ー美濃・大和を周回 1.Ⅳー
  Ⅳ 赤坂総合センターから円満寺山古墳まで (岐阜県)
  (大垣市・養老町・海津市)

 18.赤坂総合センター  19.昼飯大塚山古墳(大垣市)  20.粉糠山古墳(大垣市)  
21.八幡山古墳(大垣市)  22.遊塚古墳跡(大垣市)  23.大垣市歴史民俗資料館・美濃国分寺跡 
24.矢道長塚古墳(大垣市)  25.象鼻山古墳群(養老町)  26.円満寺山古墳(海津市)
 この地域は、東山道が、伊吹山と鈴鹿・養老山系の間をぬって、東国にはじめて接する重要地帯である。また伊勢国からは、伊勢湾岸沿いに養老山麓を北上する地域でもある。古墳時代の伊勢湾は、海津市辺りまで入り込んでいて、円満寺山古墳は伊勢湾岸沿いの道を見下ろす地に築かれている。
 南濃(海津市)の円満寺山古墳と赤坂グループの花岡山古墳は、4世紀中頃に築かれた前方後円墳である。赤坂グループでは、5世紀はじめに巨大前方後円墳・昼飯大塚山古墳が築かれる。矢道長塚古墳は、昼飯大塚山古墳の一代前の首長墓、遊塚古墳、粉糠山古墳、八幡山古墳は5世紀の前半に、昼飯大塚山古墳につづいて築造される。象鼻山古墳群の象鼻山1号墳は、3世紀後半から4世紀はじめに築かれた美濃最古の古墳の一つで、前方後方墳である。

18.赤坂総合センター 岐阜県大垣市昼飯町108
美濃赤阪(大垣市)の西側、昼飯(ひるい)町と青墓(あおぼ)町は史蹟の多い土地である。西濃の古墳群を赤阪、矢道、垂井グループと別けると、赤阪グループは、昼飯と青墓に小分類される。昼飯の4世紀中頃築造の花岡山古墳群は石灰採取場として消滅した。

赤阪総合センターの玄関ホールには、この地の遺跡・古墳の調査速報が展示されている。昼飯大塚古墳の整備や弥生時代の荒尾南遺跡の方形周溝墓の成果などが出展されていた。

ここを起点・終点として、昼飯と青墓の古墳群を見て歩いた。昼飯大塚山古墳は直線距離100mにある

19.昼飯大塚山古墳 ひるいおおつかやまこふん (国史跡) 岐阜県大垣市昼飯町
昭和55年と平成6~12年に発掘調査された。現在は、国史跡として整備中。 
古墳時代前期末・4世紀後半ー5世紀初の前方後円墳。全長150m、前方部幅82m、後円部径96m(高さ13m)、くびれ部幅55mの規模をもつ。標高24mの段丘上に立地し、前方部、後円部ともに三段構成で、葺石を備える。各平坦面に埴輪が立てられている。主軸は東西で前方部を西に向ける。周濠があり、その幅は後円部で9m、くびれ部23m、前方部11mと判明している。主体部は、後円部上に主軸に平行に竪穴式石室(4.5m×1.2~0.8m)、天井石は8枚見つかっており、砂岩製で下・側面が赤色塗装されている。石室と平行して、南側に粘土郭があり同一墓壙(南北12m×東西11m)に収まっている。明治時代に盗掘の記録があり、玉類、鉄器が出土したという。昭和55年以降、円筒埴輪、形象埴輪などが出土しているが、石室内は未調査。墓壙内の西側表面下1m(2.5m×0.25m)内から鉄製品群(刀、剣、鎌、斧、柄付縦斧、蕨手刀子など)がまとまって出土した。ほかに、石釧や石製模造品、4,393点以上の玉類が出土している。
岐阜県下最大の前方後円墳で墳丘形は奈良・佐紀盾列古墳群のものと似ていることなどが注目される。(大垣市教育委員会 大垣の古墳時代 2003 より)
東南側から見る。
後円部の裾にブルーシート、左に前方部の一部
前方部南西角から見る。盛土がむき出しになっている
くびれ部・後円部を南側から  前方部からくびれ部・後円部を北西から

20.粉糠山古墳 こぬかやまこふん 岐阜県大垣市青墓1丁目
現在は、青墓町の共同墓地となっている。昭和62年に発掘調査して、墳形・規模を確定した。
5世紀前半築造の前方後方墳。墳長100m、後方部の一辺50m(高さ推定5.5~6m)、前方部幅45m(高さ推定4m)を測り、周濠、葺石、埴輪が確認されている。円筒埴輪、朝顔形埴輪、形象埴輪が出土している。かつて、鏡、玉、刀が出土したと伝えられている。鏡は珠文鏡で関ヶ原町歴史民俗資料館に保管されている。鉄刀は後方部中央から約5本分の刀身が南北に並べられるように出土したという。前方部を西に向ける。前方後方墳としては東海最大、全国でも有数の規模。埋葬施設は不明、壊されている可能性大。 (大垣市教育委員会 大垣の古墳時代 2003 より)
粉糠山古墳の説明板が墓地入口に立つ 墓地入口は、前方部にある
昼飯大塚山から来ると、東海道本線のガードをくぐると、西側の水田の中に軍艦のように見えるのが粉糠山古墳 北側の道を歩くと、左が後方部で右が前方部であることが分る。墓地内に上って見たが、共同墓地の墓石が林立していた

再び東海道本線ガードをくぐり線路の北側に向う。この一帯は古墳だけでなく、弥生・古代・中世の史蹟が多い

21.八幡山古墳 はちまんやまこふん 岐阜県大垣市青墓町3
北に向かい、八幡神社への石段で標高50mの丘陵上に登る。この丘陵上には幾つかの古墳群がある。
八幡山古墳は、4世紀末葉頃に築造した前方後円墳で、墳長41m、前方部幅17m(高さ3.5m)、後円部径25m(高さ4.5m)。前方部を南に向ける。二段構成で、葺石あり。埋葬施設、副葬品は不明。 (大垣市教育委員会 大垣の古墳時代 2003 より)
八幡神社(古墳)へは、ここから登る 絵入りの案内板
石段を上りきった辺りから八幡神社古墳の前方部 後円部の中心に八幡神社が立つ
後円部を後方から見ても、二段構成であることは確認できない。
更に奥に進むと、西中尾古墳群(後期)への標識もある。
まむしが出そうなので、丘陵を下り、社宮司古墳群(後期)下のため池を通り、遊塚古墳跡に向う。田舎と開拓地が入り混じった風景がつづく

22.遊塚古墳跡 あそびづかこふんあと 岐阜県大垣市青墓町堤ケ谷
赤阪グループでは、昼飯大塚古墳築造後、古墳造営は昼飯から青墓に移る。5世紀初の遊塚古墳、粉糠古墳、八幡山古墳が相次いで造営される。遊塚古墳は、名神高速道路建設の土取り場所になり、急遽発掘調査が行なわれた。現在は消滅しているが、調査結果・写真は大垣市歴史民俗資料館で見ることができる
遊塚古墳 5世紀初築造の前方後円墳。墳長80m、前方部幅38m(高さ4.5m)、後円部径47m(高さ8m)、二段構成で葺石、埴輪を備えていた。後円部墳頂に粘土槨があり、盗掘され壊されていた。前方部を東南に向けていた。前方部墳頂にも副葬品埋納施設があり、多くの石製模造品、鉄剣、鉄刀、鉄鏃、銅鏃が出土した。ほかに、朝鮮半島の陶質土器、滑石製模造品、車輪石なども出土している。 (大垣市教育委員会 大垣の古墳時代 2003 より)
遊塚古墳跡 遊塚古墳の北東側高台、住居が建ち、公園が残る

23.大垣市歴史民俗資料館・美濃国分寺跡 (国史跡) 岐阜県大垣市青野町1180-1

美濃国分(僧)寺跡は、県道216号線沿いにある。
大正10年(1921)に、塼積基壇(せんづみきだん)と塔跡が国史蹟、昭和46年から3年継続の発掘調査後、寺跡と隣接する瓦窯跡を併せて広大な区域が国史跡となった。昭和56年整備作業が完了し、史蹟公園として開放されている。塼(瓦)を積上げた基壇の復元例を見ることができる。

国分寺跡の北側には、大垣市歴史民俗資料館がある。考古資料展示室には、国分寺関係と古墳関係があり、古墳関係には消滅した古墳ー遊塚古墳・長塚古墳・花岡山古墳ーのパネル説明と出土品展示がある
入館券(¥100)の裏面に、郷土の古墳・国分寺の簡単な年表が記されているのは秀逸だ。資料館の長沢さんにも親切にして貰い、大垣市の古墳巡りが一層充実したものとなった。このページで用いた文献:”大垣市教育委員会 大垣の古墳時代 2003”は、ここで入手したものである
美濃国分寺の復元モデル 考古展示室
遊塚古墳のパネル説明と出土品 人面文土器(荒尾南遺跡)

24.矢道長塚古墳 やみちながつかこふん 岐阜県大垣市矢道町
北側から見た残った前方部
昭和4年に土取りの為に後円部が消滅した前方後円墳である。平成2年と14年度の調査によると、4世紀後葉の築造で、墳長87m、前方部幅31m(高さ2.7m)、後円部径(62m×53mの楕円)、くびれ部幅31mとされている。三段構成で、葺石、埴輪が備わっていた。昭和4年の消滅に際し、主軸に直行する粘土槨2基(東槨と西槨)が発見され、割竹形木棺と箱形木棺が納められていた。東槨棺内からは、三角縁神獣鏡3、鍬形石3、硬玉製勾玉2、管玉48、ガラス玉多数、素環頭太刀1、鉄刀2が、棺外から鉄刀5、鉄斧1、鉄鏃14が、西槨棺内からは、三角縁神獣鏡2、内行花文鏡、石釧76、硬玉製間勾玉3、管玉245、ガラス玉多数、鉄刀2が、棺外から合子1、石杵2が出土した。出土品は殆どが東京国立博物館に収納されている。三角縁神獣鏡が多数出土したこと、西槨棺内の石釧の多さ、管玉・ガラス玉の多さは特筆される。長塚古墳出土の舶載三角縁神獣鏡と近畿・中部・九州から出土した同範鏡の関係は学術的な興味を持ち続けられている。東槨出土の「天・王・日・月」唐草文帯二神二獣鏡は、今回の旅で巡る東之宮古墳、円満寺古墳と同範関係にある。

矢道長塚古墳に先行して、矢道長塚古墳の北西50mの所に、4世紀中葉~後葉の前方後方墳(墳長58m、前方部13m、後方部一辺34.6m)である高塚古墳があった。大正年間に消滅した。後方部に竪穴式石室があり、仿製斜縁神獣鏡が出土している。この一帯には、他にも古墳があり、古墳群を形成していたという。弥生時代~中世の遺跡も多くある。   (大垣市教育委員会 大垣の古墳時代 2003 より)
大垣市教育委員会の説明板 後円部のあった所に石碑が立つ
国道21号(中山道)を宮代まで行き、南宮山を右に見て県道215を南下、象鼻山古墳群へ向う。

25.象鼻山古墳群 ぞうびざんこふんぐん 岐阜県養老町橋爪 
1989年の分布確認調査により、62基(前方後方墳2基、方墳17基、円墳40基、形状不明3基)の古墳が確認され、3世紀後半から6世紀に及ぶものと推定されている。山頂の前方後方墳(象鼻山1号)は古墳出現期に築造されており、多くの出土品がある。ほかに、3号墳、8号墳などの調査も進められている。町民のハイキングの場として整備されている。

古墳群の説明図 (養老町教育委員会説明板より)

象鼻山は標高142m、その頂上からは濃尾平野が一望できる。古墳群の築造や関ヶ原の合戦で陣が張られるなど歴史の舞台となった山である。関ヶ原の合戦では、毛利勢や長宗我部勢が山頂に陣取ったことで知られている
登山口に到着。象鼻山南側、名神高速道・養老SAの西北すぐ近くである。「丸毛兵庫頭・稲葉備中守等奮戦の地」の石碑が目印となる。戦国時代の「牧田合戦」の場である。この地は交通の要所である 「牧田合戦の石碑」の道向こう(北側)に象鼻山登山口入口がある。車2~3台分の駐車スペースが傍らにある。入口はチェーンで車の侵入を塞いでいる。落葉が散り落ちている整備された山道を登っていく
登山道を登って行くと、山頂近くで古墳群が広がってくる 山頂は右上で、そこに象鼻山1号墳が築造されている
山頂までの間に、幾つもの古墳がある。養老町教育委員会で、順次確認調査が続けられている
 象鼻山3号墳 
 平成16年度からの範囲確認調査では、「方形に区画された壇の上に円丘を設けた構造」とされた。
 築造時期は確定されていない
方形壇 円丘部(墳頂に祠がある)
 象鼻山1号墳 
   3世紀後半ー4世紀初に築造された前方後方墳。全長40.1m、前方部幅14.4m(高さ2.96m)、後方部長さ22.95m・幅25.86m(高さ4.23m)、くびれ部幅(8.7m)で、二段構成、前方部を北西に向ける。部分的に葺石を備える。主体部は構築墓壙で箱型木棺である。一度山頂を平らにしてから墳丘の殆どを盛土によて造成し、完成までに8段階の築造工程を経ている。出土品としては、破砕された36片よりなる双鳳紋鏡(後漢・晋鏡)、琴柱形石製品(材質は北陸の碧玉質石と推定)、鉄製品(鏃53、刀t、剣6)、土器片366(墓壙から朱入りの壺)である。土器については、二重口縁壺形土器・S字状口縁台付甕形土器・高杯形土器・小型器台形土器の4種類が確認され、東海系と近畿系土器が含まれることが注目される。(養老町教育委員会説明板など)
二段構成の下段下(南側)から後方部を見る 上段(後方部)に登って、前方部(北側)を見る
前方部下(北側)から後方部を見る 後方部から濃尾平野を見る
前方部より北にも林間に道が続く。南宮山につづく。 後方部(墳頂)から南側・古墳公園の景色

養老SAの南側から、県道56号(薩摩カイコウズ街道を行く。南濃町庭田の交差点を過ぎればすぐ右に円満寺がある。
円満寺山古墳は霊園の最奥から登る

26.円満寺山古墳 えんまんじやまこふん 岐阜県海津市南濃町庭田地内
古墳時代前期前半ー中葉・4世紀半ば頃の築造で岐阜県下最古級の前方後円墳。前方部を南に向ける。全長60m、前方部幅約19m(高さ5m)、後円部径35m(高さ15m)、銅鏡3面(舶載三角縁神獣鏡2、画文帯神獣鏡1)ほか多数の出土品がある。とくに、三角縁「天・王・日・月」唐草文帯二神二獣鏡は、東之宮古墳・矢道長塚古墳出土のものと同範関係にあることが注目される。標高96mの位置にある
霊園最奥に観音像が立つ。背後の道を円満寺古墳へと登る 海津市教育委員会の説明板がある
整備された道は無くなり、山道となる。
大きな猿がうろついている
山頂(後円部)への登り
後円部墳頂には、竪穴式石室が露見している。河原石積みで、頭位を北に向ける 後円部から前方部を見る
円満寺山からは、濃尾平野と伊勢湾が一望できる。古代には伊勢湾が海津市附近まで入り込み、伊勢湾岸の政治・軍事・流通の重要拠点であったと考えられる。この近辺には、東天神古墳群を含む多くの古墳群があり、その繁栄を物語っている。不破・海津・松阪・伊勢のラインは、古代の東と西が接するラインとなる

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