5. 胸部レントゲン検査は、胸部臓器すなわち肺・心臓・大動脈・縦隔・
   横隔・胸椎・脊椎などの疾患の発見・診断の重要な手法のひとつであり
   対象となる疾患は数多い(昭和61年当時の労働省労働衛生課編のハン
   ドブックによれば約30種)。
   
    前述したように、健康診断では直接に患者から主訴を聞いたり血液検
   査等の情報を入手できないから、撮影されたレントゲンフィルムのみか
   ら約30種にのぼる検査対象疾患につながる異常陰影を識別できる能力
   経験が必要とされるたった1枚のフィルムから特定の病名を診断するの
   は特徴的な画像を呈した場合に限られるから、病気の早期発見という目
   的は必ずしも達成し得ない場合も多い。

   
    しかし何らか病気の可能性を示す異常像を正常像から識別し選び出す
   ことはそうした訓練さえ受けておればさほど困難な作業ではない。一般
   の社会生活上でも異常か正常かの識別は、ごく日常的に誰でも行ってい
   る思考方法である。
    そしてこれを正確に行うには何が異常であるかについて知識ないし判
   断基準を持っていることが必要であり、また識別の経験が豊富であれば
   あるほど判断能力は高まると考えられる。
 
 6. したがって健康診断の胸部レントゲン写真を読影して異常陰影の識別
   作業に従事する医師としては、
    a)こうした検診に常時携わっており水準以上の識別能力があるとか
    b)胸部疾患に詳しいことが要求され、
   そうでない場合には
    c)読影の訓練を受けており大量の写真を短時間に識別しうる能力を
      持ち合わせている
   ことが必要である。


    H鑑定人はこうした要件をそなえていない医師を「一般臨床医」と定
   義し、これを前提に鑑定書で異常陰影の見落としを論じている。
   そして原判決はこれを引き継いで
    A)検診に携わらず
    B)胸部疾患に詳しくない
    C)読影の訓練を受けていない

   医師としての注意義務を前提に過失の有無を判断しており、非常識であ
   る

    原判決の立場が正しいなら、通常検診に携わっておらずまた格別の訓
   練も受けていない耳鼻科や眼科あるいは精神科の医師が胸部レントゲン
   の読影に従事しているのを検診水準とすることになるが、こういうこと
   はありえない

  
    前述したように、通常は結核予防会などの検診機関が委嘱を受けて健
   康診断を行っており、胸部レントゲンフィルムの読影には詳しい専門家
   が従事しているのが実情である。
    胸部疾患に詳しくなく、読影の訓練も受けておらず、検診に従事した
   経験も乏しい医師ならば、大量のフィルムを短時間に読影することは極
   めて困難と考えるのが社会的な経験則である。

    最高裁判決にある「臨床医学の実践における医療水準」という概念は
   当該診療目的に合致した医療を提供するについて要求される平均的な水
   準とでもいうべき位の意味であり、通常の職場の定期健康診断で従事す
   べき平均的医師と考えればよい。
    そうすると前記aからcの3条件のうち、いずれも備えていない医師
   が関与することは極めて稀であり、かつ検診目的を達し得ないという意
   味で、医療水準を構成していないから、これらを基準に過失の有無を判
   断したのは誤りといわねばならない


 7. 実際にも被上告人小〇は、もともと労働医学研究会という検診専門機
   関に所属し呼吸器専門医を標榜して健康診断のレントゲン検診を30年
   以上行ってきた読影の専門家であった。昭和61年に読影に関与したも
   う1人の医師も専門家であると被上告人らは一貫して主張している。
   前記3条件を完備した医師が、本件の実際の読影に関与していたのであ
   る。
    被上告人小〇もこれを自認し、まゆみを始めは被上告人〇〇海上の全
   社員がそう聞かされてプロだと思っていた。社員向け広報紙で「呼吸器
   には小〇先生というスペシャリストを配しています」(甲26号証6頁
   )と宣伝し、「肺癌の早期発見のためには検診が大事です」(甲10号
   証9頁)と小〇が従業員に注意を呼びかけているのである。

    最高裁二小平成7年6月9日判決(民集49巻6号1499頁)で、
   診療契約に基づき医療機関に要求される医療水準は当該医療機関の性格
   や当該疾病についての知見に関する患者側の期待等を考慮しないで一律
   に解するのは違法である、と判断して一律に医療水準を解釈した原判決
   を破棄差し戻した。

   
    この判例から本件を眺めれば、実際に被上告人小〇がどの程度の検診
   能力があったかどうかはさておき、要求され期待される水準は胸部レン
   トゲン読影の専門家として豊富な検診経験を有する医師としての能力水
   準から過失の有無を判定することになる。
    原判決は、右最高裁判決の趣旨からはずれた医療水準の機械的解釈を
   遵守したために、臨床医学の医療水準といいながら現実には存在しない
   健康診断を設定して医師を免責としてしまった感がある。

    原判決がいう一般臨床医とは、結局前記の3条件のいずれも満たさな
   い医師を指しているが、これでは胸部レントゲン読影については素人と
   いうべきで、専門たる医師に健康診断を実施させるべき義務を事業者に
   課した労働安全衛生法の趣旨を没却することになり、許されない。


         前のページ   Page4   次のページ


                    トップページへ