継体天皇の地  (滋賀県)
  白鬚神社、鴨稲荷山古墳高島歴史民俗資料館田中神社彦主人王御陵
  (高島市)

滋賀県高島市に日本書紀に記される「三尾別業(別邸、別荘)」は、現在の滋賀県高島市安曇川辺りとされている。湖西を北上する北陸道は、高島市の北部・近江今津で若狭道(現在の国道303号線)を分岐しており、近江・若狭の接点になっている。若狭はヤマトの豪族・和邇氏の拠点であった。また、高島市は琵琶湖沿岸の良港を控え、湖上交通の要所であり、その一帯を彦主人王(継体の父)が行政官として腕を振い勢力を延ばしたとしてもおかしくない。現在では、”三尾”を他所(例えば越前水尾)に求める説も現われているが、決定的なものではなさそうだ。ここでは、高島市の”三尾”比定地の周辺を歩いた。

継体天皇の出自については、継体天皇は近江または越前を基盤として「風を望んで北方より立った豪族の一人」で、応神五世孫というのは仮構にすぎない(直木孝次郎、1958)、継体天皇の出身氏族を近江息長氏とする(岡田精司、1972)、継体天皇の父彦主人王の本拠は近江や越前ではなく、継体陵と確実視される今城塚古墳の所存する摂津三島附近の可能性が高く、今城塚古墳に先行する大王墓クラスの太田茶臼山古墳こそ継体天皇の祖父または曽祖父あるいは彦主人王の墳墓の可能性もある(大橋信弥、2007)など諸説が存在する。

 高島市は、安曇川(あどがわ)河口の三角州を中心として、北に今津町、マキノ町、西に鯖街道(現・国道367)の通る朽木村(くつきむら)を控える。
国道161号線(西近江路)を北上し比良山系の山々を眺めている中に、高島市に入り、白髭神社が現われる。

1.白髭神社
2.高島市歴史民俗資料館
3.鴨稲荷山古墳
4.田中神社
5.王塚古墳
  (彦主人王陵墓参考地)

白髭神社 (しらひげじんじゃ)  滋賀県高島市鵜川215  
祭神は猿田彦命で、全国に散らばる白髭神社の本社。裏山には、白髭神社古墳群がある。白髭神社古墳群は、古墳時代後期のものらしいが、改変されていて詳細不明。161号線を少し北上した勝野の山に、平成13年に発見された打下(うちおろし)古墳がある。古墳時代中期の箱型石棺に、40~60歳前後の男性の人骨が、副葬品とともに発見された。
国道161号線(湖西道路)に面している。
道路外は琵琶湖に接する。近江の厳島とも呼ばれる。琵琶湖北西岸で、沖ノ島の向こうに東湖岸が見える。
赤い鳥居をくぐると、拝殿とそれに続く本殿がある。右側に社務所。 本殿より一段高い所に、八幡三社の相殿と内宮(天照大神)および外宮(豊受姫命)を祀り、更に奥に天満宮、稲荷社、寿老神、弁財天を祀り、一番高所にある古墳石室(白髭神社古墳群)の前に岩戸社を祀る。

鴨稲荷山古墳 (かもいなりやまこふん)  滋賀県高島市高島町鴨 
古墳時代後期前半、6世紀前半築造の前方後円墳。現状は全長45mだが、現地表面より1m位下に幅約6mほどの周濠があり、推定全長60mほどの周濠を有する二段構成の前方後円墳と考えられている。後円部の東南に開口した横穴式石室の玄室に、二上山産白色凝灰岩製家形石棺を安置し、石棺内部より金銅製の冠や履、双鳳環頭大刀、双魚形佩飾、金製垂飾付耳飾などの豪華な副葬品が出土した。継体天皇と関係深い三尾氏の首長墓と考えられている。(高島歴史民俗資料館展示より)
古墳北東角より。出土した家型石棺を覆屋に展示している。
北西角より見た鴨稲荷山古墳 覆屋内の二上山産白色凝灰岩製家形石棺
外面にはベンガラ、内面には朱が塗られていた。
高島歴史民俗資料館 高島市鴨2239番地
「継体天皇ゆかりの地」・高島郡三尾をアピールして、「三尾別業(みをなりどころ)」の推定模型などがある。鴨稲荷山古墳と打下古墳(うちおろしこふん)の発掘時の様子や出土品展示が興味深い。打下古墳は高島市勝野にあり、平成13年に上水道配水施設工事現場で石棺と石棺内の良好な状態の人骨が発見された。石棺は丹後地方で多く見られる5世紀の箱形石棺で、地域交流を窺がうことが出来る。鉄刀・鉄鏃などが副葬品されていた。頭蓋骨から被葬者の複顔され展示されている。ほかに、平安時代の鴨遺跡からの木履など出土の展示もある。高島遺跡散策マップー高島地域編ーも用意されている。
高島市には、高島歴史民俗資料館、朽木資料館、マキノ資料館がある。 資料館からは、鴨稲荷山古墳が150m北に見える。

          鴨稲荷山古墳復元模型
後円部のくびれ部近くに横穴式石室が開口し、墳丘は葺き石で覆われ、前方部の前縁に埴輪が立てられ、濠があったことを示す復元模型。

 金銅製王冠(複製
金銅製飾履(複製)
垂飾付耳飾(模造)

鉄地金銅張杏葉(ぎょうよう) 写真展示
(鴨稲荷山古墳出土品の豪華な副葬品の数々)

打下古墳石棺発見時の写真展示

田中神社 滋賀県高島市安曇川町田中
田中神社とJR安曇川駅、鴨稲荷山古墳を結んだ内側辺りが書紀に出てくる「三尾」の推定地という。田中神社自体は、平安時代に京都祗園さんを勧請した神社で、古墳群とは関係ない(と言っても敷地の端が田中36号墳に懸かっている)。丁度、居合わせた隠退した宮司さんに、この地域の特色や継体天皇に纏わる話を聞かせて貰った。翌日にお祭りがあり、工事が入っていた。田中地域の人々が神輿を拝殿の周りを担ぎ周るらしい。
石段がその風景をひき立てている立派な神社。右裏手に登っていく車道があり、田中古墳群に行くことが出来る。 賀茂神社などに見られる”流れ造り”の本殿
手水場は、元は本殿前にあった門を使ったもので、本殿と拝殿の間は神輿を曳き回すために空けているという。若狭国(小浜)と通じる幾つかの道、越前国(敦賀)への道、琵琶湖対岸、大津への道など土地の話を聞くことにより、この地域の風景を見たような気になる。         田中神社の眼下が「三尾」
「三尾別業」としては、現在は三尾里の名前があり、JR安曇川駅の東西にある南市東遺跡と下五反田遺跡が推定されている。胞衣塚(えなづか:継体天皇の”へその緒”を埋めたとの伝承がある6世紀の円墳)、安閑神社(継体天皇と尾張目子媛の皇子で第27代安閑天皇を祭神とする)、安産もたれ石(三尾神社旧跡で、振姫が産屋を構えたという伝承)など継体天皇関連遺跡(伝承地)がある。
田中古墳群 滋賀県高島市安曇川町田中
泰山寺野台地の東端に位置し、これまでの調査では40数基の古墳(5~6世紀代築造の直径約10~20m、高さ約1m~4mの円墳や方墳)が確認されている。古墳群中央北側に、第26代継体天皇の父「彦主人王(ひこうしおう)」の陵墓参考地とされる田中王塚古墳があり、これを盟主墓とした古墳群と考えられる。
田中36号墳:平成19年に発掘調査され、現在は埋め戻され現地保存されている。古墳時代後期後葉、6世紀後葉~7世紀初頭築造の円墳(直径24m・高さ4m)。花崗岩の石材で構築された横穴式石室(全長7.9m)をもつ。玄室奥に仕切り石と小礫で区画した遺体安置空間(九州でよく見かける石屋形との類似の可能性)を設け、壁面はベンガラで赤色塗布されていた鉄地金銅装鐘形鏡板轡、鉄製環状鏡板轡、須恵器・鉄鏃・鉄製刀子・滑石製紡錘車・鉄地金張耳環・ガラス玉・土玉など多くの副葬品が出土した。(平成22年10月、高島市教育委員会説明板より)
平成22年10月、高島市教育委員会説明板より
36号墳の石室(羨道から、奥壁から、側壁、遺体安置空間)写真
田中36号墳:この地の有力豪族(三尾氏)との関連が注目される。
新しい道路で、田中神社側の墳丘は削り取られている。

田中王塚古墳 (彦主人王御陵(ひこうしおうごりょう)) 滋賀県高島市安曇川町田中
5世紀後半の築造とされる帆立貝式古墳または円墳。直径58m(高さ約10m)。二段構成で葺石をもつ。墳丘形態や出土した埴輪片から5世紀後半の築造とされている。継体天皇の父(彦主人王)の墓との伝承があり、陵墓参考地となっている。伝承では、彦主人王は、近江国、北越五カ国を刺史(しし;元々は中国の官職。監察官・行政官)として治め、越前坂中井(現在の坂井市)より振媛(ふるひめ:継体の母)を向え、継体5才の時に亡くなり、この地に葬られたという。
周辺にある高塚4基の陪塚と共に宮内庁所管。 礼拝所までは、苔むした参道。横に細い道がある
礼拝所左前から 右角より帆立貝式の短い前方部が良く見えるが、
改変されたかも分らず、円墳であるかもしれない。

前へ 次へ