山梨の縄文遺跡 (山梨県)

    釈迦堂遺跡 金生遺跡(配石遺構) 大泉歴史民俗資料館
今夏、北東北を旅して、縄文文化の素晴らしさを知った。北東北の縄文文化は、後期・晩期に爛熟した。

縄文土器は、中部・関東に濫觴を求めている。山梨の中期後半の土器は見応えのあるものが多い。縄文中期は、全国的に生活が安定した時期と見られている。もっとも「中期」と言っても、1000年単位を測るのであるが・・・。

今回は、中央道・釈迦堂パーキングエリアに隣接する釈迦堂博物館を訪ね、次に、長坂ICから大泉町の金生遺跡とその出土品を資料館で見た。

八ヶ岳周辺(山梨・長野)には優れた縄文土器を出土する遺跡が多く、配石遺跡も多い。配石遺構や土偶(葬送儀式と祭祀)を見ていると、北東北と山梨では少し異なる要素があるように見受けれた。
長野県の井戸尻遺跡と尖石遺跡は別に記す。

釈迦堂遺跡 (しゃかどういせき)

  中央道・釈迦堂Pからは、西に広がる甲府の街とその背後に南アルプスが見渡せる
間ノ岳と北岳

              釈迦堂遺跡
甲府盆地の東部、御坂山系より流れ出た京戸川が、京戸川扇状地を形成し、釈迦堂はその中央部に位置する。この扇状地には約15,000年前から人々が住み着いたという。濃茶部が発掘調査した所(現在は埋戻されている)
釈迦堂遺跡群は、中央道建設にともない、昭和55年より2年近く発掘調査された。その結果、先土器~平安時代の住居・墓、あおよび多数の石器、土器が発見された。とくに、縄文時代のものが多い。ここでは、釈迦堂博物館に展示されているものの一部を、興味の趣くままに紹介しておく。釈迦堂博物館には、ここで示す土器のほかに、土偶のうつりかわり・秘められた願い・作り方・安産の願い(土偶は本来女性を描く)、装身具類や、縄文人の生活・食べ物など多くの見所がある。博物館裏手は公園になっていて、縄文住居跡が再現されている。中央道・釈迦堂パーキングから行き来出来るので、旅の途中に立寄るのもよい
有孔鍔付土器 酒造用と言われる 深鉢形土器(曾利式)

       ばらばらに壊された土偶
左:胴体・足などがばらばら  右上;色々な顔
北東北では、完形の土偶も多く見た。人体のリアリズムと抽象化など興味深いものであったが、ここでは全て壊されている
人体文土器
両手両足を広げた模様が器面に描かれた土器。三本指、四本指などあり、蛙と人体が合体した「半人半蛙」的なものもある
         顔面把手
多くの場合に、顔は土器の内側を向くが、釈迦堂では一つの土器として接合・復元されたものはない
          かえるの把手
釈迦堂の土器には、蛇、猪や、顔面、人体の抽象化した装飾が多く見られる。土器に宿る精霊と表現する。中には、海獣のようなものが抽象化され器面にあたかも物語のように描かれていることもある
蛇体装飾  把手、口縁部、器面に付けられ、マムシをモデルとし、神の象徴、不死の象徴、男性の象徴と考えれれている
釈迦堂遺跡からは各地の土器が出土する。交流の深さを知る。奥の土器は、大木8b式(東北)、加曾利E式(関東)、天神山式土器(東海)で、手前左端は、北白川下層式土器破片である。右手前は「たたき石」 釈迦堂では、全体で1200個の土器を復元している。縄文早期末、前期、中期、後期初頭と年代も広い。特に中期のものの出土が多い
区画文が施されている深鉢土器
器面は区画に分割されることが多い。区画内は対面する面で一対となる場合が多く、区画内には区画文(人体のようなモチーフ)が描かれていたりする。縄文人の深層心理や世界観を知るという
井戸尻式土器(中期中頃)
大きな把手を持ち、土器の正面・背面を重視する。右は、頂部にタル形把手を載く。残念ながら、釈迦堂を代表する水煙文土器(中期後半)は、リフレッシュ中で見れなかった
参考:釈迦堂遺跡博物館 「展示案内」、「縄文土器のメッセージ」


金生遺跡(配石遺構)(きんせいいせき)
金生遺跡は、八ヶ岳南山麓の標高770~780mの高原に築かれた配石遺構である。発掘・調査後、厳しい気象条件を考えて埋戻し、中心部の1号遺構(東西80m、南北15m)の上に配石を再構築し史跡公園として公開されている。縄文住居(三棟)も復元されている。金生遺跡は、元々は墓域で、石棺墓の上にさらに敷石して祭壇状にしたものの連続であると考えられている。配石遺構は河原石が用いられていて、八ヶ岳南麓にはない重さ1トンを越す花崗岩が2ケ使われている。5km離れた釜無川より運んだと思われている。
金生遺跡の周辺には、配石遺構をもつ縄文後~晩期の遺跡(長坂上條、夫婦石、姥神、石堂B、青木、川俣の各遺跡)が密集している。晩期には集落が減少し、金生は最後まで残った集落らしい。
八ヶ岳の晩秋

金生遺跡と金峰山

金生遺跡は昭和58年1983)、国史跡に指定され、史跡公園として公開されている
金生遺跡と権現岳・北岳
東側公園入口付近から1号配石遺構を見る 配石群の中央西側から
東端の配石 平らな組石が見える
巨大石を立石とする組石 東北沿いに墓と思われる組石がある
東北沿いに 東北沿いに
西側に一塊の配石がある 男根状石棒を立石とする組石(西側配石)
石棺を思わせる組石(西側配石) 円形空間をもつ組石(西側配石)
復元住居中央に、円形の石囲い炉がある 左端の復元住居は、入口に通路状敷石がある
縄文住居は四角い形に地面を浅く掘り、四辺に石を並べて、土留とした。調査では主柱穴と壁柱穴が確認されており、壁立ちの構造であったことが推定されている。
公園内の三棟の住居はこれに基づいて復元された。
大泉歴史民俗資料館
(谷戸城ふるさと歴史館)
場所が分りづらかったが、「谷戸城址」を目標に探すと、周囲と不似合いな新築の建物に出会う。谷戸城(写真正面)は甲斐源氏の祖・新羅三郎義光の孫の居城だったらしい。近くに小学校があり、2Fに金生遺跡の展示場がある。金生遺跡の全体像が分かる説明があり、出土した中空土偶の展示し、多数の出土土器が年代順に展示されている。出土品としては、土偶、石棒、石剣、石器、土製耳飾、ヒスイの垂飾りなどがある。 異形の中空土偶が一際目をひく。大きな目、しっかりと踏ん張った足、全体の形状とともに、服を着てるような襞・腹の渦巻文・肩に勲章のような文・目の周りの線状文、全て初見だ
金生遺跡の全体像
発掘調査後、中央部分の配石(1号配石)が史跡公園として再現保存されている。遺構の主要部は、晩期初頭から中葉の配石遺構と住居群(橙色)からなり、後期後半の集落(空色)の北半分に重複している
再現保存された1号配石遺構を南側から見た縮小モデル

南東に富士山

北に八ヶ岳
夕日を浴びた金生遺跡 冬至には甲斐駒ケ岳に夕日が落ちる