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 春夏秋冬 総目次

春夏秋冬 (1)  

02/10/17 ゆっくり・のんびり南アルプス

紅葉狩りを兼ねて仙丈岳に登った。
山登り・山歩きを始めて3年、南アルプスは、鳳凰三山(地蔵岳、観音岳、薬師岳)縦走、仙水峠より駒津峰などを歩いてきた。今秋は北岳を目指して、広河原に入ったが、3000m級の山は雪がつき、北岳はアイゼン必携となっていた。とりあえず北沢峠行きの南ア林道専行バスに乗り込んだ。

紅葉の連休を控え、山小屋は翌日よりは満杯であり、予約もできない。広河原に戻るバスのことを考えて、その日は大平山荘に泊まり、早朝出発して仙丈岳に登ることにした。
山のガイドブックでは7時間程度の歩行となる。大平山荘の夕食は午後四時半、消灯は六時半である。翌朝は午前四時半に起床、夜も明けた六時に出発した。ガイドブックどうり歩けば、午後3時過ぎの最終バスに間に合うことになるが、相当一生懸命に歩かねばならない。

ところが、私の歩きは、気ままに休み景色を楽しむスタイルで、健脚歩きとはかけ離れている。それでも始めのうちは時間の経過を気にしていたが、快晴の山々に溶け込み、それに足に疲れがでてくると、「バスがなくなれば歩けば良いさ」となってくる。結局、思いきり仙丈岳と周囲の山々を楽しみ、小仙丈では昼寝までして、北沢峠に戻ったのは午後五時半、すでに日が暮れかかっていた。
林道を広河原に向って歩き出した所で、テント持参で広河原から登ってきた連中に、「クマの影を見つけた人が居るので注意してください!」と脅かされる。すぐに日が暮れ、三日月の明かりはあるが、山陰では真暗闇である。時々、道端の茂みにガサと音がして、すぐ横で鹿がピーと鳴く。クマ除けの鈴を鳴らし、ヘッドランプと小さな懐中電灯でクマを探しながら広河原までを2時間半で歩いた。久しぶりの長時間の山歩きだったが、「クマ」のお陰で最後の2時間半は健脚だった。


02/09/09 おわら風の盆 


(マウスポインターを写真の上に置くと、入替わります)

国道41号を北上し、富山市に入る直前の東側に立山登山口があり、西に向えば八尾町(やつおまち)に至る。JR高山本線・越中八尾駅が町の入口である。
八尾町は坂と(雪流し)疎水の水音が似合う山間の静かな町である。南北3kmの街並みからなる人口5千のこの町は、9月始めの三日三晩、「風の盆」を目指して訪れる20万とか40万の観光客で賑わう。

「風の盆」は、元禄時代より300年の歴史を持つが、三味線、太鼓に胡弓をとりまぜたもの悲しいスローテンポの踊りは、明治末より大正にかけて完成したらしく、現代ではその伝統を守りつつ磨きをかけ、日本の良きカルチャアーとして海外で公演する機会もあるという。踊りは農作業の所作や四季の移り変りを取り入れ、音曲・唄も時代とともに洗練されてきたようだ。二百十日の大風の無事を祈り、豊作を願った歌詞もある。自然と同化した優しさを残している。
もともと土地の人々が大切に育てた文化を、マスメディアの宣伝と交通機関の発達を武器にして、我々が喧騒のお祭りに仕上げることは心苦しいが、一度足を踏込めばその得たいの知れない魅力の虜となる。

”日本の道百選”に沿う諏訪町、東新町を始めとして十一の町内公民館から、揃いの浴衣に目深に網笠を被った踊り手達が地方(じかた)を引連れ「町流し」する。踊りと歩調はあくまでゆっくりとして、優雅であり幻想的である。上新町では見物人も抱き込んでの「輪踊り」が開かれる。十一の支部はそれぞれ趣を変えて、いつ始まり終わるかも分からないスケジュールで行動する。見物人は道端に座り込んで、その始まりを気長に待つ。時には街の片隅で、興に乗った地方の胡弓、三味線の響きや唄が始まる。夕方より始まったお祭りは朝方4時過ぎまでつづく。



02/08/08 秩父観音霊場34ケ所結願

札所第1番・四萬部寺から札所巡りを始めたのは、5月1日であった。四日間と今回の一泊二日で、歩き遍路を完結した。約140kmの道程となる。5月には長閑な田園風景の中を歩けたが、8月の二日間は、猛暑・酷暑の照返しのきつい田舎のホソー路と、夏草と木々の重なる峠道をトボトボと歩いた。

秩父の巡礼道は古道を織り交ぜて親切な道標で結ばれている。12年に一度の午歳総開帳のせいもあるが、近年のウオーキングブームと日本の美しさを求める心がそこにある。明治維新以来の西洋化した文明への批判と云うより、日本古来の美しさを懐かしむ心である。
四国八十八ヶ所のお大師信仰も、西国・坂東・秩父百霊場巡りの観音信仰も、室町・鎌倉・江戸時代に庶民の描いた祈りと遊び・楽しみの姿である。西欧社会の猛烈な近代化から孤高を守り、そして取り残された明治維新までの日本に育った不思議な美しさを見る。

秩父札所の各寺はそれぞれ檀家の人々に守られた好ましい佇まいがある。分けても一番札所にふさわしい四萬部寺、ちょっと賑やかな4番金昌寺、心和ませる20番岩之上堂と22番童子堂、池を眺める25番久昌寺、馬の28番橋立堂、寂とした30番法雲寺、もとは修験道の31番観音院、と結願の水潜寺が好みである。炎天の田舎道も良いが、「地蔵は土なんぞう」の大棚古道(1〜3)、岩井堂参道(26〜27)、大日峠(32へ)、札立峠(34へ)は歩いて楽しい。



02/04/30 武相荘 (ぶあいそう)

白州正子の「かくれ里」、「十一面観音巡礼」は、日本古来の美しさを教えてくれるエッセイである。白山・琵琶湖・吉野山など近畿地方に残された歴史・伝承を掘り起こす旅行記である。著者の目は体験を通して直接的であるが、その土地に伝わる民間信仰への深い信頼に根付いている。
白州正子は、「明恵上人」のようにけっして小乗的ではないが、教団を持たずひたすら釈迦に近づこうとした人に魅力を感じていたらしい。ご自身も晩年まで、興味のおもねくままに、実践的・行動的に活動された。能・焼物・染物などを手がけると同時に著名な知識人との交流を通して得た学識に裏打ちされた確かな審美眼で、日本の風景を描き出した。

去年の秋に、町田市鶴川の旧白州邸が公開された。夫君白州次郎氏が無愛想とひっかけて「武相荘」と命名したこの田舎屋に昭和18年から住い、銀座の染色工芸の店「こうげい」まで通ったと云う。当時は、郊外というより片田舎であった多摩丘陵の鶴川村も今では高層団地に囲まれた街になった。それでも武相荘の一角だけは、田舎の風情を残している。
執筆活動をされたお気に入りの北向きの書斎には、歴史や民族学の蔵書も多い。平成10年に永眠されたが、夫君同様葬式無用・戒名不用とした。



02/03/24 クマ一家のスキー

クマさん(永吉勇吉氏)は30年来のラリー仲間である。当初は彼の専属ナビゲータとして20戦以上のラリーに参加し、地方戦から全日本戦へステップアップした。週末には彼の自宅でビールを飲みながらのラリー談義に花が咲いた。そんな時いつも大工のナコ、ボイラー技師のガン、消防士のショウボウが居た。彼ら”クマ一家”はラリーの応援・手伝いにも駆けつけてくれた。林道ドライブの旅や正月の白馬乗鞍「こだま荘」でのスキー年賀が恒例であった。それをいつもまとめていたクマさんの奥さんが去年の暮れに亡くなった。

奥さんの五十日祭(仏事の49日に相当する神道の行事)も無事に過ぎたので、思い出の白馬界隈に供養を兼ねて、現在のクマ一家はスキーに出かけた。葬儀の際にもお世話になった「こだま荘」(現在は民宿を止めている)にお礼に伺い、栂池、岩岳で滑った。当時雪と戯れていた「こだま荘」の息子は、長野オリンピックで前走を果たし、つい先日の八方尾根のリーゼンスラローム・青年の部で優勝するまでになっていた。

久しぶりのスキーと体力低下と暖冬・春先の悪雪に悩まされたが、190cmの従来の板でとりあえず滑っていた。クマ一家はカービングの板を履いている。コウイチの167cmのカービング板や、ノリの133cmのショートスキーまがいの板を試用させて貰った。従来の板よりカービングの板は、操作性が良い分だけ楽な滑りができる。初心者や年寄りがスキーを気楽に楽しむのに最適で、安全性も向上している。リタイヤした年寄りが、平日の空いたゲレンデで雪山に囲まれてのんびりスキーを楽しむ環境に近づいている。



02/01/01 正月の丹沢山麓 (日向薬師・八菅神社)

正月の三ケ日に開扉される日向薬師の本尊と八菅神社の宝物を拝観するために、丹沢山麓に出かけた。小田急伊勢原駅からバスで日向薬師を往復し、本厚木に引き返しバスでまつかげ台に行き、鳶尾山を跨いで八菅神社への正月ハイキングである。

日向薬師の本尊薬師如来と脇侍日光・月光菩薩は、
行基菩薩が42才のとき一刀三礼のもとに彫り安置されたと
伝えられているが、なぜか平安時代の作である。それはそれとして、穏やかな厚みの薄い天平仏でも藤原仏でもない素晴らしい様相をしている。本尊を納めている厨子は室町時代の作で、扉の内側には、朱と緑色もあざやかに四天王が描かれていた。正月の行事としての真言宗のお祓いが本尊前で行われており、朗々とした般若心経が堂内に趣を添えていた。

八菅神社は、近郷の人々の参拝で年に何回かの賑やかさを取戻していた。役の行者の完全な像は前鬼と後鬼を引連れ黒珍作という。後鬼の首が無くなっているのが惜しい。黒珍は和銅年間(724〜749)に来山したという。役の行者は髭を長くのばし頭巾を被った老相で、右手に錫杖がわりの木の枝を持っている。弘長3年(1263)北条時頼の寄進した六地蔵尊、修験道が盛んな往時を偲ばせる長さ4mにも達する大木幟など見るべき品物が多い。それでも、宝物殿を素通りする人が多く、神社の賑わいは奥の院での祈祷とふるまい甘酒と焚き火に集まっている。神社入口近くでは屋台もでている。
東京近郊にもこんな長閑な正月があった

                     

01/10/27 醍醐寺(だいごじ):京都

南アルプス(広河原基点)

醍醐寺案内図の鳥瞰図

聖宝理源大師(しょうぼうりげん)(832〜909)は修験道の中興の祖として知られている。空海の実弟・真雅に従って出家し、吉野で真言密教の修験道を修行し、874(貞観16)上醍醐山上に草庵を結んだ。

醍醐寺へは京都地下鉄東西線でも行けるが、JR奈良線「六地蔵」からのバスを利用し「醍醐三宝院前」で降りる。総門をくぐると、左に三宝院、右に霊宝館、正面奥に仁王門と醍醐寺境内がつづく。三宝院に根拠して真言密教系の山伏達は当山派を組織した。(天台密教系は聖護院(三井寺)を根拠とし本山派と云う) 三宝院は桃山時代の寝殿造りで庭園とともに豪華絢爛な佇まいで、奥の護摩堂には弘法大師と理源大師が一対で座しておられる。

上醍醐へは、境内奥の女人堂から1時間弱の坂道を登る。登り口では、弘法大師、理源大師、大日如来、役行者、地蔵菩薩の像に柄杓で水をかけ道中の安全祈願をする。笠取・岩間へのハイキングコースにもなっており人が多い。二丁から始まり十九丁までの石標がある。五丁石辺りが有名な豊太閤花見の跡である。標高450mの山上には開山堂はじめ多くの重文・国宝のお堂がある。准胝堂(じゅんていどう)が西国33ケ所観音霊場第11番札所になっている。笠取山への道の周辺に修験道行場がある。

醍醐寺は1994年、ユネスコの世界文化遺産に登録された。本格的な紅葉は11月下旬である。JR東海の”京都へ行こう”のCMどうり、”ほぼ一山まるごとお寺”で、観るべきものが多く、ちょっと立寄るつもりが一日かかってしまう。



01/10/19 芦峅寺(あしくらじ):富山県

富山県側から立山へ登るには、富山鉄道・立山駅からケーブルで美女平へ、さらに高原バスで室堂まで行く。芦峅寺は北陸自動車道の立山ICから立山駅に向う途中にある。ここは修験道が栄えた時代の立山登山の基点であり、雄山神社(中宮)、宿坊、閻魔堂(えんまどう)などがある。女人禁制のお山であった頃には、女人は閻魔堂で懺悔して布橋を渡り姥堂(うばどう)で祈祷し、正面の立山を仰いだ。姥堂跡には新しく遙望館が立山博物館の一つとして近代的な装いで復元されている。

立山博物館では特別企画展”地獄遊覧”が催されており(9/29〜11/4)、50点近い六道絵、十王図、立山曼荼羅が展示されていた。
六道とは、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天を云い、仏教での死後転生する世界である。十王は、閻魔大王や中国での死後世界の支配者・泰山王などで生前の行ないを裁く。裁きを受けた死者は、地獄図に見られる様々なお仕置きを受ける。
立山曼荼羅には、極楽浄土である立山三山への登山路と、地獄図の展開する地獄谷と、地獄針の釼岳が描かれ、立山全域を六道・十界思想で表現したものである。曼荼羅(マンダラ)とは、もともと仏教宇宙観の断面図である。

江戸後期に建てられた宿坊・教算坊が博物館の一つとして公開されている。管理人の方から立山信仰の歴史と成立ちを聞かせてもらい、米原館長の”神々と祭り”と題してのお話を、地元の婦人会に混じって聴かせて貰えた。山(さん)は三に通じていて、立山三山は浄土山、雄山、別山を云うと話していた。
ここでも、明治の廃仏毀釈で修験道は廃れ、仏像は近郊のお寺に移されていた。立山権現は立山雄山神に名を変えた。それでも雄山神社は雄大で、立山杉が街道を覆い、随所に過日の修験の里の雰囲気が漂っている。近年、修験の里として見直しが行われている。

      注:右観覧券の図は、立山曼荼羅の部分図で、上は雄山を、下は閻魔堂である。
           ”山と渓谷”No.792にも、立山開山1300年の特別企画がある。 
 



01/08/26 駒曳き猿のお札(早池峰神社)


盛岡(岩手県)から遠野市へは国道396が通じており、中間に大迫(おおはざま)町がある。大迫町は早池峰に咲くハヤチネウスユキソウがエーデルワイスに近い花であるよしみでオーストリアのベルンドルフ市と姉妹都市になっている。 町役場の裏山にアルペンムードの山岳博物館がある。  博物館の場所を聞くために入った木造の町役場は、床は板張りで綺麗に磨き上げられ、日本の原風景の行儀良さを大切に残している。 すぐに博物館に連絡をとってくれた。

早池峰神社は大迫から車で約30分北東奥の岳(たけ)地区にある。 更に5km先の河原坊(かわらぼう)から早池峰山は登る。 早池峰神社は大同2年(807)に田中某と云う猟師が山頂に姫大神を祭ったことに始まり、1325年に越後の円性阿闍梨が真言密教の妙泉寺を開封し修験道の道場が開かれた。 江戸時代には盛岡藩の庇護のもとに隆盛を極めたが、明治維新の廃仏毀釈により廃寺となり現在の本殿といくらかを除いて破壊されたという。 
盛岡藩は南部駒の育成に力を注いだ。「駒曳き猿のお札(早池峰一の駒)」は厩屋火事を防ぐ呪物である。陰陽五行では馬(午)は火の三合(寅・午・戌)の旺気であり、「水剋火」の理によって水の始としての猿(申)で火の始めとしての正月(寅月)に馬を抑える呪物となる。

修験者(山伏)は原始的な山岳信仰を原点としているが、呪や占いを通じて時の仏教、政治、民衆と結びついた歴史がある。 もちろん純粋な山岳修行者もいたが、もっと巾広く近代社会の成立までの民衆の生活、医術、科学、芸能などに影響を与えている。 芸能面での遺物としての神楽を中心に、郷土文化保存伝習館が神社内に新設されている。 伝習館では大迫に伝わる岳地区と大償(おおつぐない)地区の神楽をビデオで鑑賞できた。早池峰は役の行者ゆかりの北端の地としての興味もあったが、修験道の盛衰に思いを馳せることになった。



 01/08/01 暑さを逃れて(鏡平から鷲羽岳)

   
鷲羽岳(2924m)頂上から槍ケ岳(3180m)を望む。 北鎌尾根の手前に硫黄尾根、後方の東鎌尾根への表銀座コースの向こうに常念岳(2857m)が頭をのぞかせている

東京は35〜39℃の日が続いており、涼しさを求めて北アルプスに出かけた。昨年は燕岳に登り槍ケ岳を東側から、焼岳・西穂高に登り南側から眺めた。 今回は、新穂高温泉から蒲田川沿いに左俣谷を登り、鏡平から鷲羽岳につづく稜線で槍ケ岳を西、北方面から眺めることにした。 

山歩きのリハビリを続けてきたものの、照りつける太陽と標高差1200m余の山歩きはきびしかったが、2日目以降は次第に慣れがもどってきた。 2500m付近にある山小屋では夜は毛布にくるまるが、日中の日差しはきつく、4日目の下山時には手の甲がひぶくれし、軍手をはめ甲との合間に雪渓の雪を押し込んで冷やしながら歩いた。

双六岳周辺の稜線はお花畑がきれいなところである。 穂高岳の稜線が岩場の連続であるのに対して砂礫が多く、登ってしまえば快適な散歩道となる。 山の天気はすぐにガスがかかりたちまち消える。 早朝、ガスの中を鷲羽岳に 登ったが頂上直下で見事に晴れ渡り、360°の眺望も楽しめた。


01/07/19 梅雨明け(薬師池公園)

関東・甲信地方は2週前に梅雨が明け、猛暑に見舞われている。町田市郊外にある薬師池公園の大賀ハスは、7月下旬から1ケ月ばかり早朝に開花する。 冬の間はドロ沼のようなハス田も、今の季節は茎の細い縄文ハスで一杯になり、所々にピンクの花がのぞく。 花は午前5〜8時に咲いて閉じ、3日目には全開して散る。

薬師池公園には野津田薬師堂がある。 天平年間に行基菩薩開基の高野山真言宗華厳院のお堂である。 本尊は欅の一木造りの薬師如来坐像である。12年に一度開帳の秘仏で普段は拝観できないが、総欅造りの御堂とちりばめられた
彫り物は見事である。   

01/05/07 初夏の頃(大山)

5月のゴールデウークも終り、暦の上では立夏である。 鎌倉古道の通る多摩丘陵の七国山にも菜の花畑が出現する。 半年休んでいた山歩きを再開すべく、悪友会3人連れ(市川、安田)で丹沢大山(1252m)に広沢寺温泉から登る。 尾根筋の新緑は綺麗で、阿夫利神社を経て男坂を追分へ下山した。 追分は江戸時代から大山講で賑わった所で、店には江戸勘亭流の名札などが掛かっている。 風呂も酒も豆腐も美味で、悪友会の宴会は2時間半を越え、ちょっとした”大山参り”になった。 
楽しい山歩きだったが、トレーニング不足をしっかり認識した一日でもあった。


01/04/02 春になりました(内子座)

3月に四国八十八ヶ所巡拝を完結した。 愛媛県宇和町の43番明石寺から久万町の44番大宝寺への途中で、内子町に立ち寄った。。 内子町には古い街並みが保存/復元されている。 大正5年建造の内子座は、土地の人々が農閑期に歌舞伎・文楽・落語・映画などを楽しんできた木造劇場である。
私の疎開していた淡路島でも、終戦後の娯楽のない時代に、同じ様な劇場でチャンバラ劇を楽しんだ。 ”番町皿屋敷”のはねた夜の風呂屋で、お岩さんがはれあがった顔を落しに来たのに出会い、二度気持ち悪い思いをしたことを想い出した。


01/03/01 もうすぐ春(松之山温泉)


新清水トンネルを新幹線で、あるいは関越トンネルを4WD車で抜けると、雪国が現れる。 ここで目にする雪国は、川端康成の世界とは少し違っていて、華やいだスキー場とリゾートマンション群である。それでも、ひと山越えた大沢山温泉あたりから、夕陽に映える巻機山(まきはたやま)を見ると心が洗われる。雪国の情緒は、更に山越えした松之山温泉に残っている。上越に近い超豪雪地帯である。 木造三階建ての凌雲閣は、風雪に耐えてきた年輪を残し、わずかな塩分がまじる98℃の源泉は心地よい。 もうすぐ一面のブナ林が新芽を出し、新緑の季節を迎え、食膳には山菜が賑わう。 日本にもまだまだ探し求めたい景色と四季が多く残っている。 


01/02/02 冬真盛り(白馬山麓)

東京にも雪が何度か降った。 今年は北海道、日本海側を中心に雪が降り続いている。先日、母親と兄夫婦で白馬山麓を小旅行した。 岐阜側と佐野坂峠以北は吹雪いていたが、安曇野からは雪の晴れ間に常念岳や昨年登山した燕岳が真白な雄姿を見せていた。

冬山は遠慮して、四国八十八箇所の巡拝に出かけた。 白衣姿でお経を朗々と唱え、金剛杖を片手に歩き回る年寄りの姿も良いが、ザックにウオーキングシューズで寺巡りをする若者の姿にも新しさを感じる。 プロの修行者である空海が、レクリエーションに必須の大きな声と歩きに基礎をおく巡拝を設定し、アマの世人自ら起こる宗教心を喚起しているのは偉い。

   
00/12/14 初冬(ビデオ編集)

20世紀の終わりにビデオ編集を始めた。AVI,WMV,MPEGなど圧縮ファイルを試みたが、ロード時間の節約のため小さなサイズのwmvファイルを使用した。昆布刈石海岸に沿ってのダートをドライブしたのは夕方だったが、広々として明るい景色だった。ビデオ撮影もぶれが多く、そのうえ解像度のなさとコマ落しのためその真髄が伝わらないのは残念だ。一見変化のない林道の美しさを、ビデオで追いかけるのも楽しい。


00/09/14 秋(新穂高ロープウエー)

新穂高ロープウエーで千石平まで登り西穂高岳往復を意図して、午前6時に麓に到着したが、始発が8時30分だったので、西穂独標までの往復に変更した。麓の駅では、ロープウエーの始発の遅さを、おじさんが二人、ビールで顔を火照らせながら座り込んで怒っていた。川越から夜行で走り観光に来たと云う。ロープウエーでは、観光客から”山の天気はどうですか?”と尋ねられた。 山の専門家に見間違えられたらしい。 ”分かりません。”と云うと、謙遜していると思われた。独標では雨になった。レインウエアーとザックカバーが役立った。 西穂山荘まで戻ってくると、雨は止んでいた。 ツアー登山ガイドのお兄さんが、脱いだレインウエアーをザックの肩紐と背中の間に無造作に挟み込み出発した。 なるほど・・・恰好良い。 すぐ真似をして、ベテランらしいふりをして山を下りた。

麓の新穂高温泉では、日帰り用の素晴らしい露天風呂がある。 その中の一つ”ひさご”でゆっくりと湯につかる。 あふれ出る熱い湯。 広々とした綺麗な石つくりの浴槽に客は3人。 さっぱりしたところで、車で5分の道の駅”上宝”の食堂で、岩魚の塩焼き定食(¥1200)と生ビール(¥600)、さらに岩魚のさしみ(¥700)と飛騨娘一合(¥400)を、ちょうど地元の人たちのゴルフコンペの表彰式を見ながら食す。 ”優勝は、アウト48、イン47、ハンデイ・・・・・”とまことに微笑ましくすがすがしい。 帰りしな食堂のおかみさが、今日は賑やかですみません。”と。 貧乏でも心豊かな山旅である。 夜になって雨は本降りになってきた。 ♯♪ ”ああ、奥飛騨に雨がふる” ♪♯


00/07/26 夏(焼岳)

有珠山(北海道)の噴火がおさまってくると、新島(東京)で噴火が起こる。震度5に達する有感地震が相次いで起こっている。 マグマの活動が話題になる今年の夏である。 山に入ると涼しさが蘇る。
自分流のカリキュラムで登山(山歩き)入門をしだして1年近く経過した。ガイドブックに書かれた難易度を理解して、山行きプランを練ることができるようになった。 日本の尾根、北アルプスに初心者は出かけた。
噴煙のぼる焼岳で親子登山に会った。鞍部から焼岳への急登1時間を登ってきた。小学2年の女の子は挑戦達成の満足感に満ちていた。 お兄ちゃんと奥さんは、溶岩ドームの北峰ピークを往復した。女の子は少しうらやましそうにしながらも、子供には危険を伴う岩登りはひかえて、ドーム直下でおにぎりを食べ、ご主人と待っていた。両親は女の子の自主性を尊重していた。 ご主人とドームの上でお話した。 昨日は霧の乗鞍岳に行き大変だったとも云っていた。下りは、登ってきた上高地側のザレタ急斜面でのスリップを避けて、中の湯への斜面を選択すると云い、先に下山にかかった。
上でみていると少しもたついている様子。 広い裾野の中ほどで追い越した。 噴煙あがるドームを背に家族写真を撮ってあげて別れた。中の湯への道は、ザレタ斜面を抜けると草木の中の踏み跡を降りる。上高地側の道にくらべて使用頻度が少なく、窪地(雨のとき水が流れる)は荒れ、それに続くブナ林は暗くて延々とジグザグに続く。山なれた若夫婦だったが、日が暮れないうちに降りられれば良いのだが・・・。