三.被上告人小〇の見落としが過失と判断できる特別事情があった
1. 原判決が見落としがあっても過失でないとした理由は、現実には存在
しない一般臨床医の医療水準という概念を設定してこれに依拠した誤り
のほか、「医学的条件」や「制度的条件」を持ち出していることは前述
した。
ところが健康診断の目的やそれが集団的に行われる実際から考えれば
これら条件は担当医師の注意義務を高める理由になりえても軽減する根
拠になしえない。
2.「医学的条件」とは要するに本件陰影が異常陰影かどうか識別しにくい
位置関係及び形状にあることを言っている。しかし血管が錯綜するとか
肋骨陰影が重なって異常が指摘しにくい点は、読影に通じて医師を基準
にすれば困難とは言えない。
そして陰影が濃くないとか輪郭不鮮明は、肺癌の半分を占める腺癌の
特徴的所見である。腺癌は「比較的、胸部レントゲンで見つけやすくな
っています」(甲10号証9頁)と被上告人小〇が従業員向けの広報誌
で解説しているとおりである。
癌の特徴所見であるスピキュレイション(毛羽立ち)やノッチ(切れ
込み)などの有無は、癌かどうかの鑑別診断には有用であろうが、癌と
診断すべきと争われている事案でないから、過失を否定する
事情にならない。
(ホームページ読者のために補足説明 本件は何の病気かは判らずとも、
写真に正常な陰影と異なる陰影が認められるのであるから、精密検査に
回すべき注意義務があったと主張しているのであって、これこそが健康
診断だと主張しているのです。癌と診断しなかったことがけしからんと
言っていません。)
3. 一方の「制度的条件」も、読影の注意義務を高める理由になる。
短時間に多数のフィルムを予備知識なしに異常像を識別するのが読影医
師の勤めである。予備知識があって1人の患者をある程度時間をかけて
診断するのが一般診療であるから、限られた資料で素早い判断を要求さ
れるという意味では特殊である。しかし判断の対象は、治療法を考慮し
た病名の診断でなく単に異常の有無でよいから、予備知識はむしろ不要
であるし、短時間に多数を読影するからこそ異常の識別が容易になる。
多数の資料から異常と正常を識別するのは、多分に経験的作業である
から多数のフィルムを見るからこそ出来るとも言えるのであり、多数の
フィルムに接していることは能力が高められる条件である。
したがって多数を短時間に予備知識なしに読影するという「制度的条
件」とは、この種の医療行為の特徴を表現しており、それだけ一般診療
とは異なった特殊専門的な領域であることを説明しているだけで、だか
ら難しいかどうかは誰がこうした特殊作業に従事するかに関係している
前記のとおり健康診断の目的からすれば、その経験が豊富とか胸部疾
患の専門家であるとか読影訓練を受けているとかの条件を何も備えてい
ない一般臨床医が関与するのは、それだけで危険である。
4. もっとも短時間に大量の診療を検討する読影作業は、レントゲンフィ
ルムを注視し続ける性格上、フィルムの凝視及び判定につき極度の集中
力を要求されることは想像に難くない。
H鑑定及びH証言では、「1回の読影で数百枚のフィルムを診る場合
は次第に精度が低下してくるので、読影に最大の注意を払う持続時間は
ほぼ2時間が限度である。」とする。
代表的な検診機関である結核予防会が地域住民を対象として行う集団
検診では、精神的疲労を考慮して読影医師は1日に2時間までで読影作
業を止めている。
M医師の意見書でも「あまり多数のフィルムを1度に読影しない。長
時間続けて読影しないほうがよいと考えられる。特に注視機能の低下す
る年齢層では注意が必要である」(甲第73号証)と述べられている。
年齢については、加齢ともに体力が衰え肉体的精神的疲労に陥りやす
いことは日常の経験則である。レントゲンフィルムの読影は、限られた
空間に位置する画像の一部に視点を集中しこれを移動した後にまた集中
するという作業の連続であるから、眼球の水晶体の調節力(ジオプタ)
を頻繁に活用しなければならない。
そしてこの水晶体の調節力は年齢による変化が著しく、被上告人小〇
のような60歳代は30歳の約9分の1、40歳の約6分の1、50歳
の約2分の1に低下することが広く知られている。
したがって年齢や体力による個人差があるとしても、一般にはレント
ゲンフィルムの読影作業を2時間を越えて行った場合、その診断精度が
著しく低下するとの経験則が関係者の間で存在し、そうしないように
読影が工夫されているのである。
5. ところが本件では、被上告人小〇は昭和60、61年当時、毎日4時
間半もの長時間にわたり読影作業を続けていた。
そもそも読影専門家の間で、2時間という許容限度が取り決められて
いることからすると、小〇が専門家だからといってこの時間を越えて読
影しても精度は落ちないと弁解することはできない。
加えて被上告人小〇は当時、労働医学研究会という検診専門機関での
午後5時までの通常勤務を終えた後に、さらに4時間半もの連続読影を
いわば超過勤務として行っていた(小〇調書1回目6から10頁、47
頁、小〇調書2回目3から5頁)。
通常以上に勤務を重ねて疲労が蓄積した状態で、通常許される2倍以
上の時間を継続作業に当てて、これで読影精度が落ちない保証はない。
さらに危険なことは67歳という年齢は、注視機能の本体をなす水晶
体の調節力が極端に低下する身体状態であった。
6. ところがこうした超人的読影を行うについて、その読影精度を維持す
るための特殊な手だてが別途講じられていたとの事情は全くないから、
こうした読影条件それ自体が被上告人小〇の過失である。
業務にともなう危険を回避するために要求された注意義務を守らない
で、予想された危険が現実化した場合には、特段の事情がない限り、そ
の義務違反を過失と評価すべきである。この理は最高裁三小平成8年1
月23日判決・判時1571号57頁で明らかにされている。
この意味でも被上告人小〇が昭和61年撮影のレントゲンフィルムの
異常陰影を識別できなかったのは、過失と判断されるべきである。