六.医療過誤訴訟によって社会正義が達成できるか
1. 最愛の妹を失った兄姉が、被上告人会社が社会生活上の危険を填補す
る損害保険会社であることに誰より期待し信じた妹を思い、その信頼を
回復させ職場の健康診断を誰もが安んじて受けられるよう求めて、訴訟
に踏み切ったのが本件である。以降8年が経過した。
この間、被上告人らは本件で力任せの訴訟遂行を図るはか、上告人らに
対して名誉毀損の損害賠償請求訴訟を提起して、権利の実現を妨害しよ
うとまでした(当然ながら、被上告人らの請求棄却が確定した)。
一方上告人らの請求のうち被上告人桐〇の過失については、昭和62
年時点に限れば一審以来認められて、健康診断のあるべき姿が逸脱して
いる事実が鮮明にされているのに、なお責任なしと上告人らの請求が認
容されない事実は、健全な常識に照らして許容し難い。
日本の多くの労働者従業員は、自らの健康に不安を感じても仕事を休
んでまで医療機関を尋ねることは困難である。そうした現状を反映して
法は事業者にその費用で医師による定期的健康診断を受けさせるよう義
務づけ、従業員はこれを受診しなければならないとしている。
そしてこの健康診断において医師の過失を認めながら、なおかつその
医師に責任を問わないのでは法の趣旨はまっとうされない。
2. これでは無責任な診療姿勢とともに同じく無見識極まる訴訟態度もお
咎め無しを宣言したようなものであろう。
もし医師が患者家族から誤診による責任を問われても、恐れることはな
い。訴訟も受けて立つ強硬姿勢で臨み、時には名誉毀損の賠償請求を逆
に起こす構えを見せれば、大抵の者は萎縮し泣き寝入りをさせられる。
万一提訴されても、自分の観察不十分を大いに活用して、その患者の
癌が最も不幸な類型の癌であった可能性を力説し続ければ、可能性を根
絶する資料もまたないのだから訴訟は長期化して、生活を犠牲に奮闘す
る遺族も物心両面から疲労し続けて法的正義がいかに無力であるか思い
知らされる。
3. 患者と家族の関係について、医師も患者もそれぞれの思いがあってよ
く、理想とすべき姿も一様でない。しかし医師としての資格に基づき一
般市民を相手に専門的な診療活動を営んでいる限り、社会性を帯びるか
らその範囲で、社会共通の約束事としてあるべき医療の姿が定められな
ければならない。
これは社会の構成員として、医師のあり方について医師も患者も含めて
合意事項である。
具体的場合のあり方は、結局のところ訴訟の判決によって、医師の診療
行為の是非が明らかにされる。医師の過失に応じて被害者の救済も判決
が命じることになる。
ところで本件では、右のような社会の約束事に従い時間と労力を顧み
ずに、医師の過失を問い続けた上告人原告らの言い分が、医師の過失を
認めながらも、医師には責任がないと退けられている。
これでは法的思考のどこかに欠陥があると考えざるを得ない。
事実と証拠に厳密に依拠し、正義と公平の立場から訴訟上の証明責任
を分担させる立場からは、上告人らの請求を認めざるを得ないと思われ
る。 以上。