次ページ
 春夏秋冬 総目次

春夏秋冬 (4)

 08/10/20 奥三面ダムと朝日スーパーライン (新潟県)

縄文の里・朝日 奥三面歴史交流館 
(庭に環状列石と縄文住居が再現されている)  
写真上にマウスを置くと、展示(出土)品の一部
 奥三面ダム   
写真上にマウス置くと、湖底に沈んだ三面集落
三面川と末沢川の合流する谷間は、広く開いた河岸段丘を形成していた。旧石器・縄文時代の遺跡は水没したダム湖(あさひ湖と名付けられた)の全範囲に及ぶ。

10月12日~19日に、朝日連峰を囲む新潟・山形の古代遺跡を訪ねる旅をした。旅の始めは、奥三面(おくみおもて)の湖底に沈んだ縄文遺跡を訪ねることである。 奥三面ダムは、村上市にある縄文の里・朝日「奥三面歴史交流館」から県道鶴岡村上線(朝日スーパーライン) で約15kmの距離にあるが、道路崩壊で全面通行止めなので、山形県・小国町から三面林道を経て入ることになる。

荒川沿いに小国街道(国道113)を小国町まで行き、三面林道・朝日スーパー林道(県道鶴岡村上線・県道206)を経て、約90kmで鶴岡市の庄内あさひIC(国道112に隣接)に抜ける。 三面林道17km、朝日スーパーの数km、県境を越えて山形県側の荒沢ダムまでの15kmは、未舗装だが路面は良い。冬季は積雪のため長期間通行出来ず、夏季も道路崩壊・修理などで通行止めになることが多い。 10数年前に、朝日スーパー林道を走りに行き、道半ばで退き返したことがある。その時に、村上市からの上りの道々に「遺跡現地説明会」の看板を見かけた。

昭和60年(1985)に三面集落が閉村し、昭和62年(1987)から平成10年(1998)まで朝日村教育委員会により大発掘調査が行われた。広大な水没地の全てに亘って、 旧石器時代・縄文時代から江戸・近年までの19遺跡が発掘された。
旧三面集落は、マタギの里として昭和年代に存続していて、その山間の生活も記録すべきものが多い。それにもまして重要なのは、縄文時代の草創期(12,000年前)から晩期(3,000年前) まで途切れることなく生活跡を遺し、中期(5,000年前)・後期・晩期には墓地・配石遺構・人工の川跡などを含む集落跡を遺していた。

昭和年代の旧三面集落は、山に生かされ自然と調和した「山人」の民俗文化資料を遺した。縄文遺跡は、自然の恵みと祈りに基づいた、中央集権化以前の人間の歴史を遺した。交通路も三面川に沿って、 あるいは峠越しの小国への道、あるいは川筋に寒河江への道も開かれていて、越後・東北南部などとも活発な交流があったようだ。
小国から奥三面ダム周辺までをスライドショーで示す。

朝日スーパーラインは、朝日連峰の日本海側に広がるブナ原生林の中を走る。氷河期を終え日本海に対馬暖流が流れ込み、ブナの生育に必要な多湿地帯が形成された。堅果類と下草の豊富なブナ林が形成され、小動物が活動し、 豊かな食料環境のもとに日本独自の縄文文化が確立した。
全国各地のスーパー林道建設は、環境保護の下に中止されたり縮小されたものが多いが、 白神山地を横断する弘西赤石林道(岩崎西目屋弘前線・県道28)と朝日連峰と並行する朝日スーパー林道(鶴岡村上線・県道206)は、ブナの息ぶきを間近に感じる数少ない山岳道路である。 紅葉の始まった朝日スーパー林道をスライドショーで示す。


 08/09/07 おわら風の盆と立山黒部 (富山県)

おわら風の盆
写真上をクリックしてください
称名滝(立山黒部アルペンルート)
写真上をクリックしてください

「おわら風の盆」は、毎年9月1日から3日3晩踊り明かす越中八尾町あげてのお祭りである。発祥は江戸時代・元禄期に遡り、明治・大正時代に多くの俳人・文人を招き洗練した歌詞が生まれたという。お囃子に胡弓が取り込まれたのは明治時代で、その物悲しさが一つの特徴となっている。11の町内区から繰り出される夜中の町流しに興味を持ち、6年前にも車中泊ではるばる東京から出かけたものだ。期間中は何十万の人が集まり、付近の宿屋は何年も前から満杯となる。

関西の中高生時代の同窓生12人で作る”歩いて呑んで”の会の一人Tが、八尾に親戚を持ち、2年前から今年の「風の盆」ツアーを企画してくれた。古い軒並みが保存され”日本の道百選”にも選ばれた諏訪町で宴会を催し、輪踊り会場となる上新町に宿泊するという豪華なものだ。実際には、諏訪町の益山さん宅に踊り・お囃子が呼ばれ、広い小学校の校庭に特設された演舞場の最前列・中央で、5つの町内区が競う踊りの鑑賞が用意されており、超豪華な「おわら風の盆」となった。富山の銘酒「満寿泉」や地酒「風の盆」の特別に良いところが振舞われ、呑み助ツアーには大好評となった。

ほろ酔い気分で、町流しの始まるのを追っかける。何時何処で始まるのか分からないのが風の盆である。入り組んだ坂道の所々に見物人が座り込んで待っている。通りの向こうに踊りの一団が見え、こちらに来るのかと思うと、路地をそれて見えなくなる。時には、整然と隊をなしてくる一団もあれば、3~4人で興にのって三味と唄と踊りを披露する一団もある。胡弓の町流しの音を聞きながら眠りについたのは、午前4時半頃だった。

翌朝早く、裏山の城ケ崎公園に登った。霞の彼方に薬師岳、立山、剣岳がかすかに見えた。
曳山展示館と和紙文庫に立ち寄り、井田川沿いに越中八尾駅まで歩き、富山では回船問屋の町・岩瀬を訪れ、再び富山に戻り富山城を見学した時には寝不足と暑さの中での歩行にぐったりしていた。それでもMの計らいで午後3時から割烹での打上が始まると、一同たちまちに甦った。

富山で一泊し、MとSと三人で立山から信濃大町への立山黒部アルペンルートを辿った。あいにくの霧の中、雄大な立山や後立山連山の姿は見るすべもなかったが、室堂から黒部ダム・扇沢へと貫通していくトンネル・ロープウエイの旅を満喫した。

美女平から高原バスで登る途中に称名滝を左下に見る滝見台があり、バスは徐行してくれる。なんとか霧の合間に一すじの滝が見えた。弥陀ヶ原の池塘群と高原のさわやかさは味わえるが、大日岳は雲の中だ。室堂では霧の中を室堂山荘・ミドリガ池・ミクリガ池と小散策した。晴れていれば、雄山・別山が真正面に見える所だ。全てが隠されているのもまた良いものだと納得しておく。

室堂からトロリーバスで立山の真下を突っ切り、大観峰から立山を背に黒部ダムを眼下に高低差500mを下る。時たま霧が流れて、正面の針ノ木岳の中腹が見えるが、鹿島槍・白馬は終始霧の中に隠れていた。黒部湖の観光放水はそのダム堰堤の高さとともに大迫力だった。堰堤の上だけが観光客に許された外気に触れられる空間で、再びトンネル内をトロリーバスで扇沢まで走る。中央付近の工事難攻ケ所の破砕帯には黄燈が灯っている。

信濃大町から松本への大糸線は、有明・燕・常念などの山々を背景にわさび田などの田園風景が広がる。関西に住まうMとSには是非見せたかったがあいにくの雨となっていた。松本駅で再度の打上をして、関西と東京への帰路に着いた。


 08/07/17 津南から会津へ (新潟県・福島県)

逆巻(さかさまき)温泉・川津屋 (津南町)
写真上をクリックしてください

長野・新潟の県境に近い津南町から、信濃川沿いに中越を北上し、新潟県・巻町から国道460で新津市へ出て、阿賀野川沿いに福島県・会津への旅をした。

津南町・十日町市・長岡市で火焔(型)土器の数々と縄文中期の遺跡を見て廻り、長岡市から出雲崎に出て、良寛堂・弥彦神社を経て、5世紀初頭の山谷古墳・菖蒲塚古墳・新潟県埋蔵文化財センターを見学し、阿賀野川の清流沿いに会津に入り、杵が森・稲荷塚、鎮守森・亀ケ森、舟森山・深沢、会津大塚山の各古墳を探し、新宮熊野神社の長床、福島県立博物館を訪れ、徳一上人縁の勝常寺の見事な仏像12体に再会し、慧日寺の復元された金堂を見た。

梅雨の晴間を狙っての旅なので、猛暑・豪雨に遭うこともあったが、秘湯の趣の残る逆巻温泉、阿賀野川中域の三川温泉、会津東山温泉の老舗・不動坊で鋭気を回復することができた。 

旅の始めの逆巻温泉は、中津川渓谷を見下ろす瀟洒な一軒宿である。津南町から和山温泉に向かう国道405は、町はずれの見玉不動尊を過ぎる辺りから左右の山が迫り、中津川峡谷沿いの道になる。これより奥は、平家の落人の里として有名な秋山郷である。逆巻、大赤沢を過ぎると、信州秋山郷に入り、小赤沢、和山、切明温泉に至る。切明温泉から雑魚川林道で西進すれば奥志賀に通じる。国道405終点の切明から中津川渓谷の対岸に出て、秋山林道で鳥甲山を周遊し長野・新潟の県境・栄村に到るルートも、秋の紅葉の季節は素晴らしい。冬季は豪雪地帯で、何年か前にも国道405は遮断され、秋山郷は陸の孤島になった。

逆巻温泉・川津屋は、津南町に住んでいた先祖が、逆巻の岩窟から湧出る湯を好み、津南の住・家財を処分して、山を買い取り断崖上に宿を切開いたと、女将が話していた。現在の2~3倍あった宿は、山から切り出した大柱で築かれ、峡谷上に懸かった猿飛橋を渡り、断崖に刻した道を登り到着したそうだ。吉川英治が「新平家物語」の構想を練ったのもこの宿である。現在の川津屋は、つい最近に建直し、5組限定の瀟洒な宿に生まれ変わり、コンクリート製の猿飛橋を渡り、宿の主人が切開いた舗装路で駐車場まで容易に行ける。

新宮熊野神社・長床(拝殿) (会津・喜多方市)
写真上をクリックしてください

会津坂下町で、森北1号墳を探していてとび込んだ川西公民館では、山ノ内さんが親切に応対してくださり、出土品の一部が保管されている会津坂下駅前の埋蔵文化財整理作業室に電話紹介して貰えた。公民館自体が最近発掘された平安時代末の「陣が峯城跡」にあり、荘園が林立していた平安・鎌倉時代の会津地方の貴重な遺跡である。会津といえば、戊辰戦争・白虎隊を思い浮かべるむきもあるが、遡った歴史も非常に密なものがある。

会津若松市では、”極上の会津プロジェクト”と称して「仏都会津・祈りの千年」を宣伝している。国宝の勝常寺の薬師座像と、日光・月光像をはじめ、願成寺の阿弥陀如来三尊、成法寺の聖観音菩薩坐像、恵隆寺の千手観音立像などが中心となり、奈良・平安時代に徳一上人の創建による慧日寺の発掘調査跡には過日の面影を復元した金堂が新しく建てられた。

源頼義・義家親子が陸奥征伐の武運を祈り、紀州熊野から勧請された新宮熊野神社は、喜多方市の南西にある。創立は平安末期と推定される社を、地域の人々が管理・保存している。「長床」と呼ばれる拝殿は、茅葺の屋根の下に約45cmの円柱44本が並び、大空間を提供する。一段上にある熊野三山のお社を拝する場として、あるいは修験道の道場として、あるいは村人の寄合いの場として使われたようだ。 


 08/05/28 下北・津軽の旅 (青森県)

奥薬研の”かっぱの湯” は無料で開放されている。土地の人々により、浴槽は綺麗に掃除されている。周囲はヒバの原生林。
マウスを写真上に置くと、西目屋村・白神山地ブナ原生林散策中の図
当初予定の暗門の滝への往復は、川沿いの道がまだ氷結中で(5月末に開通予定)、ブナ原生林散策に切り替えた。

恒例の野川会の旅として、本州最北端の下北と津軽を三泊四日(5/19-5/22)で駆け巡った。野川会とは、同じ会社に入社し同じ寮生活から社会に踏み出した11人の仲間達である。佐賀、種子島・屋久島、熊野古道、北海道、出雲と、毎年旅の趣向が変わる。病気・介護などやむをえぬ事情で参加できない事もあるがほぼ全員参加する。今年は名幹事長が老犬の介護で参加できず10人の旅となった。

新幹線で八戸へ、レンタカー2台に分乗し、下北と津軽を陸奥湾フェリーを利用して廻り、青森からJR特急・新幹線を乗り継いで帰京した。八戸から北上し、真先に見学するのは原燃PRセンターである。野川会の最初の佐賀の旅には参加していた故K君は原子力が専門であった。この会の旅行の特徴は、温泉と酒を楽しみながら観光することの他に、年々鈍化する頭に刺激を与える修学旅行的な旅先を計画することである。今年は、縄文時代から中世の史跡・資料館と、近世の最先端技術・工事の見聞を広めるという長時間軸を背景とする旅であり、その巾広さで頭はパニックに陥りそうである。

それでも、癒しの場もふんだんに用意されている。ヒバの原生林と山深い薬研(やげん)温泉、奇岩の林立する仏ガ浦、日本海を見下ろして或いは岩木山を回遊する快適なドライブ、白神山地につづく西目屋村のブナ林の新緑などなど・・・。

約20万年~10万年前にアフリカで誕生した現生人類が、日本列島に辿り着いたのは4~5万年前とも2~3万年前とも言われている。最近のDNA多型分析によれば、後期旧石器時代には北方回りのヒト集団が、縄文時代には朝鮮半島や南方諸島経由のヒト集団が、弥生時代以降は九州に上陸した中国・長江文明を担う渡来系弥生人のヒト集団があり、これらが現在につながる日本人の基盤を形成しているとされている(崎谷満 「DNAでたどる日本人10万年の旅」 昭和堂 2008.1)。大和朝廷を作り上げたのは、弥生文化を持つ渡来人とそれを受け継いだ近畿以西の縄文人だったのだろう。関東以北の縄文人は、仙台以南では古墳時代には既に大和朝廷と歩を一にしている。大和朝廷に同化しないそれ以北の縄文人は蝦夷(えみし)・夷(えびす)と呼ばれるようになる。

最終氷期を終え温暖化が始まり間氷期に入った約1.5万年前より、列島の人々は定住生活を始め、土器を造るようになり縄文時代に入る。約5,500年前からの縄文中期は、最も気候が安定した時代で、列島各所に定住村が確保され、土器文化の装飾も華麗・豪華になる。やがて、約4,500年前からの縄文後期のやや不順な気候を過ぎ、約3,300年~2.800年前の縄文晩期を迎える。縄文晩期は水田稲作と金属器使用を伴う弥生時代との接点である。

縄文晩期には、中期の縄文王国とされる八ヶ岳山麓(長野・山梨)では西方の文化の伝播を待つ体制をとるが、同じく中期の縄文王国の北東北では、亀ヶ岡文化という極めて質の高い文化を造り上げる。この亀ヶ岡文化は、縄文ネットワークと呼ばれる交流網により関東・中部あるいはそれ以西にまで広がっている。青森県(五所川原市や八戸市)を起点とする亀ヶ岡文化は、渡来文化による弥生革命以前の日本人の姿を知る上で貴重であり、東北地方が容易に渡来した弥生文化や中央王権に従属しなかった”誇り高い背景”を想像させる。北海道道南から青森県・秋田県・岩手県の4道県では、「北の縄文文化回廊づくり」に取り組んでいる。そこでは、旧石器時代から亀ヶ岡文化までの特徴ある北東北の文化をとりあげている。


 08/04/27 洞川温泉 (奈良県)

大峯(山上ケ岳)から流れ出た山上川の左岸に、洞川旅館街が並ぶ。右岸には修験道場・竜泉寺がある。

奥吉野・山上ケ岳の西麓に洞川(どろがわ)温泉がある。山上ケ岳(1719m)は、役行者(えんのぎょうじゃ)が蔵王権現を祈り出されたとする聖地であり、山頂に大峯山寺がある。 世界遺産に登録された75靡(なびき)よりなる熊野古道「大峯奥駆道170km」の第9番目の靡でもある。周辺の岩場に修験道の世界が広がり、西の覗き、平等岩など名だたる表・裏の行場がある。山上ケ岳には、吉野山から入る吉野道のほかに、洞川から清浄大橋を経てあるいは稲村ケ岳を経て登れる。一般の登山者でも洞川からの1day ハイキングを楽しむことが出来る。

山開きは5月始なので、4月末の洞川温泉は静かだ。30数年前にボーリングした温泉は、単純アルカリ泉の沸かし湯だが、もともと湧水が多く水質の良いこの地だけに快適にくつろげる。川のある山間のいで湯は日本の原風景だ。修験道場・竜泉寺が旅館街の川向こうにある。 竜泉寺は、役行者が八大竜王を祀ったのを開創とし、修験道中興の祖として知られる醍醐寺の理源大師聖宝が再興した真言宗系修験道の根本道場であり、大峯山中唯一の水行場がある。現在の修験者(行者)は、ここで水行した後に山上ケ岳周辺の行場に出かける。山上ケ岳は現在も女人禁制になっており、登山口には女人結界の石碑が立つ。

役行者(役小角)は、634年から702年、蘇我宗本家の滅亡(645)から大宝律令の制定(701)という律令国家確立時期に生きた。この時代の行動規範は、道教と儒教と仏教に求められていたようだ。新入りの仏教は経典・論書・寺院・身分制度も確立していて律令体制に容易に組み込まれた。儒教は身分の階層を重視し、立身出世の道を論じ律令体制を補足した。道教は正式な宗教体制下に入らず、山林を修行の場とし神仙術を求め個人的な神力を求めた。呪力・神力といえば現在の認識ではインチキ臭いようだが、後の奈良時代においても仏者の条件として、経典・論書の強い暗記力と不可思議な呪力・加持祈祷能力の二条件が必須であった。若き空海(弘法大師)も求聞持法を求めて、阿波大滝岳で修業し土佐の室戸岬で瞑想した。古墳時代の鏡に道教神や神仙・神獣が施文されている事、朝廷儀式が道教儀礼を踏襲している事、斉明(皇極)天皇や持統天皇が道教マニアだった事などからも分かるように、道教は古くから伝来していて疎外されるものではなかった。それにも係らず、正史としては続日本紀に役小角伊豆配流の記事を残すだけなのは、政治的な都合と、私度僧を排除する範疇に山野を徘徊する山岳修行者(行者)が入れられ、反律令的だと疎んじられた為であろう。奈良時代に著わされた日本霊異記では、やや大げさに役行者の呪力についての説話がある。この説話をもとに、平安時代の今昔物語や本朝神仙伝などで役行者は伝説的存在になり、室町・江戸時代に新たな伝承話が付け加えられた絵巻物類が作られ、役行者の実・虚像が現在に伝えられている。役行者を始祖とする山岳修験は、空海・最澄の輸入した密教の行動的な面と合致して、真言宗系では理源大師聖宝が、天台宗系では智証大師円珍がその修業形態として再興した。


08/04/08 東毛の桜 (群馬県)

世良田東照宮の桜 
(正面が拝殿)
初期の首長墓・朝子塚古墳 
(桜で覆われた左が後円部、右が前方部)

東武伊勢崎線世良田駅から徒歩20分の「東毛(とうもう)歴史資料館」を訪れた。 東毛地域とは大間々扇状地の南端、 利根川と渡良瀬川に挟まれた群馬県南部の地域をいう。古くには毛野国(上毛野)と呼ばれた地域で、赤城山麓の森林と涌水・沼沢地・河川など自然環境に恵まれ、 原始・古代遺跡が多い。歴史資料館は、世良田東照宮と長楽寺からなる太田市歴史公園の一隅にある。東毛の古代遺跡出土品のほかに、徳川氏発祥の地として、 また中世荘園の典型遺跡「新田荘」としての文化財が収められている。

平安時代の末に、源氏の頭領・八幡太郎義家の孫・義重が新田荘を開き、新田氏の祖となった。義重の子・義季は徳川の地を領して徳川氏を名乗った。 南北朝時代に、徳川氏は南朝方に組し北朝方の足利氏に敗北し、後裔は流浪、仏門に入り豊田市の松平家の入婿になった。以後代々相続し、 永禄9年(1566)に家康は松平姓から徳川姓に復姓する。 家康が関東入国した後、世良田藩徳川の地は徳川氏発祥の地として将軍家の厚い庇護を受け、長楽寺境内に東照宮が祀られた。現在の東照宮拝殿(国重文)は、 日光東照宮の寛永修築時に日光から移築したものである。

関東周辺の古墳を見て歩くと、毛野国の古墳の大きさ・規模に圧倒される。日本書紀では「崇神天皇は皇子・豊城入彦命(トヨキイリヒコノミコト:異母兄が垂仁天皇)に東国を治めることを命じた。 上毛野国は豊城入彦命を始祖とする」とある。豊城入彦命が何者かは別として、大和朝廷成立時に毛野は注目された土地であることは事実であろう。
縄文海進が最も進んだ縄文前期末には板倉町付近まで海面が入り込んでいた。全国的に遺跡の多い縄文中期(5000~3000年前)
には、利根川と渡良瀬川周辺に多くの遺跡が見つかるが、後期になると遺跡数は少ない。毛野の地に弥生文化が伝わるのは、西日本に比して遅く、紀元前1世紀頃から利根川を北上し、板倉町辺りから始まったようだ。一方では、西毛の丘陵地帯、北毛の山間地帯に長野北部からの樽式土器文化が伝わっている。本格的な毛野への弥生あるいは古墳文化の移入は、伊勢・東海からの集団移住者の入植によるものだったと想像されている。この入植者が大和朝廷から派遣された将軍的役割をもつ首長達であったとすると記紀記述と符合する。

東毛の初期古墳・朝子塚古墳は、墳丘全長124mの前方後円墳で、前方部が後円部より5mほど低く、優美な形状をなしている。古式の大型円筒埴輪の方形配列が認められ、4世紀末~5世紀初頭の築造で、近隣の大古墳である別所茶臼山古墳(墳丘長165m)、太田天神山古墳(墳丘長210m)に先立つ首長墓とみなされる。


08/03/03 早春 ー越生梅林と高麗神社ー (埼玉県)

越生梅林の白梅は三分咲き
マウスを写真上):高麗家住宅の紅梅は満開

関東平野の西側には、秩父・奥多摩・丹沢山系が連なり、その山裾に沿って八王子・飯能・寄居・藤岡・高崎を結んでJR八高線が走っている。八高線は、東飯能を過ぎると、高麗川・毛呂・越生と停車していく。この付近の田園風景は素晴らしい。ゴルフ場がやたらに乱立しているのもこの辺りだが、上空から見るのでなければ、あまり気にかけることもない。

古代から、森と水に恵まれたこの土地には人が住み着いていたようだが、奈良時代/霊亀二年(716)に、高句麗での戦乱を逃れた高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)が渡来人1796人とともに武蔵国に遷り、高麗郡の大領として開拓したらしい。当時の朝鮮半島は、三国時代から唐・新羅の勢力拡大、高句麗・百済の滅亡の時代であった。若光は、天智天皇5年(666)に高句麗の使節として来日し天平2年(730)に亡くなるまでの64年間異郷の地にあり、大和朝廷の確立時に都を離れたこの地で当時の先進文化の数々を紹介したことになる。大和在住の渡来人が大和朝廷の確立に大きな役割を果たした事と考え併せると、別種の感慨深さがある。高麗王若光を祭神とする高麗神社と、地続きに若光の墓がある高麗山聖天院がある。高麗神社の宮司は、若光直系が代々勤め、現在で60代になり、系図が遺されている。神社の脇に建つ高麗家住宅は、江戸初期の旧家を昭和51年に解体修理し、国指定重要文化材となっている。

高麗川のある日高市から北へ、毛呂山町、越生町とつづく。越生梅林では、2/16~3/20に梅まつりが行われている。紅梅・白梅が咲き乱れる園内のステージでは、和神楽が演奏されていた。かつて八高線を走っていた蒸気機関車の1/100モデルが、石炭・蒸気も本物のままで、お客さんを乗せて梅の合間を周回していた。


 08/02/11 八景の棚(はけのたな)と河岸段丘 (相模原市)

八景の棚と河岸段丘(相模川)
(マウスを写真上):大山と丹沢山地が見渡せる

相模川は、富士山麓の山中湖を水源として、山梨県の都留・大月・上野原を経て、相模湖で神奈川県に入る。山梨県では桂川と呼ばれ、河口の平塚・茅ヶ崎では馬入川と名を変える。総延長113kmの一級河川である。

相模川の左岸、JR相模線・原当麻駅から約800mの県道沿いに「八景の棚」公園がある。八景の棚の”はけ”は、関東方言で崖のことのようだ。崖下には、江戸時代からの近隣地帯への農業取水口としての棚があり、「五ケ村用水」の碑がある。
相模川流域に広がる扇状地は、最終氷期(約9~1万年前)に形成され、相模原台地は、相模原段丘、田名原段丘と陽原(みなはら)段丘から成り、富士山・箱根山の噴火の影響と河川の浸食を受けて現在の姿になった。相模原台地の東側には、境川を挟んで多摩丘陵が、西側には大山と丹沢山地が位置する。

相模川流域には、古代より人が住み着いたようだ。この近辺には、旧石器時代(1万年以上前)の定住跡と見られる住居跡(田名向原遺構)や縄文中期(約5000年前)から後期(4000年前)に栄えた勝坂遺跡がある。田名向原遺構は、我国で発見された最古の住居跡として保存・復元され、隣接して立派なガイダンス施設が建設中である。勝坂遺跡は大正年間より注目され、出土土器は縄文中期の関東の標識土器・勝坂式として有名である。発掘後埋め戻されているが、国史跡として保存されていて、遺跡をとりまく照葉樹林とあいまって何か縄文時代に浸る雰囲気がある。 
この地より相模川を遡り山梨県に入り、都留市の牛石遺跡・尾咲原遺跡、更に笹子を越えて西側の釈迦堂遺跡までを一つの文化圏として捉えることもできる。古代の人の行き来を想像するのも楽しい。



町田市田端環状積石遺構から
丹沢・蛭ケ峰に沈む夕日を見る。
:平成20年賀正

 07/12/31 大晦日に (町田市)

年末寒波が襲来して、日本海側では大雪が降っているが、関東地方は晴天に恵まれている。今年夏の東北の旅では、縄文遺跡を幾つか訪ねた。大規模な環状列石(ストーンサークル)を岩手の湯舟沢、青森の小牧野、秋田の大湯と伊勢堂袋などで見た。

都内唯一の環状列石(積石)遺跡が町田市田端にある。昭和43年の発見以来発掘調査され、現在は発掘跡を盛土し複製を並べて史跡公園として保存されている。環状列石は、墓地である以前に集落の祭祀場であったようだ。事実、東北で見た列石遺構には土壙墓が伴っていない場合も多い。田端の場合には列石内と周辺に多数の土壙墓が見つかっているが、列石の持つ意味は祭祀的なものであろう。

自然崇拝の中で生きた縄文人は、太陽の運行に深い興味を覚え、太陽の沈む向こうに黄泉の世界を感じ、太陽の昇るのを見て復活を信じた。冬至の日の田端遺跡からは、丹沢山系の最高峰・蛭ケ峰に沈む日を見ることができる。

大晦日の日没時に田端遺跡に行った。蛭ケ峰の山頂上に大きな雲があったが、雲の合間をぬって蛭ケ峰に日が沈む直前に、雲の合間から覗いた日の光がストーンサークルの内部を一瞬照らし、浮かび上がらせた。一瞬の神秘的な光景だった。

明日は平成20年の元旦、NHK紅白歌合戦を横目に今年の最終更新をしている。早めに出した年賀状には、平成19年と誤記してしまった。もしこの欄をご覧になったら、お許しください。まだまだ、間違いだらけの人生がつづく。



07/10/06 はんだ山車まつり (愛知県半田市)

31輌勢揃いした半田の山車(中心に亀崎の山車)
            
勢揃した山車の上部では”からくり”の上演がある。
乙川南山八幡車での上山人形「役小角大峯桜」
夜になると、”ちんとろ舟”が運河に浮かぶ

日本の神社の祭りでは、神社の神霊を神輿(みこし)に乗せて御旅所などへ出向き・帰る(渡御)祭礼行事をよく見かける。この巡行に山車(だし)が随行することもある。古来から、山を神体とする神奈備信仰では、神の降臨を促す依代(よりしろ)として磐座(いわくら)や神木があり、山車は”山”を車で曳く移動可能な依代の意味を持つ。所によっては、鉾(ほこ)、壇尻(だんじり)、屋台などとも呼ばれる。

半田の山車は、亀崎地区の神前神社の祭神である神武天皇が、東征の際に海からこの地に上陸したとの伝説にのっとり、5輌の山車を浜に曳き下ろす「潮干祭」が中心になっているようで、山車は依代というより警護の意味合いが強いようだ。「尾張国亀崎潮干祭」は、江戸中期に始まり、昨年国指定重要無形民俗文化財に指定された。

「はんだ山車まつり」は昭和54年から始められ、半田市の十地区の山車31輌が一堂に集う5年に一度の祭りである。JR半田駅から市役所につながる平和通りに、趣向を凝らした山車が集結し、市役所近くのメイン会場に昼過ぎに入場する。整列を終えた山車の上部(上山)では「浦島」、「舟弁慶」、「唐子の綾渡り」などのからくりが演ぜられる。中央部(前棚)では三番叟などのからくりの舞が奉納される。山の欄間に刻まれた彫刻、側面に掛けられた大幕、水引、追幕に趣向が凝らされる。殆どの山車には吹流しが高々と掲げられる。

JR半田駅と市役所の中間に運河があり、ミツカン酢の黒板塀建物が連なる。夜になると、上半田の住吉神社の宮池とされる運河に「ちんとろ舟」が浮かび、12ケ月を表す12ケの提灯が直線状に、1年を表す365ケの提灯が半球形に灯される。”ちんとろ”とは珍灯篭とかお囃子の擬音とか言う。舟着場に2輌の山車が警護するように控えている。

祭りは2日間催され、名鉄半田駅からJR半田駅、市役所近辺で獅子舞、神楽など様々な催しが行われている。道筋には出店・屋台が賑わう。各地区からの山車がメイン会場めがけて巡行する。裃つきの羽織袴の先導に従い囃し手、曳き手など一台に100人ちかくの行列が練り歩く。普段は静かな半田の町が、一日に26万人の人出で賑わった。




07/08/07 夏油温泉 (岩手県北上市)

天狗の岩(石灰華)
ロールオーバー; 
夏油川沿いに夏油温泉の露天風呂(小屋)が並ぶ

夏油と書いて”げとう”と読む。アイヌ語の「崖のある所」を意味する”グット・オ”に由来するらしい。鎌倉時代に開湯した山間のいで湯だ。北上駅から約28kmの山中にあり、一昔前には、麓から一日がかりで湯治に来たらしい。現在は近くに夏油スキー場が出来て快適なホソー道路が温泉下5kmまで利用できる。分岐点から温泉への道も曲りくねっているがホソーされている。但し、冬場は除雪されずに温泉は冬眠する。 
夏油温泉には、自炊可能な元湯夏油と国民宿舎夏油山荘がある。川沿いの5つの露天風呂は、いずれの宿泊者も自由に利用できる。焼石岳への縦走コースの基点であり、途中の経塚山までは往復7時間、別コースで牛形山までは5時間、駒ケ岳までは4時間の一日ハイキングも出来る。

東北の古代遺跡を訪ねる旅を思いつき、興味有る遺跡の多い北上周辺の宿として夏油温泉に三泊した。一日は山歩きも予定していたが、あいにくの霧雨で、クマに出会うよりはと温泉三昧に変更した。5つの川沿いの露天風呂は(一つはほとんど女湯専用)泉質・泉温も微妙に異なるが、概して52℃~68℃のアルカリ性の源泉掛け流しで、外気温に触れて適温になっている。いずれの浴槽も夏油川を眺めながらの入湯だ。夏油川は石灰華が付着した川原石上を流れ、水の流れは薄空色に見える。

温泉から上流に20分も山道を歩けば、「天狗の岩」に到達する。高さ17.6m、下底部系25mの大石灰ドームで国指定特別天然記念物になっている。国指定になる以前は、頂上部の平坦部に浴槽があり、ロープで這い上がり浸った人もいたそうである。国内の噴泉塔中最大を誇る。
もう一つ、洞窟蒸し風呂もある。採掘穴の中に蒸気がたまり天然のサウナで、以前来た時には面白さ半分で入ったこともあるが、現在は衛生的な観点から入浴禁止となっている。洞窟内を覗いて見たが、すぐに眼鏡が曇った。隣に「蛇の湯の滝」と名付けた小滝があり、ブナ・コナラ林にとけこんで美しい。


見事に岩にへばりつく投入堂(なげいれどう)
ロールオーバー; 
千尋の谷を望む文殊堂廻廊からの景色と山上の堂宇群

 07/05/17 三徳山三佛寺・投入堂 (鳥取県三朝町)

三佛寺(さんぶつじ)の開基は「昔役行者(えんのぎょうじゃ)が三弁の蓮花を空中に散じて、願わくはこの蓮花仏教有縁の勝地に落つべしと念じ、一弁は大和吉野山に、一弁は伊予石鎚山に、一弁はこの伯耆三徳山(ほうきみとくさん)に止り、この地に堂宇を創建し、金剛蔵王権現を勧請した」。投入堂(なげいれどう)は標高560mの石窟にあり、役行者が白雲に乗って到来し堂宇を投げ込んだという。

現存の国宝・投入堂は三佛寺奥院であり三徳山の中腹に位置する。左側に小さな愛染堂を従えて見事な調和美をかもしだす平安後期の建物である。三朝(みささ)から通じる県道から本堂までは石段を登る。本堂裏の宿入橋から標高差250mを、かずら坂、くさり坂、馬の背、牛の背と険阻な山道を登る。くさり坂をクサリで這い上がった所で重文の文殊堂(桃山時代)に、つづいて地蔵堂(室町末期)に出会う。同じような建物で、手すりのない廻廊からは千尋の谷が拝める。鐘楼を過ぎ、馬の背、牛の背を過ぎると国宝・納経堂(平安後期)、石窟の中に観音堂とその脇に元結掛堂(いずれも江戸初期)が現れる。左に谷を見て回り込むと、投入堂が突如として現れる。お堂の眼前は深い谷が広がっている。さすがに投入堂までへの道は閉ざされている。投入堂に見惚れて、右脇の岩上にある小さな不動堂(江戸時代末)は見過されがちになる。

宿入橋から投入堂までの空間構成は見事である。神秘さよりも美しさを感じる。修験の山には山の美しさを知りつくした行者の智恵が現れるものである。

役行者は「”賀茂役君(かものえだちのきみ)”を父として役小角(えんのおづぬ)として舒明天皇6年(634)に奈良県御所市茅原・吉祥草寺付近で生誕し、文武天皇大宝2年(702)大阪府箕面の往生ケ峯より金の足駄を履き金の杖を持ち大唐へ飛び去った」と龍安寺所蔵の箕面寺秘密縁起絵巻(17世紀中葉)は伝える。その出生地は古代の賀茂氏・葛城氏の本拠地であり、数多の神々が活躍する霊山・葛城金剛の山麓に当る。役小角は伝説上の人物とされることもあるが、奈良時代後期に成立した『日本霊異記』に幾つかの説話が収録されていて、『続日本紀』には文武天皇3年(699)に伊豆の嶋に配流された記事がある。壬申の乱(672)には天武・持統両天皇を助け、室生寺近辺の土地を与えられたとの説もある。

修験道は役小角を始祖とするように、道教的呪術と神仙術を取り入れた山岳信仰を基にし、古神道と通じ、渡来仏教を融合させて発展した。そのために、律令制下では正式な僧籍を持たない私度僧扱いを受けることも多かった。神仏習合が進み、空海・最澄が広めた密教の浸透とともに、理源大師聖宝(832-909)が醍醐寺に真言系の、智証大師円珍(814-891)が聖護院に天台系の密教道場を創建し、修験道は定着した。江戸時代には修行僧の諸国徘徊・遊行を嫌ったため、修験道はむしろ都市・村落に定着し加持祈祷の呪術が流行した。寛政11年(1799)朝廷から役小角に「神変大菩薩」の諡号が授けられ、修験道は全盛期を迎えた。ところが、明治維新とともに神仏分離令さらに修験道禁止令が出され、修験道は壊滅的打撃を受ける。わずかに寺院に改装されたもの、吉野・熊野など神社に統一されたものだけが生き残ることとなる。現在は、吉野金峯山寺、醍醐寺、聖護院を中心とする三派の修験道が復活している。


 07/03/28 近つ飛鳥 (大阪府南河内)

    二上山西麓の磯長(しなが)谷は王陵の谷
ロールオーバー) 
太子町を歩けば御陵に出会う。推古陵・高松古墳は、形の良い方墳である。推古天皇は先ず奈良盆地の大野岡上(植山古墳とされる)に葬られ、7年後に磯長谷に改葬された。

奈良の飛鳥(明日香)村は古代大和朝廷発祥の地として有名であるが、大阪府の東端・南河内の飛鳥を知る人は少ない。大阪府の飛鳥は、奈良県との県境近く二上山の西麓にある。現在の南河内郡太子町辺り、大和川と分岐した石川の支流・飛鳥川の流域にある。大阪湾沿岸の難波から古代の官道・竹内街道を通って奈良盆地に入る入口に位置している。竹内街道は渡来文化輸入の重要な幹線陸路であった。8世紀初頭に成立した「古事記」では、奈良の飛鳥を「遠つ飛鳥」、大阪府の飛鳥を「近つ飛鳥」と呼んでいる。

近つ飛鳥南部の磯長(しなが)谷には、古墳時代終末期の有力家族の群集墓と聖徳太子廟、敏達・用明・推古・孝徳天皇陵などが密集し、「王陵の谷」とも呼ばれている。

古墳時代中期・5世紀に、仁徳陵や応神陵などの巨大古墳が泉南と河内((百舌鳥・古市)に築かれた。倭の五王として知られる大王の陵墓はここにあり、河内王朝時代を形作る。古墳時代の終期・6世紀に政治の中心が奈良盆地に戻った後も、大王(天皇)陵は二上山を西に越えた磯長谷に一時期築かれている。この時代の近つ飛鳥は、6世紀に入り急激に興隆した蘇我氏の領地である。磯長谷に葬られた天皇は、聖徳太子を含めていずれも蘇我氏と外戚関係にあり、蘇我氏の興隆により新しい律令国家形成へ向った歴史が秘められている。「王陵の谷」は蘇我本宗家の隆盛期の遺物ででもある。近つ飛鳥には、百済・新羅・中国の渡来人が多く住んでいた。大和朝廷確立へ向ってこの渡来人集団の寄与は大きかったことだろう。

有力家族の墓と見られる一須賀古墳群のある丘陵地帯に、平成6年に「近つ飛鳥博物館」が開館した。倭(大和)王権の源流をテーマとして考古学の研究成果が展示されている。百舌鳥・古市古墳群からの出土品、聖徳太子墓の紹介、仁徳陵の模型などが常設展示され、渡来文化も紹介されている。「出土木器が語る考古学」と題する特別展示も催されていた。周囲29haの広大な丘陵には102基の小古墳(直径15m程度の円墳、方墳など)が点在し、風土記の丘となっている。横穴式石室などが整備・公開され、展望台からは古墳群全容を見渡すことができる。散策路を丘陵外にとると、御陵巡りもできる。大阪府と奈良県の狭間にあって律令国家成立直前の日本の実情が静かに眠っている。


 07/01/20 大雄山・最乗寺 (南足柄市)

ロールオーバー)
御真殿前に、天狗の大下駄が「和合の下駄」として奉納されている。奥の院への石段では、銅製の大天狗・小天狗が迎える。

天狗と大きな下駄で名高い大雄山・最乗寺に行ってきた。応永元年(1394)了庵彗明禅師が開創した曹洞集の大寺である。行者・道了尊(どうりょうそん)は、当山の開創を聞き付けて、雲に乗って飛来し創建を手伝った。道了尊を寺の守護としている。「最乗寺」よりも「道了尊」の方が一般には名が通っている。
小田原から伊豆箱根鉄道で大雄山駅へ、バスで仁王門を通過して10分ほどで到着する。出来れば、徒歩で仁王門からの2.5kmの杉並木の参道散策をも楽しみたい。

広い境内も鬱蒼とした杉木立に囲まれ、「行者⇒天狗=団扇と高下駄」の図式がいたる所に散りばめられ、神秘的な空間が広がる。天狗は、山を守る神・魔物として崇められ、山岳修行者(行者)の姿と重ねられたもので、大天狗は人間の面、小天狗は烏の面を持つ。ここでは見かけない鼻高天狗は法力の絶大さを表したものらしい。了庵禅師が遷化した際に、道了尊は白狐に乗り杉木立に立去ったと伝承され、所願成就の姿として崇められている。境内で見かけた狐に乗った不動尊像が、それを物語っているようだ。

釈迦牟尼仏を本尊とする本堂・護国殿から77段の石段を登って、道了尊を本尊とし大天狗と小天狗を脇侍とする御真殿・妙覚宝殿に至り、さらに350余段の石段を一気に登って、十一面観音菩薩を奉安する奥の院・慈雲閣に到達する。ここには、十一面観音菩薩を道了尊の御本地とする信仰がある。

明神岳(1169m)の中腹には林道が張巡らされている。20数年前にはよく入り込んだ道で懐かしい。バス停「道了尊」の200mほど下から、小田原へ向って明星林道が箱根の久野まで通じている。林道入口の反対側の山道を上り下りすると、南足柄市郷土資料館に行くことが出来る。南足柄市の今昔をつつましく集めてあり、金太郎伝説なども語られている。小さな古墳から出土したという単鳳幹頭太刀の柄頭が目をひいた。単竜環頭のものも出土していると説明された。若い女子説明員は、資料館所有の50数件の”お雛さん”の展示が2月下旬にあるそうで、その飾りつけ準備に忙しくしていた。郷土資料館近くからは、矢倉沢に通じる明神林道が東へ通じている。この林道も昔懐かしい道で、明神岳の北側を周回している。

前ページ