「だいせん」全景 機関車のすぐ後ろの窓が車掌室
出雲市にて (山賀部長撮影)


お腹の上にデイパックと録音機を乗せ、服も着替えずに40分程ベッドで仮眠する。

さて、横にはなったものの、これまでの反省と、これからの取材のことを考えると興奮してよく寝付けない。それでも少しは眠ったらしく、朦朧とする内に、ポイントをゴトゴトと渡っている音で目が醒めた。どうやら豊岡(2時28分着)らしい。

しかし、ボヤボヤしてはいられない。これから目指すのは、2時50分、竹野での「だいせん」同士の交換(行き違い)と、餘部(あまるべ)鉄橋前後のシーンだ。出来れば車掌の声も入れたい。
ごそごそと起き出すと、カーテンを全部閉めずに寝ていた山賀部長から「今どこですか」と尋ねられた。豊岡を過ぎたところだということと、これから車掌室を「突撃」するつもりだと告げる。
気付け?で買った缶コーヒーを一気飲みし、体勢を整えて、いよいよ@号車先頭の車掌室をノックした。

「すみません、私『だいせん』の音を録音しているのですが、機関車の音を入れたいので、餘部あたりまで、そこの部屋を使わせて頂けませんか」私は平身低頭し、通路をはさんで反対側の「乗務員室」と書かれたドアを指差した。目の前には、機関車のお尻がゆらゆらと揺れている。通路の明かりで「DD51」という機関車の銀色のナンバープレートが鈍く光っていた。

車掌さん(福吉氏)は、あっさりと「ああ。どうぞ」と言って、ドアの鍵を開け、窓を下に30pほど開けてくれた。「すみません。恩にきます」あまりにあっさりと許可が下りたので、何だか拍子抜けしてしまった。さっそく、マイクを持って中に入る。

今回私が入れてもらったのは、車掌室と言っても「サブ」の方で、中は至ってシンプルな造りである。ベンチ程度の椅子に、ドアスイッチ、非常弁、ハンドマイクがあるだけ。部屋も狭く、例の1mのマイク棒を持っていると、開けた窓と高さが合わず、座ることが出来ない。ドアに背中を当て、立ったままの姿勢で落ち着く。山賀部長を呼んで来ようかとも考えたけれど、このスペースでは、とうてい2人は居座れない。残念ながら無理と判断し、声をかけるのはあきらめた。

 

■城崎〜米子 深夜の取材

2時40分、「だいせん」は、温泉で有名な城崎に着いた。ここから録音をスタートし、まずは、次の竹野での上下「だいせん」同士の列車交換(行き違い)を狙うことにした。

城崎を発車、温泉旅館の連なる大谿川をゆっくりと渡る。さすがに人影はない。すぐにトンネルに入り、徐々に山に分け入って行くが、じきに速度を落とし、竹野に停車。いよいよ列車交換だ。
2時50分過ぎ、息を殺して待っていると「タタタタタ、、」とレールを叩く音が聞こえ、ヘッドライトの光が射し込んだ。
と思ったら、上り「だいせん」がゆっくりと通過して行った。暫くしてこちらも発車。深夜の交換の儀式?は、こうして無事終わったのである。

しかし、こちらでは事件が起っていた。列車交換が終わり、「よし、これで1つ片付けた」と録音機のスイッチを切ろうとして青ざめた。何とバッテリーが切れている! 慌ててベッドに戻り、2個目と交換してモニターしてみたが、これには参った。竹野の手前でプッツリと音が途切れてしまっていたのだ。

私の録音機(ソニーの「デジタルデンスケ」)は1.5時間連続使用が可能なバッテリーを使う。'89年、買った当初は、当時熱中していた合唱団の「オケ合わせ」という、大阪フィルとのリハーサル録音用に使っていた。その「オケ合わせ」で連続1時間以上、その後の列車の生録でも、それ以上の連続取材を何度もこなしたけれど、バッテリー切れを気にしたことは滅多になかった。

では、バッテリー切れの原因は何か? 冷静にカウントしてみたところ、NG分を含めれば、どうやら1時間45分以上使っていたようだ。取材に合わせバッテリー新調をした過信? もあったらしい。

とはいえ、起こってしまったことを後から騒いでも、仕方がない。内田百閧ナはないけれど「止むを得なければ、即ち止むを得ない」のだ。明日の帰りに上り列車に乗るので、その時取材すれば良かろう、とあっさり考え直すことにして、次の作戦を立てる。

次のターゲットは、香住から餘部鉄橋にかけての区間だ。香住は冬の味覚、松葉がにで有名な町。香住海岸も日本海の断崖絶壁の名勝として知られている。だが、「だいせん」にとっては、山越え谷越えが続く、大変な難所となる。これを押さえることにした。

3時14分、香住を発車。
機関車「かぶりつき」の車掌室からは、手に取るようにディーゼルの咆哮が聞こえてくる。
鉄橋を渡り、町を回り込んで、やがて「虫尾トンネル」に入る。いよいよクライマックスの始まりだ。段々上り坂にかかる。小さなトンネルを経て香住海岸を一瞬かすめると、「仕立トンネル」に入った。長いトンネルのようで、風圧がひどい。トンネル内は上り勾配らしく、機関車は思いきりエンジンをふかしている。「グワーン」という重連ディーゼルの轟音と排気、そして熱が容赦なく開け放した窓から飛びこんで来る。列車の明かりで流れて行くトンネルのレンガ壁を見ながら、私は押し黙って、ひたすら耐えた。

エンジン音が急に静かになったかと思うと、鎧。ここは小さな入江のある漁村で、いかにも山陰らしい風景が楽しめる所だが、深夜ではさっぱりわからない。「だいせん」はアイドリング状態でこの駅を通過、次の上りに掛かった。再びエンジン全開、「だいせん」は果敢にアタックする。今度は「於伊呂(おいろ)トンネル」など4つのトンネルを串刺し。相変わらずディーゼルの響きが凄まじく、排気ガスで少し気分が悪くなった。

やっとトンネルを抜けたと思ったら、いよいよ今度は山陰本線の名所、餘部鉄橋を通過。高さが41mもある、東洋一とかつては賞賛された鉄橋だ。

餘部鉄橋と言えば、'86年末に起った列車転落事故をいやでも思い出してしまう。
あの頃、私は会社の中国プロジェクト代表団のアテンドや、通訳、翻訳で超多忙だった。設計図面の中国語訳で何度も徹夜を余儀なくされ、すっかり疲れ果てたが、正月休みの隙を狙って、12月28日に兵庫県龍野の親戚の家に遊びに行った。
この日は大荒れの天気で、お昼過ぎ姫新線のディーゼルカーに乗っていると、窓の隙間風が馬鹿にびゅうびゅう吹くし、龍野の町でも揖保川の橋を渡るのに往生し、「何ちゅう天気や!」と、お天道様を恨んだものだ。その帰り、姫路の山陽電車のりばで「餘部で列車転落」の号外を見、戦慄が走ったのを昨日のように思い出す。

事故にあった列車は、和風のサロンカー。30mを越える強風のため転落したらしく、まさにぺしゃんこ状態。その上、落ちてきた客車に鉄橋下のかに工場が直撃され、列車の車掌と工場の従業員、合わせて6名もの犠牲者を出してしまった。幸い香住で180人近い団体客が降りた後だったからまだ良かったものの、もし乗っていたら…と改めてゾッとする大事故だった。

マイクを握っていると、窓から首を出して下を見る訳にも行かないし、なにせ真夜中なので、餘部鉄橋の実感はなかった。「だいせん」は鉄橋全体に響くごうごうという独特の音を立てながらも、あっさりと駆け抜ける。事故後強化されたと思われる防風柵で目がちらくらしたのと、遠くに見える明かりでやっとそれと分かる程度だった。
惨事が2度と繰り返されないことを闇に向かって念じながらも、早く渡り切ってくれ、と心で叫んだ。

列車は餘部を通過、更に次の上り坂に挑む。この辺りで一番厳しい1.5%の勾配が続き、エンジン音は一層重苦しくなった。段々山が迫り、もはやこれまでか、と思われるまでの最高潮に達したと思ったら、やっとサミットになったらしく、エンジン音が緩んだ。やれやれ、とほっとした直後、凄まじい風圧に襲われた。「桃観トンネル」に入ったのだ。下り坂とはいえ随分長いトンネルで、煤煙でくすんだレンガ壁をうらめしげに見つめながら、ひたすら出口を待つ。

やっと解放された。しかし、これまでにさんざん浴びせられたディーゼルの排気のため、頭はベトベト。体はうす汚れ、おまけに頭痛までしてきた。それでも次の停車駅、浜坂までは弱音を吐くまい、と改めて気合いを入れる。

そうしている内に、福吉車掌がドアをノック。「次使いますので」と言われた。しかし、せっかくのチャンス、このままあっさりと引き下がる訳にはいかない。間髪入れず「すみませんが、車掌さんの声を録音させて下さい」とお願いする。

3時35分、浜坂到着。ドアの開閉と、発車の際に車掌さんが列車無線で運転士と交わすやりとりとをモノにした。「下り705列車運転士さんどうぞ」「705列車運転士です、どうぞ」「705列車発車!」
「だいせん」はエンジン音を上げ、そろそろと発車する。お手軽な電車と違って、客車列車は万事ものものしい。昔ながらの「汽車」の伝統を引きずっているようだ。

「長い間、ありがとうございました!」 私は福吉車掌に丁重に礼を述べ、客室に戻った。

時計を見る。もう4時だ。次のターゲット、米子到着まで2時間近くある。取材で緊張していたものの、OFFになった瞬間に疲れがどっと出てきた。さあ、少しはゆっくりと休もう。

録音機をデイパックに直し、マイクもはずして、本格的に寝る体勢を整える。横になって、久しぶりの寝台車の味をじっくりとかみしめてみた。

一体何年振りに寝台に乗るのかな、とぼんやり考えてみたら、もう9年もご無沙汰していた。そういえば、最後に乗ったのは、なんと新婚旅行だった。大阪−成田便がどうしても取れず、「出雲」(しかもB寝台)に乗ったのだ。「鉄ちゃん」らしいハネムーンだとその時は思ったけれど、式の疲れで爆睡していたのか、何も思い出せない。(成田から先はよく覚えているが…)

その前に乗ったのは、'87年11月。中国の大連駐在から一時帰国した時に、日本の「汽車旅」、特にブルートレインに無性に乗りたくなり「みずほ」を予約し、大阪から博多まで揺られた。鹿児島本線で事故があり、戸畑駅で長時間停車、若戸大橋をうつろに眺めていたことを思い出した。あの頃は本当に辛かったが、入社早々で海外を経験出来、面白かったなあ、と色々思い出しているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。鳥取も倉吉も夢の中で通り過ぎたようだ。

5時30分、自然に目が覚めた。山賀部長も起き出す。もう外はうっすらと青みがかっている。やがて大山が窓一杯に広がり、段々明るくなって来た。「だいせん」と本家?大山との出会いだ。

夜明けのひとときは、夜行列車ならではの楽しみのひとつ。文字通り夜を日に継いでひた走る車窓。それが漆黒から藍へ、そして徐々に色づいていく。見知らぬ大地をぼんやりと眺めていると「さあ、今日も頑張ろう!」とパワーがよみがえる。 他には替え難い感覚だろう。

やがて、左から電化された伯備線が寄り添ってきた。いよいよ米子が近い。「じゃあ、行ってきます」私は山賀部長に挨拶し、再び先頭のデッキへ向かった。

 

■米子〜出雲市 ラストスパート

米子は昔からの鉄道の要所、駅も実に広い。いくつもポイントを渡り、5時53分、「だいせん」は定時に到着した。
ここでは機関車が交替。ガチャン! と連結器が外され、大阪から夜を徹してお世話になった重連の機関車にエールを送った。

朝早いのに人がいる!? と思ったら、やはり「鉄ちゃん」だ。 福知山の様に向かいのホームまで溢れている。 やはり機関車交替を狙っているようだ。「だいせん」乗車組も活動を始めた様子で、カメラ、ビデオと慌しくなってきた。ホームをむやみに駆け回ったり、とにかく落ち着きがない。

隣のホームではディーゼルカーがエンジン音を奏でており、朝から実に騒々しい。上り特急「やくも」が入ってきたのも、ろくに聞こえなかった位だ。

6時8分、ホームの喧騒を後に「だいせん」は米子を発車した。

「みなさん、おはようございます。ご乗車お疲れ様です」車内に戻ると、すぐに「おはよう放送」が聞こえて来た。「だいせん」は、既に「急行」の任を解かれ、朝の「快速」に成り下がっている。

どじょうすくいの安来節で知られる安来。この辺りから高校生が乗ってきたので、座席車に移ることにした。

6時36分、山陰一の大都会、松江に到着。「だいせん」はここでは徹底的に無視されてしまったようだ。ホームでの放送もなく、特に乗客が増えるでもなく、そのまま発車。おやおやと思う。

松江から、「だいせん」はとうとう「各駅停車」に落ち込んだ。降格に次ぐ降格、これじゃまるでリストラ列車だな、と毒づいてみたが、いやいやなんの、「だいせん」は結構図太い奴だ。夜行列車の使命は果たしながら、始発の大阪近辺では終列車を務め、ここでは朝の通勤・通学の足に役目を変え、高校生を中心に丹念に乗客を拾っている。身のほどをきちんとわきまえ、フレキシブルに対応する能力を「だいせん」は備えているのだ。

しかし、そんな「だいせん」だが、10月2日のダイヤ改正で、今回取材した「客車」列車から、「ディーゼルカー」に職を奪われてしまった。ディーゼルカーといっても、たった2両だそうだが、従来のような様々なニーズに対応出来るのか、正直疑問に思う。合理化が更なる乗客減を招き、やがて列車自体の廃止、という最悪のストーリーをたどらないことを祈るだけだ。

列車は、鏡のような宍道湖の湖畔に沿ってマイペースで走っている。D号車は途中駅でほぼ満席となった。
直江で上り「やくも」に道を譲り、いよいよラストスパートをかける。

懐かしいオルゴールが鳴り、乗り換え案内が流れ出した。いよいよ終着駅、出雲市到着である。
7時23分、新しく高架になったホームに「だいせん」は横付けされた。夜行組や高校生、そして「鉄ちゃん」が、がやがやと降り、それぞれの目的地へと散って行った。

この日、取材を終えた私と山賀部長は、地元のローカル私鉄、一畑電鉄を松江まで乗り回し、松江からは木次線で出雲坂根まで往復。帰りは「奥出雲おろち号」というトロッコ列車を堪能し、途中の出雲横田では駅前で出雲そばを冷酒とともに賞味するなど、初秋の旅を満喫した。また、旅の疲れをいやすため、木次では町営温泉につかり、長旅の労をねぎらった。

その後私たちは宍道から再び出雲市に向かい、今度は出雲大社へ。取って返して、出雲市で今度は魚三昧! (山賀部長、ご馳走様でした) 21時過ぎまで杯を重ねたのだった。

帰りはその日の上り「だいせん」。今度はD号車の座席車だ。座った途端、酒のせいか、鳥取まで意識不明の重体に陥る。

最初は取材する気は余りなかったけれど、「だいせん」交換の雪辱を果たすため、例によって2時半頃、車掌さんにお願いし、またまた「乗務員室」の人に。2時53分頃、竹野で上下交換をゲット。深夜の城崎ではストロボが光り、びっくりする。3時14分着の豊岡までねばらせてもらった。

21分停車の福知山。ここでは機関車を触るなど、気分転換にウロウロした。福知山発車後再び爆睡する。

目覚めは谷川のあたり。うっすらと見える白い水面が実に美しかった。かつての保津峡を思い出す。篠山口の手前で夜が明ける。三田近辺では、既に「鉄ちゃん」出動! 田んぼの中に10人ほどの行列が「だいせん」を狙っていた。その後宝塚を過ぎた辺りから、「鉄ちゃん」の姿ますます多くなる。中には朝の散歩がてらパチリとやってる、70くらいのおじいさんが居て、ほほえましく思った。

尼崎。ここからは毎日通い慣れた道だ。「だいせん」は東海道本線に入っても、やはりマイペース。塚本では多くの「鉄ちゃん」が頑張っていた。

新淀川を渡り、いよいよ終着駅、大阪。7時1分、定刻通り到着した。またまた多くの「鉄ちゃん」に囲まれる。

こちらも負けじと録音機を取り出し、回送風景を録ることにした。

7時6分、「ピョーー!」というディーゼル独特の警笛を後に、ゆっくりと「だいせん」 は消えていった。私と山賀部長は、いつまでも後ろ姿を見守っていた。


「だいせん」大阪到着!
チェック柄の「鉄ちゃん」が印象的 '99.9.27 大阪

 


■おわりに

その後、9月27日、10月1日(最終日)と、今度はキャノンF-1を肩に大阪駅で「だいせん」の撮影を行った。最終日、大阪駅1番線ホームはカメラやビデオを持った「鉄ちゃん」で埋まり、ちょっとした混乱状態に陥った。
私にとっては、最終列車まで取材するのは本当に珍しいことで、実に’82年11月の最終「ひばり」以来17年振りであった。

今回、何故これだけ「だいせん」の取材に力を入れたのか考えてみたが、やはり「客車夜行急行との別れ」これに尽きると思う。

数知れぬ旅人が利用した夜行列車。一時期、寝台特急が「ブルートレイン」と呼ばれブームになったこともあったけれど、夜行と言えば、やはりどこかくたびれた感じのする急行列車をイメージされる方が多かろう。

私自身も、カネのない学生時代によく利用したのは、「雲仙」「さんべ」「八甲田」などの名前がついた、九州や東北へ向かう夜行急行だった。北海道では、友人と「利尻」「大雪」「まりも」を宿代わりに何度も利用した。「だいせん」の走るほぼ同じルートには、「山陰」と呼ばれた普通列車の夜行まで存在していたのである。

夜行列車の旅、これは古くからの旅のスタイルである。汽車のスピードが遅く、他の交通機関がなかった昔は、ちょっと離れた所に行くにも、夜行列車の世話になるしかなかったのだろう。しかし、その旅は「だいせん」どころでなく、本当に苦しかったに違いない。混み合った車内で向かい合わせの固い座席にしがみつき、あるいは海老のように体を曲げて、辛抱しながら朝を待つ。これまでにどれだけの旅人が、この辛い体験をして来たことだろう。

しかし、時代は変わった。今更言うまでもないが、最近の交通機関の目ざましい発達で、目的地に速くしかもラクに行ける様になったし、旅のニーズに応じた使い分け、選択肢も多様化した。
「だいせん」で8時間近くかかった松江は、新幹線を乗り継げば、大阪から3時間もあれば着くし、高速バスでも約5時間である。わざわざ夜行に乗る必要はないし、そんな距離ではなくなった。もっと遠距離になれば、今度は飛行機がある。

それに、何と言っても、マイカーの普及と高速道路の発達が、夜行列車だけでなく、公共交通機関そのものの利用者の減少を招いた大きな要因であることは間違いない。300km程度ならマイカーで十分カバー出来る距離だ。
こうした時代の変化の前に、多くの夜行列車が廃止された。「だいせん」のような中距離を走る夜行列車の存在意義は、もはや薄れてしまったと言ってよい。

寂しいことだが、昔ながらの「汽車旅」を追い求めることは、もうこれからは難しいのかも知れない。
今回、客車「だいせん」が廃止になったが、まだ客車の夜行急行は「銀河」(東京-大阪)、「はまなす」(青森-札幌)で残っている。しかし、大阪駅に出入りする昔ながらの座席車もつないだものは、もうどこにも見当たらなくなってしまったのだ。少し前なら、似たような「きたぐに」「ちくま」なんかが、いつでも見られたのに…

'80s初めにその最後の活躍とともに学生時代を過ごした自分にとって、客車夜行急行は、いわば青春時代の最後の証のような存在であった。客車「だいせん」の終焉は、とりもなおさず、私自身のそれとの別れを意味する。今回の取材に熱が入ったのも、まんざら不思議ではなかったのだ。

長らくのご乗車お疲れ様でした。

 

Ichiro
1999.10.11 神戸にて

注)個人名はすべて仮名です。