楯築墳丘墓とその周辺 (吉備路を訪ねる1) |
(岡山県) |
岡山県惣社市から岡山市にかけての一帯を吉備路という。古の吉備国の中心で、田園風景の中に、備中国分寺の五重塔が美しい姿を見せている。ヤマト王権成立時の四道将軍の一人・吉備津彦命(キビツヒコノミコト)にまつわる温羅(うら)伝説・桃太郎伝説などがある。(『日本書記』によれば、崇神天皇の時に、北陸道に大彦命、東海道に建沼河別命、丹波道に丹波道主命、山陽道に吉備津彦命の四道将軍を派遣し、地方を制定した。) 山陽自動車道・岡山JCTの南東近くの小丘の頂上に、不思議な文様の弧帯文石(こたいもんせき)をご神体とする楯築墳丘墓がある。1976年から前後7回に亘っての発掘調査により、この墳丘墓が弥生時代後期に築造されたこと、円墳に対称的な2つの突出部をもつ墳丘形状、さらに特殊器台と特殊壺による祭祀形態などが明らかになった。楯築墳丘墓の墳丘形式からヤマトの纏向古墳群・箸墓古墳の墳丘形式への移行が、ヤマト王権の前方後円墳の原型から定型化への道筋と考えられている。 朝鮮半島を通して大陸文化を獲得した北九州には、大共同体(クニ・国)が生まれ、国の連合体としての「王の中の王」が伊都国や奴国に生まれ、弥生時代後期には、倭国として対外関係を結んでいた。北九州の弥生時代後期の王墓としては、伊都国に平原墳丘墓を見るが、同時代の本州では、吉備には墓制も祭祀も北九州と異なる楯築墳丘墓が存在し、出雲の西谷墳丘墓(四隅突出墳)では吉備の特殊器台・特殊壺を用いた祭祀が行なわれていた。 「北九州の遺跡探訪の旅」の帰途(2009.7.26)に、楯築墳丘墓を見学するために吉備路を訪ねた。 |
楯築墳丘墓 (たてつきふんきゅうぼ) 岡山県倉敷市矢部 | ||||
円丘部に石の楯で形成したような環状列石がある。縄文時代後期の北東北で造られたストーンサークルや朝鮮半島北部のテーブル型支石墓を連想させるが、松岳山古墳(大阪府)と佐紀陵山古墳(奈良県)にも同じような立石(りっせき)があるらしい。立石配置の意味については、種々伝説や推測があるが、真実は不明である。 墳頂にご神体として据え置かれていた弧帯文石(こたいもんせき;亀石とも呼ばれていた)は、墳墓築造時のもので、長さ90cm、厚さ35cmほどの楕円丸形で、亀の甲羅のような形をし、削り滑らかにした表面に直弧文のような複雑な模様と、先端部に人面のようなものが線刻されている。現在は収蔵庫に納められていて詳細を見ることは出来ないが、岡山大学考古学資料館にレプリカがある。発掘調査は、昭和51年(1976)より近藤義郎・岡山大学を中心として、平成元年(1989)まで7次にわたって行なわれた。福本明:吉備の弥生大首長墓ーシリーズ「遺跡を学ぶ」034、2007、新泉社*に、弧帯文石の写真を含む楯築墳丘墓についての分り易い解説がある。 |
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楯築墳丘墓は「王墓の丘公園」・楯築地区にある。 入口を入るとすぐ左は円丘部の裾 |
王墓の丘公園の説明板(倉敷市教育委員会) |
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「王墓の丘公園」は、楯築地区、日畑赤井堂地区、王墓山地区よりなる。 楯築地区には、2世紀前半の楯築墳丘墓の外に、6世紀後半築造の向山古墳群と西山古墳群が同じ丘陵上にある |
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向山古墳群の間を抜けて、遊歩道を歩く | 安政年間に造られたという石段を上り円丘部の墳頂へ | |||
倉敷市教育委員会の「楯築墳丘墓」の説明板 直径約50m・高さ約5mの円丘部に、 長さ約20mの突出部をもつ 円丘部の墳頂は、直径30mほどの広場になり、 5つの立石と大きな石で環状列石の様を呈している 西南突出部の中央には給水塔が立ち、 北東突出部は消滅している (立石の番号は発掘調査時のもの) |
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立石5(左)と立石1と石祠(右) 石段を登って墳頂に出た所。正面に石組みの祠がある 祠の左前に白杭のように見えるのは、 「楯築神社跡地」の石碑 |
立石1(石祠)と立石3(右) (円丘北東側) 立石と大きな扁平の石で、 石祠が組み立てられている。 この石祠に弧帯文石が、ご神体として納められていた |
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*立石は全て自然石であるが、据置かれた時期は石を立てる際の堀り方と埋土などに含まれる遺物などにより定められた。立石3と立石5には堀り方跡があり、弥生時代後期であることは判明した。立石1、立石2、立石4は移動があったらしく明確な証拠はない。墳丘斜面の列石や設置方法などから同一時代からのものとされている。 | ||||
左奥の二つの立石(一方は立石で、他方は倒れた形) 立石3と立石4 |
墳頂の南側 と 立石5 立石の他に、大きな石が配列されている。 左後方に見えるのは、給水塔のある南西突出部、 |
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南西突出部との境から円丘部全体を見る。ご神体を納めていた石祠を囲むように立石と大きな石が環状に配されている。 写真では、右奥に立石5、中央石祠の背石として立石1、左手前に立石2、左奥に立石3、立石1の左奥に立石4が見える。中心埋葬施設は立石1、立石2と立石5の間にある。地山を約2mほど堀り下げ、南北約9m、東西約6mの墓壙に木棺木槨が設置されていたとの発掘調査結果である。北東突出部は立石3と立石4の間の奥になる。 |
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倉敷市教育委員会の説明板(資料提供 岡山大学文学部考古学研究室)より (写真左) 中心埋葬施設(主体部)の発掘 「長さ9mの墓壙の中央に木棺・木槨を据え、剣と玉が副葬された。手前の石列は配水の施設である。木棺底部には、多量の水銀朱が敷かれていた。副葬品である鉄剣1本、首飾り2個、多数のガラス玉と管玉は、岡山大学考古学資料館に保管されている。棺の埋め土からは、もう一つの弧帯文石(ご神体の1/9)や土製人形や勾玉が砕かれた状態で、管玉、土器片、鉄片、灰・炭などとともに発見された。もう一つの弧帯文石の発見は、ご神体の「弧帯文石」が埋葬時のものであることを示す証拠となる。特殊器台や特殊壺など祭祀に使われたと思われる出土物も、埋め土の上表部で見つけられた。第二埋葬施設からは副葬品の出土はなかった。」 首長の弔いと首長霊の次世代への引継ぎの祭祀が次のように想像される。埋葬された首長の上または周囲で、特殊器台の上に特殊壺を載せて祈りがなされ、供飲供食儀礼(直会)を行なった後に、使用した祭祀器具と食器を砕いて首長墓の上一面に撒いて埋める。 (写真右) 南西突出部先端の列石 「高さ1m弱の花崗岩の石が15m以上にわたって並べられている。列石の発見で突出部の大きさが分った」 |
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立石1南側面 | 立石1正面(東側) 石祠はご神体を収納する為に墳丘上の大きな扁平石を組み合わせ大正5年に造られたもの |
立石3 *発掘調査前には傾いていたが、正規な姿に戻し垂直に立つ。約3.8m×2.9m(最大幅)×25cm(下端) | ||
立石2 | 立石5 *掘り方が判明した立石 約2.4m×約0.7m×30cm(下端) |
立石4 | ||
南西突出部を円丘部から見る 給水塔があり、その東側に弧帯文石の現在の収納庫がある |
南西突出部から円丘部を見る 左側のフェンス内に給水塔が立つ *この突出部にも別の埋葬施設があると推定されている |
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発掘調査により、突出部先端の基底は給水塔の盛土下に残っていて、先端は丸く、それに沿って石が並べられていたことが分った | ||
南西突出部からの風景の説明板 足守川を挟んで、東に吉備中山が見える。山陽新幹線が足守川を跨ぐ辺りに、弥生時代の船着場などがみつかった「上東遺跡」がある。弥生時代後期には、その辺りまで海が入りこんでいたと思われている。足守川を中・上流に行くと、古代の著名な山城「鬼ノ城(きのじょう)」がある |
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吉備には、楯築墳丘墓築造以降に、特殊器台・特殊壺の祭祀を引継いだ古墳が多くある。その一つの鯉喰神社古墳は、弧帯文石を出土した楯築以外の唯一の古墳である。特殊器台は吉備特有の祭祀用器具である。ヤマトの箸墓古墳などで出土する特殊器台は、楯築より一世紀ほど遅れた宮山型特殊器台によって行なわれた。宮山型特殊器台の出土墳墓は、惣社市・宮山弥生墳丘墓にあり、保存公開されている | ||
王墓山古墳 | ||
王墓山地区は、北端の王墓山古墳の外に、北から赤井西古墳群、大池上古墳群、真宮古墳群、東谷古墳群の四つの古墳群よりなり、公園内には現在25基の古墳が残されている。なかでも北端に位置する王墓山古墳(県指定史跡)は、家形石棺を伴い、豊富な副葬品を出土するなど、この地域においてかなり傑出した存在である。他の古墳については殆ど未調査であるが、横穴式石室を有しており、おおむね古墳時代後期(6世紀後半頃)に築造されたものと思われる。(倉敷市教育委員会) | ||
「王墓山公園」全体図 |
大池上古墳9号墳 |
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真宮古墳群の中にある真宮神社 | ||
古墳時代後期(6世紀後半頃)の築造で、開墾や宅地造成で墳丘はかなり変化していたが、元々は25m程度の円墳または方墳と考えられている。内部主体としては、横穴式石室を有していたが、明治末に石材として切り出された。その際に、石棺や副葬品多数が持ち出された。出土品には、四仏四獣鏡をはじめ、金銅装馬具・鉄製武具・装身具類・須恵器など多種多量の副葬品があり、現在東京国立博物館に収蔵されている。 | ||
7枚の石が組み合わされた家形石棺 石材は井原市浪形産の貝殻石灰岩を用い、同種の石棺を持つ古墳は、惣社市こうもり塚古墳など有力古墳の数例しかない |
王墓山古墳墳頂より楯築古墳のある丘を見る |
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