ー美濃・大和を周回 1.Vー
  V 野古墳群と上磯古墳群 (岐阜県)
  (大垣市)
16.野古墳群    登越古墳  南出口(城塚)古墳  南屋敷西古墳(野3号)  野7・8・9号
               不動塚古墳(野2号)  モタレ古墳  乾屋敷古墳
17.上磯古墳群   亀山古墳  南山古墳  北山古墳 

 
          大野町は揖斐川と根尾川が合流する三角地点にあり、古代の東山道は、不破席から大野駅を経て、
             岐阜・方県(かたがた)駅に向った。
          野古墳群は、より合流点近く(南)にある上磯古墳群に次いで築造された古墳群で、
             各務原市の琴塚古墳と同時期に当たり、美濃の古墳としては最終段階となる。
上磯古墳群は、4世紀後半から5世紀前半に築かれ、北山古墳と南山古墳は前方後方墳、亀山古墳は前方後円墳である。野古墳群は、上磯古墳群の北3kmに5世紀前半から6世紀前半仁亘って築かれた前方後円墳群であり、乾屋敷、登越・不動塚・モタレ、南屋敷西、城塚の順に築かれた。これらは、大野グループを形成し、大垣市の別のグループ(赤坂、矢道、垂井、南濃)が5世紀前半で前方後円(方)墳が見られなくなるのに対して、野古墳群は前方後円墳を築きつづける。

16.野古墳群 のこふんぐん 岐阜県揖斐郡大野町
野古墳群を西側から見渡す。

  野古墳群の南端は、小川で仕切られている。

昭和32年国史跡

標高25m前後の低地に郡在する大規模な古墳群。
5世紀中頃から6世紀前半の前方後円古墳と円墳が点在する。
6基の前方後円墳では、乾屋敷古墳が最も古く、登越古墳とモタレ古墳、不動塚古墳、南屋敷西古墳、城塚古墳とつづく
 
登越古墳(野4号)

大野町教育委員会の説明板
5世紀中頃・古墳時代中期後半の築造で、全長83.3m、前方部幅46.2m(高さ5.5m)、後円部径55m(高さ6.8m)、くびれ部幅37m(高さ4.5m)の規模を有す。三段構成で、外堤部をもつ二重周濠をもつ。第2周濠は空壕。特徴は、低い基段が2段目と異なり、くびれかたが弱く、前方部の先端に近づくに連れて広がる。野古墳群で最大規模の古墳
     登越古墳西側からの全景。左側が後円部
北側から見る登越古墳 三段構成が分る 後円部墳頂より前方部を見る 二段目でくびれる
登越古墳上から北側、モタレ古墳と不動塚古墳を見る。 東側に、南屋敷西古墳を見る。
南東に、南出口(城塚)古墳を見る。 西側は広く開け、遠くに養老山系が見える。
 
南出口(城塚)古墳(野5号)

大野町教育委員会の説明板
野古墳群では最終段階で築造された前方後円古墳。6世紀初の築造と見られる。明治2年に石室天井石が除かれ、舶載鏡である径20.3cmの鍍金獣帯鏡が出土し、国重文指定された。現在は五島美術館(東京)に所蔵されている。
墳丘規模は、全長82m、前方部幅31m(高さ4.0m)、後円部径42m(高さ7m)である
            東側から見る南出口古墳
 
南屋敷西古墳(野3号)

大野町教育委員会の説明板
登越古墳についで5世紀末に築造されたと見られる。墳丘全長は76m、前方部幅28m(高さ3m)、後円部径54m(高さ5.4m)、くびれ部幅9mで、小丘をベースとした二段構成。墳丘斜面に不整形の割石を用いた葺石が、テラスには円筒埴輪列が巡ると考えられている。出土した埴輪は土師質で、愛知県春日井市の下原古窯群で焼成された可能性が高いとされる。
野7号墳 帆立貝式古墳 南屋敷古墳と同時期の築造 野8・9号墳  8号墳;方墳  9号墳;前方後円墳
 不動塚古墳(野2号)
出土品なく築造年代不明とされるが、登越古墳と同時期とされることもある。全長58m、前方部幅13m(高さ1.5m)、後円部径40m(高さ6m)、くびれ部幅15m(高さ1m)の墳丘規模をもつ。二段構成で、前方部が後円部に比べかなり低い。前方部裾部は広がらずに、短い方形がそのまま後円部に付いた形状をしている。後円部墳頂は広く、段築のテラス面も明瞭に残る。
大野町教育委員会の説明板 後円部側から見る不動塚古墳
手前に、古墳見学のための駐車場がある。
 モタレ古墳
築造年代は登越古墳と同時期とされる。現在は円墳として残るが、測量調査の結果、南側に前方部があったと判明している。推定全長は54m前後、後円部径41m(高さ6m)である。円筒埴輪片が出土。
大野町教育委員会の説明板 南側から見るモタレ古墳
 乾屋敷古墳 いぬいやしきこふん    
      野古墳群で最古のようだが、住宅地内にあり原形とどめず、立入り禁止となっている
不動院として石段上に残るが、立入り禁止 県道92を南下、名所”二度桜”を通る。
名所”二度桜”から北を見る。先方のムラ辺りが野古墳群

17.上磯古墳群 かみいそこふんぐん 岐阜県揖斐郡大野町上磯
”二度桜”から南1km大野バラ園の近くに上磯古墳群がある。大野町立南小学校の北側が目標となる。4世紀後半から5世紀前半に、野古墳群より先行して、前方後方墳・北山古墳と南山古墳、および前方後円墳・亀山古墳の3基が、順次に築造された。
大垣の赤坂グループとの編年を比較すると、赤坂(昼飯)の前方後円墳・花岡山古墳(消滅)が4世紀中頃に先行し、それにつづく花岡山頂上古墳(消滅)と上磯の北山古墳が築造される。5世紀初め築造の上磯の南山古墳は、昼飯の昼飯大塚山古墳と同時期である。昼飯では当初より前方後円墳が築かれているのに対して、上磯では、前方後方墳が築かれている。上磯の亀山古墳は、前方後円墳で、赤坂での築造地域は青墓に移り、遊塚古墳、八幡山古墳(いずれも前方後円墳)と粉糠山(前方後方墳!)が築かれる。 
 亀山古墳
三つの古墳の中では最も新しい。
前方後円墳、全長98m、二段構成、葺石あり。四獣鏡1、六獣鏡1、刀、鏃などが出土。前方部を南東に向ける。
北東側(後円部東側)から見た亀山古墳
前方部南角から  東角側には住居が建っている。 後円部墳頂から前方部を見る。前方部左端に住居
亀山古墳から東側に、左に北山古墳、右に南山古墳が見える。三つの古墳は、二等辺三角形(頂点に亀山古墳の前方部)の関係にある。
 南山古墳
前方後方墳、全長96m、二段構成、変形文鏡1が出土。前方部を東北に向ける。
西側道路沿いに(後方部の角から)見る南山古墳 東側に回ると、史蹟の標識があり、小公園になっている。
赤い鉄柱の後の前方部が削られているようだ 墳頂に登って前方部を見る。右側の公園側が削られている。
 北山古墳
前方後方墳、全長83m、二段構成、葺石、埴輪あり。内行花文鏡1、刀1、鏃、斧が出土。前方部を東南に向ける。葺石、埴輪あり。舶載内行花文鏡1、刀1、鏃、斧が出土。前方部を東南に向ける。三つの古墳の中では最も古く、4世紀後半〜末に築造された。 
北山古墳は八幡神社となって保存されている。 八幡神社参道 前方部に相当する。
社のある辺りが後方部の墳頂 北側から見ると、後方部がよく分かる

揖斐川(徳山ダム・冠山) 根尾川(谷汲寺・舟木山古墳群・温見峠)

揖斐川に沿いには、その建造で大反対運動のあった徳山ダムがある。大野町より、R303を北上、横山ダムからR417を更に北上、徳山ダムより冠山林道で高倉峠を越えれば、南越前の今庄に至る。途中冠山峠に向えば、冠山(1257m)直下を通り切断されたR417に再び合い、越前池田町にも行ける。ダム建造前に、鄙びた徳山集落を通過して夜叉が池伝説で有名な冠山越えをしたことがある。その後、反対運動盛んになり、廃屋が目立つようになった時にも通過した。2008年に徳山ダムは完成し、現在は観光地化している。

根尾川に沿いにR157を北上すれば、揖斐川町、樽見、うすずみ桜で有名な根尾村、温見峠を経て越前大野に至る。樹々の緑で覆われた好ましい道だ。山中で工事のために3〜4時間待たされたこともあるが、待ち時間が気にならないほどに新緑は気持ちよかった。昨年(2009年)、R157の揖斐川町から、西国33ケ所の結願として谷汲寺に詣でた。この道沿いには、本巣に”織部の里”や”富有柿の里”があり、「古墳と柿の館」には船来山古墳群出土品が展示されている。舟木山272号墳は赤彩古墳として名高く、石室は定期的に公開される。船木山古墳群は野古墳群と根尾川を挟んで、東西の位置関係にある。

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