但馬の古墳 (兵庫県・京都府)
箕谷古墳群茶すり山古墳朝来市埋蔵文化財センター私市丸山古墳
(朝来市、福知山市)
(2010.11.26 遺跡・古墳・資料館を巡る旅の記録

     令制国(左図)の成立する以前(古代)には、丹後・丹波・但馬一帯が、丹波(たには)国であった。

このページでは、令制で但馬国に分割された地域である朝来近辺(下のGoogle地図の下方地域)の古墳を訪ね、”古代あさご館”で、平成22年度企画展「但馬の王墓を巡る旅」を観る。

弥生終末期から古墳前期に、但馬北部(豊岡)では方形墓が築かれ、古墳時代中期になって但馬南部(朝来)に大首長墓(池田古墳、茶すり山古墳)が現われた。 

          たんご鉄道・木津温泉駅
駅近くに静かな”木津温泉”、海岸沿にやや賑やかな”夕日ケ浦温泉”があり、丹後半島唯一の貝塚(縄文後期)である浜詰遺跡がある。
国道178号線を久美浜へ。兜山公園から久美浜湾を見る
久美浜湾は三方を山に囲まれた気水湖。
久美浜港から北を見る。右が兜山(192m)
豊岡に出て、円山川に沿って南下する。
箕谷古墳群 (みいだにこふんぐん) (国史蹟)   兵庫県養父市八鹿町小山
箕谷古墳群は7世紀初頭から中頃にかけて築かれた横穴式石室4基からなる古墳群である。
2号墳は径14mの円墳、3号墳は径13mの円墳で、斜面の高い側に溝を掘って墳丘を画す。埋葬施設は、無袖式の横穴式石室で、2号墳が長さ8.6m×幅1.2m、3号墳が長さ9.2m×幅1.2mである。2号墳からは、「戊辰年五月(中)」と銅象嵌された銘文入りの大刀(刀身68.8cm、推定長77cm前後の圭頭系)が発見された。戊辰年は西暦608年(推古天皇16年)と推定されている。(兵庫県教育委員会) 昭和58年より発掘調査し、平成5年に史蹟保存整備された。
(兵庫県教育委員会の説明板)           (古墳公園内に説明石板がある)
(写真上)箕谷3号墳は列石を積上げた特徴ある円墳
(写真下)箕谷2号墳からは戊辰年銘大刀が出土した。金具などから、奈良・飛鳥地方で作られたと推定される。
 
箕谷古墳群は、八鹿町”つるぎが丘公園”の最奥にある。
出土品は体育館の一室にあるが、戊辰銘大刀はない。
発掘現場は古墳公園として保存されている。保存されている古墳は、2号墳、3号墳のほか、4号墳(7mΦ)と5号墳(6mΦ)の円墳。出土須恵器による年代推定では、古墳は西暦620年頃から順次築造されたと見られる。
箕谷2号墳の石室入口(南面している) 箕谷2号墳の玄室内の出土品配置
箕谷3号墳の石室入口(玄室は埋められている) 箕谷3号墳の後方から
和田山歴史資料館  兵庫県朝来市和田山町寺内123
和田山歴史資料館は休館(?)   考古資料の一部は、保存施設の関係から”古代あさご館”にうつされているらしい。 館の前に、「古墳園」があり、池田古墳が縮小復元され、秋葉山古墳群出土の石棺、万葉集に歌われる草花などが屋外展示されている。
但馬最大の古墳・池田古墳の説明板 縮小して復元された池田古墳

茶すり山古墳 兵庫県朝来市和田山町筒江  (国史跡)
古墳時代中期前葉(5世紀前半)の築造。直径91m、高さ約18mで二段に構成された円墳。近畿最大規模の円墳とされる。墳頂は東西約36m、南北約30mの広い平坦面を有し、墳頂と段築平坦面に円筒埴輪や朝顔形埴輪が並べられている。墳丘斜面には葺石が施されている。墳頂に二つの埋葬施設(主体部)があり、第1主体部の巨大木棺(長さ8.7m)から副葬品として、刀剣49本、槍鉾34本、鉄鏃389本、甲冑、盾、4面の鏡、装身具が出土した。出土遺物は朝来市埋蔵文化センターで保管・展示されている。平成13・14年度、平成17年度の発掘調査され、現在は古墳公園として復元整備され保存されている。
説明板は、東西の入口にある。 「茶すり山古墳学習館」が附属しており、茶すり山古墳の説明・ビデオがあり、自由に利用できる。後方は、北近畿豊岡自動車道路(現在、舞鶴若狭自動車道・春日IC/JCTから和田山IC/JCTまで開通)。
西南側(学習館側)から見た茶すり山古墳 墳頂から西方向(自動車道・和田山IC方向)を見る。
墳頂から東方向(自動車道・山東PA(古代あさご館)方向)を見る。
第1主体部は覆屋をかけてレプリカで再現。その左(北側)に第2主体部(陶板で平面展示)。発掘時には、第1主体部の棺上には、3棟分の家型埴輪が置かれていた。 巨大木棺は3つの区画に分け、中央に人物が埋葬(東枕)されている。
礫の敷かれた中央区画と東西に区画がある。
西区画(武器類)が異常に大きく、巨大木棺の半分を占めている。
(東区画:頭部より上の区画) 鉄鏃・鉄剣・農工具と甲・冑 (中央区画①;頭部) 鏡三面と鉄刀・鉄剣 中央が人の埋葬位置
玉砂利が敷かれ、被葬者の頭部(鏡に近い)には水銀朱。
(中央区画②;足部)) 鉄刀・鉄剣と鉄鏃・鉄鉾・鉄槍・鉄刀 (西-1区画;足部より下の区画①) 鉄鏃・鉄鉾・鉄槍・鉄刀
(西ー1区画;足部より下の区画②) 鉄鏃と盾 (西ー2区画;足部より下の区画③) 盾の一部が残る
こちらも3つの区画に分れているが、バランスが良い。中央に人物(東枕)を埋葬、鏡が副葬されている。両側の区画には、鉄製の鋏先・斧・のみなどの農工具が納められていた。 第2主体部は、写真合成した陶板で示されている。木棺跡や鏡位置などが分る。発掘された状態が分る上手い展示だ。
葺石は、斜面の中ほどから上に全面的に葺かれていた。 復元は完全に葺石を貼るのでなく、葺石の状態を見せている。
この地域の先行する古墳としては、前方後円墳の池田古墳がある。
茶すり山古墳は、自然の山を利用した巨大円墳で、武器・武具の副葬が多いことから、武力により治めた王の墓と考えられている。
東南側から見た茶すり山古墳(こちらにも入口がある)

朝来市埋蔵文化財センター 「古代あさご館」  兵庫県朝来市山東町大月91番2         
「古代あさご館」は、北近畿豊岡自動車道・山東PA(道の駅但馬のまほろば)に、平成18年7月にオープンした。上下線、一般道からも利用できるが、自動車道と一般道は隔離されていて出入は出来ない。茶すり山古墳からは一般道を利用した。自動車道建設に伴い、茶すり山古墳を発掘調査し、朝来市埋蔵文化センターをPAに建設し、出土品の保存・整理・展示を行なっている。但馬の古代を知る上で欠かせないセンターとなっている。平成22年度企画展 「但馬の王墓を巡る旅」が催されていた。(平成22年11月6日~平成23年1月30日) 展示品の撮影可だったので、その一部を記録した。
館入口には、大和の大王や有力首長だけが用いた竜山石製の長持形石棺が展示されている。その素材の竜山石(流紋岩質溶結凝灰石)は、近隣の兵庫県高砂市から加西市周辺で産出し運ばれたものである。但馬にも朝来市和田町と豊岡市出石町に長持形石棺の破片が残されているが、この石棺が納められた古墳は明らかになっていない。朝来市の池田古墳がもっとも相応しいと期待されているが、石棺の出土はない。
弥生時代中期の仲田遺跡から出土した分銅形土製品
(左図の塗りつぶし部分:模様が入っている)
弥生時代後期の梅田東18号墓から出土した
ガラス製小玉とガラス製管玉
「平成22年度企画展 但馬の王墓を巡る旅」では以下の古墳についての説明と展示があった。
古墳名 墳形と副葬された鏡 地域
小見塚古墳 前期 墳形不明。三角縁神獣鏡2面と中国鏡1面 豊岡
森尾古墳 前期 墳形不明。三角縁神獣鏡2面と方格規矩鏡(全て中国製) 豊岡
入佐山3号墳 前期 36m×23mの方形墳。方銘四獣鏡 豊岡
深谷1号墳 前期 21m×19mの方形墳。内行花文鏡(中国製) 豊岡
城ノ山古墳 前期 直径約36m円墳。三角縁神獣鏡3面と3面の鏡(全て中国製) 朝来
若水古墳 前期 直径約41mの円墳。飛禽鏡(中国製)と内行花文鏡 朝来
馬場19号墳 前期 墳形不明。方格規矩鏡(中国製) 朝来
池田古墳 中期 全長141mの前方後円墳。 朝来
茶すり山古墳 中期 直径約90mの円墳。4面の鏡 朝来
雲部車塚古墳 中期 全長158mの前方後円墳。 篠山
玉丘古墳群 中期 全長109mの前方後円墳。 加西
壇場山古墳 中期 全長143mの前方後円墳。 姫路
興味深い展示を以下に示す
入佐山3号墳 古墳前期
方銘四獣鏡(ほうめいしじゅうきょう)、鉄刀、鉄剣、鉄鏃
              城ノ山古墳 古墳前期
三角縁神獣鏡(さんかくふちしんじゅうきょう)(重文)、ほかに合子、琴柱形石製品(写真上部右)、石釧、鉄剣、ヤリガンナの展示があった。
 
古墳時代中期になり王墓の風格をもつ池田古墳(全長141m)が出現した。
発掘調査により、造出し(写真右下部)と渡土堤が発見された。
池田古墳では、東側と西側とで異なった祭祀を行なっている事が注目される。東側の渡土堤から墳丘裾部にかけて水鳥形埴輪15体が出土したが、西側では水鳥形埴輪は全く見られず、ミニチュア土器や土製品が確認された。
池田古墳につづいて、直径約90mの茶すり山古墳が築かれた。 出土した甲冑(長方板皮綴短甲)と蛇行剣、鉄刀の複製品が展示されていた。

茶すり山古墳の後を継いだのは、全長約91mの前方後円墳の船宮古墳(桑市)と考えられている。
池田古墳 古墳中期
水鳥形埴輪、家形埴輪などの出土品
クワンス塚古墳 古墳中期 
鶏形埴輪 (母鶏のそばにヒナがいる)
   
飛禽鏡(ひきんきょう)*
古墳前期、若水古墳
   内行花文鏡(ないこうかもんきょう)
古墳前期、向山2号墳
内行花文鏡(ないこうかもんきょう)
古墳前期、若水古墳
  方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)
古墳前期、馬場19号墳
 

珠文鏡(しゅもんきょう)
古墳中期、東南山2号墳
    内行花文鏡(ないこうかもんきょう)
古墳中期、筒江中山23号墳

* 飛禽鏡については、国内発掘調査で出土したのは12例に過ぎず、出土地点もまばらで、ヤマトが同盟関係の証として地方に分配した鏡とは性質が異なり、大陸との直接交流の中で但馬にやってきたものと強調されていた。

馬具(杏葉、辻金具、鏡板)
古墳後期、春日古墳
  馬具(鏡板、雲珠、辻金具、杏葉)
古墳後期、三町田古墳

私市丸山古墳 (きさいちまるやまこふん) (国史跡) 京都府綾部市私市町丸山8-2
古墳時代中期の築造。直径約70m、高さ約10mの三段構成の円墳で、方形の造出しを備える。約6万個の川原石を用いて、葺石が施され、千本余りの埴輪(円筒埴輪と朝顔形埴輪)で三重に囲まれていた。副葬品は、第1主体部に、鏡、胡籙(ころく)、鉄剣2振、鎧・兜、鏃、第2主体部に、鉄刀、鏃、玉類、農工具など。第1主体部出土の胡籙は、ベルト付き矢袋で大変珍しいもの。出土品は綾部市資料館で展示されている。昭和63年(1988)に私市丸山古墳は発見され、建設中の舞鶴自動車道はトンネル工法に変更された。平成5年(1994)に古墳公園としての整備が完成した。
南側と北側に古墳への入口がある。 南側にある入口(登り口)広場から見上げる私市丸山古墳
薄暗くなってきたので、北側の自動車道を登る。今年は、古墳を訪ねると、「熊注意!」が多かった。 北側入口は、古墳の真下にある。
 
発掘状況、出土品などを示す写真入レリーフ。、主体部に眠る二人の王は、由良川流域を治めていたと考えられている。
第1主体部  鏡、胡籙、鉄剣2振、鎧・兜、鏃などを副葬。 東側から見る 第2主体部  鉄刀、鏃、玉類、農工具などを副葬。 西側から見る
舞鶴自動車道を吉川JCTから来ると、古墳をトンネルで通り抜ける。何年か前に舞鶴に向っていた時に、初めて埴輪が林立し葺石が貼られた姿を見てびっくりした事を思い出す。 眼下の舞鶴自動車道は舞鶴・宮津に向う。
祭祀空間である造出しは南東方向に張り出されている。 造出しから見た私市丸山古墳の姿
これで、丹後半島・但馬の古墳を見て歩く旅は終わった。見足りない所は多いが、ヤマト王権・日本国が成立する過程での丹波(たには)について色々学んだ。

丹波(たには)の日本海側(北部)と内陸部側(南部)との関係は、それが丹波の王権交代なのか、もっと広い意味での文化の違いなのかは判然としないが、その発展の様相はかなり異なっている。
今回の旅の中心となったのは丹後半島であったが、関連する但馬、摂津、播磨については、改めて見る必要があろう。


綾部ICから舞鶴自動車道を小浜(福井県)へ向い、引き続き若狭の古墳を見る。

舞鶴若狭自動車道(舞鶴東辺りの山間)

丹後半島の古墳2へ