丹後半島の古墳 2 | (京都府) |
赤坂今井墳丘墓、黒部銚子山古墳、神明山古墳、丹波古代の里資料館、竹野遺跡 枡塚古墳、大成古墳群、産土山古墳、離湖古墳、網野銚子山古墳、ニゴレ古墳、遠處遺跡 |
(京丹後市、) |
令制国(上図)の成立する以前(古代)には、丹後・丹波・但馬一帯が、丹波(たには)国であった。 ここでは、丹波北部に、弥生時代後期末に築き上げた赤坂今井墳丘墓、古墳時代前期の丹波国の初代王墓(首長墓)である網野銚子山古墳(福田川流域)と神明山古墳(竹野川流域)を訪ねることを主目的とする。 弥生時代後期末(あるいは古墳時代初頭)に、丹波南部には園部黒田古墳(前方後円墳)が築かれた。赤坂今井墳丘墓との関連は興味深いが、今回は訪れなかった。 |
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赤坂今井墳丘墓 (あかさかいまいふんきゅうぼ) (国史跡) 京丹後市峰山町赤坂 | ||
弥生時代後期末(2世紀末~3世紀初)に出現した方形台状型墳丘墓。出雲の西谷3号墳や越の小羽山30号墳などのような四隅突出型墳丘墓とともに興味深い。赤坂今井墳丘墓は、丘陵の先端部を切断して、下半分は地山を利用し、上半分を盛土・整形して造成された。墳丘は、南北39m×東西36m、高さ3.5mと、四方に巡る5~9mの平坦面からなる。墓域としては、南北51m×東西45mを測り、当時としては日本有数の規模とされる。第1主体部は、14m×10.5mの墓坑に7m×2mの木棺を納めているが、棺内埋積土は未発掘で、副葬品は明らかでない。第1主体部と一部重複した第4主体部(7m×4.2m)に納められた舟底状木棺(4.4m×1.3m)からは、ガラス管玉・ガラス勾玉・碧玉製管玉よりなる頭飾りや耳飾りが出土している。使用されたガラス管玉には、中国古代の顔料「漢青」の主成分である珪酸銅バリウムが含まれていた。頭飾りの出土した附近には、水銀朱が散布されていた。他に、鉄剣1点、ヤリガンナ1点も出土した。突帯で飾った東海系の土器(壺)や、装飾器台も出土している。 | ||
左下写真;第1埋葬の円礫集石・土器等・柱穴のようす 右下写真;第4埋葬の頭飾りと朱、第4埋葬のようす |
東側(たんご鉄道側)から見る墳丘全景 | |
方形台状の上部 下段南側から |
墳頂上で(南側から) この面に5つの主体部があり、中央上面からこぶし大の石約300個の集石と割られた土器群が出土した。西側には南北に並ぶ一列の柱穴列も見つかっており、祭祀場があったと考えられている。 下段南西端から 左(西)から延びる地山を削り出し平坦面を造り、その上に盛土している |
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南側からの遠景 墳丘右に県道17号線が走る | 北側のとりつけ道路より見る墳丘の北側面 | |
墳丘東側の谷間を、たんご鉄道が走る。県道17号が併走する。 海岸沿いの網野と竹野、内陸の峰山は三角形を作る。 網野と峰山は県道17号、峰山と竹野は国道482号線で結ばれる。 |
墳頂から南東を見る。谷間の道を見下ろすように赤阪今井墳丘墓がある。この道は、福田川流域と竹野川流域を内陸で結ぶ「丹後王国の道」で、古代にも戦略上重要な意味をもっていた。 | |
赤坂今井墳丘墓から峰山に戻り、国道482号線を黒部銚子山古墳へ、更に神明山古墳へ向う。 竹野川に沿う国道482号線では、「丹後王国の道」の看板を見受ける。 |
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黒部銚子山古墳(くろべちょうしやまこふん) 京丹後市弥栄町黒部 | ||
古墳時代中期前半築造の前方後円墳。全長105mで、前方部の方向に続く丘陵から切り離し削り出して成型されている。墳丘斜面にテラスを設ける二段構成で、円筒形の埴輪が採取されており、円筒埴輪が据えられて、斜面には葺石があったと推定されている。発掘調査はされていない。採取された埴輪片から年代が推定された。畿内との関連が考えられている。(京丹後市教育委員会) 丹後には銚子山古墳が二つあるので、区別するために、黒部・・・と網野・・・と冠している。 築造が中期前半だと丹波南部(加古川流域)の雲部車塚古墳に先行または同時期に相当し、北部(タカノ王権)と南部(タキ王権)の関連を考える上でも興味深い。 |
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(京丹後市教育委員会の説明板より) *以下の神明山と網野銚子山でも、同じ縮尺で比較された測量図を用いる |
黒部銚子山古墳は、南北に走る国道482号線が黒部の町を過ぎ、西からの県道と交差する地点にある。 | |
後円部から前方部への南側面) | 地山と切り離された前方部先端に廻り込む | |
前方部から後円部への北側面。 広い裾部がテラス(?) | 前方部に登った所から後円部方向を見た図 | |
前方部から歩き、くびれ部近くから後円部を見上げた図 | 後円部墳頂から前方部を振り返る | |
後円部の墳頂は、木々が茂っているが、平坦で広い。 |
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北側から見た後円部。 |
竹野神社 (たかのじんじゃ) 京丹後市丹後町宮 | ||
『延喜式』に「竹野神社大」と記される竹野郡唯一の大社の社格をもつ。祭神は天照大神で、本殿と並んで境内摂社斎宮(いつきのみや)神社があり、祭神として日子坐王命・建豊波豆良和気命・竹野媛命を祀る。竹野媛は、丹波大県主由碁理(たにわのおおあがたぬしゆごり)の娘で、第9代開化天皇の妃である。年老いて郷里に帰り、天照大神を奉祀したのに始まると伝承されている。竹野媛は記紀の開化天皇の条にも記されている。斎宮神社には、第31代用明天皇の第3皇子・麻呂子親王も祀られている。社記によると、麻呂子親王は近隣の三上ケ岳に住む鬼賊を退治したと伝えられ、北狄守護神と崇められている。室町時代以降も、武将・漁業者の保護・信仰が厚く、丹後の明神とされている。現在の社殿は、文政13年(1830)に再建されたものである。麻呂子親王の鬼賊退治と丹後七仏薬師の由来は、斎明神縁起(いつきみょうじんえんぎ)として残されており(江戸時代の制作)、神明山古墳に営まれた神明山経塚出土の銅製経筒と銅鏡(平安後期)とともに、古代の里資料館で展示されている。 | ||
悠久のときをきざむ神社 中門は神社に珍しい向唐門 |
竹野(たかの)神社本殿 右が斎宮(いつきのみや)神社 本殿は規模の大きな一間社流造で素朴な姿、 斎宮神社本殿は小振りな一間社流造で賑やかな装飾を有す。 |
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神明社古墳は、竹野神社の裏山になり、社の一角から巡る道がある。 | ||
神明山古墳 (しんめいやまこふん) (国史跡) 京丹後市丹後町宮 | ||
古墳時代前期末~中期初頭(4世紀末~5世紀初)築造の前方後円墳。全長190m、後円部径129m、高さ27m、前方部幅78mを測る。墳丘は3段構成で、埋葬施設は壊されていたが、水成岩からなる竪穴式石室と推定される。葺石、埴輪を有し、くびれ部に円形の造出しをもつ。出土遺物は、滑石製の盒・坩を形どった石製模造品や家形・蓋形などの形象埴輪や円筒埴輪、壺、高杯・器などの土師器があり、埴輪片には舟を漕ぐ人物が線刻されているものがある。(京丹後市教育委員会) | ||
(*黒部銚子山の京丹後市教育委員会の説明板より) |
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竹野神社からの道は、一度集落の上部に出て、神明山古墳のくびれ部近くを目指して登って行く。 | 前方部寄りに出て、後円部へ登って行く | |
後円部直下の北側 | 神明山古墳の墳頂 墳頂が異常に広いのは、明治年間に開墾したためと言われている。 |
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墳頂からの展望 左下に旧潟湖(せきこ:古代の港)、正面に竹野遺跡、立岩、右の小さい丘陵先端に大成古墳群、右端の山が竹野城跡 | ||
後円部から前方部への下り | くびれ部から前方部を見る |
丹後古代の里資料館 京都府京丹後市後町宮109 | ||
縄文時代の平(へい)遺跡、浜詰遺跡、弥生時代の竹野遺跡、大山墳墓群、三坂神社古墳と左坂墳墓群、赤坂今井墳墓、古墳時代の大田南5号墳と2号墳、神明山古墳と網野銚子山古墳、産土山古墳と離湖古墳、高山12号墳と湯舟坂2号墳、歴史時代の仏像コーナー、北前船コーナーと見所が多い。写真撮影は禁止。 | ||
印象深い展示品のメモ:①北陸系の縄文土器、②大山墳墓群(副葬品多い)1号・2号は方形台状墓、③扇谷遺跡:高地環濠集落、④奈良岡遺跡(弥栄町溝谷)と小池墳墓(大宮町)の貼石墓、⑤弥生後期前半;三坂神社(家族墓)と後半;赤坂今井(王墓)の出土品、⑥青龍三年銘銅鏡(大田南5号墳)、画文帯環状乳神獣鏡(大田南2号墳)、斜縁四獣鏡(弥栄町・愛宕神社1号墳、⑦神明山古墳の舟と人物線刻のある埴輪、⑧網野銚子山古墳の龍の線刻のある埴輪、⑨産土山古墳の埴製の枕と銅鏡、⑩高山3号墳(後期)の馬具など、⑪湯舟坂2号墳(久美浜町)の金銅製双龍環頭大刀(後期複製)など | ||
竹野神社からすぐに近代的なデザインの建物 | 屋外展示は、竪穴住居3棟と高床式倉庫1棟。ほかに馬場ノ内古墳の長持形石棺など。 | |
竹野遺跡(たかのいせき) 京丹後市丹後町竹野313 | ||
国道178号線沿いの”道の駅てんきてんき”の地下周辺に眠っている弥生時代前期から中世にわたる遺跡で、道の駅構内に説明板などがある。竹野川河口右岸にあり、古代には、神明山古墳直下まで港(潟港)が入り込み、資材運搬や大陸との交易が行なわれたと思われる。石斧、石錘、黒曜石製石器、弥生土器、土師器、須恵器、鎌倉時代の鏡などが出土している。 | ||
真新しい説明版が道の駅にある。 | 竹野川(たかのがわ)右岸の竹野遺跡(道の駅内) | |
枡塚古墳 (ますづかこふん) 京丹後市丹後町筆石 | ||
古墳時代中期中頃(5世紀中頃)築造の方墳。現存する墳丘は一辺約20m、高さ約4mを測る。平成元年の範囲調査では、古墳の周りに周溝があり外周は一辺約40m、幅約7.5×深さ0.8mであることがわかった。周溝の内側に古墳の基底線を求めると、当古墳の規模は一辺約25mと推定される。調査中に、黒班のある円筒埴輪の破片が採取された。 | ||
竹野川河口から東へ1.5kmの海岸段丘上に忽然とある。 | 日本海を望み、地方色豊かな癒される古墳。 この辺りの海岸段丘上には古くから人が住み着いた。古墳も多い。 |
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大成古墳群 (おおなるこふんぐん) 京丹後市丹後町竹野小字大成745 | ||
古墳時代後期(6世紀末~7世紀初)の古墳群。13基ある古墳の中で3基の古墳が調査されている。いずれも墳丘は無くなっているが、横穴式石室は、この周辺の柱状節理の火山岩を上手く利用している。石室内から、須恵器・土師器、刀剣、鉄鏃、碧玉製管玉、メノウ製勾玉、ガラス小玉、金環などが出土している。 | ||
立岩は、玄武岩・安山岩の柱状節理よりなる。 麻呂子親王が鬼退治した時、 逃げた鬼を立岩に封じ込めたとの伝説がある。 大成古墳群のある崖上から竹野海岸線と立岩を見る |
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大成古墳群は竹野漁港の西の崖上にある。現在は国道178号線により寸断されているが、産土山古墳のある丘陵の北端に位置する。 | ||
大成9号墳(無袖式横穴石室;全長10m) | 大成9号墳の石室を上部から見る | |
大成8号墳(両袖式横穴石室;全長8.7m) 蓋石は無くなっている。 | 大成7号墳(片袖式横穴石室;全長9m) | |
産土山古墳 (うぶすなやまこふん) (国史跡) 京丹後市丹後町竹野 | ||
古墳時代中期半ば(5世紀中頃)築造の直径56m、高さ9mの円墳。主体部は長持形石棺が墳頂中央部の土中に埋納されている。棺の内外から多くの副葬品が発見された。鏡、玉、刀剣類、甲冑、木弓、堅櫛などが原位置を保った状態で発見された。埴製枕の上面に被葬者の頭髪が残存していた。段築、葺石、埴輪をともなう。長持形石棺は、地元の素材を使っている。 | ||
階段を登り切った辺りから円墳の形で古墳上部が残っている。 | ||
丘陵の頂部に円墳の墳頂がある 長持形石棺は埋め戻されていて、その上に小屋が建ち、祠が二つ納められている。 | 東側の小学校校庭から、円墳の全体の姿が見える。 |
離湖古墳 (はなれここふん) 京丹後市網野町小浜離山908-3 | ||
古墳時代中期の不整形な方墳。南北43m、東西34m、高さ6.4mを測る。墳丘裾に朝顔形埴輪、円筒埴輪を置く。墳頂部に二つの埋葬施設があり、長持形石棺と箱型木棺を直接埋葬している。第1主体部(南側)は盗掘にあい、長持形石棺の底石と副葬品の一部だけが残っていた。底石は2.4m×(1.11m~0.93m)×厚さ(15~16cm)で、縄掛突起を含み全長2.75mとなる。副葬品は殆ど持ち去られ、わずかに鉄刀、鉄斧、刀子、鉄鏃、三角板鋲留短甲等の破片が残っていた。第2主体部の箱型木棺は、4.88m×(0.7m~0.8m)の棺で、三区画に分け、遺体は、中央に石棺と同じ方向(南東)に頭を向けて埋葬している。副葬品は頭部附近右側から銅釧2、石釧1、勾玉1が、左側から鏡1、堅櫛1、勾玉・管玉・ガラス小玉が多数出土した。東側区画から堅櫛1、西側区画から鉄刀1、鉄剣1、棺外から鉄鉾1、鉄鏃3が出土した。(平成5年、網野町教育委員会) | ||
離湖 網野町市街地東にある府下最大の淡水湖。かつては日本海とつながっていたが、砂州・砂丘の成長で隔絶され潟湖となったもの。水はけが悪く、離湖古墳がある島は孤立したこともある。縄文早期の遺物も発見される。湖底には淡水貝、湖岸にはヤナギ、冬季にはカモ、白鳥の飛来がある。 |
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埋葬施設のある墳頂は一段と高くなっている。 | 小屋の中に長持形石棺の底石が納められ、第1主体部がその前に、更に手前に第2主体部が、石を並べた枠で示されている。 | |
長持形石棺の底石 側辺をはめ込む溝が四方向にある。長側石が短側石をはさむ形で掘り込まれている。幅に長短があり、広い南東側を頭にして遺体を埋葬したと考えられている。 | 南側下から見上げた離湖古墳 |
網野銚子山古墳 (あみのちょうしやまこふん) (国史跡) | |||||
古墳時代前期末(4世紀末~5世紀初)築造の前方後円墳。全長198m、後円部径115m(高さ16m)、前方部幅80m(高さ12m)とされる。3段構成で葺石が施され、各段に丹後型円筒埴輪が並べられていたとされる。埋葬施設は未調査。網野銚子山古墳、神明山古墳、蛭子山古墳が丹後の三大古墳で王権がその順番に移動したと考えられている。 | |||||
(*黒部銚子山の京丹後市教育委員会の説明板より) | 国道178号線から入るには、家の屋根の高さにある標識が目安なのだが、離湖から来ると、裏側を見ることになるので分り難い。古墳の周りを遠巻きに一周した後に、GSで丁寧に教えてもらう。丹後一の古墳だと誇らしげだった。狭い道を墓場を通り抜け、前方部の先端に辿り着く。 | ||||
前方部の先端から登り口がある。この対面に、”皺榎”と名付けられた大木がある。浦島太郎が竜宮より帰り玉手箱を開けると、老人になったので、顔の皺をこの木に投げつけたという伝説の木である。なるほど、大木はしわしわの樹皮で覆われている。 | 階段を登ると長い遊歩道が後円部に続く。全部が前方部らしい。あまりの平坦な道に疑ったが、階段登り口に、前方部の先端となる葺石が見つかったという。墳丘自体は変形されているようだ。 | ||||
後円部への登り | 墳頂も広い。さらにこの奥(南)下に陪塚もあるようだが、確認できなかった。 | ||||
墳頂より北側の展望 網野市街の向こうに日本海 | |||||
この墳頂の広さは、測量図からしても均されたものだろう。 | 墳頂から東下を見ると、長閑な田園風景に紅葉が映える | ||||
墳丘下に降りて南側に廻ると、整然とした網野銚子山古墳の雄姿が一望できる。 | |||||
ニゴレ古墳 京都府京丹後市弥栄町鳥取ニゴレ | |||||
古墳時代中期築造の不整形墳。全長は20m。離湖近くの丘陵先端部に位置する。地山を削り出したもの。北側の丘陵との切り離し溝に、幅0.8~1.7m間隔で13本の埴輪列があったが、葺石、段築は認められていない。墳頂部ほぼ中央で割竹型木棺を検出した。木棺内は、遺骸を東枕で埋葬し、頭部に鉄製甲冑(完形)、左側に剣、足元に鉄鏃束が副葬されていた。墳丘上では甲冑・船・椅子・家などの形象埴輪が採取されている。畿内の専門工人が関与していたと見られる。弥栄町では、先行する「奈良岡北1号墳」という朝鮮半島との関係を強くうかがわせる古墳もあり、金工技術の伝来の可能性が最近の調査で指摘されている。(弥栄町教育委員会) 弥栄町(やさかまち)は、平成16年に丹後町、網野町、峰山町、大宮町および久美浜町と合併して京丹後市となった。古い町名の方が考古学的地図が描けて都合が良い。産土山古墳(丹後町)、離湖古墳(網野町)とともに丹後の古墳時代中期の代表古墳とする。 |
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最上段写真 ①調査当時のニゴレ古墳 左段写真 ②埴輪出土状況 ⑤椅子形埴輪 ⑥甲冑形埴輪 右段写真 ③船形埴輪出土状況 ④船形埴輪 ⑦鉄製甲冑 冑・しころ ⑧鉄製甲冑 短甲 前胴 |
墳丘は本来の形から破壊されている。右が北側 |
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墳頂① | 墳頂② | ||||
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遠處遺跡 (えんじょいせき) 京都府京丹後市弥栄町 | |||||
5世紀末頃から13世紀頃まで長期間にわたり使用された鍛冶工房跡。製鉄炉、鍛冶炉、炭窯・須恵器窯・竪穴式住居・掘立建物跡などが検出されている。古墳時代後期の鍛冶も確認されているが、奈良時代後半では原料(砂跌)ー製鉄ー精錬ー鍛錬ー製品までの一貫した生産体制が集約されている。 | |||||
上写真;遺跡復元イラスト図 中写真;B地区全景 下写真;竪穴式住居跡、炭窯発掘状況 |
遠處遺跡全景 |
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鍛冶工房跡 | |||||
丹後半島の古墳 1 | 但馬の古墳 |