丹後半島の古墳  (京都府)
広峯15号墳白米山古墳蛭子山古墳作山古墳・はにわ資料館
小森山古墳日ノ内古墳大風呂南墳丘墓丹後郷土資料館
(福知山市、加悦町、宮津市)
(2010.11.24 遺跡・古墳・資料館を巡る旅の記録)

 
令制国(上図)の成立する以前(古代)には、丹後・丹波・但馬一帯が、丹波(たには)国であった。  
古代・丹波(たには)の王墓系譜は興味深い。弥生時代から古墳時代の日本列島は、対外的に独立した主張をもつ日本国成立への道を歩み始めた。九州・瀬戸内海沿岸・ヤマトを結ぶラインを中核としてヤマト政権へと形を整えて行く際に、東国および日本海沿岸の諸豪族は、もう一つの日本国の姿を見せてくれる。これらの地は、それ以前の優れた縄文文化を残した地を多く含み、ヤマトから見れば蝦夷の地である。

とくに、日本海沿岸の「出雲・伯耆・丹波・越」は、優れた縄文文化の継承とともに、弥生時代の到来を促した朝鮮半島との交易にも有利な地であった。豪族・首長・王の確立の姿は、その墓制に端的に窺われる。弥生時代終末期に、出雲・伯耆・越に四隅突出型墳丘墓が現われ、丹後地方には方形台状墓が現われる。

『日本書紀』には、崇神朝に四道将軍の一人・丹波道主命が、山陰道を征伐に向ったという伝承がある。四道将軍の話は史実に欠くとしても、この地がヤマトの範疇からはずれた有力な地であり、ヤマトとの協調・融和を必要としたことが窺われる。有力な豪族の存在を裏付けるように、古代丹波の王墓の系列を見ることができる。
幾つかの丹後半島の古墳をピックアップして、福知山市の広峯15号墳より旅を開始した。以下は、旅の順番に沿っての記録である。

京都府立丹後郷土資料館
では、秋季特別展として”大丹波展”が開催されていた。丹波王国での王墓の移動は、弥生終末期の赤坂今井墳丘墓から、前期に丹後半島の網野銚子山古墳、神明山古墳、蛭子山古墳、中期に篠山盆地の雲部車塚古墳、後期に亀岡盆地の千歳車塚古墳へと移動したものと考えられるとしていた。今回は、主として丹後半島を巡った。

                     丹後半島を巡る旅   
(第1日)野田川流域
福知山IC-広峯15号墳ー白米山古墳ー蛭子山古墳・作山古墳・はにわ資料館ー小森山古墳ー日ノ内古墳ー丹後郷土資料館ー大風呂南墳丘墓ー峰山泊      
(第2日)竹野川・福田川流域
峰山発ー赤坂今井墳丘墓ー黒部銚子塚古墳ー神明山古墳・丹波古代の里資料館ー竹野遺跡ー枡塚古墳ー大成古墳群ー産土山古墳ー離湖古墳ー網野銚子山古墳ーニゴレ古墳ー遠處遺跡ー木津温泉泊    (第3日)但馬・福知山(由良川上流域)
木津温泉発ー箕谷古墳群ー和田山歴史館ー茶すり山古墳ー朝来市埋蔵文化財センターー私市丸山古墳ー三方・水月湖泊
(第3日)但馬・福知山(由良川上流域)
木津温泉発ー箕谷古墳群ー和田山歴史館ー茶すり山古墳ー朝来市埋蔵文化財センターー私市丸山古墳ー三方・水月湖泊  

広峯15号墳 (ひろみねじゅうごごうふん) 京都府福知山市東羽合
4世紀初頭ー6世紀半ばに築造された30数基よりなる広峯古墳群の中の一つで、低墳丘の方墳の中で、15号墳は、唯一の前方後円墳である。4世紀初頭に築造されたと見られ、後世に削られていたが、全長40m、後円部径25mの規模が推定されている。墳丘は盛土を用いず山を削り出して形作られ、段築、埴輪、葺石などは施されていない。主体部は墳丘主軸と平行に、長大(3.6m×0.7m)な木棺を墓穴(10m×4m)に直接納めたもので、棺内面には朱が塗られていた。「景初四年」の銘がある斜縁盤龍鏡が棺附近に副葬され、副室に、碧玉製管玉2、鉄剣1、鉄斧1、鉄鉾1が納められていた。古墳群内では盟主であるが、首長墓とするには物足らないとされている。
昭和61年(1986)に発見された出土鏡、陳是作・景初四年銘斜縁盤龍鏡(重文)は、丹後郷土資料館(宮津市)で開催されていた「大丹波展」に出品されていた。この鏡については以下のような議論がある。
1.出土鏡は、それ以前の盤龍鏡を模倣し、内区に乳を四ヶ所加えた径16.8cmの斜縁盤龍鏡で、三角縁神獣鏡の創出段階の試作品の一つであり、椿井大塚山古墳出土の三角縁盤龍鏡は、これを大型に改作したものと見られる。
2.景初四年が実在しない年号であることから、三角縁神獣鏡の国産説の証拠であるとされたが、魏鏡説側からは、景初3年内に作られていたとの反論もある。  (岡村秀典「三角縁神獣鏡の時代」吉川弘文館、1999)
以上のように、卑弥呼の「銅鏡百枚」との関連、三角縁神獣鏡の年代、製法に関連などから注目される。
古墳公園の福知山教育委員会の説明板
原寸の1/2.5に縮小して示した埋葬施設(木棺の外枠が示され、副室と主棺部、主棺の副室よりに斜縁盤龍鏡が置かれていたことを示す)。 福知山駅の南約1km、国道9号を横切り、坂の中ほど右に広峯古墳記念公園がある。墳丘は、原寸の3/4の規模に縮小して再現されている。

白米山古墳(しらげやまこふん)と鴫谷古墳群(しぎたにこふんぐん)
国道176を北上し、与謝峠をトンネルでくぐると、下りになる。平坦な平野部になり、つけかえら得たられた直線路が続くようになると、旧加悦町(かやまち)の古墳地帯が道路の両山裾につづく。そこから1kmも走れば、蛭子山古墳に到達する。旧加悦町は、644基の古墳と17ケ所の山城がある歴史の町である。現在は、与謝市に組み込まれた。今回は、その周辺を探すだけで、残念ながらその実体を見ることは出来なかった。
七面山古墳、丸山古墳などがある丘陵の右側(東側)に鴫谷古墳群がある。 福知山から来ると、その直前の丘の上に、白米山古墳があるが、管理地になって入れない。

与謝野町立古墳公園(蛭子山古墳、作山古墳) 京都府与謝郡与謝野町字明石2341        
平成4年(1992)にオープンした総合的な公園で、蛭子山古墳の復元、作山古墳の復元、はにわ館(町内出土の土器、埴輪、装飾品など)、古代復元住宅、いろり館(約300年前の住宅と生活道具)を展示している。受付で、旧加悦町遺跡地図がもらえた。平成7年に加悦町教育委員会がまとめたもので、多いに参考になる。
蛭子山古墳(えびすやまこふん) (国史跡)  京都府与謝郡与謝野町字明石
古墳時代前期半ば(4世紀中頃)に築造された前方後円墳。全長145m(復元長170m)、後円部径100m(高さ16m)、前方部幅62m(高さ11m)を測る。三段構成で、格段に埴輪列、墳丘には葺石が確認されている。1929年、84年、90年に調査され、後円部中央から3基の埋葬施設、2ケ所の方形埴輪列が発見された。3基の埋葬施設はいずれも南北を主軸とし、平行に作られていた。中央第1主体部は、巨大な墓壙に砂利を厚く敷詰め、その上に加悦谷の花崗岩製舟形石棺を安置していたと見られる。棺内はすでに荒らされていたが、中国製の内行花文鏡、鉄製大刀などが検出され、棺外からは鉄製武器類が多数発見された。埴輪列は墓壙を埋めた後に溝を掘って樹立され、33本の埴輪が出土している。東側の第2主体部は全長4.6mの竪穴式石室で、16本の埴輪を立て並べている。第3主体部は一部が確認されただけで、埴輪列はないとされている。

          (加悦(カヤ)町の説明板)
平成18年、加悦町・岩滝町・与謝野町・野田川町が合併し、「与謝野町」が誕生した。加悦町は考古学フアンの来訪が多く、”昔馴染みの加悦町”の名が消えたのを惜しむ人が多いと館の人から聞いた。。

ふるさと古代の丘与謝野町立古墳公園
蛭子山1号墳への登り口は前方部先端にある。 後方部につづく右側面が見える。最初の階段を登り一段目(1号墳の基底段)、第2と第3の階段で前方部の上に出る。
第3の階段を登ると、古墳としては2段目の前方部の中央に出る。 前方部の右側(西側)から見る後円部の墳頂。広い頂奥に小屋がある。
前方部から階段で古墳としては最上段の後円部へ。
後円部に小屋が建つ。
墳頂小屋の中には石棺がある。小屋が南北を向いていて(写真右が北)、その位置に第1主体部、小屋の前(大きな石がある辺り)に第2主体部があった。
小屋を正面から見る。 小屋の中に石棺と石蓋が現地展示されている。
更に奥には、蛭子山2号墳(一辺42mの方墳)がある。 蛭子山2号墳 墳頂に蛭子神社がある。
2号墳の奥に、蛭子山3号墳(一辺15mの方墳)があり、さらに奥に小古墳がつづく 蛭子山古墳から谷一つ越えて南側に、作山古墳がある。
蛭子山古墳群と作山古墳群の谷間に、「はにわ館」がある。

作山古墳 (つくりやまこふん) (国史跡)  京都府与謝郡与謝野町字明石
5基の古墳よりなる。築造順は、方墳の5号墳、造出し付円墳の1号墳、円墳の2号墳、方墳の3号墳、小型前方後円墳の4号墳と、墳形がそれぞれ異なる。
5基の古墳の配置
左から5号墳、1号墳、2号墳、3号墳、4号墳
(加悦町教育委員会の説明板より)
作山1号墳は、古墳時代前期(4世紀後半頃)に築造された造出しつきの円墳。全長36m、高さ4mを測る。ニ段構成で、河原石の葺石を施し、埴輪が頂上と段に置かれていた。古墳周囲には木棺や埴輪棺による埋葬が15基確認されている。
作山1号墳の墳頂から造出し部を見ると、その下に作山5号墳が重なっているのが見える。作山5号墳は、この古墳群の中で、最初に築造されたもので、一辺13m、高さ2mの方墳である。葺石、埴輪はなく、中央に全長6.4m×幅0.8mの木棺が地面に直に埋められていた。銅鏡1面、石釧3個、玉類124個、鉄製品などが出土した。 作山1号墳の墳頂には、覆屋があり、石棺を現地展示しているが、雨模様で曇って見えない。説明板では、地元産の花崗岩製の組合式石棺で、全長2.66m、二つの部屋に分れ、主室には熟年男性の遺体が安置されていた。遺体頭部附近に銅鏡1面、石釧2個、首飾りの玉類550個があった。副室には、鉄剣12、鉄斧2、鉄小刀4、鉄鎌1などの鉄製品が納められていた。
作山2号墳は、1号墳につづいて築造された、直径28m、高さ3.5mの円墳。二段構成で、葺石はない。埴輪が頂上と段に並べられている。頂上中央に、一辺4.5mの方形に壺形土器が並べられていた。 作山2号墳の墳頂に整然と並べられた壺形土器
周囲は丹後型円筒埴輪
作山3号墳は、2号墳につづいて築造された一辺17m、高さ2mの方墳。葺石はなく、埴輪も少ない。埋葬施設は未調査で、墳頂に大形の壺形土器が置かれていたようだ。北側の2号墳との間に溝がある。 作山4号墳は、3号墳と同時期に築造されたと見られる小型の前方後円墳で、全長30m、高さ3mを測る。過去に後円部の上部が大きく削り取られていて、埴輪や埋葬施設は不明である。葺石は二重に置かれており、北側の甲円部は南側の前方部と異なり段がない。
はにわ館  京都府与謝郡与謝野町字明石
加悦町・野田川流域の遺跡・古墳からの出土品が手際よく展示され、考古学フアンを堪能させる。写真撮影も自由である。市町村合併により、加悦町は与謝野町に併合されたが、”加悦町古墳公園はにわ博物館”時代に、「644基の古墳と17ケ所もの山城跡がある歴史の町です」と記された加悦町遺跡地図を作成し、遺跡・古墳を全ての人に守ってもらおうとの意思が現れている。現在、与謝野町立古墳公園になっているが、この伝統は維持してほしい。
蛭子山古墳の壺をのせた埴輪、朝顔形埴輪、短甲形埴輪など 展示室風景
      作山1号墳出土の合子(ごうす)形埴輪と丹後型円筒埴輪
丹後型埴輪は丹後地方で4~5世紀前半に使用された独特の円筒埴輪で、上が丸くすぼみ上部に穴が開いている。
古墳時代中期の埴輪(鴫谷東1,3号墳、5世紀)
靫形埴輪,蓋形埴輪、通常の円筒埴輪、朝顔形埴輪など
         後野丸山古墳の埴輪 水鳥形埴輪など
後方の写真が後野丸山古墳の葺石で囲まれた造出部で、ここから水鳥形埴輪が出土した。
手前に、内行花文鏡(日本製)が2面(右側が作山5号墳)、鉄ヤリガンナ(作山1号墳)、鉄剣(作山1号)、小型の鉄斧と鉄鎌(作山5号)、鉄の槍先(蛭子山1号墳)、鉄ヤリガンナ。後方の上段には、動物形土製模造品(蛭子山1号墳)などの展示
作山5号墳出土の碧玉製管玉、メノウ勾玉、ヒスイ(硬玉)勾玉により作られた首飾りと、碧玉製石釧。 弥生中期の遺跡・日吉ケ丘遺跡貼石墓出土の管玉と朱
中央木棺跡から管玉が677個以上発見された
弥生時代後期の大風呂南方形台状墳丘墓
出土品が多いのが特徴
          古墳時代前期の内和田5号墳出土品
方形(15m×12.5m)台状の古墳(墳丘墓)で、埋葬施設は18基と多く、そのうち5基は弥生時代後期後半で、13基が古墳時代のもの。
以上は、とくに今回の旅と関連するもの、個人的な興味から取上げた、その他多くの興味ある展示品が並んでいた。

小森山1号墳 (こもりやまいちごうふん)  京都府与謝郡与謝野町字三河内
平成2年に野田川町教育委員会による発掘調査が行なわれた。古墳時代後期後半(6世紀末)に築造された円墳で、墳丘は東西約9m、南北約10mを測る。墳丘に沿った3列の列石がある。墳丘の保護・装飾を兼ねたものと考えられる。埋葬施設は、無袖式の横穴式石室で、石室の全長は約7.3m×幅約1.3m×高さ約1.5mである。出土遺物としては、石室内から須恵器の杯身と鉄刀、石室外で須恵器の杯身・横瓶などがある。遺物より7世紀初頃に追葬がおこなわれたと考えられている。羨道入口に鎌倉時代前半に何らかの儀式が行なわれたと見られる土師器の小皿・黒色土器が出土している。
森林公園(フォレストパーク)の最奥に”古墳の丘”として保存されている。

(野田川町教育委員会の説明板) 古墳全景
羨道部 無袖式横穴式石室

日ノ内古墳群 (丹後弓木城跡) 京都府与謝郡与謝野町(岩滝町)弓木
昭和59年の発掘調査で、中世の丹後を代表する山城・弓木城の出丸跡から、古墳時代前期末(4世紀末頃)の築造とされる日ノ内古墳が発見された。この辺りは弥生時代中期から人が住み着いていた事が、この近隣の遺跡調査により分っている。
日ノ内古墳は、丘陵先端部に位置するが、室町時代の出丸構築により削られ墳形は不明だが、直径(長さ)25m~30m規模と推定されている。埋葬施設は、南北に平行に3基あり、二段に穴を掘り、礫床を設け、板を組合わせて作った木棺を埋葬していた。第一・第二主体部には石枕が置かれていた。このような埋葬法は日本海側に特徴的なものとされている。第一主体部からは、仿製獣形鏡1面、硬玉製勾玉4個、碧玉製管玉56個、算盤玉1個、鉄器などが出土した。これらの出土品から古墳時代前期末(4世紀末頃)の築造とされている。(昭和62年、与謝野町教育委員会)
城山公園として、弓木城は自然のままに整備されている。
(昭和62年の岩滝町教育委員会の説明板)
古墳の存在は「昭和62年の与謝野町教育委員会の説明板」だけで知る。平成18年、加悦町・岩滝町・与謝野町・野田川町が合併し、「与謝野町」が誕生した。
出丸はこの先端部分か? 弓木城跡
城山公園にはテニスコート、弓道場などがあり、弓木城跡は紅葉の綺麗な散策路。木々の間から阿蘇海北岸地帯が見える。

大風呂南墳墓群 (おおふろみなみふんぼぐん)  京都府与謝郡岩滝町                          
弥生時代後期に築造された2基の墳墓と10の埋葬施設が確認されている。1号墓は、27m(尾根筋方向)×18m、高さ約2mの方形台状墓で、長さ7.3m×4.3mの墓穴を深さ2.1mまで掘り込み、長さ4.3mの大きな舟底状の木棺が納められていた。木棺内部には朱が敷詰められ、装飾品(ガラス釧1、銅釧13、貝製腕輪の一部、ガラス製勾玉50、石製管玉5278)と鉄剣11、鉄鏃4、鉄製ヤスリなど多量の鉄製品が副葬されていた。出土品は一括して重文指定されている。赤坂今井墳丘墓の規模(39m×36m)に比べるとやや小さいが、副葬品の多さとともに、赤坂今井墳丘墓が街道を睨んでいるのに対して、大風呂南墳丘墓は阿蘇海を睨んでいる。王(大首長)の墓と考えるにふさわしい。
弓木城跡から北に丸山墓地の南側に斜めに登る道(林道大風呂線)がある。この道を登ってすぐの右側に電波鉄塔があり、その下に大風呂南墳丘墓がある。現在は平坦な小さな広場。
(左写真)林道大風呂線に入って振り返ると、左下は岩滝町の街並みで、右上の森が弓木城跡。左遠くに大江山を遠望する。

1998年に大風呂墳丘墓の発掘調査がなされ、多くの副葬品、とくに直径9.7cmのガラス製釧(腕輪)が注目を集めた。透明感をもつコバルトブルーの色調は、保存状態も良く、完成品として発見されたのは日本で初めてとされる。弥生墳墓から出土した鉄剣としては、その数の多さが注目される。

弥生時代後期に、この地に王が誕生し、日本海を利用した交易が行なわれたと想像されている。
       (岩滝町文化財保護委員会、教育委員会の説明板)
写真は上から、阿蘇海を睨む1号墳の発掘現場、ガラス釧路、出土品(鉄剣、釧など)
大風呂南墳丘墓1号墳    尾根筋は写真の左から右(東南)へ
大風呂林道に入り、3つ目のヘアピカーブの右上に位置する。

丹後郷土資料館 (ふるさとミュージアム丹後)  京都府宮津市字国分小字天王山611-1

丹後郷土資料館は、阿蘇海(あそのうみ)を眼前にした国分寺跡にある。裏山を登ると、西国33ケ所札所・成相寺(なりあいじ)に至り、その麓に籠神社(このじんじゃ)がある。秋季特別展「大丹波展」が催されていた。
「大丹波展」で取上げられた古墳
古墳名 墳丘長 副葬された鏡
赤坂今井墳丘墓 弥生後期末 39m×36mの方形墳 京丹後市
園部黒田古墳 前期初頭 全長約52mの前方後円墳 双頭龍文鏡1面 大堰川流域
高槻茶臼山古墳 前期前葉 全長約55mの前方後円墳 八田川流域
網野銚子山古墳 前期後半 全長約198mの前方後円墳 福田川河口
神明山古墳 前期後半 全長約190mの前方後円墳 竹野川河口
法王寺古墳 前期 全長79mの前方後円墳 野田川河口
蛭子山古墳 前期後半 全長130mの前方後円墳 内行花文鏡(中国鏡) 野田川中流域
カジヤ古墳 前期後半 全長約120mの前方後円墳 方格渦文鏡 竹野川中流域
広峯15号墳 前期後半 全長40mの前方後円墳 景初4年銘斜縁盤龍鏡 由良川中流域
丸山1号墳 前期後半 全長48mの前方後円墳 四獣鏡、内行花文鏡 加古川流域
園部垣内古墳 前期後半 全長約82mの前方後円墳 三角縁神獣鏡2面(中国鏡と国産鏡)、
半円方形帯四獣鏡、三角縁仏像鏡、ほか1面
大堰川流域
黒部銚子山古墳 中期前半 全長105mの前方後円墳 竹野川中流域
産土山古墳 中期半ば 直径56mの円墳 四獣形鏡 竹野川河口
私市丸山古墳 中期半ば 直径70mの円墳 捩文鏡 由良川中流域
聖塚古墳 中期前半 一辺44mの方墳 神獣鏡片 由良川中流域
菖蒲塚古墳 中期前半 一辺24mの方墳 由良川中流域
雲部車塚古墳 中期前半 全長140mの前方後円墳 加古川流域
坊主塚古墳 中期後半 一辺34mの方墳 四神四獣形鏡 大堰川流域
千歳車塚古墳 後期前半 全長88mの前方後円墳 (盾形周濠) 大堰川流域
丹波(たには)には、弥生時代後期終末期に、赤阪今井墳丘墓という方形台状墳墓が築かれる。おそらく、丹波全域に影響をもつ大首長(オウまたは王)が丹波北部に出現した思われている。丹波南部には、同時期に前方後円の墳丘形をもつ園部黒田古墳が築かれているので、そこに眠る首長との関係は興味深い。
特別展では、古墳時代前期には、網野銚子山古墳と神明山古墳の王墓に眠るタカノ王権と名付ける王(首長)が、由良川流域の高槻茶臼山古墳、加古川流域の丸山1号墳、大堰川流域の園部垣内古墳などの大首長を支配していたと考えている。古墳時代中期になると、篠山盆地にタキ王権と名付ける雲部車塚古墳が出現し、古墳時代後期には、千歳車塚古墳が大堰川流域に出現した。タキ王権がタカノ王権の宮都移転か、畿内からの派遣かなどが問題とされている。
三角縁神獣鏡だけでなく、鏡(中国鏡または国産鏡)の副葬は、古墳時代の威信材・祭器として興味深い。有名な景初四年銘のある広峯15号墳出土の斜縁盤龍鏡や、園部垣内古墳出土の三角縁仏像鏡(中国製)ほかを直にみることができた。

丹後半島の古墳 2