縄文の里 奥三面歴史交流館
        おくみおもてれきしこうりゅうかん 
(村上市・新潟県)


奥三面歴史交流館 村上市岩崩612-118 (旧朝日村)を、平成8年10月13日に訪れた。 
      翌日、遺跡の眠るダム湖(あさひ湖)を訪れた。

三面(みおもて)川下流の防災・治水・発電などを意図した多目的ダムが奥三面に建設され、奥三面にあった三面集落が水没した。奥三面には、旧石器~縄文時代に人の出入りが多く、三面川を挟んでの河岸段丘に、縄文時代中期には既に集落が作られていた。昭和63年(1988)から平成10年(1998)まで、ダム水没予定地内の19遺跡の発掘調査が行われた。この遺跡群は、縄文時代約1万年間を通しての人々の生活が集中して分かる数少ないものの一つである。数々の調査報告書や”奥三面遺跡群、1999年・朝日村教育委員会発行”、更に2002年に新潟県立博物館で催された「奥三面展」の図録などで、その概要・写真に接することができるが、出土品を保管・常設展示している「奥三面歴史交流館」で現物を見て、また奥三面ダムに行きその自然環境に接して、縄文人の生活に直に触れて見たい
     縄文の里・奥三面歴史交流館 
入館料:¥400(大人)、分かり易い音声ガイダンスを無料で貸してくれる。写真撮影とその個人使用は許可されている。館員の方は親切だ
前庭には、環状配石と縄文住居が復元されている。
奥三面遺跡が、”祈り”をテーマに持つ集落であったことを示す

奥三面歴史交流館に入ると、室町時代以降、昭和を生きぬいた三面集落の閉村風景が痛々しく目に焼きつく。縄文時代の生活跡とともに、今はダム湖の底に眠る。         全19遺跡について
後期旧石器、縄文(草創・早・前・中・後・晩期)、弥生、古墳、中・近世での
(緑)生活痕跡が確認できる期間、(青)住居跡が確認できる期間、(赤)集落が続いた期間が示されている。
縄文前期から晩期まで途切れることなく生活の跡が残る
        かつての集落でお盆の風景   
昭和の三面集落にも、古い伝統を受け継いだ生活が残っていた。 山の神に生かされていることを感謝し、仏に死後の冥福を祈った。配石された墓の周辺が祭り(祀り)の場だった
昭和の三面集落の人々の暮らし
山に生かされた「山人(やまど)」としての生活があった
三面集落のぜんまい小屋 縄文住居に通ずるものがある 左に各種ヤス、中央に土錘、右に石錘 いずれも縄文時代のもの。
縄文時代より、三面川での漁撈が盛んであったことが分かる
奥三面19遺跡から出土した縄文全期の土器
晩期・後期・中期 中期~前期
前田遺跡(中期)出土
のものには、火焔型・王冠型を含んでいる
元屋敷遺跡より出土した土器群。中段には注ぐことを目的とする注口土器(後晩期)が多く見られる。ほかに、盛る浅鉢・皿、貯める壺、灯す香炉、見立てるミニチュア土器・沈線描画土器などと分類される 元屋敷遺跡から出土した環状注口土器と
巻貝型土器(後期中葉)

   人面付注口土器の代表格(後期)
右は二面が一対になっている

見立てる土器を見ていると、ここに住んでいた人々の宗教と信仰の世界の深さが伝わってくる
磨製石斧の生産

アチヤ平遺跡、元屋敷遺跡からは大量の磨製石斧の完成品、未完成品が出土した。未完成品には、剥離段階、敲打段階、研磨段階の未完成品が認めれれ、磨製石斧を生産していたことが分かった。山形県南部に出荷されていたと考えられている。

奥三面と外部との流通は、三面川沿いに日本海側へ、峠を越えて小国へ、尾根から谷へ下り寒河江へ、の三通りのルートが推察されている。

新潟県には、三面川流域、加治川流域(新発田)、阿賀野川流域に石斧生産遺跡がみつけられている。
漆製品は縄文時代の早期から作られて、特に東北地方で盛んだったようである。奥三面遺跡でもアチヤ平や元屋敷から多くの出土品がある。朱の素材であるベンガラを粉砕した石皿や漆を保管した鉢などもみつかっており、漆製品の生産も行われていたようだ。朱材と混ぜた神秘的装飾や艶やかな漆の芸術性を活かしたり、漆を接着材として使用して土器修理を行った例などもみつかっている。近世以降も、奥三面のある朝日村は「漆掻き」が行われ、最盛期の昭和20年前後には県内外に出稼ぎに出て行われた。現在は受継ぐ人も少なく、村の有形文化財となっている
左半分はアチヤ平遺跡出土(後期前葉、約4,000年前)、右半分は元屋敷遺跡出土(後期後半~晩期、3,500~2,300年前)の土偶         土偶は、祈りの道具の一つとして、その地域の宗教・信仰観を遺す 左側の元屋敷遺跡出土土偶につづいて、中央は、異形土製品(元屋敷)とヒト形土製品、更に右側に、スタンプ形土製品と土版(石版の模造品)、右端に線刻礫(アチヤ平)などが見られる


縄文中期から後期初めに集落のあったアチヤ平遺跡には、環状配石があった。朝日岳方向を仰いだ祈りの場である





縄文後期から晩期まで栄えた元屋敷遺跡には、丸石配石を始め、配石墓、埋甕墓、人工的な川で仕切られた生活の場と墓地、水場・護岸・道路工事など、計画的な土木工事が行われ、都市設計の思想の萌芽が見られる
  現在のダム湖(あさひ湖)と遺跡

樽口遺跡とガラハギ遺跡は、
旧石器~縄文草創期(25,000年前~13,000年前)
に人が入り込み、ナイフ形石器(約20,000年前)、細石刃石核(約15,000年前)、細石刃石器(約15,000年前)を遺している。 
最も早く集落が作られたのは、縄文中期の前田遺跡・下クボ遺跡で、アチヤ平、元屋敷がつづく。
昭和の三面集落は、
前田・下クボの辺りと沼ノ沢、元屋敷にあった
樽口遺跡からアチヤ平遺跡・沼ノ沢遺跡(左岸)を見る 樽口遺跡から元屋敷遺跡(奥に朝日岳)を見る