北信濃ー柳沢遺跡ほか (長野県)
  柳沢遺跡 中野市立博物館 根塚遺跡 飯山市ふるさと館 寺めぐり散歩道


柳沢遺跡  長野県中野市柳沢
2007年10月に、千曲川と夜間瀬川(よませがわ)の合流地点の堤防嵩上げ工事現場である柳沢遺跡から、7本の銅戈と1個の銅鐸が発見された。銅戈のような武器的祭器と農業的祭器である銅鐸が同じ場所に埋納されていた例としては、島根・神庭荒神谷遺跡での銅矛16本と銅鐸6個、島根・志谷奥遺跡での銅剣6本と銅鐸2個、神戸・桜ヶ丘遺跡での銅戈7本と銅鐸14個などがある。同じく銅戈・銅鐸が共存した桜ヶ丘遺跡の場合に比べ、柳沢遺跡の銅戈・銅鐸は形式がやや古いと見られる。こてら柳沢遺跡への青銅器埋納時期は紀元前後と見られ、青銅器の製造はそれ以前とされる。銅鐸は、鐸身に流水文、鰭に鋸歯文があり、高さ約20cmの古段階・外縁付鈕式と確定された。7本の銅戈の中、1号銅戈(全長34.4cm)は九州型・中細形C類で、2号銅戈~7号銅戈は大阪湾型(全長は22.2cm~36.1cm)である。長野県塩尻市で発見された柴宮銅鐸は、三遠式と呼ばれる三河・遠江の銅鐸祭祀具で、弥生後期の祭祀具とされる。柳沢遺跡の興味深い点は、銅戈・銅鐸の発見と同時に、その埋納地点を囲んで、弥生水田跡、礫床木棺墓群、竪穴住居群、土器棺墓群などが発見されていることである。
長野県埋蔵文化財センター著「速報写真グラフ 北信濃柳沢遺跡の銅戈・銅鐸」、信濃毎日新聞社、2008.6 にその全容を見ることが出来る。現在(2011.6)の埋め戻され嵩上げされた現場を見ながら、弥生の生活と祈りを想像した。
国道117号線(飯山街道)・古牧橋から千曲川・高社山を望む。千曲川は左(北)方向に流れる。対面右端から夜間瀬川が千曲川に合流する。右端の集落が柳沢集落。高社山の左側に木島平スキー場がある。

千曲川に流れこむ夜間瀬川右岸の堤防下附近一帯が柳沢遺跡で、合流点に近づいた所に、青銅器埋納坑、礫床木棺墓群があり、千曲川に合流した右岸に竪穴住居跡、土器棺墓群が見つけられた。青銅器埋納坑より上流側には、弥生水田も見つけられている。
夜間瀬川は、笠が岳周辺を水源とし、湯田中を経て、柳沢で千曲川に合流する。夜間瀬川に架かる柳沢の橋上から北側(下流側)を見る。左岸の茂みが途絶える辺りが、千曲川への合流点で、青銅器埋納地点である。 夜間瀬川右岸には民家があり、過去に大洪水に見舞われたので、堤防の嵩上げ工事がなされた。嵩上げされた堤防下で遺跡・遺構が発見された。


堤防下に柳沢遺跡の説明板
(長野県埋蔵文化センター・中野市教育委員会)
(青銅器埋納坑、礫床木棺墓、竪穴住居跡、水田跡、シカ絵土器)

柳沢遺跡全図拡大

青銅器埋納坑写真拡大
青銅器埋納坑ー東西66cm、南北26.2cm、深さ17cm。埋納された7点の銅戈は刃を垂直に立てて並べ、刃先は全て西を向けていた。翌年の調査でも青銅器片が発見され、銅鐸5点、銅戈8点が柳沢遺跡に持ち込まれたことが分っている。銅鐸は、いずれも高さ21cm前後で、5点ともに近畿地方で作られ、銅戈は、7点が近畿地方、1点が北部九州で作られたと考えられている。銅鐸・銅戈が同じ埋納坑から出土したのは、桜ヶ丘遺跡(神戸)に次ぐ2例目、近畿と北部九州の銅戈が同じ埋納坑から出土したのは全国初である。
礫床木棺墓ー礫を敷詰めた床の上に木板を組合わせた棺を設置する墓。千曲川流域と松本盆地を中心に分布する。18基の礫床木棺墓が発見された。中央の1号墳は、長軸が250cm以上あり、多数の管玉が発見された。1号墳を囲んで、長軸150cm前後の墓が17基配置されている。
竪穴住居跡ー合計6軒(中期5・後期1)、水田跡ー大きな溝と水田跡を確認、シカ絵土器ー北信濃で作られた壺(栗林式土器)にシカの絵が描かれていた
銅戈・銅鐸発見位置から夜間瀬川下流(千曲川)を見る 約十メートル西側に弥生時代中期青銅器埋納坑が発見されている。南側約百五十メートルにわたり弥生時代中期の水田跡が発見されている。
銅戈・銅鐸発見位置の堤防上にあり、
堤防はやや広く盛土されている
千曲川との合流点(礫床木棺墓群などがあった)堤防上から夜間瀬川上流方向を見る。
(右の木立が銅戈・銅鐸発見位置)
千曲川に合流しての堤防上(住居跡が見つかっている) 嵩上げ堤防の北端から見た千曲川

中野市立博物館  長野県中野市片塩1221          
立派な建物で、考古展示は1Fにあった。蟹沢古墳、高遠山古墳などについて知りたかったが、小学生の団体が押し寄せていて、目的を果たせなかった。栗林遺跡も探し廻ったが、果実畑があるだけだった

根塚遺跡  長野県下高井郡木島平村往郷字根塚           
縄文~中世の複合遺跡であるが、平成8年の渦巻文装飾付鉄剣の発見以来の発掘調査により、朝鮮半島との交流の知見を得る重要な弥生後期(箱清水期)の遺跡として注目されている。特に”渦巻文装飾”は、伽耶地方独特のものである事が注目される。弥生後期には、根塚丘陵全体が墓域として使われていたらしく、円形墳丘墓は、「根塚弥生墳丘墓」と呼ばれている。発掘調査により、墳丘斜面に貼石があり、円形の周溝が巡り、墳頂に木棺が設置され、鉄剣(3号)・多量のガラス玉・管玉の副葬があった。弥生末期のものとされる「大」の字を刻んだ刻書土器も発見されている

東南側から見た根塚遺跡の全景
東西105m、南北58m、
現水田との比高差7~10mの自然丘陵

東側に見学用の登り口がある。説明板が完備している。


説明板に記された全体図  
円形墳丘墓
(3号剣出土)が真中にある
渦巻文装飾付鉄剣(2号剣)は、丘陵の北西下から出土している
説明板に記された出土品(時代区分)
下段の説明板によると、ここに柄鏡形敷石住居址(稲荷境遺跡:縄文後期)が移築されたとあるが、見当たらない 右側の階段で上段の見学エリアに行く
見学エリアの先、西先端まで行く。写真の右側辺りに円形墳丘墓があり、3号剣が見つけられた。円形墳丘墓は、西暦100年前後、福井の小森山30号墳より先行し、突出部を伴い全長60mクラスに復原の可能性が指摘されている。(椙山、山岸編「方形周溝墓研究の今」、2005.11) 西側下から見る。1・2号剣が出土したのは、段上左寄り

飯山市ふるさと館  長野県飯山市大字飯山1434-1          
飯山市には、前期古墳の前方後方墳・勘介山古墳がある。全長40m、後方部長さ26m(高4.2m)、前方部幅17m・長さ14m(高2.4m)で著名である。有尾1号古墳(全長35m、幅22m、高さ3.5m)、法伝寺2号古墳(全長23m、後方部長さ16m(高2,6m)、前方部幅8m(高2.1m))も前方後方墳で、後者の後方部頂上から鉄剣が見つかっている。いずれも前期古墳らしいが、詳細は分らない。古墳の在り場所で見学可能なことは分ったが、雨がひどくなったので無理をしなかった
ふるさと館には、高橋まゆみさんの創作人形と考古資料 考古部門の展示
この地域の縄文土器
煮炊き用、貯蔵用、注ぎ用、盛付け用、祭祀用など
この地域の弥生土器
千曲川流域の箱清水式土器は、赤く塗られた独特のもの


各地から運ばれた土器などの展示
(上段の土器群;左から)北陸系(縄文)、東北系(縄文)、
北陸系(古墳)、東海系(古墳)
(下段左から)
黒曜石、糸魚川の石斧(縄文)、姫川産ヒスイ(縄文)、
北陸産管玉(弥生)

祭祀用の漆塗り(信濃で唯一)の櫛と櫛の歯を差し込む孔
  高橋まゆみ「七福神」

寺めぐり散歩道(飯山市) 長野県飯山市            
飯山線の飯山駅と北飯山駅の間には、古いお寺が並んでいる。千曲川を中央橋で渡り線路を跨い所にある忠恩寺から、北飯山へ山裾を巡るお寺巡りの道がある。平行する街中の道の両側には、仏壇店が軒を並べる。古色を残した寺の町である。
雁木通り 仏壇店が並ぶ町
漆塗り・蒔絵の豪華な飯山仏壇は、
広く北信濃に広がっているという
松寿山正覚院 忠恩寺 から山沿いに散歩道がつづく
途中、伝統工芸の仏壇を展示した「奥信濃」がある
飯山藩主・松平家墓所から町を見下ろす 忠恩寺から西南に「恵端禅師旧跡・正受庵」がある

富山県へ