見せる。アウトドア関係のバラエティ番組では、これが多い。これが、やがてテレビ映像のヤラセ問題につながりやすい。バラエティ番組はフィクションでよいのだから、どこからがヤラセなのか、わからなくなる。

 不正確な解説によって、視聴者が勘違いをし、それが視聴率を上げる構図がある。視聴者が、当然と考える内容の番組では視聴率が上がらない。視聴者が、あっと驚く内容であれば、視聴率が稼げるが、それは、しばしば無理な、強引な企画になりやすい。学会で承認されていない最先端の新しい理論を紹介すれば、視聴者が驚くが、学問的にはまだ不明という場合など。視聴者は、放送内容が正確かどうかはどうでもよく、「面白ければそれでよい」というのが、バラエティ番組である。バラエティ番組では、情報が間違っていてもよいという考え方がある。しかし、視聴者は、バラエティ番組の情報を正しいと考えて行動することが多いという現実がある。世の中の情報のどれが正しくてどれが間違っているのかわからなくなる。虚構と現実の区別がわからなくなる。
 一般に、小説やドラマはフィクションであるが、真実らしさを売り物にする小説やドラマは、情報の受け手をだますことで成り立っている。新田次郎や三島由紀夫の小説、NHKの朝ドラなどでそれを感じる。それが間違った歴史認識をもたらせば、弊害が大きい。たとえば、第二次世界大戦を嘘で塗り固めた小説を「真実」のように描けば、間違った歴史認識をもたらしやすい。読者に「考える力」がなければ第2のヒトラーが簡単に生まれる。
 また、「〇〇すればうまくいく」と考えて多額の金を使う消費者被害が多発する。バラエティ番組で、「こうすれば、必ず東大に受かる」方法を「専門家」が解説すれば、その方法に多額の金を使う消費者被害が続出する。

 これらは視聴率を優先させることが、もたらす現象である。
 勇み足の番組を放送すると、それを信用した視聴者が受けた損害について、損害賠償請求訴訟が起こされる可能性がないわけではない。
 テレビが持つ文化的影響力は大きい。田舎では、情報の入手源の大半がテレビである。しかも、バラエティ番組しか見ない人も多い。日本は、基本的に田舎社会であり、文化的には都会は巨大な田舎である。あるいは、田舎が都会と同じというべきか。東京の住人は親の代にさかのぼれば、大半が田舎出身者である。
 日本の「バラエティ番組文化」は、「文化の幼児化」をもたらし、「考える力」の低下をもたらす。これは、ポピュリズムや、災害時の危機管理能力、リスク回避力の低下などにつながりやすいように思われる。




2017年2月28日
森友学園、自衛隊の南スーダンでの「戦闘地域」問題、豊洲市場問題の共通性

 これらは、手続きの不明朗、不公平、違法性が問題になるが、それを調べようとすると、重要な情報が文書として残っていないという共通性がある。弁護士は、破産管財人業務で、日常的に不動産の売却を行っているが、高額な不動産売却を競争入札方式にしない場合は、弁護士と買主の間に「癒着」があることが多い。懇意にしている業者に売りたがる弁護士がいないわけではない。地中のゴミは、競争入札を排除する理由にならず、むしろ、このような物件ほど競争入札方式がふさわしい。
 
 役所では、重要なことは文書をにしない傾向や、かりに、文書があってもすぐに廃棄する傾向がある。沖縄返還交渉では、総理大臣や外務次官が密約を隠し、長い間、公文書を隠匿していた。アメリカの公文書で、この点が明らかになった。密約をスクープした新聞記者が処罰された。これが、日本の実情である。中国ほどひどくはないが、日本も似たような面がある。
 現在の法制度は、情報の隠蔽を可能とする法制度になっている。日本の法律に多くの抜け道があり、その抜け道を活用することが、官僚と法律家の仕事になっている。

 森友学園にいかに安く国有地を売るかを考えることに、官僚の知恵が発揮されたようだ。官僚がその程度の知恵を発揮するのに、それほど能力は必要ではない。弁護士も、法律の抜け道をうまく使う弁護士が優秀な弁護士とされる。「法律の抜け道を教えます」を公言する弁護士すらいる。ヤメ検の弁護士が「検察庁に顔がきく」と考える国民が多い。政治家の「口利き」が多いのは、それが効果を持つ役所の体質があるからである。政治献金が行われるのは、企業にとって、それが「政治的効果」があるからである。元税務署員の税理士が重宝されるのは、それが「効果」があるからである。住民が地元選出の政治家を選出するのは、その政治家が地元に利権をもたらしてくれるからである。田舎のお婆さんでも、法律的に筋の通らないことを通そうとして、法律事務所や裁判所に何度も「お願い」をして、要求が通らないと腹を立てる。森友学園理事長と同じことをしている。そんな方法を、日本の社会から学んだのだ。しつこ要求してゴリ押しするのが、「やり手」の常套手段になっている。そんな方法を、田舎のお婆さんは、政治家から学んだのだ。日本は、法律に関して未開国である。これらの「口利き」は「効果」があるから行われるのであって、これらの「効果」を排除することが、不正防止のために必要である。ドイツでは、企業の政治献金は、「効果」がないので行われない。「効果」があるとすれば、賄賂ではないかという考え方である。アメリカでは、大企業のCEOが政治家や閣僚になるので、企業献金を禁止しても無意味であると考えているのかもじれない。
 情報公開法による情報公開だけでなく、手続を文書に残すことを義務付け、それを廃棄した者に刑罰を科さなければ意味がないだろう。政治家の口利きをき禁止すべきである。日本では、役所が、できるだけ記録や文書を残さず、できるだけ早く廃棄する運用をしているが、ドイツでは、名刺1枚に至るまで、すべての文書の保存を義務づけており、いつ、だれが、役所を訪れたかが後でわかるようになっているそうだ。


2017年2月25日
残業規制の議論の怪
 残業時間を月に100時間にするかどうかが議論されているが、これは日本における法の支配の欠如を示している。労働基準法上、労働時間は1日8時間、週に40時間に制限されている。これが、ザル法であることが問題。
 残業時間を月に100時間にするかどうかの議論が法改正の議論だとすれば、労働基準法を改悪する議論になるが、現在の議論は、行政指導のレベルの議論であり、法改正の議論ではない。行政指導は法的な拘束力がないので、はっきり言って議論の意味がない。残業時間を月に100時間に制限するガイドラインを設けても、拘束力がなければ、現在と状況は変わらない。現在でも、残業をしないことは企業の努力目標である。今回は、首相が残業を減らす音頭取りをしているだけである。残業規制は、労基署や労働組合が主張しても企業経営者は無視するが、首相が音頭取りをすれば、財界がそれを尊重するので、企業経営者も無視できないのではないかという法治国家ではありえない議論の手法である。これでは、先進国、法治国家とは言えない。発展途上国では、こんなことは珍しくないが。
 「制限」は、強制力があって初めて意味を持つ。そのため、先進国ではどこでも、制限は、行政指導ではなく、法律の問題として議論をするのだが、日本では、行政指導は、すなわち、政治的なパフォ−マンスとして議論している。労働時間の規制は法的な議論でなければならない。1日8時間労働にすれば、「プレ金」は関係ない。「プレ金」などという「子供だまし」の議論ををやめて、先進国レベルの大人の議論をする必要がある。
日本全体に、「幼児的な子供の文化」を感じる。


2017年2月21日
役所の気まぐれとあいまいな対応に振り回される国民

 先日、ある役所に問い合わせたところ、「委任状でできる」と言ったので、相手方と1か月くらいかけて交渉をし、委任状や印鑑証明を入手した。しかし、実際に申請をすると、「これでできないことはないが、できれば、別の方法にしてほしい」という。それでは、白紙の状態から再度交渉し直さなければならないではないか。また、私が、相手方に前に行った説明は「嘘」だったことになるではないか。一体、日本の役所はどうなっているのか。
 役所に「これでできると言ったではないか」と述べると、その方法での不都合を延々と述べる始末だ。そういう問題ではなく、役所の説明の一貫性が問題なのだが、それを理解しない。役所からの「お願い」を言われ、最後は、「そこまで言われるのであれば、やりますよ」とヤケになって言われるので、こちらも気分が悪い。もともと、こちらが無理に頼んだ手続きではないのに、無理に頼んだような言い方をされるからだ。最初から、「できない」と言われていれば、手続きをせず、こちらも仕事が減ったのだが、「できる」と言うので無駄な作業をさせられる。
 ものごとを明確にしないこと、一貫性の欠如が、情緒的な対応になり、感情的な紛争につながりやすい。日本の役所と国民の間の感情的なトラブルが多さの原因がここにある。国民が役所の言い間違いや気まぐれに振り回される場面は多い。銀行なども、事前に電話で問い合わせをしたところ、「できる」と言うので、書類を用意して遠方から時間をかけて銀行窓口に出向くと、さらに別の書類を要求されることがある。銀行の気まぐれに振り回され、何度も足を運ぶ。経済的利益が数十円程度の手続に何時間も時間を要し、それが、日本の生産性の低さをもたらす。日本の社会全体が、非常に効率が悪い。民間企業でも、電話ですむような確認について、書類作成に何時間もかける企業がある。そんな民間企業は倒産しやすいが、国や自治体からの補助金で生きのびている。自治体も無駄な作業にいくらでも税金を使っている。

 また、「これでできないことはないが、できれば、別の方法に変えてほしい」という役所の言い方は、いったい何なのか。イエスかノーか、どちらなのか、わからない。「できないことはないが、できれば、〇〇してほしい」というあいまいさは、行政指導などでも多い。イエスかノーの明確さが国民の行動の指針になる、というのが、法律である。

 
日本では、あいまななことが追いが、それを明確にするのが法律のはずである。しかし、裁判所の中でも、実にあいまいなことが多く、裁判所とか司法は、カフカの世界である。

(追記)最終的に、役所の「お願い」の対象の「別の方法」が実現できず、役所は、上記の手続きを最初の方法で受理することになった。その間、役所の気まぐれに翻弄されたのだった。


2017年2月19日
自転車レースでの事故

 2月19日、埼玉県行田市長野の市道で、自転車ロードレース「浮城のまち行田クリテリウム」に参加していた自転車4台の接触事故があり、レースに参加者1人が死亡した。
 事故は1周約2・7キロのコースを4周するレースの4周目、ゴールの約120メートル手前で起きた。農家の男性の自転車が、近くを走っていた別の50代男性の自転車と接触し、ともに転倒。後ろから鴻巣市の男性と別の50代男性の自転車が相次いで突っ込んだという。
 
(参考判例)
 自転車で1日に160キロを走行するイベントで、参加者が歩行者と衝突した事故について、裁判所は、イベント主催者(実行委員会)の代表者の損害賠償責任を認めた(広島地裁尾道支部平成19年10月9日判決、判例時報2036号102頁)。これはタイムを競うレースではなく、約200名の参加者が自転車で1日に160キロを完走するイベントである。

 裁判所は、住民への大会に関する広報が不十分だったこと、コース監視員の配置が不十分だった点を、実行委員会代表者の注意義務違反の理由にしている。実行委員会代表者は、事前に警察に行事の届け出をしたが、警察は道路の交通規制等をしなかった。事故は、競技者の過失で起きたものであり、イベント主催者がどんなに注意をしても、競技者にミスがあれば事故は起きる。裁判所が、主催者の注意義務違反を認めたのは、この種のレジャーとしてのイベントに対する裁判所の否定的な態度を示しているといえよう。その考え方の背景に、アウトドア活動に否定的な日本の世論の動向があるように思われる。


2017年2月17日
「紛争の当事者と法律家の関係」月報司法書士540号掲載
 
日本司法書士連合会が発行する月報司法書士に文章を書いた。
 司法書士や弁護士が法律家として紛争に関与する場合の依頼者との関係について書いた。紛争の解決における依頼者との関係は、弁護士、司法書士、行政書士、税理士などに関係する問題である。また、裁判所の立場でも、当事者と代理人の関係を理解することは、訴訟を進めるうえで重要なことである。

 弁護士会は、司法書士を「法律家」として認めていないが、現実に司法書士は法律実務に従事している。アメリカでは、司法書士、税理士の仕事を行うのは弁護士であり、国際的には、日本の司法書士、税理士、社会保険労務士の仕事や、企業や役所の法律業務を担うのは、lawyer(法律家、弁護士)であり、司法書士は、日本の弁護士資格を持たない、lawyer(法律家、弁護士)とみなされるだろう。簡易裁判所の事件を扱い、法律的業務を行う職種は、国際的には、lawyer(法律家、弁護士)と呼ばれるのであって、それを弁護士ではないと言うのは、日本だけの特殊な語法ということになろう。

 
2017年2月11日
早稲田大学山岳サークル遭難
 この事故で1人が亡くなったが、気になる点は、山岳部ではなく、山岳サークル「山岳アルコウ会」の事故だという点である。「山岳アルコウ会」の名称からすれば、ハイキングサークルのような印象を受けるが、厳冬期の阿弥陀岳南稜を登るのだから、活動内容は山岳部と変わらない。山岳部は危険なイメージが強いために、近年、山岳部ではなく、山岳サークルの数が増えているらしい。「山岳アルコウ会」の部員は70人くらいいるらしい。山岳部が数人であるのに較べれば多い。
 ハイキングサークルのような名称の会が、冬のクライミングをすることに驚かされた。山岳部が事故を起こせば、世論から非難を受けやすいが、山歩きのサークルであれば、同じことをしても世論から非難を受けにくいかもしれない。かつて、大学のワンダーフォーゲ部が隆盛を極めたが、山岳bの名称を嫌う学生が多くワンダーフォーゲル部に入部した。しかし、ワンダーフォーゲル部でもも冬山登山や沢登りなどをし、けっこう事故があった。ワンダーフォーゲル部も重荷を背負って「きつい」登山をするイメージがあるせいか、最近は、ワンダーフォーゲル部員も減り、山岳サークルが増えている。しかし、山岳サークルも山岳部と似たようなことをしている。縦走登山主体の山岳部もある。
 登山をするのに、山岳部、ワンダーフォーゲル部、山岳サークルの言葉を変えても、似たようなことをしている。ワンダーフォーゲル部も山岳サークルも、山岳クラブ(mountaineering club、山岳部)である。

 日本では、あいまいな言葉でものごとを明確にしないことが多い。言葉さえ言い換えれば、どうにでもなるという感覚がある。言葉のあいまいさは、概念のあいまいさ、思考のあいまいさを意味する。
 南スーダンで、「人を殺し、物を破壊する行為はあった」が、それを「戦闘」と呼ぶと憲法上の問題が生じるので「戦闘」とは呼ばないという政府答弁が思い出される。自衛隊が派遣されるところでは、戦乱があっても「戦闘」とは呼ばないことにすれば、絶対に「戦闘」はないことになる。住民を多数殺しても、それを「虐殺」と呼ばないことにすれば、南京での虐殺はなかったことになる。
 このようなあいまいさが日本の社会全体に蔓延している。国民が言葉に厳密さを求めなければ、いい加減な言葉が通用する。

 「待機児童」を「保留児童」にすれば、「待機児童」は0になる。
 
日本では、義務的なボランティア活動が多い。ボランティアという言葉は使用しても、義務でれば、ボランティアではない。


2017年2月3日
トランプの入国禁止措置。過剰規制と国民の不安感。ポピュリズム
 これを議論する場合に、「テロを防ぐために必要だ」と言う意見が必ず出る。問題は、テロを起こす危険のある人物の入国禁止は正当であるが、危険ではない人まで一律に入国禁止にするという過剰な規制になる点である。シリア人がテロを起こせば、すべてのシリア人の入国を禁止するという考え方。危険な人物がいるかもしれないという理由から、一律に入国禁止する方法は、危険ではない者まで対象にしてしまう過剰な規制である。これは、憲法違反である。一般に、ポピュリズムが過剰な規制をもたらす。国民の不安が過剰規制をもたらす。トランプの政策をアメリカ国民の4割が支持している。
 ヨーロッパ人のユダヤ人への反感に基づいて、ヒトラーはユダヤ人の隔離政策を行った。戦時中、アメリカは、日本人の隔離政策を行った。当時、日本人はすべてアメリカ人を攻撃すると思い込むアメリカ人が多かった。ベトナム戦争でアメリカが、ベトナム人の住民の皆殺し作戦に出たのは、ベトナム人が攻撃するかもしれないという不安からである。戦争では、攻撃する住民を殺することは正当化されるが、攻撃しない住民を殺すことは、違法とされる。しかし、不安がその垣根を取り去ってしまう。

 日本でも過剰な規制が国民に支持されやすい。
 非行に走る恐れがあるという理由からの一律規制は、学校で一般的に行われている。学校の校則は禁止だらけである。学校は、問題が起きれば世論から非難されるという不安が学校の行動を支配している。
 銀行も、不慣れな手続きでは、不安から、あれもこれもと関係のない書類の提出を利用者に要求する傾向がある。不安から過剰な要求をする。
 行政も、さまざまな不安から過剰な規制をしやすい。行政が、公文書を隠匿したがるのは、公開すると、何を言われるかわからないという不安からである。発展途上国で、表現の自由を制限するのは、政治批判に対する不安からである。発展途上国では、政治権力者は不安から政治的敵対者を抹殺したがる。
 日本では、現在でも、怪しい人間を簡単に逮捕することができる。
 テロ等準備罪は、テロについて怪しい人物を簡単に逮捕できる法律である。テロをするかどうか不明でも、準備をしている疑いがあれば、逮捕できる。イスラム教徒が包丁を購入すれば、怪しいという発想は、トランプの発想と同じである。
 振り込め詐欺の被害に遭う可能性があるという理由から、老人にカードを発行しないこと、ATMの利用規制など。電車内への自転車、ペットの持ち込み、携帯電話の使用の一般的な禁止は、迷惑になるかもしれないという理由による規制であり、過剰規制の例である(これらは日本特有の規制である)。日本では、ガラガラに空いている電車でも、自転車の持ち込み禁止。電車に1人しか乗客がいなくても、携帯電話の使用禁止?
 防災ヘリを悪用する者がいるので、これを防止するために有料化することも過剰規制の例である。悪用防止のための規制としては、悪用しない人まで一律に規制対象にするからである。ヘリの悪用防止のためであれば、悪用した者に、損害賠償請求をすれば足りる。「ヘリの悪用防止」ではなく、「自治体の収益」を目的とすれば、過剰規制ではない。悪用した者について損害賠償請求をすればよいはずだが、それが面倒なので、一律に有料にした方が役所の手間が省けるという考え方。
 1件の重大な事件、事故が起きれば、すべてを規制対象にすることが、国民に歓迎されやすい。国民は、それで気休めの安心を得る。しかし、どんなに過剰な規制をしても、その方法では、事件、事故は防げない。アメリカが、入国規制をしても、アメリカにいる人(先祖をたどれば、インディアン以外は、すべて外国人である)が、テロを起こすことは可能だ。現実に、アメリカでは、アメリカ人が起こす大量殺傷事件が多い。

 山岳事故が起きる恐れがあるという理由から、登山をすべて禁止する、冬山登山を禁止する、登山道を通行禁止にする、すべての登山者に登山届の提出を義務付ける、などの発想も同じである。「山岳事故の防止」のために登山届の提出を義務付ける方法は、事故を起こす恐れのない登山者まで、対象にしてしまうことになるので過剰規制である。これは、トランプの一律入国禁止措置と同じ考え方である。過剰な規制は、日本でも憲法違反である。「山岳事故の防止」ではなく、入山者の連絡先を把握する目的での届け出であれば、過剰規制ではない。しかし、その場合には、川、海、観光地などでも届け出をさせないと平等とはいえないあろう。山は事故が多いからという意見があるが、水難事故や交通事故の方が多い。それに、自治体は、遭難防止条例という名称で、登山届を義務づけており、事故を防止するという大儀名分で世論の支持を取り付けている。

 ニュージランドのクィーンズタウンでは、市内の路上駐車が違法とされていなかった。交通量の多い幹線道路でも、路肩に駐車している。これは、路肩が広いので、路肩への駐車を禁止する必要がないからだろう。路上駐車の弊害がある場合に規制すれば足りるという考え方。これが、観光客にとって非常に便利である。別に駐車場を設置するとすれば、多額の税金がかかる。
 これに対して、日本では、都会でも田舎でも、交通量に関係なく、どこでも路肩への駐車が禁止されることが多い。弊害がない場合も画一的に規制する。弊害があってもなくても、一律に規制することが平等だという考え方。「役所が決めたこと」が、最大の正当化の理由? 過剰規制を認める法文化。

 ほとんどの人が、過剰規制を他人事として考えている。しかし、自分の問題である。誰でも、簡単に規制対象になる。自分はシリア人ではないから、トランプの規制とは関係なくても、通勤電車内で痴漢の疑いを受けて何か月も留置場に入れられる可能性がある。その間に、仕事を失う。これでは、恐くて満員電車に乗ることができない。誰でも簡単に逮捕されることの恐ろしさをもっともよく知っているのは、おそらく裁判官である。包丁を購入すれば、簡単に逮捕され、疑いが晴れれれば、10日後に釈放される可能性がある。私は、以前、常に護身用のピッケルを車に積んでいたので(車で寝泊まりするので)、警察官の職務質問に対し、自分が登山家であることを証明できるように、シュラフを積んでいた。
 誰でも、自分だけは過剰規制の被害に遭わないと考えるが、この点は、誰でも、自分だけは事故や災害で死なないと思っているのと同じである。被害者は常に社会的少数者であるが、その社会的少数者になる可能性は、誰にとっても平等である。弁護士は、そのような社会的に運の悪い人たちを扱う仕事をしており、そのような社会少数者は多い。


2017年2月2日
無駄をなくすることが幸福につながる
日本の社会の多くの無駄が幸福の実現を妨げている。
・無駄な会議、手続、資料があまりにも多い。これらすべてにコスト、税金がかかっている。
・幸福度を金銭に換算できなければ、日本では無視されやすい。
・1人でできることを2人でする。10分でできることを1時間かけること。伝言ですむことを会議を開くこと。会議の前に結論が決まっている。報告だけで終わる会議を開催する会議が儀式。儀式の多さ。
・会議や資料つくりをのコスト計算をしないこと
・役に立たないマニュアル作りが多い。それにも人件費がかかっている。
・無駄な資料の多さ。薪ストーブで不要になった紙の資料を燃やしているが、その多さに驚く。毎年、1か月は燃料代がいらないくらいの量の無駄な紙の資料がある。
・儀式になっている日本の裁判と司法。インターネットを活用しない日本の司法。1か月でできることを3か月かけた方が弁護士の報酬が高かったりする。裁判に時間をかけた方が弁護士費用が高くなる? 無駄な検査を多用する病院があるように、無駄な手続きと書面を増やす弁護士の方が稼げる現象が生じている。
・野山の雑木を燃料にすること
・単位時間当たりの生産性が、ドイツは日本の1.5倍
・無駄な過剰サービスは、消費者の代金へのコスト上乗せと、従業員のタダ働き(サービス残業)とストレスをもたらしている。それを歓迎する消費者。ストレスを歓迎する日本の社会。これが犯罪や感情的軋轢、精神疾患、自殺などにつながりやすい。


2017年1月26日
情報の偏り
 世の中に間違った情報が氾濫している。
 「京都は世界観光都市ランキング1位」という報道がなされている。これを聞けば、京都を訪れる外国人観光客が多いと勘違いしやすい。しかし、外国人観光客数では、京都は世界の100位の中に入っていない。京都は人気投票では世界の上位に入るが、現実の外国人観光客数が多くない。しかも、日本を訪れる外国人の大半が、中国人、韓国人、台湾人である。テレビ等では、欧米人の外国人をよく取り上げるが、数としては多くない。多くないから、「youは何しに日本へ」などのテレビ番組が成り立つのである。欧米では、この種のテレビ番組は面白くないだろう。何しろ外国人だらけなのだから。
 中国やインドは、人口が多いので国内の観光客数の多い街がたくさんあるだろう。香港には、大量の中国人が訪れる。インドの下町では、人が多すぎて観光客と地元住民、浮浪者の区別ができない。浮浪者の移動や難民の避難は旅行に含まれるのだろうか。国内の人の移動が多いからといって、優れた観光地とは限らない。

 重大事件が増えて、凶悪化していると勘違いしている人が多いが、統計上は、重大事件の件数は減っている。重大事件が多かったのは昭和20年代である。重大事件は減っているが、国民の重大事件に対する不安感が増したことが、重大事件が増えていると思い込む原因になっている。
 警察は、事件の情報をマスコミに流したり、流さなかったりする。マスコミもその事件、事故を取り上げるかどうかは、恣意的である。国民は、マスコミが大きく報道すると、その種の事件が多いと感じる。たとえば、山岳事故の報道が1年に2、3回流されると、国民は、「またか」と感じる。しかし、報道されない交通事故は日常的に起きている。

 弁護士の数が増えれば、訴訟が増えると勘違いする人が多い。弁護士の数が増えているので、訴訟が増えてると勘違いしている人が多いが、現実には、弁護士の数が増えても、訴訟件数は減っている。訴訟件数がもっとも多かったのは明治の初めである。当時、訴訟に印紙代がかからなかったので、訴訟が激増したため、印紙制度が導入されて訴訟件数が激減した。当時の統計数字は、現在の司法統計から削除されている。
 「アメリカは弁護士の数が多いので訴訟が多い」と考える人がいるが、そうではなく、「アメリカは訴訟の数が多いので弁護士が多い」のである。

 山岳事故が多いと考える人が多いが、山岳事故の死亡・行方不明者は年間約300人、海難事故の死亡・行方不明者は約800人である。かつて、自殺者が年間3万人、交通事故死者数が年間1万人だった時代がある。それに比べれば、300人という数字は多いとはいえない。山岳事故は珍しいので、マスコミが大きく報道し、目立ちやすい。自殺や交通事故は、珍しくないので、よほど重大な事故でない限りマスコミが取り上げない。
 御嶽山の噴火事故は、山岳事故であるが、これは、統計上、山岳事故から除外されている。死亡・行方不明者数があまりの多いからである。
 山岳事故の裁判件数が多いと考える人が多いが、山岳事故の裁判件数は、年間1、2件程度であり、少ない。

 専門家にとって「当たり前」のことでも、多くの国民は、それを知らない。専門家の間の「有名人」は、国民には無名であることが多い。専門家が書いた本はたくさんあるが、多くの国民は難しい本は読まないし、読んでも理解できないことが多い。まともな専門書は、よく売れても、5000部程度であるが、ベストセラーの本は100万部以上も売れ、それによって偏った情報が増幅されやすい。

 専門家は、専門分野の知識は多いが、「判断」を求められる場面では、素人と大差ないことが多い。たとえば、原発が水素爆発するかどうかを原子力の専門家は予測できなかったが、原発の職員は予想していた。裁判官は、法律の知識は多いが、ある証人の証言が信用できるかどうかの判断は、素人と大差ない。

 世の中に存在する何百万件もの情報のうち、人間が接する情報はそのほんの一部でしかない。ある人が、どのような情報を得るかは、マスコミ、政治家、役所、環境、社会構造、気質、能力などに左右される。ロールズの述べる格差やアマルティア・センのいうケイパビリティが大きく影響する。
 氾濫する情報の中から情報を選択するに人間の能力が影響する。人間の主体的な能力が、取得する情報の質を左右する。賢明な国民は、賢明な情報を選択する。北欧では、日本のようにテレビのワイドショーの氾濫はない。韓国、中国、台湾と北欧の違いは国民の賢明さの違いである。日本は韓国の社会に近い情緒性がある。夏目漱石が明治時代に悩んだ個人と社会の確執は、現在の日本でも存在する。ここでいう賢明さは、テストでよい点がとれる頭の良さではなく、情報の選択と判断の賢明さを意味している。

 このような偏った情報を前提にものごとが判断される。偏った情報から選挙の投票をすれば、間違った選択になりやすい。日々のさまざまな行動の決定をする際に、間違った認識に基づいて行えば、事故、損害、失敗が生じ、誰もが後悔する。間違った情報に基づく、間違った捜査や裁判。冤罪。山岳事故も、間違った事実認識から起きることが多い。国際的なポピュリズムの台頭の背景に間違った情報に基づく国民の選択がもたらす影響がある。アメリカのトランプやかつてのヒトラーに対するドイツ国民の熱狂的な支持、ドイツ人のユダヤ人の迫害などはその例である。日本の世論も似たようなものである。
 大切なことは、「自分がいかにものごとを知らないか」ということを知ることである。ソクラテスが述べたように。

 事実や現実を把握することから、進歩が始まる。

 福島原発の建屋内で水素が発生する可能性を認識できれば、水素爆発を予見できた。
 山岳事故の死亡・行方不明者は300人程度であり、マスコミで大騒ぎするほどの大問題ではない。世の中には、もっとマスコミが取り上げるべき事件、事故、社会問題は多い。
 日本は、観光人気は高いのに(京都市は世界1)、なぜ、外国人の観光客が少ない(京都市は世界100位のランク外)のだろうか。特に、欧米人の観光客数が少ない(多いと思っているに日本人が多い)のはなぜか。
 日本の裁判の判決文は、世界一緻密だといわれるが、それでも冤罪事件が生じるのはなぜなのか。緻密な事実認定が真実から遠ざかるのはなぜなのか。
 日本は法治国家とされているのに、法律に基づいてものごとが処理されないのはなぜなのか(これを、当たり前だと考える人が多い)。法律の残業規制があるのに、残業が規制されないのはなぜなのか(これを、当たり前だと考える人が多い)。なにごとも、当たり前だと考えれば、進歩はない。


2017年1月25日
御嶽山噴火事故の裁判
 この事故について、遺族から国や県に対し、損害賠償請求がなされた。事前に、警戒レベルを上げなかったことに過失を問うようだ。噴火レベルを上げていれば、事故を回避できたかどうか、「噴火レベルを上げないことが事故につながる」ことを予見できたかどうかが問題になる。噴火レベルが2であれば、登山をしないかどうかは、人によるだろう。
 裁判所は、高度の安全性が要求される場面では、予見可能性を広く判断する。たとえば、事故当時、学校登山が実施され、多くの児童が亡くなれば、学校関係者の予見可能性が認められやすいが、今回の裁判は、学校の責任を問うケースではない。一般の登山者に関する行政相手の損害賠償請求では、予見可能性のハードルは高い。


2017年1月23日
埼玉県の防災ヘリ有料化の動き
 
埼玉県では、防災ヘリの山岳救助活動を有料化する条例が提案されている。これは、山岳地帯のエリアを指定し、そのエリア内の登山者、観光客、病人、住民の事故や交通事故について、救助ヘリの燃料代を有料にしようという案である(仕事中の事故は除外するようだ)。警察ヘリは対象になっていない。
 
 
これに関する法的な問題として、公平性、平等性の問題がある。なぜ、山岳地帯だけ国民の救助活動が有料になるのか。川、原野、渓谷、洞窟、街中での救助は無料なのに、なぜ、山だけが有料なのか。また、なぜ、ヘリだけ有料になるのか。救急車、消防車、パトカーは無料である。仕事中かどうかで区別できるか。趣味と仕事を兼ねた林業従事者とか。規制エリアの指定が難しい。里山などでも有料なのか。
 かりに岐阜県で、山岳地域のヘリを有料にすれば、御嶽山の噴火事故では、防災ヘリだけ有料ということになる。埼玉県では、山岳地域で自然災害が起きれば、山岳救助ヘリは有料になるのだろうか。
 イタリアの雪崩事故で多くの死傷者が出ているが、山小屋や山麓のロッジでのこの種の事故のヘリも有料になる。岐阜県でもこの種の条例ができれば、御嶽山などでの事故でもヘリが有料になる。イタリアの救助中のヘリが墜落し、6人死亡との報道。イタリアでは、それを理由にヘリだけの有料化はしないだろう。問題になるとすれば、救急業務をすべて有料化するかどうかである。

 アメリカでは、法律で、警察、消防などの緊急車両やヘリを500ドルを限度に有料化している州がある。アメリカらしいドライな考え方である。これは、山岳と街中、川、海、を問わないので、公平性を満たしている。パトカーも有料のようである。書物には、「public agency」を有料化し、「including the cost of providing police」と書いてある。ただし、「response」の場合、つまり、被災者が要請する場合に限られる。
 スイスの救急車も有料である(1回5500円)。ただし、スイスでは、救助ヘリ(防災ヘリ)は、かの有名なREGAが運営し、保険でまかなわれ、会員は無料である。非会員は実費負担。登山者はだいたい保険に加入していると思われる。年間約1000回救助ヘリが飛んでいる。もちろん。スイスでは、山岳救助とそれ以外の救助活動を区別することはない。仮に、区別しても、国のほとんどが山岳地帯に含まれることになるだろう。スイスでは、大学の学費が無料、医療費の自己負担が1割、年間自己負担額の上限が7700円、食料品等の消費税と所得税率が日本よりも低いのに高福祉を実現しており救急車くらいは5500円かかることにしても、国民から不満は生じないのだろう(「脱・限界集落はスイスに学べ」川村匡由、2016)。
 

2017年1月22日
トランプ旋風
 
アメリカのトランプ大統領は、「強いアメリカを取り戻す」という邦題の本を書いている。この本の原題は、TIME TO GET TOUGHとなっており、強くなる時だという意味だろう。邦題は、安部首相の(強い・美しい)「日本を取り戻す」という考え方をもじったものかもしれない。
 世界中で、どの国も「強く」なろうとしている。ポピュリズム、ナショナリズム、原理主義的教義、自国中心主義、保護主義が吹き荒れている。それが、国同士の対立と戦争をもたらしている。市場経済は格差拡大を止めることができないという本が出ているが、国際的な競争が格差をもたらし、戦争につながる。アメリカの保護主義も、国際競争の激化がもたらした。
 21世紀は、格差、競争、戦争の時代になりそうだ。

 個人のレベルでも、ホッブズが述べたように、人間同士の対立と戦争状態の中で、誰もが、「強く」なろうとする。その類の本が氾濫している。それが、いっそう激しい人間同士の葛藤をもたらす。それが精神疾患の増加をもたらしている。
 しかし、強くなること、すなわち、競争に勝つという方法に限界がある。すべての者が競争に勝つことはありえないからだ。誰もが、競争の敗者になるまいとして頑張り、勝者は、常に競争をし続けるほかなく、敗者は挫折感、憎悪心などを持ちやすい。
 競争ではなく、格差と競争社会を乗り越える考え方が必要である。
 
競争に勝つことは一時的な自己満足を与えるが、競争に際限がなく、ドロップアウトするか死ぬまで競争が続く。競争に負ければ、終わりである。競争は、成果を上げるにはよい方法だが、競争は人間を幸福にしない。

 日本は何かと生活上のリスクの多い社会であり、リスクを減らすことが「自己責任」の社会である。給料が減ったり、リストラされても、それに対する備えがあれば、「自足」できる。夫婦の両方が働くとか(リスクが2分の1に減る)、ローンがないこと、出費が少ないこと、子供が早く自立すること(日本は世界の中で子供の教育費が突出して多い)、日常生活で必要なものは自分で作ることができること、レジャーは金があまりかからないアウトドア活動をすること(北欧、ドイツ、にニュージーランドなど)など。日本では金使いの荒い浪費的なレジャーが主流だが、オランダ人は世界一のケチと言われ、ドイツ人もケチである。
 日本では、資格を得ても、それだけでは就業や収入は保証されない。有資格者が多く、有資格者間のの競争がある。資格を得ても、収入がないかもしれない前提で、資格を得ること。運がよければ就業できる。教師の資格を得ても、教師になれるとは限らない。博士号を得ても、就業を保証されない。

リスク社会を生きる知恵
・配偶者の収入のあること、トータルとしての世帯収入でリスクを分散させる。
・農業収入、家庭菜園、ゴミを肥料とすること、山林を燃料源とすること。ケチなドイツ人は薪ストーブを使用している。
・不用品をインターネットで販売
・副業的な収入を持つこと
・金のかからないレジャーをすること。釣り、登山などは、ウォ−キング、サイクリングなど。ケチなドイツ人はアウトドア活動を好む。私は、子供たちが小さいころ、スキー場で1円も使わずに、子供たちと雪遊びをした。
・できるだけローンやクレジットを組まないこと
・一定の貯えをすること
・収入を増やすことよりも、支出を減らすことに工夫すること
・競争を無視し、マイペースであること
 この考え方は、現在の自由競争の消費社会の価値観に反する。しかし、日本以外の先進国では、アメリカや資産家を除き、消費に対し質素な人が多い。
 
 こういう話をすると、笑われることが多いが、失業、事故、病気などで収入がなくなった人や、さまざまな事情から競争からドロップアウトした人は、よく理解できるはずだ。
 誰でも、競争からドロップアウトする時が必ず来る。たとえば、人が死ぬとき。あの世に財産や勝敗を持っていくことはできない。死ねば、人はみな自然へ還っていく。


2017年1月21日
役所のサービス残業と天下りの関係
 
役所のサービス残業と天下りは関係がある。
 国の省庁では(自治体も同じだが)、サービス残業が当たり前になっている。他方、国の省庁や自治体では、天下りが当たり前である。ここでいう天下りは、役所のコネや人脈を利用した再就職をさしている。自治体では、「天下り」と呼ばずに、「再就職」と呼ばれる。役所では、長年、安い給料で、長年、サービス残業をしてきたのだから、退職後の再就職程度の見返りはあってもよいはずだと考える。ここで「安い給料」というのは、民間大企業に比べた場合の話であって、国の省庁に勤務するいわゆるキャリア組にとって、民間企業に就職した高校、大学の同級生に比べて、国の省庁の給料は「安い」のである。民間大企業では、50代になれば、高校、大学の同級生たちが課長、部長クラスになっており、国の省庁よりも給料がよい。高校、大学の同級生たちが退職すれば、大企業の関連企業・団体に天下りしているではないか。自分らだけなぜ、再就職が禁止されるのか、というわけである。
 「役所でサービス残業が蔓延しているから、天下りがある」というと、多くの国民は反発する。両者は、論理的な関係はないが、心情的には、無関係ではない。

 社会全体のシステムの中で考える必要がある。格差が拡大すると、公務員攻撃が強くなり(サッチャー改革後のイギリスでそれがみられる)、国家公務員の天下りだけがやり玉にあがるが、自治体や教師などの再就職でも、同様の問題がある。大企業でもみな天下りをしている。教育委員会に受けのよい教師は、退職後、再就職先をコネを通してあっせんしてもらえる。教育委員会から嫌われる教師は、自分で再就職先を探すが、それもコネに頼る。この点は、誰もが常識として知っている。

 退職後の人脈やコネを利用する再就職のあっせんをすべて法律で禁止するのは、範囲を限定できないので、無理である。民間企業との間の不公平が生じる。60歳で退職すれば、退職前の所得を基準に課税され、退職金は老後の生活に必要なので、すぐに再就職が必要である。退職前の就職活動を禁止することは、現実的ではない。民間企業で転職する際に誰でもこれをしている。コネの利用を禁止すれば、自治体の職員の再就職や転職が一切できなくなる。
 それよりも、就職あっせんをを受け入れる側の「倫理」の問題が重要である。早稲田大学が、最初から、人事の過程を情報公開するシステムをとっていれば、このような社会的批判にさらされる人事は、最初からできなかったはずである。たまたま、人事がマスコミにバレて、国民の批判にさらされて初めて、教授が辞任する事態になったが、事前に情報公開をしていれば、最初からこのような人事はできなかった。早稲田大学は、人事にやましいところがなければ、最初から、「学内で審査した結果、元高等教育局長を教授として採用した」と公表すればよいのである。この人事の問題性は、文科省のあっせんよりも、在職中の権限と再就職後のポストの関連性にある。法律で、公務員の在職中の権限と再就職後の職務の関連性のある場合を禁止することは、その範囲や特定の点で、技術的に難しい。また、法律を作っても、法律の抜け道がいくらでも生じる(中間に、別のポストを介在さえるなど)。情報を公開し、常に人事を国民が監視することが必要である。


2017年1月20日
文科省の天下り
 
文科省の元局長が早稲田大学教授に「天下り」したことが問題になっている。
 天下りと能力に基づく再就職を区別すべきだという「専門家」の教授がいるが、両者を区別することは難しい。
 役人の場合、その能力は、肩書と一体であり、肩書を通して能力が判断される。官僚に、「元〇〇省職員」という肩書がなければ、天下ることはありえない。
 再就職の問題は、役所だけでなく、企業でも起きるが、これは問題にされない。
 
 人材をあっせんするOBよりも、受け入れる側が公平、適切に採用をするかどうかが重要である。OBのあっせんを禁止することは、事実上、不可能である。なぜなら、ほとんどの公務員がコネで再就職しているからである。OBがあっせんしても、受け入れる大学がなければ、問題は生じない。受け入れる側が企業であれば、企業の私的な利益の観点から人事を判断するが、大学は、公的な性格があり(国から補助金を受けている)、公益性が要求される。早稲田大学でいえば、外部識者を含む採用委員会などで採用を決めることが必要である。「国のOBの口利きで教授を採用するのは問題である」という意見が、採用時になぜ出なかったのか。採用委員会にはすべての情報を開示して、公平に人事を決める必要がある。そのような判断で元局長を採用したとすれば、法的に問題はない。しかし、法的に問題がなくても、文科省OBの口利きで採用した早稲田大学は世論からの批判を受ける。早稲田大学は、補助金が増えることはないというが、国とのパイプ役として元局長を雇用した点が問題なのだ。文科省の高等教育局長は、大学を管轄しており、元局長は、大学との関係が強い地位にあった。早稲田大学は、元高等教育局長という肩書を「評価」して雇用したはずである。最近、国とのパイプを求める大学が増えている。国に頭が上がらない大学が増えている。弁護士の業界でも、最近、経済的に、国(裁判所、検察庁、法テラス、法務省など)に頭が上がらない弁護士が増えている。大学内部の密室で不明朗な手続、不明朗な(現実には、動機は明らかだが)動機で人事採用することが問題である。

 私の高校、大学の同級生たちは、役所、企業を問わず、皆、再就職の年齢になっている。裁判官や検察官も、退官すれば、OBやコネを通して大手法律事務所、大学、公証人役場、企業などに再就職するが、これは、「天下る」とは呼ばれていない。元検察官が、検察OBの口利きで企業の顧問に就任する場合、これは、「天下り」ではないのか。マスコミの顧問弁護士の多くが元検察官であり、役所の顧問弁護士の多くが元検察官であるのはなぜなのだろうか。テレビのコメンテーターも元検察官の弁護士が多いが、検察OBの口利きがあるのではないか。


2017年1月18日
長野県のスキー場でオーストラリア人が遭難騒ぎ
 
スキー場で迷い、遭難したという報道だが、日本では、スキー場でコース以外を滑降すると非難される。これが、禁止されるかといえば、スキー場の敷地内ではコース外滑降が禁止されるが、スキー場の敷地外では禁止されていない。スキー場の敷地外では、スキー場の管理権が及ばず、山の土地所有者が、禁止の表示をしていないからである。
 欧米では、スキー場内は、どこを滑ってもよいというスキー場が多い。コース外滑降は自己責任で行う。スキー場の敷地外では、進入を禁止された私有地を除き、自然の中をどこでも滑ってよい。自然を自由に利用する権利が保障されているからである。
 これに対し、日本では、自然を自由に利用できるかどうかがはっきりしない。スキー場外の自然の利用は、法的にあいまいであり、事故が起きれば非難されやすい。
 遭難がバックカントリースキー中だったか、スキー場でコースを間違ったかは、それほど問題ではない。八甲田山などは、ロープウェイを降りたら、整備してない雪面がどこでもスキーコースになる(スキールートは自由である)。八甲田山で遭難すれば、やはり、世論は、「コース外滑降」として非難するのだろうか。
 このオーストラリア人は、運よく救助された。遭難者たちを非難するのではなく、温かく迎えるべきである。そのようにすれば、日本人が同様に外国で遭難した場合でも、非難ではなく、救助してもらえることを期待でいるのではなかろうか。グローバル化した国際社会では、お互いさまである。

 スキー場安全条例を作り、捜索救助費用を有料化する自治体がある。そこで問題になるのは、川、海での海難事故、交通事故、町中での救急車、火事の消防車、警察などの救助活動は無料だが、スキー遭難だけ捜索・救助費用を有料にできるのかという問題である。法律や条例は、公平であることがもっとも重要である。有料にするのであれば、街中での救急車も有料にしなければならない。
 交通事故の自損事故とバックカントリースキー中の事故の救助活動は、法的には同じである。バックカントリースキー遭難とスキー場内でスキー客のルート迷い遭難を、法的に厳密に区別するのは無理である。これは、登山者と観光客を区別するのが無理なのと同じである。観光登山という言葉がある。観光気分で山道や林道を歩く人は、登山者なのか観光客なのか。以前、北アルプスのスキー場で、視界が効かず、コースを迷ったことがあるが、救助費用が有料になるのだろうか。そういう自治体やスキー場は敬遠した方がよいだろう。コース外滑降をした外国人に、捜索救助費用を請求すれば、その自治体やスキー場の風評が外国に広まるのではないか。


2017年1月16日

天竜川転覆事故の刑事裁判の判決
 
2011年に起きた天竜川転覆事故について刑事裁判の判決が出た。いずれも、執行猶予付きの有罪判決である。
 
 問題は、民事責任ではなく、刑事責任を問う範囲が、日本では欧米に比べて突出して広いという点である。
 事故現場にいない運営会社の営業課長が刑事責任を負った点は、奇異である。この考え方でいえば、倉ケ城事故の県の観光課長、奥入瀬渓流事故の担当課長、積丹岳事故の救助隊長や本署の担当課長、富士山での救助活動中の事故の消防の担当課長、トムラウシ事故のツアー会社の課長社長、八甲田山スキー事故のツアー会社の上司なども、すべて刑事責任を問われてもおかしくない。事件にするかどうかは、検察庁の気分次第である。つまり、刑事責任を負う範囲が限りなく広くなるということである。「風が吹けば桶屋がもうかる」式に、因果系列は限りなく広いので、世論の非難の対象になる関係者をすべて処罰すれば、処罰対象が際限なく拡大する。
 会社員が勤務中に重大な事故を起こせば、その上司、課長、部長、社長を刑事処罰すべきだろうか。学校でいじめ自殺事件が起きれば、教師や校長は刑事処罰されるべきだろうか。北朝鮮、中国、韓国、戦前の日本では、そのような扱いが可能だろうが、先進国では、過失事故の刑事処罰の範囲を限定している。
 欧米では、この種の事故では、現場で操作した船頭はともかく、担当課長の刑事責任が問題になることはないだろう。事故の被害者の救済は、もっぱら民事責任で行われる。日本では、重大事故の被害者の心情に沿った世論が形成され、検察、裁判所がそれに応じた対応をしているが、通常、すべて執行猶予付きの寛大な判決であり、有罪判決を下すことは気休めでしかない。執行猶予付きの判決が出れば、被告人が喜び、弁護士が「成果」に対し報酬をもらうのが現実である。
 他方で、過失事故の刑事責任の対象を広げることは、日本で、創造的、冒険的な行動を委縮させ、マニュアル的な無難な行動しかしない傾向をもたらしている。それが、東北大震災の被害の拡大を招いた。
 日本では、近年、過失事故の処罰範囲の拡大の傾向が顕著である。日本では、医療事故が刑事責任の対象になるが、欧米では、医師が刑事責任を問われることはほとんどない。山岳事故が刑事責任の対象になることもほとんどない。アメリカでは、医療過誤損害賠償請求訴訟は年間数万件あり、賠償額も大きいが(懲罰賠償)、日本では医療過誤訴訟件数は年間800件であり、賠償額もそれほど大きくない。つまり、アメリカでは、医療事故は民事責任で広く賠償するが、日本では、医師の負担が少ないシステムになっている。アメリカでは、企業が負う損害賠償額が莫大だが、日本では限定されている。欧米に比べて、日本は、損害賠償制度が企業や行政に有利だが、その代わりに、事故の関係者に刑事責任を広く課すことで、国民の不満をかわしていると言ってもよい。刑事判決は、企業や行政にとって金のかからないシステムである。非常に大雑把に言えば、国民にとって、損害賠償をできるだけたくさんもらうことと、金は少ないが執行猶予付きの刑事判決をたくさんもらうこととどちらがよいかが問われている。



2017年1月15日
積丹岳事故と雑誌「山と渓谷」、「岳人」への寄稿
 
これらの雑誌に積丹岳の事故の判決について書いたが(2017年2月号)、いずれも紙数の関係で、新聞記事風に裁判の紹介をした。「山渓」の記事は、「歯切れ」が悪いという意見もあるようだが、それは紙数の関係である。無意識のうちに、山渓の読者層を考慮した面があるかもしれないが。「岳人」の方が、若干詳しくなっているのは、字数が少し多いからである。個人の意見はほとんど書いていない。個人の意見は、このウェブサイトや山岳文化学会の論文に書いている。文章のタイトルは雑誌の編集者がつけた。タイトルの違いは、雑誌の違いが関係しているのだろう。

 「この判決は、山岳救助のあり方に大きな影響を与えるだろう」というネットへの書き込みが多いが、そうではない。公務員個人が損害賠償責任を負わないことは、従前と同じである。海難救助、街中での救急活動は、それなりの技術のある人が救助活動を行っており、今後も問題はないだろう。しかし、山岳救助活動は、すべての自治体ができるわけではない。そういう自治体は山岳救助は民間人に頼るほかないが、それでよいのかという問題である。昭和40年以前は、だいたいそんなものだったが、スイスのような充実した公的な救助体制が必要である。

 この判決の登山者に与える影響は小さいが、それに対し、白馬岳ガイド登山に関する東京高裁判決は、山岳事故の刑事責任に関する予見可能性の範囲がこの判決で一気に広がったので、登山者に大きな影響を与える判決である。登山者はこの事故を非難し、世論は、登山は自分と関係がないと考えてるが、登山関係者に対する影響のきわめて大きい判決である。「これからは、山岳事故やアウトドア活動などのリスクのある行動に関して、刑事処罰しやすくなった」というのが、検察の思惑だろう。一般に、検察関係者は処罰範囲の拡大を望む。それが自分たちの権限と組織をより強固なものにするからである。アウトドア活動をする者は、事故を起こさないように、ビクビクしなければならない時代が来ないことを願っている。戦争前は、登山をすること自体が、非国民扱いであり、事故でも起こそうものなら、国賊扱いだった。現在でも、登山者が事故を起こせば国賊扱いである。
 また、落雷事故最高裁判所判決は、教育関係者の予見可能性の範囲を従来よりも一気に拡大したと考えられ、学校登山の関係者に大きな影響を与える判決である。
 これらの判決に比べれば、積丹岳の事故の判決は、登山者というよりも行政関係者にとって重要な判決といえるだろう。国は、山岳救助体制の整備に本気になるべきではなかろうか。
 この事故に関して、「現実の法律的な意味」以上に、世論が過熱している。1年もたてば、世論の関心は、別の非難対象に移り、ほとんどなくなるのだろうが。



2017年1月14日
残業撲滅運動について
 
最近、例によって、やたらと残業撲滅に関してマスコミがとりあげるが、大切なことは、残業時間の減少は、目的ではなく、結果である。仕事の内容を合理的なものにし、効率をよくすることが重要である。現在のように無駄な会議、無駄な管理、役に立たないマニュアル、報告書作成、無駄な顧客サービスを維持したうえで、労働時間を減らそうとすれば、家に持ち帰って仕事をするなど、新たな形態の過労死をもたらしかねない。頭を使うこと、知恵を使うこと
 弁護士会や裁判所の関係でも、最近、やたらと管理が細かくなっており、これが、司法関係者の事務量と作業量を増やしている。事務量が増えた分、それだけすぐれた裁判ができてきるのかといえば、無関係というのが実情である。
 学校の教師も事務量が増えているが、それが子供の教育に役立っているかといえば、そうではない。役所の管理に役立つだけであり、むしろ、教師の事務量が増加すれば、教師のデスクワークが増え、生徒と接する時間が減るのが現実。



2017年1月13日
出版社幹部の妻殺害容疑・・・あまりにも珍しくない事件
 
出版者の編集部次長が妻を殺害した容疑で逮捕された。
 これは、あまりにも、よくあるパターンの事件だという印象がある。
・高学歴の優秀な人間はDV事件をよく起こす。大企業や役所の有能な人のDVは多い。教師(実際に扱ったことあり)、警察官(実際に扱ったことあり)、研究者、医師(実際に扱ったことあり)、役所の幹部(実際に扱ったことあり)、高級官僚(かつて、本多勝一が書いていた)、弁護士(マスコミ報道ほど多くない)や裁判官(裁判官の妻が書いた本を読んだことがあるが、件数としては多くないだろう)などのDV、ストーカー事件。
・長時間労働と過労状態、ストレス。過労やストレスは、ある種の人に過労死をもたらし、ある種の人には、DVをもたらす。真面目な人はうつ状態になり、行動的な人はストレスが他人への攻撃性を強めるようだ。攻撃的な人ほど営業成績がよいという印象あり。
・妻のうつ状態。妻がうつ病だったかどうかはあいまいだが、DV事件ではうつ状態になることは多い。高学歴の夫とDV、うつ状態の妻。これは、余りにもよくあるパターン。
・日本では、欧米に較べて家族内の殺傷事件が多いと言われている。韓国も日本に似ている。韓流ドラマは、日本では受けるが、欧米では受けない。

 以上は、弁護士の仕事上、珍しくない事件だというだけであって、弁護士が扱う「よくある事件」は、社会の中では、特殊な事柄ばかりである。何をもって、「珍しい」と言うかは、基準次第。それだからこそ、マスコミが取り上げる。




2017年1月9日
格差の拡大
 
社会のあらゆる場で格差が拡大している。
 日本では、格差の拡大を非難する世論が強いが、他方で、格差の頂点に立つ人たちをマスコミがもてはやし、それに憧れる人が多い。巨大な格差は憧れの対象として容認されるが、自分の周囲の些細な格差は、「差別」として敏感になりやすい。学校などで少しでも他人と違う扱いを受けると「差別」だと言う人が多い。能力や個性を含む人間の生物的な格差と、社会的な格差が区別されない。
 ヒトラーは、「大衆は、小さな嘘にはすぐに気づくが、巨大な嘘には簡単に騙される」、「簡単で短くわかりやすいスローガンを繰り返し、何千回も唱えれば、大衆はそれを受け入れるようになる」という趣旨のことを述べたが、これは、まるで、日本の選挙活動のようだ。
 格差に不満を持つ人が多いが、結果的に、格差を拡大する現在の政策を支持する人が多い(それで現在の状況が生まれている)。自分の行動が、結果的に格差の拡大につながることを自覚しない人が多い。日本と北欧の違いはその点にある。


 格差を、国民は、イヤだイヤだと言いながら、他人まかせで容認し。


2017年1月6日
韓国は法治国家ではない

 
最近の韓国の状況を見ていると、法治国家とはいえないようだ。このままでは、社会全体が崩壊するのではなかろうか。
・歩道に像を設置することは、韓国でも道路交通法違反だが、国民感情を重視して黙認されている。日本でも、歩道にはみ出た自動販売機、店舗は違法だが、黙認されている。
・韓国で裏口入学が問題になっているが、韓国でも日本でもそれ自体は違法ではない。韓国では、国民感情を重視して、今、処罰の対象になっているようだ。従来、容認されている裏口入学を特定の場合だけ違法とするのは不公平。日本でも、裏口入学があるが、違法ではない(自由競争)。スポーツ推薦入学や一発芸での推薦入学は、不公平な特別扱いであり、裏口入学と実態は同じ。
・国民感情を重視して、法を無視することは、戦前の日本でも行われていた。ナチスのユダヤ人迫害も、当時のドイツ人の圧倒的多数の国民感情に合致していた。
・日本でも、検察庁が起訴するかどうか、裁判所の量刑は国民感情を考慮するが、それは恣意的になりやすく、不公平である。処罰内容が世論次第というのでは、世論に逆らえない。戦前の日本では、非国民と非難されると何もできなかった。これは、法治国家とはいえない。
・日本、韓国、中国の法文化は似ている。韓国で起きていることは、日本の法文化を極端にしただけである50年前の日本は、コネで動くコネ社会だった。学校の教師の採用もコネ採用がけっこうあった。郵便局、農協、役所などでもコネ採用があった。日本の田舎は現在でもコネ社会である。弁護士の世界も、コネ社会である。コネを頼って依頼者が来る。
 中国から見れば、日本はゴミがないと言われるが、40年前の日本はゴミだらけだった。今の中国は、40年前の日本である。現在でも、日本でも吸い殻が落ちていることが多く、清潔さではドイツや北欧、スイスに及ばない。
 
 日本も韓国も大差ないと感じることが多い。




2017年1月3日
変化を受け入れくい日本の社会

 日本の社会には、変化を受け入れにくい傾向を感じる。
・アメリカの裁判例を読んでいると、事案に合わせて理屈を考え、「変化」を感じる。
 これに対し、日本では、最高裁判例や先例を踏襲する傾向が強い。前例踏襲、固定、マニュアル化の印象がある。最高裁を頂点に整然とした判例の体系に従って裁判がなされる。そうであれば、裁判官ではなく、官僚が裁判をすれば足りるのではないか。法律や判例を覚えて、それを適用するだけであれば、それほど考える必要がない。
・この傾向は、災害対策、避難マニュアルでも感じる。大川小学校のケースのように臨機応変の対応ができない。
・日本の登山道は、「登山道はどうあるべきか」を考えて整備することがない。すべてなりゆきにまかせて、「いつのまにかこうなってしまった」という場合が多い。登山道の現状は、 なりゆきまかせせにした結果でしかない。
・日本は、管理優先社会である。さまざまなシステムや制度は、制度を運営する側に都合がよくできている。管理のための制度。
出る杭は打たれる。



                            


「登山の法律学」、溝手康史、東京新聞出版局、2007年、定価1700円、電子書籍あり

                                

               
  
 「山岳事故の責任 登山の指針と紛争予防のために」、溝手康史、2015
        発行所 ブイツーソリューション 
        発売元 星雲社
        ページ数90頁
        定価 1100円+税

                               

                      
  
 「真の自己実現をめざして 仕事や成果にとらわれない自己実現の道」、2014
        発行所 ブイツーソリューション 
        発売元 星雲社
        ページ数226頁
        定価 700円+税
                               


                                

「登山者ための法律入門 山の法的トラブルを回避する 加害者・被害者にならないために」、溝手康史、2018
       山と渓谷社
       230頁

      
972円