三輪山西麓の古墳群 1(奈良県・天理/桜井市) 次へ


三輪山西麓(天理市・桜井市)の大和・柳本・箸中古墳群には
巨大古墳が集中している。古代倭王権(大和政権)の成立と密接に関係する。
箸墓古墳・西殿塚古墳・行燈山古墳・渋谷向山古墳とその周辺を訪ねた。

箸墓古墳・ホケノ山古墳・茅原大墳墓 山辺の道に沿い
(衾田陵・崇神陵・景行陵など)

                  ・・三輪山・・

今回の旅は、大和(倭)王朝誕生の地・三輪山山麓の王朝墓を歩く。

奈良盆地には幾つかの古墳群が群在している。巨大古墳(墳丘長160m以上)である大和古墳群の西殿塚古墳(衾田陵)、柳本古墳群の行燈山古墳(崇神陵)と渋谷向山古墳(景行陵)、箸中古墳群の箸墓古墳(大市墓)とその周辺を訪れた。古代倭(やまと)の大王・豪族は、三輪山山麓地帯に3世紀後半から4世紀前半に、三輪山祭祀を中核とする王朝を築いた。三輪王朝・古王朝・イリ王朝などと呼ばれている。三輪山周辺の巨大古墳としては、今回は訪れなかった南麓(桜井駅の東南)に、外山茶臼山古墳とメスリ山古墳がある。これらの古墳は、古墳時代前期(AC300-400)に築造された前方後円墳である。

巨大前方後円墳は、その後奈良県北部の佐紀古墳群(神功皇后陵、垂仁陵、日葉酸媛皇后陵、成務陵))に、古墳時代中期(AC400-500)に、二上山・生駒山系を越えて、河内・泉南地方の古市古墳群(応神陵)および百舌鳥古墳群(仁徳陵)に移る。河内王朝の時代とする説もある。
古墳時代後期(AC500-600)には、再び葛城(馬見古墳群)・飛鳥など奈良盆地に帰る。大王の大宮が、河内より磐余(いわれ)、飛鳥へと移動する間に、大和朝廷の全国制覇・中央集権化が進み、諸国に国造・縣主制、部民制が成立し、伴造氏族の台頭と中央政権への進出が徐々に進行する。7〜8世紀には、政治の中心は飛鳥・藤原宮に移り、律令国家が形成されていく。

三輪山周辺の古代史については、2003年に学生社から刊行された「三輪山の神々」、「三輪山の古代史」、「三輪山の考古学」、巨大古墳については、白石太一郎「考古学と古代史の間」筑摩書房 2004.2、森浩一「巨大古墳」講談社学術文庫 2000.8 などの解説書が参考になる。


箸墓古墳・ホケノ山古墳・茅原大墳墓
JR巻向(まきむく)駅から箸中古墳群を形成する「箸墓古墳・ホケノ山古墳・茅原大墳墓」を経由して、JR三輪駅近くの大神神社大鳥居・桜井市埋蔵文化財センターまで歩いた。
畿内邪馬台国説では、巨大古墳の主が当時の王権を握っていたとする考えの下に、「箸墓古墳」を卑弥呼の墓とすることもあったが、現在はその周辺に卑弥呼の葬られている”古墳探し”が行われている。山辺の道沿いの古墳が低い丘陵の先端を利用して築造されたものが多いのに対して、「箸墓古墳」は平野部に直接土盛りして築造されていて権力の大きさが想像される。。

   箸墓古墳(はしはかこふん) 「倭迹迹日百襲姫大市墓」  古墳時代前期築造
箸中(はしなか)古墳群の巨大古墳。
倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトビモモソヒメ;大和の三輪族)は崇神天皇の叔母という伝承がある。日本書紀に次のような話がある。倭迹迹日百襲姫は大物主神(出雲の神で三輪山に住む)の妻ででもある。当時の結婚は”通い婚”なので大物主神の昼間の姿を見たいと言うと、大物主は「明日、櫛笥の中を見よ」と言う。翌日、言われた通りに櫛笥を開けると、美しい小蛇の姿で現れた。大物主は恥を掻いたと三輪山に隠れ、”姫は箸に陰を撞きて薨りましぬ。乃ち大市(おおち)に葬りまつる。”この墓を箸墓と呼んだ。 
「箸(中山)墓古墳」が考古学的な名称であり、皇族の墳墓「大市墓」として宮内庁管轄である。3世紀後半(270-280年、古墳時代前期)に築造された。、墳丘全長272m、後円部径157m、高さ22m、前方部径125m、高さ13mの前方後円墳。前方後円墳の腹を三輪山に向ける。
”山辺の道沿い”の古墳が丘陵の先端を利用したものが多いのに比して、平野部に土盛りして築造されているのが特徴で、大規模な工事・権力の大きさが想像される。
まきむく駅から歩くと箸墓古墳の全景が見える。(JR桜井線からも見える。)
北側に回り込み、後円部と濠を見る。。 手前が前方部。
濠と周歩路と前方部。前方部の先端に”小さな方形の出張”があるはずだが、周歩路は前方部に突き当たった所で途切れていて樹木に覆われている。。 後円部の道路側に礼拝所がある。この礼拝所は新しいものである。宮内庁管轄で「大市墓」となっている。

   ホケノ山古墳  古墳時代前期築造
前期古墳時代(3世紀後半)の古墳で箸墓古墳が築造される以前のものとされる。纒向(まきむく)遺跡の東南端に相当する。全長80m、後円部径60m、高さ8.5m、前方部長さ20m以上、高さ3.5mの前方高円墳。前方部は三輪山に向う。平成7年〜11年の調査で墳丘の大きさ、周濠の存在、築造法などが確認された。この近辺に畿内邪馬台国説の卑弥呼の墓があると推理することがある。
(*寺沢薫:王権誕生、講談社学術文庫、2008)のよると、埋葬時期は庄内3式(3世紀中頃)で、定型化した前方後円墳の竪穴式石槨が生まれる直前の、まさに弥生後期末の巨大墳丘墓との過渡的な構造だったこと、最も重要なこととして、平原(北九州)、楯築(吉備)、西谷(出雲)で執行された首長墓継承の秘儀が引き継がれ、一層の整備がなされたらしいことであるであるという。
前方部(左側)から後円部(中央)につながる”くびれ部”。後円部頂上部からは箸墓古墳が雄大に見通せる。平成14年の第4次調査では、珍しい特殊な「石囲いの木槨」の中に高野槙の刳り抜き舟形木棺が発見された。副葬品も多数あり、その中には白銅製の画文帯神獣鏡一面と内行花文鏡の破片、刀剣五口が含まれている。
*棺床に粉々に破砕された大形の連弧文鏡(内行花文鏡)片は、平原1号墳以来、首長墓を鼓舞増大し、新首長に付着させた後は壊される、という連弧文鏡の重要な働きもそのまま引き継がれていたという。
後円部頂上より前方部を見る。 前方部くびれ部に近い東斜面部に埋葬施設が発見され、再現されている。
上の埋葬施設は平成8年の第2次調査により確認されたもの。全長4.2m/幅1.2m深さ20〜50cmに木棺の痕跡と大型壷と広口壷が供献されている。葺石をはずして古墳が利用している地山まで掘り込んで作られており、墳丘完成後に設置されたと考えられている。(桜井市教育委員会)
典型的な三段構成、葺石(ふきいし)の様子が再現されている。前方部から右周りに後円部に回りこむ。

   茅原大墳墓(ちはらだいふんぼ)  古墳時代中期築造
北に向う前方部を持つ前方後円墳で、前方部が短いので帆立貝式古墳と呼ばれる。全長66m、前方部幅40m、高さ3mと推定される。箸中古墳群では箸墓古墳に次ぐ大きさである。前期古墳の多い三輪山麓には珍しく、古墳時代中期(5世紀)に築造された古墳である。墳丘には葺石、円筒埴輪の破片が散乱していたという。周濠もあったらしく、平成8年の調査では西側周濠跡からも家形や円筒埴輪が出土した。三輪山祭祀と関連する氏族の墓と推定されている。地元では「倭佐保姫陵」として保存されてきた。佐保姫は五行説での”春の神”のことなのだろう。昭和57年国指定史跡になる。
開墾された畑の中に樹木の茂みが古墳の在処っを教えてくれる。 墳丘を取り囲んで周濠があったようだ。南側の溜池は周濠の跡と考えられている。
墳丘の盛土の様子が見える後円部。短い前方部は柿畑になっている。墳丘頂上は開墾されていたが、葺石、円筒埴輪、家形埴輪の破片が散乱していたという。 すぐ近くの茅原集落には「倭迹迹日百襲姫」を祭神とする大神神社の摂社があった。

桜井市埋蔵文化財センターと大神神社大鳥居
埋蔵文化財センターは桜井市芝公園の中、国道169に面し、大鳥居を挟んで反対側にある。平成17年度 秋季特別展「古墳時代中期の桜井」が催されていた。茅原大墳墓を残したこの時代の桜井は、「政権中枢から遠ざかってるが、桜井駅西南地域は”磐余(いわれ)”の地として大王家の憩いの場所として象徴的な政治拠点としてあった」と解説されていた。 大神神社大鳥居(一の鳥居)は国道169の三輪山側にある。鳥居をくぐり真直ぐ行くと大神神社に到着する。遠方に見える三輪山の麓を”山辺の道”が通る。
「鳥居」は神域との結界を示す。その起源として、神に供えた鳥のとまり木、通り入る門、穢れを止める処などある。朝鮮には横桁がある門はなく、むしろガンダーラ遺跡に似た造形があるようだ。

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