越後と会津の古墳群(a.新潟平野(巻町)) (新潟県・福島県)

a. 新潟平野(巻町)を散策 .. b. 会津盆地を散策

これまでに、幾つかの古墳を見てきた
08.04 上毛野の古代散見 群馬県
07.09 古代北東北の旅 宮城県、岩手県
秋田県、青森県
07.06 甲斐風土記の丘 山梨県
07.02
   ~04
関東の古墳
 5世紀の前方後円墳を中心に
東京都、埼玉県、群馬県
栃木県、茨城県、千葉県
05.11 さきたま古墳群 埼玉県
06.07 古代出雲の旅  島根県
07.01 百舌鳥・古市古墳群 大阪府
07.10 三輪山と纒向遺跡 奈良県
05.12 三輪山西麓の古墳群 奈良県
7月7日~9日に、古代「越国(こしのくに)」と呼ばれた新潟県から福島県の北部「会津」の初期の古墳を巡った。今回旅した巻町周辺から会津に入るには、新津市へ出て阿賀野川沿いに東進する。後の世になって、戊辰戦争時には、長岡藩の家老・河合継之介は、六十里越を越えて会津に逃れようとしたが、このルートは古代には一般的でない。

飛鳥・奈良時代に日本国が確立する以前に、畿内(大和)王権があった。古墳時代は畿内王権と各地豪族(首長)との接触が進められた時代とも受け止められよう。日本の正史とされる「記紀」は、8世紀初頭に完成されている。それ以前の歴史は、伝承としてあるいは説話として纏められたもので、あるいは事実であり、あるいは比喩的・創作的なものであろう。古墳時代以前の政ごと(祭祀)と宗教以前の信仰を知るには、考古学的事実を見極めることであろう。時代を遡るに、各地(とくに関東以北)に散らばる古墳をその入口として旅をしている。当然のことながら、数多い古墳・遺跡を全て訪ねることは出来ず、考古学に携わる方々により発掘調査され重要視されている古墳の幾つかと関連する資料館を訪ね、書物によって得た知識を現場で確かめ、その立地環境・保存状態・副葬品を見てまわるに過ぎない。それでも、その土地特有の匂いとそれらに対しての思いが伝わってくる。時には土地の専門家の貴重なレクチャーを受けることもある。
築造期 古墳名 古墳群 所在場所 墳丘長
新潟 2期 巻町山谷古墳 ... 西蒲原群巻町 37m
3期 菖蒲塚古墳 ... 西蒲原群巻町 54m

編年 1期 2期 3期 4期
標本 箸墓古墳 桜井茶臼山 奈良メスリ山 津堂城山
古墳時代 前期(250-400)
上記表中の編年は、近藤義郎編「前方後円墳集成」による。文中のデータもこれによるものが多い。標本としている1期~3期の古墳は、奈良盆地南東部(いわゆる山辺の道界隈)にあり、ヤマト王権の出現期に相当し、4期の津堂城山古墳は、古市古墳群の最も古い年代の古墳に相当する。従って、山谷古墳や菖蒲塚古墳は、畿内にようやく王権(?)が出来始めた頃のものであろう。2期の山谷古墳が前方後方墳で、3期の菖蒲塚古墳が畿内と歩を合わせる前方後円墳であることも興味をひく。
 

新潟平野(巻町)の古墳を歩く
長岡から出雲崎に出て北上、弥彦神社に立寄った後に、目的とする古墳を探しに巻町へ
   長岡市から出雲崎に出て会う「良寛さんと良寛堂」

良寛さん(1757~1831)は、出雲崎の名主・神職の長男として生まれた。18才の時に仏門(曹洞宗)に入り、備中(岡山)で修業後、諸国を行脚した。38才の時に故郷に帰り、国上山中に居を構え、托鉢し、自然を愛し、子供と戯れる「良寛さん」となった。
弥彦神社 後方の弥彦山は霧の中。祭神は天香山命(あめのかごやまのみこと)で、天照大御神の曾孫とされる。正確な創建年代は不明だが、延喜式では名神大社とされ、後に越後一の宮となる。万葉集にも伊夜比古(弥彦)として詠まれている。現在の本殿(大正5年再建)は、弥彦山を背にして東面して建てられているが、以前は別の位置に南面して建てられていた。神社の方の話では、創建時に如何であったかは分からず、元々の地神の社が格式を得る為に天孫系の神を祀るようになったのかも明らかでない。源氏・上杉の棟梁や徳川幕府からも篤く保護され、民衆の「おやひこさま」詣でも一貫して盛んであった。

山谷古墳は、角田弥彦山塊の中央部にある五ケ峠の南東山麓にあり、山の斜面を利用しているようだ。菖蒲塚古墳は、むしろ平野の中の丘陵斜面を利用しているように見受けられた。山裾から平野への首長墓・拠点の移動が感じられる。

菖蒲塚古墳の説明看板からもあるように、日本海岸側沿岸部での北限の前方後円墳である。
山谷(やまや)古墳     西蒲原群巻町          
尾根上にある前方後方墳、墳長37m、後方辺幅22.9m×24.7m・高4.6m、頂辺14.5m×9.5m、前方幅16.3m・長12.3m・高2.3m。葺石なし、埴輪なし、外表遺物として土師器(壺、甕、高杯、器台、かん坩)
前方後方墳で、4世紀中頃の造営と推定される。この地方の初代の首長墓とされる。

五ケ浜から間瀬に向かって坂を上り、坂の頂上で巻町へ向かう。五ケ峠は新しいトンネルで抜け坂を下り、長福寺の南側の道を右に入る。民家を通りぬけ良寛碑(良寛さんはこの辺まで托鉢に来た)のある所を直進すると、右側に「神明宮諏訪社」がある。前方には、弥彦山を仰ぐ。神社の右側に山に入る道がある。
神明宮諏訪社 境内の灯篭には文政、天保の文字が見える。 神明宮諏訪社の右側の杉林の道を500mほど奥へ歩く。
山谷古墳への登り口は、整備された階段になっている。 尾根の頂部に築造されている。
興味深い解説と墳形の概略がある。 手前が前方部で奥が後方部。墳形がよく残されている。
前方部左側面にある造出し部 後方部中央に東方向縦位置に割竹形木棺(直葬)があり、副葬品として、碧玉管玉7、ガラス小玉34、鉄器1が見つけられている。
菖蒲塚(あやめづか)古墳     西蒲原群巻町         
前方後円墳。墳長54m、後円部径30m・高3m・頂径12m、前方部幅17m・長24m・高2m、くびれ幅13m。葺石なし、埴輪なし。鏡、玉類が出土している。

4世紀後半~5世紀初頭の造営と推定される。前方後円墳として、日本海沿岸部での北限となっている。山谷古墳に次ぐこの地の首長墓と推定されている。だ龍鏡(22.7φ)が出土、「北越奇談」に載る。国産鏡で大和王権からの授かりものと解される。江戸時代に乱掘された。



角田山山麓の台地に縄文遺跡(上ン原遺跡)がある。菖蒲塚古墳は、同じ台地上にある。
古墳の周辺は地元民のお墓になっている。 付近一帯の地山を削り平坦化した後に築造されたらしい。
後円部。背景の山は、角田山(482m)
後円部から前方部方向 前方部からは新潟平野が見渡せる。
古墳の周辺は綺麗に囲まれていて、一周するとやっと墳形が理解できる。この左側に隼人塚があるのだが、樹木が茂っていてよく分からない。

新潟県埋蔵文化財センター    新潟市秋葉区金津93-1

花と遺跡のふるさと公園内に、新潟県立植物園、新津美術館、古津八幡山遺跡・古墳がある。古津八幡山古墳(3期)は、新潟平野で最大とされる造出付円墳である。遺跡として、弥生後期集落と前方後方周溝墓がある。
新潟県の前方後円(方)墳は、上記の角田・弥彦山塊周辺と、新潟県埋蔵文化センターのある新津・東山丘陵沿いの地域に見られ、両者は信濃川を挟んで対峙している。新潟平野は、畿内王権の影響を早くから受けていたようで、造出付円墳や前方後円墳が前期段階で見られるが、詳細は発掘件数が少なく検討が続けられているようだ。初期に於いては、能登半島から直接に、日本海沿岸ルートで古墳文化の伝播も考えられている。

しかしながら、この古墳文化は、中期以降に必ずしも発展せず、中期後半の新潟県の古墳文化は、信越国境に近い魚沼川中上流域に見られるようになる。(前方後円墳集成より)

崇神天皇の時代に、高志(越)の道に派遣された大毘古(大彦)命と東方十二道(東海)に派遣された建沼河別命が相津(会津)で出会ったという「古事記」の記事の背景を感じる。
b. 会津の古墳へ