(吉備路を訪ねる2)
(岡山県)
楯築墳丘墓、王墓山古墳作山古墳造山古墳吉備津神社

吉備を代表する二つの古墳と吉備津彦命を祀る神社を訪れた

作山古墳 (つくりやまこふん・さくざんこふん)  岡山県総社市三須
国指定史跡(大正10年指定)。5世紀中頃の築造の前方後円墳。全長約285m、前方部幅174m(長さ110m)、後円部径174m・高24m。発掘調査はされておらず主体部は未調査であるが、後円部中央にあると推定されている。独立した丘陵全体を利用して築き、大きく分けて三段に整えられている。各段に密接して円筒埴輪が並び、斜面は角礫で覆われていた。造出しは北側には存在するが、南側は存在が疑問視されている。周溝はなく、丘陵の南西・南東側には丘陵自体が取り残されていて古墳としての端正さを欠くといわれる。岡山県で2番目、全国9位の大きさの前方後円墳
 
北東上空から見た作山古墳(総社市教育委員会説明板より) 前方部南西隅に駐車場がある。前方部の傾斜が見える。
とりあえず、前方部に登る。 やや小高い前方部から後円部に緩やかに下る。
前方部を後円部に向って西側を歩く 後円部への緩い上り
後円部墳頂は広い
北側への下り(東下を見る) 後円部(北側下より) 段付きが見える。
西側のくびれ部 県道270号線・国分寺西交差点の北西に作山古墳

県道270号線の北側に備中国分寺の五重塔が見える。南側に吉備路もてなしの館がある  
直線距離では、作山古墳ー(1.2km)ー備中国分寺ー(0.4km)ーこうもり塚古墳ー(1.7km)−造山古墳ー(2.3km)ー楯築墳丘墓ー(2.5km)ー吉備津神社いずれの地点も、ほぼ県道270号清音真金(きよねまかね)線沿いにある。県道270号線は古代から近世までの旧山陽道に相当する

山古墳 (つくりやまこふん・ぞうざんこふん)  岡山県岡山市北区新庄下
墳長約350m、前方部幅215m、後円部径約200m・高さ約24mを測る。築造は5世紀代と推定されている。岡山県下第1位、全国第4位の大きさで、全国第1位から第3位までが天皇陵なので、自由に出入りできる古墳としては最大規模の古墳であることを誇る。大正10年(1921)に周辺の中小古墳6基とともに国指定史跡となった。低い丘陵の地山を3段構成の墳丘に整形している。くびれ部両側に台形の造り出し部を設けている。墳丘表面には葺石が敷かれ、各段には円筒埴輪が並べられていた。楯・靭・蓋・家などの形象埴輪がみつかっている
北東側から造山古墳を見る 北西側から後円部を見る


サイクリングロードの案内板(加筆)より 赤点線のように廻った。
前方部頂上に荒神社がある。

前方部の南東端に前方部に登る入口がある
長径350mの大古墳である。全国第4位の大きさを誇る。吉備国の王墓の一つと見られる。学術調査がなく築造年代は定かでないが、5世紀とされている。周濠の有無についても不明である。2009年3月より、岡山大学により、墳丘の測量、史跡地以外での発掘調査が始まった。
参考;関東で一番大きい毛野国の王墓とされる太田天神山古墳(全国第27位の大きさ)は、5世紀中ー後半の築造で墳丘長210mであるが、二重の周濠を持っているので墓域が364m×288mとなり、この古墳自体の大きさとほぼ同じ規模になる
前方部の荒神社境内に岡山市教育委員会の説明板がある。手洗場として、阿蘇溶岩凝灰岩製の石棺(刳り抜き式の舟形石棺)が無造作に置かれている。造山古墳前方部から出土したものか、近くの新庄車塚古墳から出土したものかの二説がある。境内に、直弧紋が刻まれた蓋の一部らしいものが放置されている。造山古墳は中世には山城として利用されていた
前方部東側に遊歩道があり、後円部が見える 周辺の六つの古墳は陪塚と考えられている。
前方部の南遠方に見えるのが、
直弧紋様の装飾彫刻がある千足古墳

吉備津神社 (きびつじんじゃ)  岡山市北区吉備津
御祭神 大吉備津彦大神、外八柱の神。
御由緒 記紀によると、吉備津彦命は第七代孝霊天皇の皇子で、第十代崇神天皇の御代に四道将軍の随一として吉備国に下り、大和朝廷に対抗していた温羅(うら;百済の王子とも伝えられる)一族を平定し、281才までの長寿のあと吉備中山に葬られた。社伝によると、第16代仁徳天皇が吉備国の祖神として奉斎されたと伝えられる。後に、延喜式では明神大社として、天慶3年(940)には最高の一品の神格を贈られた。現在は、備中国一宮として存在する。(備前国一宮は岡山市北区一宮の吉備津彦神社、備後国一宮は広島県福山市新市町の吉備津神社)
神社下から石段を北隋神門・絵馬殿・本殿拝殿と登る。本殿の左側の広場に面して、参集殿・社務所・祈祷殿があり、奥に一童社がある。長い廻廊の山側には、三社宮、御供殿、本宮社などがあり、廻廊の一段下に御釜殿がある。後方の山が吉備中山で、御陵は右の谷間の近くにある中山茶臼山古墳(全長約120m、築造期は3世紀後半ー4世紀と推定)である。陵墓参考地として管理されている。
石段の最高所に本殿拝殿がある 右から拝殿に面す。奥に本殿が一つなぎに続く。
室町時代の再建で、「比翼入母屋造」 (国宝)
本殿横から下りの長い廻廊が始まる 廻廊が平坦になった所で、右に御釜殿への廻廊が別れる
御釜殿(重要文化財) 慶長17年(1612)に再建  古来の鳴釜神事が有名である。吉備津彦に退治された温羅(うら)を祀る。釜殿の神饌を炊くとき、「世の中に事あらば釜の前に参り給はば、幸あれば裕かに鳴り、禍あれば荒らかに鳴らす・・」。神事は鳴動の音の大小長短により吉凶禍福を卜する 美しい廻廊と双翼の本殿

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