継体天皇の地  (大阪府)
太田茶臼山古墳今城塚古墳新池遺跡安満宮山古墳
(茨木市、高槻市)

第26代・継体天皇の
埋葬地 「1.摂津国三島(大阪府茨木・高槻市)」、
誕生地 「2.高島郡三尾(滋賀県高島市)」、
育った地 「3.越前国坂井郡高向(福井県坂井)」とその周辺の史蹟を旅した。

体天皇(けいたいてんのう)について;
『日本書紀』(宇治谷孟、全現代語訳、講談社学術文庫):「男大迹天皇ーまたの名は彦太尊ーは、応神天皇の五世の孫で、彦主人王の子である。母を振姫という。振姫は垂仁天皇の七世の孫である。天皇の父は振姫が容貌端正で大そう美人であるということを聞いて、近江国高島郡の三尾の別邸から、使いを遣わして越前国坂井の三国に迎え、召し入れて妃とされた。そして天皇を産まれた。天皇が幼年のうちに父王が死なれた。振姫はなげいて、「私はいま遠く故郷を離れてしまいました。これではよく孝養をすることができません。私は高向(越前国坂井郡高向郷)に帰り、親の面倒を見ながら天皇をお育てしたい」といわれた。・・・・・・・・・・(大伴金村大連が譲って、物部麁鹿火大連・許勢男人大臣の賛同を得て、成人された男大迹天皇を三国に迎えに行き、河内馬飼荒籠の働きもあり、河内国交野郡葛葉の宮(枚方市樟葉)で即位する)・・・・・・・・・・・二十五年春二月、天皇は病が重くなった。七日、天皇は磐余の玉穂宮で崩御された。時に八十二歳であった。冬十二月五日、藍野陵(摂津国三島郡藍野)に葬った。」
『古事記』(次田真幸全訳注、講談社学術文庫);武烈天皇の段:「・・・天皇既に崩りまして、日続知らすべき王無かりき。故、品太天皇の五世の孫、袁本抒命を近つ淡海国より上り坐さしめて、手白髪命に合わせて、天の下を授け奉りき」。 継体天皇の段:「品太王の五世の孫、袁本抒命、伊波禮の玉穂宮に坐して、天の下治らしめしき。・・・・・・天皇の御年、肆拾参歳(よそじあまりみとせ)。丁未の年の四月九日に崩りましき。御陵は三島の藍陵なり。」
古事記(712年)と日本書紀(720年)は、第33代推古天皇の頃(593-623年)に聖徳太子(厩戸皇子)と蘇我氏により編纂された史書(「国記」と「天皇記」)の戦火による焼失を引継ぎ、天智・天武朝より編纂され、奈良時代に完成した。
弥生時代の後期末から古墳時代の初めに相当する時代は、魏志倭人伝の邪馬台国時代、記紀による第10代崇神天皇以降に相当する。この時代の記紀に記される内容は、文字のない伝承文化に特徴的な神話・伝説表現が多く、全てを史実として受取り難く史実を抽出する必要がある。史実性が増すのは、宋書倭国伝の伝える倭五王の時代(仁徳朝~雄略朝)の天皇(大王)、特に”倭王武”に相当する雄略天皇の時代以降とされる。それでも記紀編纂時の政治状況や正史編纂の不慣れを加味しなければならない。
天皇号が使用されるようになったのは、天智・天武朝以降なので、507年~531年に在位した第26代継体天皇は、日本書紀では男大迹王(オオドノオオキミ)、古事記では袁本抒命(オオドノミコト)、上宮記では乎冨等大公王(ヲホドノオオキミ)と記される。現在では継体大王(オオキミ)と記す場合もあるが、ここでは継体天皇と記す。
継体天皇に関する史料内容は推古朝から100年ほど以前の記憶であり、かなり正確な史料と思われるが、幾つかの謎を呼ぶ問題点がある。
第一に、ヤマト以外の地方(近江か越前)出身の唯一の天皇とされ、血統も応神天皇五世の孫とされることへの疑問。第二に、ヤマトから離れた枚方・交野・南山城に20年近く「樟葉宮」、「筒城宮」、「弟国宮」を構え、晩年の526年になってやっとヤマト・桜井市の「玉穂宮」に入った理由。第三に、宮内庁比定の陵墓(三島藍野陵)と皇后陵(衾田陵)が、最近の考古学調査では、今城塚古墳と西中山古墳が真の陵墓と確実視されること。第四に、筑紫磐井の乱との関係。第五に、葛城・越前・近江・美濃・尾張との関係などである。
第一と第二は、”王統の交代”を含む”万世一系”に関わる問題である。したがって、継体天皇の出現は、邪馬台国の問題とともに、この国の形を知る上で非常に大切な問題であり多くの議論を呼んでいる。今回の旅では、「水谷千秋:謎の大王 継体天皇、文春新書、2001」と「大橋信弥:継体天皇と即位の謎、吉川弘文館、2007」を参考にした。

太田茶臼山古墳 (おおたちゃうすやまこふん) 継体天皇三島藍野陵(宮内庁) 大阪府茨木市太田3丁目 
古墳時代中期後半、5世紀半ば頃築造の前方後円墳。前方部は東南を向く。全長226m、前方部幅147m(高さ19.8m)、後円部径138m(高さ19.2m)、周濠(幅約28~33m)。くびれ部両側に造出しがある。円筒埴輪など多数出土。第26代継体天皇三島藍野陵と宮内庁は治定するが年代的に無理がある。継体天皇の祖父あるいは曽祖父と推定する考えもある。三島地区には、太田茶臼山古墳に先行して弁天山古墳群などがある。
国道171号線”三島丘西”の信号を北に入り、東太田4丁目から一方通行を左に入ると、右に太田茶臼山古墳の正面に出る。東太田4丁目から藍野病院前を通り、左回りに一周した。

太田茶臼山古墳南角周濠外に太田地区公民館があり、その前に説明板がある。円筒埴輪による埴輪列は、古墳の西南部外(昭.63)と西北部外(昭.47)に見つけられた。埴輪は新池遺跡(ハニワ工場公園)で造られたもの。

幕末の尊王攘夷運動と関連して、陵墓の比定が行なわれた。その際に、日本書紀の伝える三島藍野陵に適う古墳として、壮大な太田茶臼山古墳が選ばれた。当時は、現在継体陵として有力な今城塚古墳は中世の山城として認定されており、古墳としての扱いは受けていなかった。
茨木市教育委員会の説明板
東側の藍野病院前から 東側の造出し部
前方部南角周濠外から前方部と造出しを見る。(昭.63に埴輪列が見つかった所) 正面礼拝所(右奥の建物は藍野病院)
継体天皇三島藍野陵として宮内庁所管 後円部北側外に陪塚が残っている。

今城塚古墳 (いましろづかこふん) 大阪府高槻市郡家新町
古墳時代後期前半、6世紀前半頃築造の前方後円墳。古墳の主軸は東西で、前方部は北西に開く。墳丘長約190m、総長約350m、総幅約340mの前方後円墳。周囲に二重の濠が巡らされている。家型埴輪、武人埴輪など多数出土。墳丘上から熊本県宇土半島産の阿蘇溶岩凝灰岩など三種類の家型石棺の破片が出土している。第26代継体天皇の真の陵墓とする説が有力。
今城塚の名は、戦国時代に三好長慶が出城を築いたことに由来している。城としての認識が強く、江戸時代の陵墓選定から漏れたという。

平成13・14年度の調査では、古墳北側のくびれ部の内堤に国内最大規模とされる埴輪祭祀区(東西65m×南北6m)の全容が明らかとなった。ステージ上に、大量の人物埴輪、動物埴輪、家形埴輪などの器材埴輪が、円筒埴輪・柵形埴輪で区分された五つのブロックに整然と配置されていたという。整備された古墳では、松坂・宝塚古墳に見るように復元されるものと期待したい。
出土した日本最大の家形埴輪は、入母屋造り屋根に鰹魚木をのせ、大王の館を思わせるもの。埴輪は新池遺跡(ハニワ工場公園)で造られたものである。

現在、史蹟公園として整備中で、古墳所在位置の確認、その史蹟領域が広大なことを知るに留まった。陵墓指定のない立入り可能な陵墓として期待するところが多い。
高槻市教育委員会の説明板
外堤、外濠、内堤、内濠とあり、内堤・内濠の整備工事が行なわれていた。平成22年6月11日~平成23年3月15日第7次整備工事中。 墳丘北側の公園広場の整備工事中。この奥に埴輪区が設けられるかと想像する。
東側(後円部)外側の茂み。墳丘を含む林に沿って内堤があり、立入り禁止区域である外濠・外堤域が広い。 南側を歩く。見えている林の左茂み辺りが前方部相当し、林に沿って内堤がある。
南西端の畑から見る工事中の様子。左手前の白杭は史蹟の限界線を規定している。 林に沿って内堤があり、工事中の模様。

新池遺跡 (しんいけいせき) 大阪府高槻市土室1丁目
古墳時代中期~後期の遺跡。ハニワ工場公園として整備・保存されている。大田茶臼山古墳と今城塚古墳の埴輪を製作した。
ハニワ工場公園には、子供用に各所に説明板がある。
右の三つのカマで焼いた埴輪は太田茶臼山古墳へ、残る左の多くのカマで焼成した埴輪が今城塚古墳に供給されたとされる。
三島地区には、新池遺跡(左側)と工人達が住んだと思われる住居遺跡(右側)にある。
ヒルズコート高槻7番館脇にハニワ工場公園入口がある 公園南(左)端にある三つのカマ。左に発掘中の再現したカマ。右二つにカマの復元。一段高い所に、屋根を葺いたハニワ工房が復元されている。
ヒルズコート高槻6番館の西側に公園(新池遺跡)が広がる。左側に池がある。カマ跡は茂みで示され、北(左)端の覆屋に発掘状態のカマが復元され、ガイダンス施設を兼ねている。 ハニワ工房

円筒埴輪(18号窯、500年頃)、切り妻造りの家(450年頃)、入母屋造りの家(450年頃)。
覆屋内のカマ 下から前庭部、焚口、燃焼室、焼成室、煙出しとつづく。 VTRが用意されていて、「三島の古墳」、「三島のハニワづくり」、「新池遺跡」、「継体大王とその時代」、「安満宮山古墳」、「今城塚古墳」を見る。

安満宮山古墳 (あまみややまこふん) 高槻市安満御所の町
古墳時代前期初頭に築造された全長約20mの長方形墳。箱型木棺を盛土で積上げた墓式で、構築墓抗という。平成9年(1997)に三角縁神獣鏡を含む青銅鏡5面が出土したことで有名。ほかに、刀、斧やガラス小玉1600個余りが副葬されていた。「青龍三年の丘」として高槻市公園墓地内に復元整備されている。
安満山(あまさん)の中腹には、安満宮山古墳のほかに、4世紀後半~7世紀の古墳が40基余確認されていて、安満山古墳群と呼ばれる。山麓には安満の鎮守・磐手杜神社が鎮座し、三島地方で最初に米づくりが行なわれた安満遺跡をはじめ、紅茸山遺跡、古曾根・芝谷遺跡などの集落が展開していた。(高槻市教育委員会)
安満宮山古墳は、JR高槻駅から直線距離約1.5kmの公園墓地内にある。

高槻市公園墓地の入口(左は火葬場、右に公園墓地に登る道)
公園墓地内の案内図
安満宮山古墳は、長方形型であることを特徴としている。三島地方を一望できる場所にあり、奈良・飛鳥(ヤマト)、大阪(難波)、六甲山南東山麓(摂津・北摂)を見渡す。
とくに、淀川水系を眼下に見下ろす地にあり、その水系を支配した首長が葬られていると考えられる。
頭部近くにガラス小玉、5号鏡の上に4号鏡、やや離れて、下から2号鏡、3号鏡、1号鏡 足下に、刀や斧など

  [立地]安満山(桧尾山9南西斜面 標高125m、
  [規模]長方形墳 東西18m×南北21m、[年代]260年代、
  [墓坑]東西7.5m×南北3.5m 方位N-44:E
  [木棺埋納坑]5.3m×1.3m 深さ1.2m、
  [木棺]コウヤマキの割竹形木棺 直径0.8m×長さ5m、
  [副葬品]青銅鏡:頭部に2面(4・5号鏡)、やや離れて3面(1~3号鏡) 
        玉類:ガラス小玉1000点以上(ブルー、直径3~4mm) 
        鉄製品:直刀(全長58cm)1点、ヤリガンナ・刀子各2点、
        板状鉄斧・有袋鉄斧・ノミ・鎌各1点 
4号鏡 斜縁「吾作」二神二獣鏡
直径15.8cm、重さ426g、220年頃
5号鏡 「陳是作」半円方形帯同向式神獣鏡
直径17.6cm、重さ714g、240年頃
1号鏡 三角縁「吾作」環状乳四神四獣鏡
直径21.8cm、重さ1100g、240年頃
2号鏡 「青龍三年」方格規矩四神鏡
直径17.4cm、重さ545g、235年
3号鏡 
三角縁「天・王・日・月・吉」獣文帯四神四獣鏡
直径22.5cm、重さ1175g、260年頃
(メモ)”青龍三年”はAD235年、倭の女王卑弥呼が大夫難升米(なんしょうまい)らを帯方群に遣わしたのが”景初三年”(AD239年)である。倭王卑弥呼に下賜された「銅鏡百枚」については種々議論があるが、舶載・初期の三角縁神獣鏡であるとされている。安満宮山古墳から出土した三角縁神獣鏡以外の鏡については、2号鏡・「青龍三年」方格規矩四神鏡は、京都府大田南5号墳出土(平成6年)の鏡と同笵関係にある。また、5号鏡・「陳是作」半円方形帯同向式神獣鏡は、大阪府黄金塚古墳出土の景初三年銘画文帯同向式神獣鏡の外区の画文帯を鋸歯文帯に改変したもので、さらに半円方形帯を銘帯に、周縁を三角縁に改造したものが島根県神原神社古墳出土の景初三年銘三角縁神獣鏡となっているという。(参考;岡村秀典、三角縁神獣鏡の時代、吉川弘文館、1999)
安満山古墳群
6世紀後半~7世紀の大規模な群集墳 。安満山A1号墳は、直径約12mの円墳で、上部は失われているが、全長1mの石室が残る。床には河原石が敷かれ、奥壁・側壁に沿って、須恵器や金環2対などが副葬されていた。副葬品の数・出土状況から2体が葬られていたと見られる。この群集墓には、複数体埋葬の墓が多い。

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