妙義山縦走路・登山道のあり方・登攀路の提唱 「登攀路」の概念と、「登攀路」にふさわしい登山のスタイル 溝手 康史 妙義山全景 はじめに・問題の所在 妙義山の縦走路は、岩稜が多く、危険個所に多数の鎖が設置されている。妙義山の登山道の入口には、「一般登山者は登らないこと」、「登山の上級者でも危険」、「岩登りの経験や技術が必要」、「ザイル等が必要」などと記載された看板が設置されている。それでも、妙義山の縦走路での事故が後を絶たない。平成21年には13件の事故が起きている(2名死亡)。妙義山は、群馬県では谷川岳についで事故の多い山である。谷川岳の事故のほとんどはクライマーの事故であるが、妙義山の場合は一般登山者の事故である。あまりにも事故が多いので、平成22年に、警察が、事故が多発する鷹戻し付近の鎖と梯子を撤去しようとした。鎖などの撤去に賛否両論出たが、結局、危険個所の鎖などの人工的設備を増やす方向で進んだ。 しかし、その後も、妙義山での事故が続いており、平成27年の前半だけで、妙義山で5件の事故が発生している。鷹戻し付近では、毎年のように重大事故が起きているようだ。 一般に、登山道を鎖や梯子などの人工物で整備すれば、誰でも登ることができるようになるが、これが初心者登山者の増加をもたらし、事故が増える。妙義山の縦走路も、鎖がなければクライマー以外には登れないが、鎖で整備すれば、誰でもでも登れると考えやすい。なぜなら、日本の登山道に設置された鎖や梯子は、そのほとんどが誰でも登れるようにするために設置されているのが通常だからである。鎖や梯子が設置されているのに、「岩登り経験が必要」と看板に表示されても、多くの登山者はピンとこない。他の登山道の鎖や梯子のイメージで登る登山者が多いのではないだろうか。 妙義山の縦走路のような問題は、妙義山だけの問題ではない。槍ヶ岳は大量の梯子で整備され、小学生でも登れるようになった。槍ヶ岳・穂高岳間の縦走路にもっと梯子や鎖で整備すれば、初心者の登山者が増え、事故も増えるだろう。妙義山でも、鎖の数を増やし、岩にステップを刻むなどの人工的措置がとられたが、いっこうに事故が減らない。登山道に、鎖や梯子を設置すれば、登山者数は確実に増えるが、事故が減るというものではない。これらの問題は、登山道の整備のあり方はいかにあるべきかという問題を提起している。 ここでは、この問題を科学的に考えること、すなわち、妙義山の登山道の危険性の内容を検討し、それに必要な登山者の能力を明らかにすることが重要である。妙義山の登山道の特徴を明らかにし、それにふさわしい管理のあり方を検討したい。 妙義山の縦走路の危険性 妙義山の縦走路が危険なのは、鎖の数が多いこと、鎖が長いこと、鎖の傾斜がきついことなどの点にある。垂直の岩壁や若干被り気味の岩壁にも鎖が設置され、岩場に不慣れなことや、疲労や握力の低下から鎖から手が滑ってしまう危険性がある。軍手をつけてほぼ垂直の鎖を登っている人が少なくないが、思わずぞっとする(軍手をつけると、鎖が滑りやすい)。 妙義山の縦走路には、それ以外にも、体力やルートファインディングに関わる危険性がある。縦走路にアップダウンが多いため、体力を消耗しやすく、暑い時期には熱中症の危険がある。また、縦走路は岩壁を巻く個所やルートが崩壊して巻道になっている個所が多く、支尾根に入り込んでしまう危険がある。ルートが稜線通しについていないので、迷いやすい。ただし、体力やルートファインディングの危険性は、妙義山の縦走路に特有の危険性ではなく、どこの山でも程度の差はあるが、共通する危険である。縦走経験のある登山者は、体力やルートファインディングに関わる危険は対処可能である。しかし、鎖場の危険は、縦走経験があるというだけでは、対処できない。ただし、妙義山の縦走路のアップダウンで体力を消耗した登山者が、鎖場で疲労から体重を支えきれなくなる可能性があり、体力と鎖場の危険性は関係がある。 事故は、初心者登山者やハイカーだけでなく、登山歴の長い縦走登山のベテランも起こしている。これは、登山者が考える登山能力の基準とルートの困難度の基準のミスマッチによるものだろう。ルートの困難度と、妙義山を縦走する登山者のレベルが合っていれば、事故は起きない。登山の危険性は(安全性と言い換えてもよい)、ルートの困難度の程度と登山者の能力のミスマッチによってもたらされる。 登山能力の基準とルートの困難度の基準のミスマッチは、妙義山に限ったことではない。日本語の「登山」という言葉の内容があいまいであり、妙義山に「登山の上級者でも危険」と表示されても、「登山の上級者」の内容は、考える人によってバラバラである。縦走経験の豊富な人を「上級者」だと考える人もいれば、体力のある人を「上級者」だと考える人、クライミングをすれば「上級者」だと考える人もいる。しかし、長時間歩けること、縦走経験が多いこと、重荷を背負えること、登攀技術のあることは、それぞれ性質の異なる能力であり、これらを同列の程度問題として「上級」かどうかを考えることはナンセンスである。これは、短距離の選手とマラソンの選手を較べて、どちらが「上級」かを議論するのと似ている。マラソンの選手は、短距離を走ることはできるが、得意ではない。短距離の選手は、訓練しなければマラソンを走ることはできない。クライマーは縦走はできるが、それが得意だとは限らない。縦走しかしたことがない人は、クライミングの訓練をしなければ、クライミングをするのは無理である。 ネットに、下記のような書き込みがあった。 「山の難易度パラメーター …★★★★★★★★☆☆ 今回は奥の院〜タルワキ沢エスケープのため、難易度8とします。 タルワキ沢の先、鷹戻しへ行く場合は難易度10になります。 また、鎖場未経験の方のこのコースへの挑戦は私は止めるべきだと思います。 本当に落ちたら死ぬ世界となるので、登る場合は万全の準備で臨んで下さい。」 「※北アルプスの大キレットや剱岳の比ではない!・・・両者を経験していないのでよくわかりませんが、両神山の八丁峠や小鹿野町にある二子山(上級コース)を比べると幼稚園児の遊具みたいに感じます。それだけ1発の鎖場の難易度が高く命懸けです。 ※鎖を全力で握り腕力で身体を引き上げる・・・確かにスタンスが取りづらいので全力で握りしめる鎖場はあります。しかしながら、全力で握るあまり鎖をブチ切ってしまったら・・・と一抹の不安が残る中、登攀用具無し、革手袋のみで腕力・集中力を発揮して縦走を決行してきました。私的な鎖場の難易度の順は、@ルンゼ25m2段鎖場A奥の院30m3連鎖場B鷹返し50m鎖場・・・その他諸々、特にこの3つの鎖場が殺人的鎖場の舞台となります。」 これらの書き込みは、歩く登山を基準に一般の登山道と同じ基準で考えている。しかし、後で述べるように、妙義山の縦走路は、歩く登山道ではなく、登攀路である。妙義山の縦走路は、「歩く登山道」としては圏外、登攀路としては中級レベルである。初級の登攀路でも、「本当に落ちたら死ぬ世界」であり、登攀としては、「技術的に易しいが、危険」である。困難度と危険性は異なる。フルマラソンを走ることは、困難であるが、それほど危険ではない。「困難度と危険性は異なる」という自明のことが、なぜか、登山では、しばしば混同される。 最上級の歩くルートは、「本当に落ちたら死ぬ世界」ではない。踏跡程度の藪山を何日も歩くルートは、歩く登山道としては困難度が高いが、「本当に落ちたら死ぬ世界」ではない。 妙義山の縦走の登攀的性格を明らかにするためには、歩くルートと同じ基準で困難度を考えてはいけない。 山歩きと登攀に必要な能力を区別し、能力に応じたルートを選択することが必要である。 妙義山の縦走路での事故の多くは、ルートの性格と登山者の応力のミスマッチから起きていると思われる。 傾斜がきつい岩場の鎖 至るところに鎖がある 妙義山の縦走が要求する登山者の能力 妙義山の縦走が要求する登山者の能力としては、体力、ルートファインディングの力以外に、「岩場や長い鎖を安全に登下降できる力」が必要である。体力、ルートファインディングの力は、どこの山の縦走でも必要とされる。「岩場や長い鎖を安全に登下降できる力」が、まさに、妙義山特有の能力である。しかし、この能力の内容が理解されにくいことが多くの事故をもたらしている。 前記のとおり、妙義山の縦走路の入口に、「登山の上級者でも危険である」、「岩登りの経験や技術が必要」などの看板が立っているが、その意味がわかりにくい。 そもそも、「登山の上級者」とは何だろうか。縦走経験の豊富な登山者は、自分が登山の「上級者」だと考えやすい。クライミングの経験者は、登山の「上級者」とみなされやすいが、体力やルートファインディングの力がなければ、妙義山の縦走をすべきではない。 「岩登りの経験や技術が必要」、「ザイル等が必要」などの表示についても、妙義山の縦走では、鎖を使用すれば、通常は、ロープ(ザイル)を使用する必要がない。鎖が切れないことを信用しない人、ロープワークの練習をする人以外は、ロープは非常用に持参することになる。 また、クライミングの経験や技術のない登山者でも縦走しており、そういう人の記録がネットに氾濫している。現実に、クライミングの経験や技術のない登山者でも縦走可能である。 結論からいえば、妙義山の縦走は、「登山の上級者でなくても可能だが、登山の上級者であっても危険である」、「ロープがなくても縦走可能だが、非常用にロープを持参した方がよい」、「クライミングの経験や技術がなくても縦走可能だが、クライミングの経験や技術があった方が、より安全である」ということになる。しかし、これだけでは、何のことかわからない。これらの言葉は、「岩場や長い鎖を安全に登下降できる力」についても、何も語っていないからである。 妙義山は、クライミングの経験や技術がなくても登ることができるが、岩に慣れていることが必要である。岩に慣れていること=クライミングの技術と勘違いする人がいるが、両者は同じではない。クライミングをしない人でも、登攀や岩場の縦走等をすることで、岩に慣れることができる。また、生まれつき岩場でのバランスのセンスのある人もいる。 岩場に不慣れな人は、鎖の登降で無駄な腕力を使いやすい。もし、腕力を使い果たし、腕がパンプすれば、鎖を持った時に転落する恐れがある。しかし、クライミングの熟練者は、妙義山の鎖場で腕力をほとんど使わない。また、岩に慣れた人は、妙義山の鎖場で使う腕力の程度が少なくてすむだろう。この違いは、岩場でのバランスや足の使い方の差による。妙義山の岩場は、傾斜が60度から70度程度なので(傾斜がそれほどきつくないということ。これを、岩が「寝ている」などと表現する)、足の使い方次第で、腕力をそれほど使わない。一般のクライミングの場合でも、傾斜が60度から70度程度の岩場では、懸垂が1回もできない人でも登ることができる。しかし、懸垂が50回できる人でも、クライミングの下手な人は、60度の傾斜の岩場でも登れない。オーバーハングですら、人工登攀の場合には、懸垂が1回もできない人でも登ることができる。多少の腕力を必要とするクライミングはスポーツクライミングであり、これは妙義山の岩場などとは関係ない。 しかし、傾斜が60度から70度程度の傾斜は、同時に、岩に不慣れな人には、腕力を使い果たすおそれのある傾斜である(岩に不慣れな人には傾斜がきつい)。岩に足で立つことができれば、鎖はバランスを保つ程度に掴めば足りるので、腕力をほとんど使わないが、そうでなければ、腕力をひどく消耗するおそれがある。 妙義山の縦走に腕力は必要ない。懸垂が1回もできない人でも、縦走可能である。逆に、懸垂が50回できる人でも、無駄な力を使えば、妙義山の縦走は危険である。 ネットに、「妙義山では腕力が必要」という記述が多いことに驚かされる。ガイドブックにも、そのように書いてあるものがある。「妙義山では腕力が必要」という登山者は、間違った登り方をしている。妙義山では、腕力を使わない登り方をしなければならない。腕力だけで自分の体重を引き上げようとすれば、1、2本の鎖だけで、腕力を使い果たす可能性がある。被った岩場は通過時間が短ければ短いほど、腕力を使わない。妙義山でも、岩場に不慣れな人は、鎖にぶら下がる時間が長ければ、腕力を消耗する。筋肉は、同じ姿勢を10秒も保持すれば、あっという間に消耗する。これは、自宅でやってみればすぐにわかる。同一の姿勢での筋力保持は、一瞬でなければならない。恐いのは、岩に不慣れな人は、自分が腕力を使いすぎていることに気づきにくい点である。「腕力の消耗」は目に見えない。腕がパンプして初めて腕力の消耗が目に見えるが、もはや手遅れである。 もし、縦走の途中で腕力を使い果たしてしまえば、腕が使えない。人間の腕力や握力は、足腰の筋力と比較すれば、実に頼りない。腕がパンプすれば、鎖での下降は無理である。パンプした腕で鎖を掴んで下山しようとすれば、転落しやすい。その場合に、ロープがあれば、懸垂下降して安全に下山できる(ハーネスと懸垂下降の技術が必要)。私も8ミリ、15メートルのロープを持参したが、ザックから出すことはなかった。 ネットに、「妙義山の岩はホールドが少なく、フリクションがきかない」という書き込みがあったが、私の経験では、妙義山の岩はホールドが多く、フリクションがきく。ただし、穂高や剱岳ほど多くのホールドはないし、フリクションはきかない。クライミングの経験がなければ、岩のホールドが見えず、フリクションを使えないことが多い。 妙義山の難所とされるチムニーにも、足を置けるホールドや足を押しつけることのできる場所がたくさんあり、この難所の登降は容易である。しかし、岩に不慣れな人は、ここでかなりの体力と筋力を使う恐れがある。 「岩に足で立つ」ことは、ある程度クライミング経験をしなければ、身につかない。しかし、岩に足で立つことをせず、鎖場で腕力をかなり使ったとしても、それを上回る腕力があれば何とかなるかもしれない。現実に、多くのクライミング未経験者がこのルートを縦走し、ネットに、「腕力をかなり使ったが、問題なく縦走した」という感想を書いている。したがって、クライミング経験や技術がなくても、縦走は可能だろう。ただし、後述するように、多少の「岩のセンス」がまったくなければ、腕力勝負の鎖の登降になり、かなり危険である。妙義山の縦走では、「いかに腕力を使わないか」が重要であり、それが「妙義山での安全登山」のポイントである。 クライミングの技術、経験は、鎖場での安全性を高めるが、「クライミングの技術、経験がなければ、登れませんか?」と聞かれれば、それらは、必ずしも必要ではないと言うほかない。 「岩場や長い鎖を安全に登下降できる力」は、簡単に言えば、鎖や岩場に慣れていること、岩場でのバランスである。腕力は、「岩場や長い鎖を安全に登下降できる力」そのものではなく、それを補う関係になる。 クライミングをしたことがない人でも、岩場に慣れている人やバランスのよい人は、妙義山の縦走路は、それほど困難ではないだろう。鎖や岩場に慣れることや岩場でのバランスの習得は、クライミングの訓練で可能だが、クライミングをしなくても、例えば、槍穂の縦走、西穂・奥穂の縦走、八海山、北鎌尾根などの岩稜の縦走登山の経験でも習得可能である。「登攀路」の経験により、ある程度までは岩場でのバランスが養われる。 また、若い男性や筋力のある人は、鎖や岩場に不慣れでも、腕力でカバーでき、事故にならないことが多いだろう。しかし、若い男性でも、腕力だけで鎖を登れば、かなり危険である。20代の男性でも妙義山で転落死している。 妙義山の縦走路を登るためは、自分に、「岩場や長い鎖を安全に登下降できる力」があるかどうかを判断しなければならないが、この判断が難しい。縦走のベテランが、この判断をまちがえやすい。縦走登山の経験の中に、多くの鎖や岩場、岩稜登山の経験が含まれていれば、「岩場や長い鎖を安全に登下降できる力」が自然に養われることが多い。しかし、北アルプスなどの通常の一般ルートで登山をするだけでは、「岩場や長い鎖を安全に登下降できる力」は養われない。登山歴○○年は、妙義山の縦走では無意味である。ランニング歴の長い人が、短距離を早く走れるとは限らないのと同じである。妙義山では、登山歴の長い登山者も遭難している。 岩場に対する向き不向きは、適性の問題が大きい。一般的にいえば、クライミングをしたことがない人でも、岩場や岩稜歩きの好きな人は、岩場に対する適性のあることが多い。岩場や岩稜歩きがあまり好きではないという人は、岩場に対する適性がない人が多い。岩場に対する適性があれば、クライミングの訓練をしていなくても、岩場や長い鎖を安全に登下降できるだろう。 妙義山で事故を起こしやすい人は、「岩のセンス」のない人である。これは、差別や偏見ではなく、人間の個人差の歴然たる事実である。短距離走の早い人と遅い人がいるのと同じく、人間の能力差である。自分の命にかかわることであり、この「差」を軽視してはならない。 岩のセンスは、個人差が大きい。初心者のクライミング講習などでは、岩のセンスの個人差が大きいことを、いつも痛感する。岩のセンスには先天的な能力の差があるが、日常生活では、岩のセンスの差を認識できる機会がない。しかし、岩場でのバランスは、訓練によって、誰でもある程度は身につく。その点では、岩場でのバランスは、長距離走の能力や、ボッカ力に似ているといえよう。訓練次第で、飛躍的に伸びる。 クライミング経験のない人は、自分に、「岩のセンス」、「岩場でのバランス」があるかどうかを判断する必要がある。「岩場や岩稜歩きが好きかどうか」が、ひとつの判断基準になる。「岩のセンス」のある人は、「岩場や岩稜歩きが好きな人」が多い。岩のセンスがなくても、クライマーをめざすのでない限り、登山に支障はない。登攀の訓練をすれば、誰でも「岩場でのバランス」が身につき、妙義山の縦走を安全に行うことができる。 警察や自治体関係者が、「一般登山者は登らないこと」、「登山の上級者でも危険である」、「岩登りの経験や技術が必要」、「ザイル等が必要」などの看板表示をするのは、「長い鎖を安全に登下降できる力」が必要だということを示す努力の表れだと考えられる。これらの看板は、「ロープがなければ妙義山の縦走が不可能」だということを意味するわけではなく、「妙義山の縦走路は、ロープを使うような登山の経験のある人に向いている」、「非常用にロープを持参した方がよい」ことを示そうとしていると理解できる。 岩のセンスは、あるかないかではなく、岩のセンスの程度に大きな幅があるということである。妙義山の縦走では、岩のセンスの著しく欠ける人は、事故の危険が高い。岩のセンスのない人は、岩場での訓練を通じて、「岩場でのバランス」を養ってから妙義山の縦走を行えば、安全な登山が可能である。「岩場でのバランス」は、登山の基本技術に含まれる。 登山の危険性とは何か 誰でも簡単に安全であるとか、危険であるか言うが、その内容を理解している人は多くない。薬の危険性とか、原発の危険性とか・・・・・ 登山の危険性は、気象、地形などの自然のリスクやルートのレベルに登山者の能力が適応していないことから生じる。ルートの困難度の程度と登山者の能力がミスマッチであれば、その登山は危険である。 妙義山の登山道は、鎖や岩場に慣れた人は、ほとんど危険性はないが、不慣れな人には、極めて危険なルートである。「一般登山者は登らないこと」、「登山の上級者でも危険である」、「岩登りの経験や技術が必要」、「ザイル等が必要」などの看板表示は、ルートのレベルに応じた登山者であることを求める表示なのだが、妙義山の登山道が要求する登山者のレベルの内容を適切に表示する日本語がない。その理由は、従来の日本の登山は、山歩きが中心であり、他方でクライミングは特殊な形態の登山だという登山観があったからである。この点は、山頂まで歩いて登ることができる日本の山岳地形に由来している。ヨーロッパアルプスでは、山頂に登ることは、climbingであり、climbingが登山と和訳された。climbingは、同時に日本のクライミングを意味するが、これは登山とは別のもの、ないしは、登山の特殊な形態とされた。climbingは、登攀と和訳されることもある。そのため、「climbing」、「登山」、「登攀」、「クライミング」という言葉が、混乱して使用されている。 妙義山の縦走は、「climbing」、「登山」、「登攀」には、該当するが、「クライミング」ではない。日本では、クライミングはロープを使って切り立った岩壁を登ることを意味し、鎖や梯子の登降は、通常、日本語の「クライミング」とは呼ばない(しかし、鎖や梯子の登降は、climbingである)。妙義山の縦走は、「クライミング」ではないが、登山(climbing)であるということになる。 妙義山の縦走は、山歩き(walking)の部分と登山・登攀(climbing)の部分が混在している。英語のclimbing が日本語の「登山」であり、「climbing route」は登山道という訳になるが、日本語の登山道のほとんどは、「walking route」である。climbing=登山=walkingというおかしな等式が日本にはある。「道」や「路」はもともと歩くことを意味するので、「walking route」という訳になる。「mountain climbing route」を「登山道」と和訳すると、クライミングルートを歩く道と勘違いすることになる。 妙義山の縦走路に、山歩きやクライミングとは別のものが含まれていることを表現するには、「登攀路」と呼ぶのがよい。「路」に、walking routeのイメージがあり、適切ではないが、他の適当な日本語がない。「登攀ルート」と書くと、「クライミングルート」の意味になり、これまた誤解される。「moutain climbing route」は、日本語の山歩き道、登攀路、クライミングルートをすべて含むので、「登攀路」を英語で表記するには、「touhanro」とするほかないだろう。 登攀路の概念 妙義山の縦走路を表示するには、「登攀路」という言葉が適切である。ある雑誌に、妙義山の危険個所を、「一般の登山道とは異なる、危険度が非常に高いアルパイン的なルートである」と表現していたが(「山と渓谷」902号167頁、「妙義山 整備か登山禁止か?」)、同じ意味である。従来の登山用語では表現できないので、新しい用語を使う必要がある。 「登山の上級者」という言葉は、山歩きの上級者を意味する場合と、クライミングの経験者を意味する場合があるが、前記のとおり、妙義山の縦走の適格者は、山歩きの上級者では不十分であるが、クライマーである必要はない。登山に関する「山歩き」、「クライミング」という伝統的な二分法では、妙義山の縦走は、分類からはみ出てしまう。 妙義山の縦走路を「最上級」の登山道だと考えると、山歩きの延長上のイメージで理解され、自信過剰のハイカーが挑戦したくなる。クライミングルートだと聞けば、ハイカーが立ち入ることはないが、現在の妙義山の縦走路はクライミングルートではない。鎖を撤去すれば、妙義山の縦走路がクライミングルートになり、ハイカーが立ち入ることができなくなるという発想は、十分、理解できる。 妙義山の縦走路は、ハイキングルートでもクライミングルートでもなく、登攀路である。登攀路は、山歩きと登攀がミックスしたルートである。登攀は、よじ登ることであり、歩く行為と区別される。歩く登山は、hikingであり、富士山の登山はhikingであり、妙義山の登山は登攀である。climbingはhikingと区別されるが、日本語の登山は、hikingが中心であり、climbingを登山と和訳するため、混乱が生じている。 登攀路で要求される能力は、クライミングの能力ではなく、climbing(登山)の能力である。これは、岩場に慣れているとか、鎖の登降を安全に行える能力であり、クライミングの能力ではない。日本語のクライミングと英語のclimbingが異なる点は、わかりにくい。日本語のクライミングは岩登りをさし、climbingと同じではない。歩く登山はhikingであり、これも日本語のハイキングとは異なる。日本語のハイキングは、軽い登山をさし、climbing(登山)を一部含むため、混乱に拍車をかける。climbingを登山と和訳したことから、概念の混乱が生じた。妙義山の縦走路では、クライミング(岩登り)の技術は不要だが、鎖を登るバランスなどが必要である。これは、climbing(登山)の能力に含まれる。 歩く行為とよじ登る行為は、使用する能力が異なる。重荷を背負って長時間歩ける人は、縦走の上級者だが、妙義山を安全に縦走できるとは限らない。「登攀路」という用語を使うことで、縦走路の中で、山歩きとは別の能力が必要となる登山道を表現することが可能になる。妙義山の縦走路の入口に、「登山の上級者でも危険である」、「ザイル等が必要」と表示するのではなく、「登攀の能力が必要」、「岩場に慣れていることが必要」、「登攀路」という表示をする方が正確である。 登攀路としては、妙義山の縦走路以外に、槍ヶ岳、剱岳別山尾根、石鎚山の山頂直下、戸隠山、八海山、飯豊山ダイグラ尾根、槍穂縦走路、剱岳〜三の窓間、剱岳源次郎尾根、前穂北尾根、槍ヶ岳北鎌尾根などがあるが、槍ヶ岳は大量の梯子で整備され、登攀路としては非常に易しくなっている。別山尾根や槍穂縦走路は、鎖と梯子で登りやすくなったが、それでもかなり危険なルートである。 登攀路は、梯子や鎖で整備されなければ、ロープを使用するルートになる。源次郎尾根や北鎌尾根には鎖や梯子が一切ないので、一部がロープを使用するルートになっている。しかし、源次郎尾根や北鎌尾根はクライミングルートではない。源次郎尾根は、1個所ロープを使用して懸垂下降する場所があるが、他はロープは不要であり(初心者のためにロープを使用することはある)、懸垂下降はクライミングではない(下ることは、クライムではない)。北鎌尾根でも、通常、ロープを使うのは1個所だけである。しかし、源次郎尾根や北鎌尾根に鎖や梯子を設置すれば、別山尾根のような一般ルートとしての登攀路になるだろう。 登攀路としての妙義山の縦走路のレベルは、槍穂縦走路よりも難しいが、源次郎尾根よりも易しいといったレベルだろうか。源次郎尾根や北鎌尾根でも事故が起きているが、妙義山の方が事故件数が圧倒的に多い。妙義山でハイカーの事故が多いのは、妙義山が、ロープ不要の「鎖で整備された登山道」だと考えられているからだろう。 日本では、登山を山歩きとクライミングに二分する発想があり、ルートも登山道とクライミングルートに分けることが多い。妙義山の縦走路は、クライミングルートではないので、「山歩きの登山道」に分類され、「最難関の登山道」とされる。源次郎尾根は懸垂下降が必要な場所があり、クライミングルートに分類されるので、通常、ハイカーは入り込まない。しかし、妙義山の縦走路は、「山歩きの登山道」ではなく、「登攀路」である。源次郎尾根も、大半が立って歩ける程度の2級の岩場であり、登攀路である。妙義山の縦走路は、登攀路としては、中級程度である。 妙義山の縦走路を登攀路として理解すれば、そのレベルを把握しやすいが、妙義山の縦走路を「山歩きの登山道」に分類すれば、「最上級の登山道」という認識が生まれる。しかし、これでは、妙義山の登攀的要素が表現されず、その危険性を理解できない。 ハイカーは、クライミングルートだと聞くと自分の登山の対象ではないと考えるが、「最上級の登山道」であれば自分の登山の対象だと考えやすい。妙義山の縦走路が源次郎尾根よりも少しやさしいレベルの登攀路だと聞くと、ハイカーは妙義山の縦走が自分の登山の範疇を超えることを認識しやすい。 「登攀路」の概念が登山者に浸透することが必要であるが、問題は、日本の登攀路の多くが、鎖と梯子で整備されることによって、「誰でも登れるルート」になっていることが多いという実情である。登攀路が鎖と梯子で整備されて一般ルート化されると、登攀路とそれ以外の登山道の区別が意識されなくなる。現状では、槍ヶ岳は通常の「一般の登山道」であり、別山尾根、槍穂縦走路は、「上級の一般登山道」として認識され、登攀路として意識されない。しかし、登攀路を鎖と梯子で整備しても、鎖から手を離したり、梯子から転落すれば、重大事故になることは当たり前である。槍ヶ岳などでは梯子から転落する人は非常に少ないし、剱岳別山尾根でも、鎖から手を離す人は少ない。しかし、妙義山では、鎖の数が多く長いために、鎖から手を離す人は少なくないという違いがある。 日本で、すべての登山ルートを、鎖や梯子で誰でも登れるように一般ルート化して、「登山道」にしてしまう傾向が、妙義山の事故の多さをもたらしている。鎖や梯子の多用は、もともと危険なものを安全であるかのように錯覚させる。妙義山のように、もともと危険な登攀路を鎖と梯子で「安全化」することに限界がある。「鎖と梯子の数を増やせば事故は減る」という意見が、ほとんど宗教的確信のように唱えられているが、その点を考え直す必要がある。妙義山で、鎖の数を増やし、岩にステップを刻んでも、相変わらず事故は多い。 鎖と梯子の数を増やすことは、そのルートを変質させ、そのルートの文化的価値を変える。槍ヶ岳のように。それはある種の自然破壊であり、文化的破壊である。 鎖に全体重を預ける 鎖は長い 登攀路のレベル 妙義山の縦走路を登攀路として位置づけることによって、妙義山の縦走路の危険性の程度を客観的にとらえやすくなる。妙義山の縦走路を、「最難関の登山道」と表現する人がいるが、これは、山歩きを前提とした日本的な縦走路の発想に基づいている。このような発想が、妙義山の縦走路を山歩きの対象にしてしまうのである。「最難関の登山道」と聞くと、山歩き派の登山者が、挑戦してみたくなるのが人間の心理である。 しかし、「登攀路」の観点から考えた場合、妙義山の縦走路は最難関のルートではない。妙義山の縦走路よりも難しい源次郎尾根、前穂北尾根、北鎌尾根などは、そのほとんどが「歩き」であって、ロープを使用する岩壁はほんの一部である。これらのルートの大半は「登攀路」であり、ルートのほんの一部に岩場があり、クライミングの対象となる。 妙義山の縦走路は「登攀路」であり、登攀路としては、それほど難しい部類ではない。妙義山の縦走路を、槍穂縦走路よりも難しいが、源次郎尾根や北鎌尾根よりも易しいと位置づければ、自分の力で妙義山の縦走路を登ることができるかどうかを、判断しやすくなる。妙義山の縦走路を独力で登るためには、源次郎尾根や北鎌尾根を他人に連れていってもらって登れる程度の力が必要だろう。 重要なことは、登山全体の視点から、ルートの困難度のレベルと自分の登山の能力を把握し、自分が登れるかどうかを判断することである。この点は、山歩き、クライミングを問わず重要である。 自分が妙義山の縦走路を登れるかどうかは、妙義山の縦走路のレベルと自分の登山能力を比較して行うが、ルートのレベルと自分の登山能力のレベルを客観的に判断できるかどうかが重要である。しかし、ハイキングや縦走しかしたことがない登山者には、それらを越えた世界がわからないために、ガイドブックに、「登山の上級者」、「クライミングの技術、経験」、「困難なルート」、「一般登山道のレベルを超えている」、「アルパインルート」などの記載があっても、これらを正確に理解できない。ハイキングや縦走登山しかしたことがない登山者には、通常の登山道のイメージで妙義山のルートを想像してしまう恐れがある。前記のとおり、妙義山の縦走では、「岩場や長い鎖を安全に登下降できる力」が必要だが、この種の経験をしたことがなければ、これを聞いても的確にイメージできない。「岩場や長い鎖を安全に登下降できる力」をイメージするためには、登攀的な要素のある登山(登攀路の縦走でもよい)の経験が必要である。 登攀路の登山のスタイル 登攀路の整備の仕方と危険性の程度はさまざまなので、それに応じた登山のスタイルが必要である。槍ヶ岳では慎重に梯子の登降をし、剱岳別山尾根では慎重に鎖を手で掴めば足りるが、妙義山の縦走路のような長い鎖場の場合には、「慎重にする」ことだけでは不十分である。なぜなら、疲労から握力が低下したり、軍手で掴んだ鎖が滑ったりしやすいからである。また、もともと垂直の鎖の登降の無理な登山者に、「慎重にする」ことを要求しても限界がある。登攀路の登降には、それにふさわしい「登山能力」が必要であって、単なる注意力の問題に解消されるべきではない。 このルートを安全に登下降するためには、ハーネス、カラビナ、スリングを使用して、鎖にセルフビレイをとりながら通過することが必要である。このようにすれば、鎖場での事故はほとんど起きないだろう。カラビナ、スリングの使い方はいくつかの方法が考えられるが、このような鎖の通過方法は、クライミングをしない人でも、ハーネスやカラビナ、スリングの使い方に習熟していれば可能である。 現在の妙義山の縦走路の登山のスタイルは、ハーネス、カラビナ、スリングを使用する人は少なく、かなりの登山者が、自分の腕力だけを頼りに登下降をしているようである。その場合に、ほとんどの登山者は事故を起こすことなく登山を終えるが、時々、岩場に不慣れな登山者、バランスの悪い人、体力・腕力のない人、恐怖心からミスをしやすい人、高齢者などのうち、運の悪い人が事故を起こす可能性がある。事故は、たいてい、いくつかの不運が重なって起きる。それはほとんど確率の問題である。妙義山の縦走路の危険性の形態に応じた登山スタイルが定着していないことが、多くの事故をもたらしている。 戸隠の蟻の戸渡りも登攀路だが、ここをロープなしに通過するのは、宗教登山のスタイルであって、近代登山のスタイルではない。近代登山のスタイルは、クライミングにみられるように、危険なルートを技術を用いて安全に登るスタイルである。宗教登山のスタイルは、危険な個所で命を賭けるが、クライミングは技術を用いてリスクを避けて登るスタイルである。 セルフビレイなしに手で鎖を掴んで登下降する人が多い。 登攀路の整備のあり方 日本には、従来、登攀路の概念がなく、登攀路をどのように整備すべきかとう考え方はなかった。登山者のほとんどが山歩き主体の登山者なので、縦走路中の岩場や岩稜は、「誰でも登れるように」鎖と梯子で整備されることが多かった。登攀路も、鎖と梯子で整備され、そのほとんどが、ロープを使わなくても、何とか歩けるようになる。しかし、岩場や岩稜を鎖と梯子でいくら整備しても、登攀的要素を完全になくすることはできない。危険個所を鎖と梯子で整備しても、転落する危険性が残る。妙義山の縦走路が、まさにその例である。 妙義山の縦走路から鎖を撤去すれば、一般の登山者は登ることができなくなり、事故は減るだろう。その場合には、クライミングルートになるが、恐らく、ここを登るクライマーは多くないだろう。妙義山の稜線の個々の岩場はスケールが小さくフェイスが多いので、クライミングの魅力としては乏しい。クライミングの対象としては、もっとスケールの大きな岩壁や難度の高い岩壁が愛好される。妙義山の縦走路をクライミングルートに変更しても、あまり利用されなければ、意味がない。 他方で、妙義山の縦走路は、長年、多くの登山者に親しまれてきたルートであり、文化的価値がある。昔は、宗教登山の対象として価値があり、現在は、登攀路としての価値がある。そのルートの歴史的、文化的価値を損なうようなルートの形態の変更を行うべきではない。剱岳別山尾根から鎖や梯子をすべて撤去すれば、一般の登山者が登ることができなくなり、別山尾根での事故が減るが、すでに一般登山ルートとして定着している別山尾根から一般登山者を排除することができない。槍ヶ岳の山頂付近から梯子をすべて撤去することもできない(ただし、梯子の数を昔の姿に元図ことは意味がある)。 登山は文化であり、長年そのルートが親しまれたことによって、登山文化が生み出される。登山ルートの形態は登山の文化の一部であり、簡単にルートの形態を変えるべきではない(その意味では、槍ヶ岳の山頂直下の梯子の数を増やして、歴史的なルートの形態を変えたことは問題である)。 妙義山の鎖は、宗教登山の対象として、かなり古い時代から存在したと思われる。危険な鎖を登る行為が宗教的な修練の対象と考えられてきたのだろう。それが、近代登山の対象に引き継がれてきたのであり、これを変更することは、従来から存在した妙義山における登山の文化を失わせることになる。現在のルートの形態を尊重したうえで、それにふさわしい安全な登山のスタイルを定着させることが必要である。 宗教的な修練の場合には安全性の確保は不要だが、レジャーとしての登山の場合には、安全性の確保が必要になる。安全性の確保は、槍ヶ岳などのように鎖や梯子を増やす方法ではなく、前記のとおり、カラビナ、スリングを使ってセルフビレイをとりながら登るスタイルをとるべきである。このような登山のスタイルをとれば、このルートを比較的安全に登ることができる。ルートの形態に応じた登山スタイルをとることが重要なのである。宗教的な修練の対象として、限られた鎖を使用して登られてきたルートについて、鎖を増やすことは、ルートの持つ文化的価値を変更することになる。歴史的に形成されたルートの文化的価値を、そのまま維持しながら後世に伝えることは、現在の世代の責任である。 しかし、問題は、妙義山を、ルートにふさわしくない登山者が、ルートにふさわしくない登山スタイルで、たくさん登っているという点にある。この背景には、100名山や200名山ブーム、インターネットによる情報の氾濫(初心者でも登ったという書き込みなど)も関係しているが、ハイキング、クライミング、「登攀路」の登山を、すべて「登山」という言葉で包括するアンブレラな日本的登山観の影響がある。 登攀路は、登攀路にふさわしいスタイルで登る必要がある。登攀路に鎖や梯子を増やして、歩きやすくするだけでは、ルートにふさわしくない登山者が増え、かえって事故が増える。。槍ヶ岳や剱岳がその例であり、槍ヶ岳や剣岳に大量のハイカーが押し寄せている。鎖や梯子を増やしても、必ず転落する者がいる。そうすると、転落防止用ネットが必要だという議論になりかねない。最後は、すべて手摺り付きの階段にするほかなくなる。日本の山は、次第につまらないものになっていく。 そのルートの登山はいかにあるべきかという理念が重要だが、日本では、「多くの人が登れるようにすればよい」という、ある種の大衆主義が登山の魅力を失わせている。ここで私が述べた意見は、登山における「エリート主義」と言われることがあるが、スイス人が、マッターホルンの一般ルートを、大量の鎖と梯子、営業小屋などを増やして誰でも登れるようにしないのは何故なのか、日本で槍ヶ岳や剱岳を誰でも登れるようにしたのは何故なのかを考える必要がある。マッターホルンの一般ルート(ヘルンリ稜)には、固定ロープは150メートルしかない。ヘルンリ稜に、個tりロープを張りめぐらせば、マッターホルンは誰でも登れるようになる(ガイドの仕事もなくなる)。その場合には、日本人登山者が大挙して押し寄せるだろう。そのようにしないのは、地元ガイドのエゴやエリート主義ではなく、ヘルンリ稜ルートはいかにあるべきかという理念があり、それを登山者と市民が支持しているからである。 かつての槍ヶ岳は日本のマッターホルンと呼ばれ、槍ヶ岳の山頂直下は多少の困難さを伴うルートだったが、今では、大量の鎖と梯子によってその登山文化が失われている。 日本では、登山に限らず、「理念に基づく区別」を嫌い、「理念のない同じ扱い」を公平だと考える間違った平等観が世論の支持を得やすい。これが、教育、司法、政治などに広く浸透している。、 登山のスタイルは登山の文化の一部であり、文化は強制できない。妙義山の縦走路にもともと鎖が一切なければ、「鎖を設置しない」ことが登山文化の保護になるが、古くから鎖のある妙義山では、鎖の撤去は登山文化を損なう。そのルートに相応しい登山者が訪れ、そのルートに相応しい登山スタイルで登ることを担保するものは、登山の文化である。それを実現するために、「登攀路」の概念が登山者に定着することが必要である。例えば、「クライミングルート」と記載されたルートにハイカーが決して入らないように、登山地図に「登攀路」と記載されたルートにハイカーが決して入り込まないようになるのは、登山文化の問題である。 ヨーロッパアルプスには、岩壁に梯子、ワイヤー、鉄柱などで登れるようにしたル−トがある。登攀路という和訳があるが、ドイツでは、クレッターシュタイク、イタリアとフランスでは、ヴィア・フェッラータと呼ばれている。ワイヤーにカラビナの掛け替えをしながら安全を確保するシステムになっている。妙義山の縦走路の鎖場は、ヨーロッパアルプスの登攀路に若干似た面があるのではなかろうか。 ヨーロッパアルプスの登攀路は、山歩きのルートではなく、一定の安全確保システムを用いる特殊なルートとして人気があり、登山の文化として定着している。しかし、日本では、「登攀路」が独立した形態として意識されず、「登攀路」を登るスタイルが定着していない。これが、妙義山の縦走路における事故の遠因になっているように思われる。 妙義山の縦走路の鎖の整備 上記のような妙義山の登山のスタイルを確立するためには、鎖が安全管理されていることが前提である。そうでなければ、登山者は、恐くて鎖に体重を預けることができない。その場合には、鎖を使用せず、すべてロープで確保しながら登るほかない。私も、最初は、鎖をあまり信用せず、鎖の支点を丹念にチェックしていたが、鎖の数があまりにも多いので、途中からチェックしなくなった。ほとんどの登山者が、鎖の安全性を信頼して、鎖に全体重をかけている。ここでは、「鎖や梯子があっても信用するな」という、かつての登山の標語は当てはまらない。 妙義山には真新しい鎖もあり、支点が点検、整備されているようであるが、この点が、システムとして(すなわち、法律的に)明確になっていることが必要である。 マッターホルンのヘルンリ稜では、毎年、地元の山岳ガイドがフィックスロープを整備している。おそらく、山岳ガイドが地元の自治体から委託を受けて有償でメンテナンスをしていると思われ、ボランティアではないだろう。マッターホルンでは、自治体が責任をもって安全管理をするからこそ、登山者は安心してフィックスロープに自分の命を託すことができる。 妙義山の縦走路の鎖も、自治体が責任をもって管理をしていると思われる(妙義山は県有地のようである)。有償であればメンテナンスに責任を持ち、無償であれば責任を持たないということではない。メンテナンスの有償、無償と問わず、鎖が切れれば大事故になる。 責任をもって安全管理をするという法的な意味は、管理上のミスがあれば、営造物責任(国家賠償法2条)が生じることを意味する。日本では、責任を持って管理をするが責任(法的責任)を負わないことを期待する傾向があるが、これは法的には矛盾している。 チムニー内に垂直の鎖がある。最大の難所 クライミングをしているように見えるが、鎖場である。 登山概念の明確化 妙義山の縦走路の問題は、日本語の登山概念のあいまいさと関係がある。 前述したように、日本語の「登山」は、ハイキング、山歩き、縦走、登攀、クライミング、沢登り、冬山登山、山スキーなどをすべて含んでいる。その結果、登山のグレードは、剱岳別山尾根や槍穂縦走路を「上級」、妙義山の縦走路を「最上級」と表示したりする。では、クライミングは? クライミングは「最上級」よりも難しいと考えて、クライミングルートを「エキスパート用」などとこじつけ的に表示したりする。しかし、山歩きの登山道、登攀路、クライミングルートはそれぞれ性格が異なり、性格が異なる登山を同じ基準でグレードかするのは無理である。 日本では、登山を、狭義の登山とクライミングに二分し、登山とクライミングを対立させる傾向がある。しかし、もともと、登山には、山歩きとクライミングが混在している。山頂をめざす過程で、歩き、岩をよじ登るのが登山である。登攀路は、もともとクライミングルートだったところを鎖と梯子で整備し、歩きと登攀的な要素が混在したルートである。山歩きとクライミングは、理念としては区別できるが、現実の登山では一体のものである。 英語では、登山は、クライミング(climbing)であり、本来、登山とクライミングを対立するものではなく、クライミングの技術は登山の技術の一部である。縦走登山でも、登山道の崩壊、救助、危険が生じた場合、冬山などではロープが必要になることがある。ロープ、スリング、カラビナなどは、登山用具であって、クライミングだけの用具ではない。もともと、登山は山に登る行為をさし、山に登るための手段として、歩き、よじ登るのであって、山歩きもクライミングも登山の手段にすぎない。妙義山の縦走路のような登攀路では、山歩きとクライミングを対立させる考え方の狭さに気づかされる。 山歩きとクライミングを対立させる考え方は、「登山は歩く行為であって、クライミング技術は不要」という誤った考え方につながり、登山の進歩を妨げる。日本では、「ロープ操作=クライミング技術」と思い込む人が多いが、そうではない。クライミングをしなくても、危険な縦走路や登攀路、冬山での歩きなどで、ロープ操作が必要となるのであり、ロープ、カラビナ、スリングなどの操作は、クライミングではなく登山の基本的技術のひとつである。妙義山の縦走路は、広い意味の登山の基本技術(ロープ操作や岩場でのバランスなど)があれば、難しいルートではない。妙義山の縦走路について「最難関の登山道」という言い方をするのは、妙義山の縦走路を山歩きのルートの延長で考えていることを示している。妙義山の縦走路を山歩きのルートの延長で考えることは、不正確、ないし、間違いであり、それが、事故につながりやすい。 ロープ、カラビナやスリングの使い方や、セルフビレイの技術は、登山の基本的な技術であり、クライミングをしない登山者もこれらの技術をマスターしておく必要がある。そのような登山者は、鎖場を安全に通過することができる。他方、本来の山歩き(hiking)では、これらの技術は必要ないが、日本語の「山歩き」は、登攀的な要素のあるものを含む曖昧な概念である。このような山歩き概念のもとに、山歩き=登山と考え、ロープ、カラビナやスリングの使い方や、セルフビレイの技術などの登山の基本的な技術が軽視されやすい。 日本には、クライミングをしない人を対象としたロープ操作などの登山の基本技術を学べる場が少ないという問題がある。 ロープ操作などを学ぶ場としては、山岳会に加入すること、山岳団体主催の講習会、ガイドが主催する講習会などがある。しかし、最近は、山岳会への加入が敬遠される傾向がある。現在の山岳会のシステムは、登山者のニーズに合っていない。山岳会の中には、「昔ふうの登山をしたくない奴は来る必要がない」といった雰囲気があり、会員数が減っている。「山岳会の気風が変わるくらいなら、会は消滅してもよい」という古参会員も多い。 登山技術を学ぶ講習会としては、クライミング講習が多く、「クライミングをしない人は、来る必要がない」といった雰囲気がある。山歩きの講習会もあるが、そこではロープ、カラビナやスリングの使い方や、セルフビレイの技術などは教えない。そのような技術を知らない人が、教えることが多い。日本の山のほとんどは、歩いて登れるので、ロープ、カラビナやスリングの使い方や、セルフビレイの技術などは必要ないという考え方が強い。 国立登山研修所は、登山の指導者を養成するのが目的であり、一般の登山者は受講しにくい。 このような事情から、クライミングをしない一般登山者が、ロープ操作などを学ぶ場が少ないのが実情である。登山者の側でも、クライミングをしないのであれば、ロープを扱う必要がないという固定観念が強い。 登山の形態として、山歩き、登攀路登山、クライミングに分類することができる。「縦走」は、山歩き、登攀路登山の両方を含む。山歩きは、英語のhikingに相当するもので、歩く登山をすべて含む。日本語のハイキングは、山歩きのうち、負担の軽いものをさす。英語のhikingと日本語のハイキングは、意味が異なる。英語のclimbingと日本語のクライミングも、意味が異なる。 山歩きと登攀路登山を区別することが重要である。日本では、前記のように、登攀路が鎖や梯子で安易に整備される傾向があるために、山歩きのルートと登攀路の区別がつきにくい。日本では、槍ヶ岳のように、登攀路を鎖や梯子で整備して「誰でも登れる」ルートに変更することが一般化している。妙義山の縦走路についても、同様に、鎖で整備されれば、登山者は「誰でも登れる」と錯覚しやすい。日本の他の山岳では、鎖と梯子で整備して「誰でも登れる」ようになっているが、「妙義山だけは、そうではない」という点が理解されにくいのである。多くの登山者は、「自分はロープは使えないが、鎖があるのであれば、何とかなるのではないか」と考えやすい。「ロープ=クライミング」、「鎖=縦走」という固定観念にとらわれやすい。これは、登山者だけの責任だろうか。誰でも、自分が経験したことがないことは、想像しにくい。妙義山の登山道を経験しなければ、そこの鎖場のイメージがわきにくい。垂直の長い鎖は、経験しなければ実感できない。日本では、妙義山のような鎖場は、他に少ない(八海山には長い鎖があったような)。 登山ルートを鎖と梯子で安易に整備してきた日本の登山道の整備のあり方が、妙義山の事故につながっている。現在は、「妙義山の鎖場は、日本の他の山の鎖場と違って特殊であって、鎖で整備しても危険性の高いルートである」ことを強調することによって、このルートに不向きな登山者が登らないようにしている。本来、「登攀路」であると表示すれば、登山者が自分で選択できるようになることが必要である。 マッターホルンの一般ルートについて、登山者が、「誰でも登れる」と考えないのは、「鎖と梯子で整備されていない」ことを誰もが知っているからである。しかし、槍ヶ岳が「日本のマッターホルン」だと聞いても、「誰でも登れる」と考えるのは、「鎖と梯子で整備されている」ことがガイドブックに書いてあるからである。日本の山のほとんどで、鎖と梯子で整備されていれば、「誰でも登れる」。日本の登山道は、上級者であれば「誰でも登れる」ものがほとんどである。しかし、妙義山だけは例外なのだということは、非常に理解されにくい。登山道を鎖と梯子で「誰でも登れる」ようにするのではなく、その登山道のあるべき形態を考えることが重要である(2015年記。写真は、いずれも2015年撮影)。 [参考文献] 「ヨーロッパアルプス 登山・ハイキング」、金原富士子、本の泉社、p22、2009 「妙義山 整備か登山禁止か?」、打田^一、羽根田治、山と渓谷902号、p.162、2010 「登山道の管理責任」、溝手康史、日本山岳文化学会論集第8号、p49、2010 「登山道の管理1」、溝手康史、岳人763号、p180、2011 「登山道の管理2」、溝手康史、岳人764号、p180、2011 「山岳事故の法的責任」、溝手康史、ブイツーソリューション、p67、2015 「マッターホルン最前線」、クルト・ラウバー、東京新聞、p216、2015 |
「登山の法律学」、溝手康史、東京新聞出版局、2007年、定価1700円、電子書籍あり
「山岳事故の責任 登山の指針と紛争予防のために」、溝手康史、2015
発行所 ブイツーソリューション
発売元 星雲社
ページ数90頁
定価 1100円+税