越後と会津の古墳群(b.会津盆地) (新潟県・福島県)

a. 新潟平野を散策 .. b. 会津盆地を散策
阿賀野川は、新潟・福島・群馬の三県にまたがり、源流は栃木・福島県境の荒海山であり、福島県では阿賀川(大川)と呼ばれている。会津盆地で、猪苗代湖を水源とする日橋川と尾瀬沼周辺を水源とする只見川が合流する。古代から会津盆地への入路は、越後(新潟)からは阿賀野川沿いに、毛野(群馬・栃木)からは大川沿いに会津田島を経由して、あるいは福島県中通り(郡山・白河)からは猪苗代湖の湖岸に沿っての道となる。会津坂下は、新潟からの入路の重要地点で、ここから会津盆地の各地に容易にたどり着ける。
会津盆地内の古墳は、盆地周辺の山岳・丘陵地帯に広がる三つの古墳群に大別される
築造期 古墳名 古墳群 所在場所 墳丘長
会津坂下 2期後 亀ケ森古墳 宇内青津古墳群 会津坂下町青津 127m
3-4期 鎮守森古墳 宇内青津古墳群 会津坂下町青津 55m
3-4期 森北1号墳 宇内青津古墳群 会津坂下町大上 40m
2期 杵ガ森古墳 宇内青津古墳群 会津坂下町稲荷塚 46m
喜多方 4期 舟森山古墳 雄国山麓の古墳群. 喜多方市塩川町
5期 深沢古墳 雄国山麓の古墳群 喜多方市塩川町 42m
会津若松 2期 堂ケ作山古墳 一箕古墳群 会津若松市一箕町 84m
3期、4c後 会津大塚山古墳 一箕古墳群 会津若松市一箕町 114m

編年 1期 2期 3期 4期
標本 箸墓古墳 桜井茶臼山 奈良メスリ山 津堂城山
古墳時代 前期(AD250-AD400)
上記表中の編年は、近藤義郎編「前方後円墳集成」による。文中のデータもこれによるものが多い。
会津の古墳は越後(新潟平野)と同様に、前期(2~4期)の古墳が多く、それ以後の古墳は見つけられていない。逆に、同じ福島県でも、中通りと浜通りには、中期・後期の古墳も多く、近県の宮城、米沢・山形にも中期以降の古墳が見られる。大和王権の確立とともに、蝦夷政策の最前線が陸奥・出羽に設置され、蝦夷政策のエアポケットとなり、会津の重要性が無くなったのだろうか。いづれにしても、古墳文化は早い時期に東北南部・会津に浸透していた。


会津の古墳を歩く
越後(新潟県)から阿賀野川沿いに会津盆地に入った。越後と会津は、歴史的なかかわりが多い。「古事記」(712年)には、崇神朝に四道将軍が各地に派遣され、高志(越)の道に派遣された建沼河別命(大毘古の子)と東方十二道(東海)に派遣された大毘古(大彦)命が相津(会津)で出会ったという地名説話がある。早くから大和王権の注目の地であることを物語っている。


栃木・福島県境を源とする阿賀川は、猪苗代湖を水源とする日橋川と会津盆地西北部の湯川村で合流し、更に只見川と会津坂下・高郷村で合流し西進し、やがて新潟県境を越え、阿賀野川と名を変え新潟港を目指す。
日本海から阿賀野川を遡ってきた文化・経済の会津盆地への入口が西会津・会津坂下であり、亀ヶ森古墳を含む宇内青津古墳群がある。会津盆地の中心となる会津若松には、大塚山古墳を含む一箕古墳群があり、磐梯山西麓の雄国山麓に雄国山麓の古墳群がある。



珠文鏡が出土した森北1号墳は会津丘陵にあるが、跡形は探し当てられなかった。会津丘陵上には、雷神山古墳、虚空蔵古墳などがあり、宇内青津古墳群に属す。
杵ガ森(きねがもり)古墳・稲荷塚遺跡(方形周溝墓)   (宇内青津古墳群)   会津坂下町字稲荷塚                 
総長54m、墳長45.6m、後円部径25m・高2m、前方部幅推定18m・長21m、くびれ部幅7.8mの前方後円墳、後円部2段、周濠あり。弥生式土器を出土する集落遺跡の上に築かれている。古墳周囲に方形周溝墓群があるが、杵ケ森古墳築造以降に古墳関係者が葬られたとされる。周濠の最下層から、古墳時代前期の朱彩色土器破片や器台が出土した。4世紀前半の築造とされ、現在までに発見された東北の古墳では最も古いとされる。畿内箸墓古墳と相似(1/6の大きさ)であることが注目される。約400m北に古墳時代前期の臼ケ森古墳(全長50m)と森前遺跡があり、その時代にこの辺一帯が繁栄していたことを物語る。会津坂下駅前の埋蔵文化財整理作業所で、宇内青津古墳群に属する古墳の出土品を見ることができる。
その存在は古くから知られていたが、平成2年に土地改良工事に伴い調査され、その遺跡価値が高いことから公園として保存された。 国道49号の稲荷森にある信号交差点から南方向に500m程の東側に、公園として保存されている。公園内南側より見る杵ケ森古墳。
杵ガ森前方後円墳 左側に前方部があるが、削られて消滅している。 杵ケ森古墳の東側に接して、方形周溝墓群の稲荷塚遺跡が保存されている。
亀が森古墳・鎮守森古墳    (宇内青津古墳群)     会津坂下町大字青津
会津丘陵(宇内)と、丘陵の東下の平野部(青津)とを含めて宇内青津古墳群という。平野部に築造されている。
宇内青津には、弥生時代の遺跡も多く、大塚山古墳を中心とする会津若松とは別の広がりを持っていたらしい
     会津丘陵を下り、亀ヶ岡古墳・鎮守森古墳(道の左)に向かう。
鎮守森古墳の左手前に古墳時代前期の集落遺跡(中西遺跡)が、亀ケ森古墳の左奥に東北最大の方形周溝墓と前方後方周溝墓3基が発見されている。会津丘陵上の(宇内)古墳群に対して、平野部に築造されている。
      鎮守森古墳から西方の会津丘陵を望む。
丘陵上に雷神山古墳や森北1号墳を含む多くの古墳がある。右端の山は喜多方市になり、虚空蔵古墳などが残る。丘陵左端は会津坂下市街で、そこにも杵ケ森、臼ケ森などの古墳がある。
亀ヶ森古墳 (大亀甲古墳)
名取市雷神山古墳に次いで東北第二の大きさの前方後円墳。総長175m、墳長127m、後円部径66.8m・高10m・頂径50m、前方幅60m・長60.5m・高5.8m、くびれ幅25m。後円部は3段構成で葺石あり。前方部は墓地で削平。墳丘から偶然に出土した埴輪から、4世紀後半の築造とされる。

古墳の周辺を歩く
西遠方より見る亀ケ森古墳。右手前の森は鎮守森古墳
地点:前方部は墓地になっている。(南西方向から) からへ:北側から見る。右の前方部と左の後円部のくびれ部が分かる。前面の畑地は周濠。
からへ:後円部を東側から見る。 :南東から後円部への上り口がある。
石段を登ると、稲荷神社がある。この一帯が後円部。 さらに右上の一段高い所に観音堂がある。ここが墳頂。
頂上から見た後円部。
鎮守森古墳 (小亀甲古墳)
前方後方墳。墳長55.2m、後方辺27.2~30.5m・高4.7m・頂辺7.4m、前方幅15.6m・長28m・高2.2m、くびれ幅14.8m。出土した二重口縁壺から4世紀中頃の築造とされる。
:青津の民家を通り過ぎて、鎮守森古墳に向かう。 :古墳の入口は狭い路地

鎮守森古墳には、やや詳細な測量図が示されている。
:鎮守森古墳の入口(なんとも素朴だ)
後方部は広い方形。 後方部から前方部を見る。入って行き難いが、墳形はよく残っている。
:鎮守森古墳を西側から見る。左後方の森は亀ヶ森。

舟森山古墳・深沢古墳は、会津盆地の東山麓に位置する。会津磐梯山に向かって車を走らせる。途中、塩川町に四隅突出墳かといわれる舘ノ内1号周溝墓と古墳時代の豪族居館跡がある。

観音寺の裏山は観音寺古墳(前方後方墳)  
舟森山古墳    (雄国山麓の古墳群)     塩川町田中          
前方後方墳と見られるが、宅地造成により墳丘は破壊されている。
やっと探し当てた舟森山古墳の正面は、稲荷神社だった。 稲荷神社の部分だけ墳丘が残っている。
墳丘上から磐梯山方面を望む。 舟森山古墳(字が消えかけ)の古い立標識があった。
深沢古墳    (雄国山麓の古墳群)    塩川町深沢          
前方後円墳と推定されている。墳長約41.5m、後円部径約27.5m、高さ3.7~4.5m、前方部幅16.5m・長14m・高2.6~3.1m、くびれ幅9.7m。周濠の痕跡と思われる凹地が後円部西側にある。東南方の台地上に十九壇古墳群がある。
熊野神社を目標に深沢古墳に行く。 正面は、子供の遊び場
熊野神社のある後円部墳頂を前方部側から見る。 後円部墳頂から前方部へつけられた小道を見る。
前方部端には石篭が立つ。 墳丘周囲は一周できる。
会津大塚山古墳    (一箕古墳群)     会津若松市一箕町大字八幡          
標高259mの小独立丘陵上にある。墳長114m、後円径約70m・高13m・頂径24m、前方幅約50m・長55m・高6m、くびれ幅32m前後、葺石なし。二段構成で、周濠があったと推定されている。出土品は福島県立博物館で常設展示されている。一箕古墳群は、山岳・丘陵を利用して、築造されている。
1988年(昭.39)の発掘調査により、二つの木棺直葬主体部が検出され、南棺から倣製三角縁唐草紋帯二神二獣鏡、変形神獣鏡、硬玉製勾玉、碧玉製管玉、琥珀製算盤玉、ガラス製小玉、竹櫛、鉄製三葉環頭大刀、鉄剣、轍小刀、銅鏃、鉄鏃、直弧紋漆塗靫、鉄斧、槍鉋、鉄刀子、棒状鉄器、砥石、石臼、台石、丹が発見され、北棺からは捩文鏡、碧玉製管玉、紡錘車形碧玉製品、鉄製直刀、鉄剣、銅鏃、鉄鏃、靫、鉄斧、鉄製刀子が発見された。埴輪・葺石はなかった。会津に東北では類を見ない畿内的な古墳の発見は、弥生後期まで人口も少なく、おそらく小集落が散在するだけであったろう会津盆地に、いったいどのようにこのような古墳文化が成立するにいたったかという点で問題を投げかけた。(穴沢・馬目編「日本の古代遺跡 福島」保育社1991)

会津坂下より国道49号を南下し、郷ノ原を右折すると右に大塚山霊園がある。こ霊園の最高部に大塚山古墳がある。大塚山、堂ケ作山、飯盛山古墳は、いずれも山の最高部を利用して築造されている。

大塚山霊園

霊園の南丘陵が大塚山古墳

樹木で覆われている
大塚山霊園内から大塚山古墳を北側から見る。突き当たりをお墓の間を真直ぐに登る石段道がある。車では左側からお墓を右に見て緩やかに登る迂回路がある。 迂回路の頂上に車4台ほど駐車できる場所がある。見上げると会津大塚山古墳の説明板がある。
説明板のある所は、古墳東側くびれ部の造りし部の外縁に相当する。霊園墓地が間際まで迫っている。 大塚山古墳の説明板がある所に、古墳内への道がある。
前方部から後円部に登るスロープに出る。後円部に向かう。 後円部墳頂
東麓の北滝沢集落から出土したという安山岩の石棺蓋が置いてある。 後円部からスロープを下りて前方部に向かう。
塚らしきものがある。前方部の左隅(北西端)に出る道がある。前方部の周囲を巡って出発点に戻る。
堂ケ作山古墳  (一箕古墳群)  会津若松市一箕町堂ケ作山          
会津大塚山古墳に先行、堂ケ作山山頂にあるが確認できなかった。墳長84m、後円径74m高11m・頂径21m、前方幅9m・高6m、くびれ幅6.5mとされる。
堂ケ作山にはこの稲荷社を登ると行くことができると、土地の方に教わったが、くもの巣だらけで断念した。
飯盛山古墳   (一箕古墳群)  会津市一箕町
前方後円墳(墳長約60m)と見られるが、未調査で詳細不明。
飯盛山には戊辰戦争で自刃した白虎隊士の墓がる。 会津城が見えるこの丘で19人の少年隊士は自刃した。

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