さきたま古墳群 1(埼玉県・行田市)
(さきたま風土記の丘)

  5世紀末から7世紀始めに造られた9基の古墳よりなる「埼玉古墳群」
        行田市大字埼玉

 埼玉県では「埼玉」の地名発祥の地であるこの地域を、
昭和43年(1968)以来、 「さきたま風土記の丘」として保護・整備してきた。
 稲荷山古墳の発掘調査では鉄剣および鏡のほか、甲冑・馬具装飾品・埴輪などが見つかった

 前方後円墳としては、
 5世紀後半に
稲荷山古墳(大型)
 6世紀第1四半期に二子山古墳(大型)と愛宕山古墳(中型)、鉄砲山古墳(中型)
 6世紀第2四半期に将軍山古墳(大型)と瓦塚古墳(中型)
 6世紀第3四半期に中の山古墳(中型)

 大型円墳の丸墓山古墳は6世紀前期中頃に築造された

 これらの前方後円墳は長方形の周濠をもつ
稲荷山古墳から鉄剣が出土してから10年を経た昭和53年に、鉄剣の表裏に”辛亥”を含む151文字の「金錯銘文」が発見された。以後、金錯銘鉄剣と呼ばれる。 ”辛亥”は西暦471年に相当することが埋葬品や土層から推定された。銘文中の「ワカタケル(獲加多支鹵)大王」が雄略天皇であること、この銘文を記したヲワケの臣(乎獲居臣)が地方豪族か倭(大和)政権からの派遣かなどが議論されている。古代の東国の状況、三輪・河内王朝(倭政権)との関係など興味がつきない。

稲荷山鉄剣の金錯銘文の解読により、明治6年、熊本県・
江田船山古墳から発見された太刀の銀錯銘文の不明部(獲□□□鹵)が「獲加多支鹵」であることも判明した。雄略天皇は記紀や宋書など文献資料では二面性があり不可解な部分が多い。銘文は古代政権についての考古学的な資料を与える。

同時に発見された画文帯環状乳神獣鏡は、同形式の鏡が群馬・千葉・三重・宮崎・福岡の古墳からも出土している。当時の”祭祀・祈り”は、中国・朝鮮から伝来された神仙思想を基としている。

「さきたま資料館」
ケヤキ並木を「さきたま資料館」に行く。 ケヤキ並木
西側から見たケヤキ並木・移設された古民家・資料館。
金錯銘鉄剣 (きんさくめいてっけん:稲荷山古墳出土品;国宝)
 「さきたま資料館」の中央には、窒素ガスケースで保護された「金錯銘鉄剣」(国宝)が展示されている。あまりの銘文の鮮やかさに見とれる。151文字中、80文字がAu70%,Ag30%、25文字がAu90%Ag10%、3文字がAu99%と分析された。

(表銘文)辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオオヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。
(裏銘文)其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百錬の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

(口語訳)
辛亥(471)の7月中旬に、私、ヲワケの臣は記しておく。私の遠い祖先の名はオオヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。・・・・・・・・・・・・其の児の名は私、オワケの臣である。私の家は代々杖刀人の首として、大王にお仕えして今に至りました。ワカタケル大王(雄略天皇)の朝廷がシキの宮におかれていた時、私は天下を治める事業を補佐し、この鍛えたよく切れる刀を作らせて、私が大王にお使えした事由を書き残しておくものである。

すなわち、オオヒコから始まるヲワケまでの八代の系譜を示し、ヲワケが雄略天皇にお仕えしたことを記す。オオヒコ(意富比垝)は日本書紀・崇神紀の四道将軍の一人「大彦」で、大彦伝承がこの時代にに存在したことを示す。


(写真はパンフレットより)

画文帯環状乳神獣鏡 (がもんたいかんじょうにゅうしんじゅうきょう:稲荷山古墳出土品;国宝)
資料館壁壁の展示ケースには国宝指定された品々が並ぶ。中でも面計15.5cmの中型銅鏡「画文帯環状乳神獣鏡」が興味をひく。名称の由来は、画文(紋)帯とは厚く平らな縁に模様をつけること、環状乳とは内区に8ケの乳(小円)を同心円上に描くこと、神獣鏡とは”獣を背にして神仙が座る図像”が東西南北を示す四隅に描かれることである。

三角縁神獣鏡(縁の断面が三角)が畿内でよく副葬されているのと比べ、画文帯環状乳神獣鏡は地方で多く出土する。環状乳神獣鏡は、畿内政権が地方の首長に分配し威力を誇示した、あるいは地方豪族が赴任先の畿内政権より持ち帰ったかである。

画文帯環状乳神獣鏡は3世紀の呉で多く造られた。稲荷山古墳出土の銅鏡は中国から伝来した踏返鏡(既存の原鏡をもとに二次的な鋳型から作られるもの)と考えられている。製作場所が中国か大和地方かまたは埼玉地方かは分り難いし、年代も同定し難い。同型鏡が稲荷山鏡のほか、群馬県・八幡観音塚古墳、千葉県・台古墳、三重県・塚原古墳、宮崎県・山ノ坊古墳、福岡県・京都群出土の五面ある。

”不老長生”を願う「神仙思想」は、後に「道教」の中心になり、我国には3世紀代に呉の工人によってもたらされた。神獣鏡の内区王紋として、琴を弾く神仙(伯牙)が上に、龍虎座に坐る東王父と西王母が左右、黄帝が下に描かれている。陰陽二気の化勢と合一を表す。

(写真はパンフレットより)
「さきたま資料館」には、その外、埴輪、馬具装飾品、鉄剣など見るべき出土品が多い。
 (参考) 日本の古代史は、第10代天皇である崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト;在位BC97~30)から歴史的認識が始まる。第15代応神天皇(在位270~310)、第16代仁徳天皇(在位313~399)の時代にはじめて王朝(応神・仁徳王朝)が成立し、その時代を4世紀後半に当てる考えが有力である。応神・仁徳王朝(河内王朝)以前に崇神王朝(三輪王朝)が存在し、王朝が交替したとする説もある。
歴史的事実が明らかとなってくる第21代雄略天皇(オオハツセワカタケルノスメラミコト;在位456~480)および第26代継体天皇(オオドノキミ;在位507~531)の時代で一つの画期を迎える。
620年代の欽明朝において、で出雲国が倭国に服従し、倭(大和)政権が確立する。天智天皇の大化改新(645年)、天武天皇の壬申の乱(672年)を経て、持統・元明・元正女帝期に大宝律令(701年)を制定し、710年の平城遷都で律令国家体制が完成した。天武朝に「帝紀を選録し、旧辞を討覈し、偽りを削り実を定め(古事記序文)」として諸家の伝承の整理が始められ、712年(和銅5年)に古事記が奏上され、720年(養老4年)に日本書紀を編簒して国家の正史とした。
稲荷山古墳出土鉄剣の金錯銘にあるワカタケルは雄略天皇と比定されている。雄略天皇は「宋書・倭人伝」の倭の五王の”武”に相当する

「さきたま風土記の丘」北側部分の古墳巡り

駐車場のすぐ西側に愛宕山古墳。(主軸長53m、後円部径30m、高さ3m、前方部幅30、高さ3m) 二子山古墳(主軸長138m、後円部径70m、高さ13m、前方部幅90m、高さ15m)を東南から見る。
武蔵国で最大の古墳で、丸墓山・鉄砲山古墳とともに昭10(1935)いち早く史跡名勝天然記念物として仮指定された。
将軍山古墳 主軸長90m、後円部径39m、高さ8m(復元)、前方部幅68m、高さ9m(復元)
横穴式石室のあったところに展示館が新設されている。館内には鉄腕、環頭太刀、馬具などの副葬品が展示され、埋葬の実際が復元されている。墳丘が複数の地層で造られたこと、石室には房総の「房州石」や荒川上流(秩父)の緑泥片岩が使われおり、当時の豪族間の交流が推理される。 将軍山古墳の全景を西側から見る。右が前方部で左が後円部で中央くびれ下部に”造出し”があり、”祈り”の場と解せられている。前方・後方両部の中段と頂上に埴輪が並べられ、埋葬者の守護を勤めた。

稲荷山古墳 主軸長120m、後円部径62m、高さ12m、前方部幅74m、高さ11m(復元)
昭13年(1938)、愛宕山・瓦塚・奥の山・中の山などとともに古墳群として、史跡名勝天然記念物に加えられた。稲荷山古墳の前方部は、史跡指定前に耕地整理作業用として削られていた。戦後、1950年代後半の高度経済成長期に、この地域が「さきたま古墳群」・「さきたま風土記の丘」として整備され始めた。稲荷山古墳は昭43年(1968)調査・発掘され、墳丘の全容・礫槨・石室・周濠の配置などが次第に明らかになり、金錯銘鉄剣など多くの副葬品が出土した。稲荷山古墳は古墳群の中でもっとも古い築造で、5世紀後半と想定されている。
平成9年(1997)から5年かけて、前方部、周掘は復元された。復元された前方部の南側に頂上への階段が設置され、古墳を横断できる。 前方部より後円部を見る。昭和初期までは後円部の墳頂に前玉神社・稲荷社があった。周辺は掘削され水田となっていたが、現在は「さきたま古墳公園」として整備されている。
後円部の頂上(墳頂)には、金錯銘鉄剣が発見された舟形礫槨(れきかく)と粘土槨(発掘時に掘り荒されていた)が再現されている。中央部は未掘であるが、この墓の主人が埋葬されてた空白部が見つかってい。複数埋葬の古墳とである。”中央部(主体部)にヲワケの臣が、礫槨にヲワケの子が埋葬された”との説もある。     西側から見る稲荷山古墳の全景。
墳丘は空掘で囲まれ、くびれの少し後円部よりに”造り出し”がある。人や馬の埴輪が並んでいたらしく、埋葬後の祭祀に使われたと思われる。須恵器と土師器が出土し”辛亥”の年代確定にも寄与した。

丸墓山古墳 主軸長105m、高さ19m
西側(さきたま古墳公園)から見る丸墓山古墳。日本で最大(径105m,・高さ19m)の円墳。 北側から頂上へ階段が敷設されている。古墳巡りの遊歩道になっている。四阿(あずまや)もある。
 丸墓山古墳頂上からは、四方に関東平野が一望され、西南足下に稲荷山古墳と小円墳群(墳径10m程度)が見える。
5世紀の関東地方は、大野氏が有力な稲荷山地域(埼玉:武蔵国の北端)を囲んで、北側では上毛野氏(高崎)・下毛野氏(太田)と、西に大伴氏系の知々夫(秩父)と接し、東・南の茨城・房総(ワニ氏系)とは同族連合を組んでいたらしい。武蔵国での勢力争いが埼玉地区と東松山地区(比企丘陵)との間であったとも言われている
天王山古墳

丸墓山古墳から公園内を南下すると、最南端にわずかに盛上がった墳丘がある。

さらに南下すると、天祥寺(忍松平家の墓)があり、駐車場に戻る

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