善光寺平の古墳 森将軍塚古墳ほか (長野県)

善光寺平では、先ず、4世紀前半に前方後方墳である姫塚古墳が千曲川左岸に出現し、次に右岸に4世紀中頃に前方後円墳である森将軍塚古墳(全長100m)が、更に4世紀中半から後半にかけて姫塚古墳の近くに川柳将軍塚古墳(全長93m)が築造されたとみなされている。全て山上・尾根上にある
千曲川右岸には、森将軍塚古墳(全長100m)に引きつづき、前方後円墳として、5世紀初頭にかけて有明山将軍塚古墳(全長37m)が、5世紀前半から中頃にかけて倉科将軍塚古墳(全長82m)が、5世紀後半に土口将軍塚古墳(全長60m)が築造され、同一系統の豪族が右岸地域を支配したと考えられている。左岸では、5世紀前半に中郷古墳(全長42m)が築かれたが、規模は右岸のものに比べて小さい。

森将軍塚古墳は、明治16年に「屋代村の将軍塚」としての報告があるが、既にその時には盗掘にあっていたという。善光寺平の大古墳は全て「将軍塚」とよばれていたらしい。昭和59年から平成2年に、復元工事にあわせて、古墳の解体調査を行い、平成4年に保存整備が完成し、一般公開された。古墳直下の”科野の里歴史公園”には、”県立歴史館”、古墳時代の集落を再現した”科野のむら”と、平成9年オープンの”森将軍塚古墳館”があり、古墳の詳細説明、石室の実物大模型や出土品が展示されている。

倉科将軍塚古墳と土口将軍塚古墳も山上・尾根上にある。今回の探訪では、登り口は見つかったが、道標も踏み跡もなく、路面も覚束なく途中行き着くことを断念した。5世紀の科野(信濃国)・関東に思いを馳せるには重要な古墳だが、位置確認だけに留まった

森将軍塚古墳 (もりしょうぐんづか)  長野県千曲市大字屋代 
森将軍塚古墳は、比高約130mの尾根上に築かれている。周囲の樹木が伐採されれば、屋代や上山田・戸倉全域から一望できる。

森将軍塚古墳は、全長約100m、後円部径45m・高10m、前方部幅30m・高4mの前方後円墳である。後円部の中心線と前方部の中心線が12度ずれた”くの字状”に築造されている。この形状は、尾根上に大古墳を造るための苦肉の策で、下界から見えない反対側は直線的に、見える側はより円形に見せる為の貼石帯を設けるなどの工夫も施されている。

江戸末期から盗掘を受け、出土品は少ないが、三角縁神獣鏡や鉄製刀の破片が見つかっている。昭和59年より解体調査が行われ、石室や古墳の構造が明かにされた。現在、石室は埋め戻されて古墳自体は復元されている。前方後円墳の周辺に時代を継ぐ小古墳が13基、古墳をとりまいて埴輪棺12基、組合式箱型石棺64基などの埋葬施設がある
上図は古墳説明版の一部である。森将軍塚古墳の後円部に接する尾根上に13基の小古墳が配置する。5世紀代から7世紀代まで一族の墓所であったことが分る。麓の古墳館横から車道から離れて、急坂を歩いて登っていくと2号墳(右端の円墳)に突き当たる 2号墳は、5世紀初めの築造とされ、直径20mの円墳。墳丘裾には円筒埴輪を中心に、朝顔形埴輪が1m程の間隔で並べられ、多くの土器が出土した。古墳中央に長さ5m程の組合式箱型石棺があり、40歳ぐらいの男女二人が埋葬されていた
2号墳から幾つかの小古墳越に見る森将軍塚の後円部 後円部から見る森将軍塚古墳   平野を見下す側(右側)の大きさ・丸さを強調して築造されている
中心線は、後円部と前方部でずれるが、
ほぼ東北から南西の方向
全体的に丸さ(円)を形作るように
貼石帯(手前)が設けられている
北方向を見る。
眼下に国道392号、北に伸びる上信越道が更埴の街へ
山側の古墳のフォルム(後円部側から)
平野側の古墳のフォルム(前方部側から) 3号墳(直径6mの円墳)が、くびれ部にある。長さ6m、幅1m、高さ1mの横穴式石室を設け、6世紀から7世紀前半にかけて3回の埋葬が行われたと考えられる。この時期になると、馬具の副葬品が見られるようになる
石を組合わせて造った組合式箱型石棺が、古墳の周囲に多く発見されている。写真の地域からは、畿内製の須恵器大型甕も出土した 前方部から見た後円部。 後円部には上段テラスがあり、そこに埴輪が並べられている。墳頂はテラスから1m上に築かれている
後円部墳頂部 後円部墳頂端から上段テラスの埴輪列を介して見る下界
後円部墳頂中央の石礫で囲まれた部分の下に主体部がある。長さ15m、幅9.3m、深さ2.8mの長大な穴の中に、長さ7.6m、幅2m、高さ2.3mの竪穴式石室があり、割竹形木棺が収められていたと推定されている。石室の壁面はベンガラで塗装され、床面には朱がまかれていた。石室の底までは約3.5mあり、石室は二重の石垣で囲まれるように構成されている
後円部墳頂から前方部を見る。前方部にも、土壙墓、石棺、埴輪棺、石室などの埋葬施設が見つかっている 山側は直線的に築かれ、後円部の丸さを補正するように、貼石帯が築かれている。前方部裾に埴輪と埴輪棺の説明用のモデルがあった。実際の埴輪棺や組合式石棺は、古墳の周囲、前方部を埋め尽くすほどあった


    前方部から見た森将軍塚古墳の全景
斜面に貼石を施した復元姿は全国的に見ても数えるほどしかない。


5〜6世紀に善光寺平に出現した大型前方後円墳は、6世紀になると、その中心が伊那地方に移っていく。政治の変化があったと見られている。
有明山将軍塚古墳 (ありあけやましょうぐんづか)  森将軍塚からさらに10分ほど有明山山頂へ登った所にある
4世紀末から5世紀初め頃に築造されたと見られ、年代的には森将軍塚古墳に継いでの前方後円墳である。埴輪が並べられていないので祭祀形態が異なると見られ、森将軍塚古墳とは別の系統の人物の墓と考えられている。1999年の調査では、全長36.5mの前方後円墳と確認され、後円部に長さ6mの立派な竪穴式石室が残されていた。盗掘に遇っているが、ヒスイ製勾玉、緑色凝灰岩製管玉、鉄製武器破片なども見つかった。
前方部下端から見た古墳
前方部から後方部を見る。発掘時の写真を参考にすると、中央の凹んだ部分に主体部があった。右側に段築が確認されている 後円部墳頂より前方部を見る
科野のムラ   
現在県立歴史館の建つ場所にあった古墳時代中期のムラ(屋代清水遺跡)を移築し復元したもの。屋代清水遺跡は、縄文後期から、弥生、古墳時代に存続したムラ遺跡
小竪穴住居、竪穴住居、平地住居などが復元されている 高床倉庫の前は、ムラの祭祀場が再現され、鳥居が立っていた

森将軍塚古墳館  長野県千曲市大字屋代29−1 科野の里歴史公園内
復元された森将軍塚古墳は、非常に教育的な場である。古墳周囲にも随所に説明板が立ち、ボランティアガイドも多数待機して説明してくれる。

さらに、古墳館では、盗掘に遇ったために出土品は少ないが、古墳の築造法と石室の実際が丁寧に説明されている。分り易いガイドブックも用意されていて、善光寺平の古墳時代の全般が理解される。

古墳館横から古墳までのシャトルバス(有料)が出ている
主展示室の中央に石室を実寸大で具現し、周辺回廊に古墳とその時代説明図、出土品などが展示されている。3面マルチスクリーンでは、古墳の築造法、後円部墳頂の眺望が写しだされる 板状石英閃緑岩を積み上げた石室内を盗掘穴から見る
ベンガラで塗装された壁面の実寸大模型も別に展示されている
鉄製の刀(推定80cm)・剣(推定50、35cm)    管玉環        三角縁神獣鏡の破片
           不揃いな円筒埴輪、 壺形埴輪                  埴輪棺は埴輪の再利用

長野県立歴史館  千曲市大字屋代字清水2606 科野の里歴史公園内
常設展示では、県の歴史を石器時代から昭和まで展示する 長野県下で出土した銅矛・剣と銅鐸
善光寺御開帳に合わせた企画展「善光寺信仰」の学芸員による展示説明に遭遇し、有益な小一時間となった。
古代シナノの渡来文化、善光寺式三尊像、善光寺縁起絵巻、一遍上人と善光寺、戦国時代の善光寺の40年間の流転、女性救済の善光寺参りなどがテーマであった。シナノ(科野)が早くから朝鮮・中国と交流があり、中国三国時代の仏像様式が渡来したこと、一光三尊仏は東日本に多く(70余体)鎌倉御家人の発願で造像されたらしいこと、北条氏のアミダ信仰と関わり深いいこと、一遍上人の教団組織なしの布教と民衆、善光寺本尊の戦国大名間での取合いと仏式神輿に乗せての流転、聖徳太子信仰と善光寺など興味深い説明を受けた

倉科将軍塚古墳
(くらしなしょうぐんづか)

  千曲市倉科

全長82mの前方後円墳で、5世紀前半の築造。長野県下で3番目の大きさ。

登り口の看板を頼りに、落葉の降積った道(?)を真田氏の城址らしき所までは登ったが、行く先が分らなくなり、残念ながら断念した。
登り口は大日堂で、
奈良時代のものとされる万葉仮名の歌碑が立つ
城址らしき石積みが現われた後、道が分らなくなる 倉科将軍塚古墳は、正面野山を右側から登る。2/3は登った

土口将軍塚古墳 (どぐちしょうぐんづか)
  長野市岩野    (千曲市土口 の古大穴神社から登る)

土口将軍塚古墳は、全長67.2mの前方後円墳。5世紀前半〜後半に築造されたと見られ、倉科将軍塚古墳よりは遅い築造と見られている。後円部に二つ並んだ竪穴式石室が見つかっている。埴輪は朝鮮半島にも類例のある板での叩き模様がある。

登り口の古大穴神社と裏からの登り口は見つかり、山道もそれなりに続いていたが、今度は、にわか雨と夕暮れで途中断念した。

国道403号が土口地区を通る。町中で極端に細い道となる。古い町並みが残る。
土口地区にある古大穴神社 立派な神社だが、御由緒などは見つけられなかった。オオアナモチと関係するのだろうか
左が神社裏手になり、古墳への登り口は見つかった 山道は続いていたが、雨が降り出し夕暮れになったので断念する
前へ