二、被上告人桐〇の過失によってまゆみに生じた損害



 1. 右のように被上告人桐〇には、昭和62年6月にレントゲン写真上の
   異常陰影に気づきながらも、まゆみに精密検査を受けさせなかった過失
   が認められる
    検診で異常陰影を発見すれば、精密検査によって病気の早期発見を図
   り適切な治療を受けさせるのが医師の当然の義務である。

    被上告人桐〇がこれを怠ったために、まゆみが肺癌の早期発見治療に
   よる機会を失ったことが明らかである。

    人が医師の診療を受けるのは、疾病の進行による健康への危害を防止
   するためである。逆に言えば、医師に診療上の過失が認められる場合に
   は、適切な診断治療を怠ったために疾病の進行が防止できず、病状が悪
   化したという結果が生じる。ある場合には病状の悪化が生命をも奪って
   死亡につながり、また治癒が不可能な身体障害として固定することもあ
   るが、多くの場合には治療の機会が奪われて病状の回復が不可能になっ
   てしまう。

    医師の過失がもたらした損害は、死亡であったり後遺症であったりす
   るが、その本質は適切な治療による生命・健康の回復可能性にほかなら
   ない。

    もとより医師の診療上の過失とは、治療による病状回復の可能性を奪
   うことと同義であるから、過失あるところに治療機会を喪失させられた
   という損害が必ず生じている。

 2. 本件で桐〇の過失が認定された昭和62年6月時点で、まゆみの肺癌
   は病期ステージVa以上と認定されている。
    H鑑定では、昭和61年9月撮影のフィルムではステージTであり、
   昭和62年6月及び7月のフィルムはいずれもステージVaである

    そしてこの段階での適切な治療が施された場合の予後については、本
   件当時の1991年までの統計(H鑑定書添付資料4)によれば、一般
   に治療上癌の治癒とみなされる5年生存率(5年以上生存し続ける患者
   の割合)が、ステージVaが30パーセント、ステージWが29パーセ
   ントである。

    すなわち被上告人桐〇が過失を犯さず、まゆみの肺癌を早期に発見し
   治療させておれば、5年以上生存させられる可能性が30パーセントも
   の確率で存在したのである。
    ところが実際のまゆみは、度重なる桐〇の診療態度に不信を抱き日大
   病院を受診したものの、既に手術も不可能な病状まで進行しており、右
   の治療機会を失った。


 3. したがって、桐〇の過失がまゆみが昭和62年6月ないし7月に有し
   た「30パーセントの患者が5年以上生存可能」という治療機会を失う
   という損害を招いたのは明らかである。
    ただ問題は、右の損害が金銭賠償事件としていかなる金銭評価を受け
   るか判然としない面が残ることである。
    しかしこれは死亡という損害、行遺障害という損害であっても基本的
   に同じで、こうした典型的な身体障害の場合には労働能力喪失や慰謝料
   という金銭評価がほぼ定型化されているため金額算出が容易なのに比し
   て、(生存可能性という)治療機会喪失では定額化になじみがないだけ
   である。

    いずれにせよ、過失と因果関係ある損害が存在するかどうかの問題と
   その損害がどれだけの金銭評価を受けるのかは、別問題である。
   金銭に換算する方式が定かでないからといって、損害自体を否定するこ
   とはできない。算定式がないからといって名誉毀損の慰謝料を否定し得
   ないのと同様である。
    また30パーセントの患者が5年以上生存しうるという治療機会は、
   殆どの患者なら受けてみたいと考える治療であり、十分価値あるものと
   して法的保護に値する。


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