長野の縄文遺跡 | 1 | (長野県) |
井戸尻遺跡 | (井戸尻考古館) | 尖石遺跡 | (尖石縄文考古館) |
縄文前期~後期の集落領域を黄線で囲む |
中部の縄文集落跡は、現在の中央道沿いに見つかっている。山梨県側の釈迦堂遺跡と金生遺跡、長野県に入っての井戸尻遺跡と尖石遺跡に、それぞれの集落領域特有の文化を見ることができる。 釈迦堂遺跡は関東(武蔵)の文化圏につながっている。金生遺跡と井戸尻遺跡と尖石遺跡は、八ヶ岳南麓に位置するが、夫々独立した文化圏と見做すことができる。 遺跡から出土した土器、土偶においても、井戸尻と尖石では相当に異なっている。 さらに上図の文化圏に加えて、伊那谷(諏訪・飯田市)と、安曇野(松本・大町市)を含む地域に中央高地の縄文文化を探ることができる。 |
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井戸尻遺跡 (いどじりいせき) | ||
井戸尻考古館 長野県諏訪郡富士見町堺7063 | ||
山梨と長野の県境にある。JR中央線「信濃境」駅の南側徒歩15分、車では国道20号線の上蔦木から北へ2kmの距離になる。井戸尻文化は、縄文中期の土器編年を与える。中期初頭の九兵衛尾根Ⅰ・Ⅱ、狢沢から新道、中期の藤内Ⅰ・Ⅱと続き、井戸尻Ⅰ・Ⅲ、曽利Ⅰ~Ⅴまでの1000年を期分けする。最盛期は藤内期・井戸尻期である。縄文考古館では、特別なものを除いて写真撮影を許可している。入館料は大人300円で、別棟の富士見町歴史民俗資料館と共通である。5~9月には、遺跡の周囲にスイレン、コウホネ、ヒツジクサが咲く。周囲の景色も良い。 |
半人半蛙(はんじんはんあ)の図像 曽利遺跡(縄文中期)出土の深鉢(高さ55cm)に描かれた文様が面白い。丸々と太った蛙は、足が上に半月に開いていて、長い手が下方に伸びる。眼は大きく、手は三本指である。右側に”みづち”と呼ばれる水棲動物が描かれている。 |
井戸尻考古館には数多くの土器が陳列されている。とくに、井戸尻文化が花開いた縄文中期の大形土器に見られる色々な文様が目を惹く。図像学的な意味解明が進められ、その背後にある世界観・宗教観念を描き出し、さらには記紀にみられる古代神話への関連を主張して展示されている。 図柄は、月、蛙、赤ん坊の手、女性器、月、精霊、得体の知れない水棲動物、蛇、眼、人面などをモチーフとしている。 私の興味を惹いたのは、蛙の文様である。起源前5-2世紀に、黄河中上流域に展開した仰韶(ぎょうしょう)文化と関連している。仰韶文化(BC5000-3000)は、女性崇拝を特徴とする母系氏族社会で生まれた。道教・神仙思想は、この仰韶文化の最盛期に源流をもつ。民衆道教はこの中で広まり、紀元後に成立(宮観)道教として確立した。 月の中のウサギとヒキガエル、日の中のカラス。この題材は古代日本に神仙思想・呪術として渡来し、古代日本の様々な信仰を作り出していることは確かであろう。 |
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井戸尻考古館 のんびりとした周囲の風景が素晴らしい |
考古館裏に縄文住居を復元 地蔵岳(白鳳三山)が見える。北に八ヶ岳、西南に入笠山が見える | |
向原遺跡の配石遺構を復元 東京の田端遺跡や山梨の金生遺跡では、積み上げたような組石が多いが、ここでは、北東北で見られたような整然とした組石が見られた |
考古館に入ると、整然と並べられた土器群が迎えてくれる。石鍬、団子石、うす、石斧などの石器類の展示もあるが、壁面の時代順の土器展示から見る | |
中期の初頭 BC3000 | BC2800 | |
中期の中葉 BC2700 | 中期の後葉 BC2300 | |
藤内遺跡の出土品(土器47点、土偶1点、石器151点)は、2002年に国重要文化財に指定された。曽利遺跡4号住居址から出土した水煙渦巻文深鉢(高さ3cm)は、他のな6点とともに長野県宝に指定された | ||
以下に多彩な文様をピックアップする。 | ||
有孔鍔付樽と壺に見る蛙の眼の文様 | 半人半蛙の文様 | |
蛇頭半人半蛙交差文深鉢 | 双眼を載く | |
右上は四方神面文深鉢 | 右上は水煙渦巻文深鉢 | |
把手などに使われた土器飾り 右上に人面または人首の神(記紀の神になぞらえる) |
左下に曽利65号北で見つかった土偶(嘆きの土偶と名づけた)。その他の土偶は破片が多い |
尖石遺跡(とがりいしいせき) |
尖石縄文考古館 長野県茅野市豊平4734-132 |
茅野駅から麦草峠方面に進み、途中、三井の森方面への道に入ると、「縄文の湯」の先に史跡公園が広がる。JR中央線茅野駅からバスで20分(尖石縄文考古館前下車)である。入館料は500円、写真撮影は特別なものを除いて許可している。個人のホームページに載せるのも積極的に許可しているとのことで気持ちが良い。ロビーでは、発掘状況や縄文のビーナス(当所)と火焔土器(新潟)のビデオを見ることができる。ボランティアガイドの方は、質問に丁寧に答えてくれる。 |
尖石史跡公園 茅野市街から三井の森・唐沢鉱泉へ通ずる道にある。縄文考古館を中心に、与助尾根遺跡と道を挟んで尖石遺跡がある。尖石遺跡は、明治時代から学会に報告され、多くの土器・石器などが出土した。昭和15年から全国的にも先駆けて、発掘調査がなされ、33ケ所の住居址、50余ケ所の炉址が見つけられた。与助尾根遺跡は、昭和10年に発見され、昭和21~27年、平成10年にほぼ全領域を発掘調査し、縄文中期後半の竪穴住居址39基以上を確認している。昭和27年に尖石遺跡が、平成5年に与助尾根遺跡が国の特別史跡に指定されている。 「尖石」の由来は、尖石遺跡の南斜面にある高さ1mほどの三角錐状石が、「とがりいし」と呼ばれていたことによる。縄文人が石器を研いだといわれている。 |
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与助尾根遺跡と復元住居 | 尖石遺跡 | |
常設展示室Aでは、尖石・与助尾根遺跡の発掘を始めた宮坂英弌氏の業績などを展示。 | ||
常設展示室B 「縄文のヴィーナス」と「仮面土器」を展示する。埋蔵されていた状況の模型、X線写真などを展示、 | 仮面土器が出土した土坑で、遺体に被せられたと見られる鉢形土器も重文指定された | |
常設展示室C 八ヶ岳山麓の縄文文化を展示する | 尖石遺跡出土の座った土偶 | |
殆どが、壊された土偶の部品 右上に茅野和田出土の座像土偶(縄文中期)85mm、土偶を立たせるために、短い太い脚が尻に直結して付けられている |
二つの筒型・円錐形土偶 (左)山の神(中期)92mm、(右)棚畑(中期前半)83mm 中空の土偶で底から指が入る。指人形のように使用されたと見られる。中空土偶には、中に石コロを入れ鈴のように使用されたと推定されるものもある |
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祭りの道具 吊手土器(火を灯す)、顔面把手などがある |
動物(神)の粘土物 蛇や怪しげな水棲動物、蛇、猪などが祭祀道具となる |
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祀りの道具 派手な吊手土器や御酒を入れた有孔鍔付土器などがある。男根状石棒も祀りの道具 | 茅野市高風呂遺跡から縄文時代の絵の具が出土した。漆と混ぜて土器などに塗る。朱色は呪いの色 | |
下ノ原28号住居跡出土 深鉢 縄文中期 | 棚畑41号住居址 深撥 縄文中期後半 | |
下の原13号住居址出土 深鉢 櫛形文 | ||
富士見町徳久利 深鉢 縄文中期前半 | 一ノ瀬出土 縄文中期 二つの土器が合体していて珍しい |
井戸尻遺跡では目立った土偶は見られないが、土器文様が興味を惹く。尖石遺跡では、反対に大形土偶に目を惹き付けられた。そして、いずれも、女性器崇拝の絵柄・図形が強調されている。中国・黄河・中上流域を源流とする原始社会は、母系氏族社会であり、原始宗教の形で自然崇拝や女性崇拝(女始祖崇拝や女陰崇拝など)を軸としていた。その最盛期には、考古学的には仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)が現われ、原始的な道教・道家が確立する。文明の発達とともに、次第に父権家長制の階級社会に移行し、道教も民衆道教から成立(宮観)道教へと変貌する。縄文時代の祭祀に用いられる土偶は、女性の妊婦像を基本としている。配石遺構は、自然崇拝と結びつく。これら縄文文化は、いかなる経路をとったとしても、東アジアの影響下にあったと考えても良いのだろう。 |