浜通り・中通りの古墳(1) (福島県)

2011年3月11日に起きた東日本大震災・原発事故の大災害はこの地域の文化財に大きな被害を与えた。原発事故の被害を直接被った周辺被災者に心よりお見舞い申し上げます。被災5年後の2016年5月のニュースでは、「双葉町、富岡町は立入り制限区域となり手つかずの状態が続き、2012年5月から防禦服を着用して一部の選ばれた文化財が相馬市まで移動された」とのことである。

阿武隈山地をとりまく浜通りと中通りの古墳・横穴の幾つかを尋ねた。
前期古墳として著名な玉山古墳、桜井古墳、八幡塚古墳、傾城壇古墳と最近発見された大安場古墳と、非公開日だが清戸さく横穴と羽山古墳の概観を見た。

玉山1号墳と傾城壇古墳は前方後円墳、桜井古墳と大安場古墳は前方後方墳で、いずうれも100mに満たない大きさであるが、古墳時代前期(4世紀末〜5世紀前半)に築造されている。ヤマト王権の進出と地方豪族のあり方という観点からは、会津、山形、宮城(名取)で見てきたのと同様な印象を得た。

同時に、双葉町歴史民俗資料館では清戸さく横穴の壁画のレプリカ展示を、相馬馬追い祭場地の近くの南相馬市博物館では羽山横穴のレプリカを見た。鹿島歴史民俗資料館では、真土古墳群出土の金銅製双魚袋金具を見た。

中通りの古墳は全て阿武隈川の近くにある。傾城壇古墳は、土地の人のいう愛宕山の頂上にあった。大安場古墳は端正に整形・復元され古墳公園として前日にオープンしたばかりだった。


浜通り
いわき市

玉山古墳群   いわき市四倉町玉山字林崎108
5世紀前半の築造(近藤;4期(名取雷神と同時期))。墳長118m、後円部径45.6m、高さ7m、前方部幅31m、高さ4m、前方部長50m、くびれ幅9m、葺石があったもよう。

南東側から見た玉山古墳群の丘陵全容
南北に走る県道35の白岩川橋から写す。
玉山古墳群は大野第一小学校の西にある。尾根上を古墳群への道が続く 玉山古墳群1号墳の後円部に到着。  散歩中のおじいさんに会う。この斜面から土器など出たという。昔は北側の尾根下から前方後円墳の形がはっきりと見えたと。その後、樹木が茂っていたが、最近伐採したこと。金光寺と三人の持主がいること。奥に前方部があり、さらに大野中への道脇に古墳が点在し、畑を掘りおこしていると、石棺が出てきて供養したことなどなど話してくれた。
「玉山古墳 古墳時代の前方後円墳であり、東(左側)に後円部、西(右側)に前方部を有し、全長は約112メートルで市内最大、東北地方でも有数の規模を誇ります。 古墳の造営年代は四世紀末、いわき市内最大の盟主的人物の墓とかんがえられます。」とある。
くびれ部より後円部を見る。右下は金光寺のお墓 後円部上より前方部を見る。
後円部上より東南側(海側)を眺める。 大野小学校からの道は尾根上を西に続き、前方の林の中に小円墳が点在(大部分は破壊)し、大野中学校に抜けている。
一度県道41に下りて、金光寺の前を通り、大野中に行く。大野中の西側は御城(みじょう)古墳群と金光寺正面の説明板にあった。人気のない大野中の前に居ると、子供連れで軽トラにマウンテンバイクを乗せて遊びに来たおとうさんがやってきた。聞くと、御城はポールアンテナの立つ辺り(下写真左)であること、玉山古墳への尾根道周辺に多くの小さな古墳があったが、殆ど潰されていること、2〜3の古墳はなんとか形が残っていること(下右写真)など教えてくれた。尾根上を再び、大野第一小学校への長閑な道を行く。古墳を訪ねる旅の楽しい一時である。
甲塚古墳       いわき市平荒田目字甲塚43


 不思議なことに、どの地図にも史蹟として載っている古墳。
史蹟指定が大正12年3月と古いからかも知れない。

いわき市教育委員会の説明板(右写真)に記してある金冠塚古墳は、いわき市のクレハ工場内に残る古墳で、6〜7世紀の築造で、人骨・金銅副葬品が多く出て武人の墓と推定される古墳である。甲塚古墳が延喜式内社大国魂神社(古墳の所有者)との関連があるとすると、この地の盟主の墓なのかなど想いを馳せる。
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