ー美濃・大和を周回 6.2ー
  奈良盆地の幾つかの古墳 (奈良県)
馬見丘陵、奈良坂で

馬見丘陵 うまみきゅうりょう
奈良県北西部にある比高20〜30mの洪積丘陵で、北は大和川、東は高田川、西は葛下(かつげ)川に限られた南北約7.5kmの楕円形の範囲をいう。大和平野の中心にあり、自然が豊かで、農耕にも適し、先史時代より人の住みついた跡がある。馬見丘陵には多くの大型古墳が集中するが、馬見古墳群としては三つの領域に分れる。すなわち、新山古墳などを含めての南部、巣山古墳・新木山古墳を含める中央部、川合大塚山古墳(5世紀中頃;全長215m)のある北部に分れる。ここでは、南部と中央部の代表的な古墳を巡る。
新山古墳  しんやまこふん 奈良県北葛城郡広陵町大塚  陵墓参考地
古墳時代前期初頭・4世紀前半に築造の前方後方墳。全長約126m、後方部幅約67m(高さ約10m)、前方部幅約66mで、竪穴式石室と組合せ式石棺をもつ。明治18年に直弧文鏡、三角縁神獣鏡、小形内行花文鏡を含む銅鏡34面、中国製金銅製帯金具、車輪石、石釧などが石室より出土した。直弧文鏡、三角縁仏像獣鏡、ダ龍鏡、三角縁四神四獣鏡、三角縁三神三獣鏡(舶載鏡と?製鏡)については、東京国立博物館で見ることが出来た。
大塚陵墓参考地の立札があり、金網で入山は遮断されている。
奈良盆地に大型の前方後円墳が築かれていた古墳時代前期に、馬見丘陵の南端に築かれた大型前方後方墳である。豪華な出土品、特に直弧文鏡、三角縁神獣鏡、小形内行花文鏡などの多数の鏡が出土していることは興味深い。陵墓参考地なので、築造環境と位置確認をするだけで、墳丘形状は木々の茂り方から想像するしかない。
古墳時代前期に、奈良盆地に最初に大型古墳が出現するのは、東南部の箸墓古墳・西殿塚古墳・中山大塚古墳であり、次に桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳がつづく。桜井茶臼山古墳などと同じ時期に、奈良盆地の他の場所に唯一出現した大型古墳が、馬見丘陵南部に築かれた新山古墳である。馬見丘陵は大阪・穴虫越(現在の国道165号)で二上山の北麓を難波・大阪湾に通じる道として早くから(南麓を越える竹内街道より早い)重要であった。その交通重要地点に、真先に大型古墳(しかも前方後方墳)が営まれたことは興味深い。
新木山古墳 にきやまこふん 奈良県北葛城郡広陵町大字赤部字新木山  陵墓参考地

古墳時代中期前半・5世紀前半に築造の前方後円墳。全長200m、後円部径117m(高さ19m)、前方部幅118m(高さ17m)で、広陵町教育委員会による1987年と88年の外堤発掘調査により円筒埴輪が出土している。前方部を西に向ける。
馬見丘陵の中央部にある多くの古墳では、巣山古墳とともに盟主的な存在である。
             
南側から見た新木山古墳
巣山古墳 すやまこふん 奈良県北葛城郡広陵町大字三吉元斉音寺  特別史跡
古墳時代前期から中期・4世紀末から5世紀初めに築造された前方後円墳。全長204m、後円部径110m(高さ25m)、前方部幅94m(高さ21m)、後円部頂上は径45mの平坦面となっている。前方部を北に向ける。後円部主軸に平行して二基の竪穴式石室があり、明治年間に盗掘に遭っている。前方部の先端にも方形壇状の施設があり、竪穴式石室のような施設があったとみられている。盾形の周濠があり、両側のくびれ部に方形の造出しがある。造出しからは、滑石製刀子、籠形土器が出土している。

馬見丘陵(巣山古墳)

  西側の馬見丘陵公園から見た巣山古墳。左が前方部、右が後円部


馬見公園を南北に突っ切る国道132号から巣山古墳に入る道があったが、金網には鍵がかかっている。後円部と右に周濠の水面が見える。
佐味田狐塚古墳 さみたきつねづかこふん  奈良県北葛城郡川合町佐味田
古墳時代前期・4世紀に築造された帆立貝式古墳。全長86m、後円部径66m(高さ7m)、前方部長さ20m、前方部幅25.5m(高さ5m)。後円部に馬蹄形周濠をもつ。馬見丘陵公園・東側にあり、前方部は道路で寸断され削平されている。馬見丘陵公園は「かぐや姫の里」として子供連れで賑わっていた。

巣山古墳と道路を挟んだ佐味田狐塚古墳

 道路を横切った場所から北側を見る。墳丘が後円部?

 墳頂から北を見る。森に見える所に、乙女山古墳など

馬味公園の西側には二上山が見える

佐味田狐塚古墳の墳丘
牧野古墳 ばくやこふん 奈良県北葛城郡広陵町大字三吉字バクヤ   国史跡
古墳時代後期末葉・6世紀後半〜6世紀末に築造された直径55m(高さ13m)の円墳。三段に構成されている。石室の全長は17.1m、玄室長さ6.7m・幅3.3m・高さ4.5m、羨道長さ10.7m・幅1.8m・高さ2.2m。玄室に刳抜き式と組合せ式の家形石棺が安置されている。石室内は盗掘に遭っているが、金銅製馬具(木心鉄地金銅張の壺鐙、緑金具のある障泥(あおり)、心葉形の鏡板と杏葉など)、武器(銀装の大刀、約400本の鉄鏃)、装飾品(金環、玉類)、土器(木心の金銅製容器と総数58点の須恵器)などの副葬品が残っていた。終末期の大円墳であること、副葬品の豪華さ、石室の大きさなどを見ても、敏達天皇の皇子で舒明天皇の父である押坂彦人大兄皇子の墓である可能性が高いとされる。
主入口は南西角近くにあり、すぐ右上に牧野古墳がある。 道路からの主入口。右後方に古墳。
古墳に近づく。後方が墳丘。 南に面して横穴式石室がある。巨大な石室で有名。石室内は、事前に広陵町教育委員会に申し込めば見学可らしい。
石室正面から 石室の模様図。手前に組合せ式家形石棺が、奥に刳抜き式家形石棺が直角に安置されている。
牧野古墳を右に巻いて、牧野史蹟公園の中を北側に散策する。 北側の広場に、「伝 文代山古墳石棺」が置いてある。 文代山古墳は、寺戸方形墳とも呼ばれ、5世紀後半の大方形墳で周濠・外堤がある。この石片は、池の橋に利用・放置されていたもので、文代山古墳の長持形石棺の底石と見られている。
佐味田宝塚古墳 さみたたからづかこふん  奈良県北葛城郡河合町佐味田  国史跡
古墳時代前期末から中期初頭・4世紀末から5世紀初頭に築造された前方後円墳。全長111.5m、後円部径約60m、前方部幅40m、前方部を北東に向ける。明治14年に約36面の銅鏡が出土した。中でも、22.9Φの家屋文鏡(かおくもんきょう)と神人車馬画像鏡が有名である。1985年度から範囲確認調査がなされ、墳丘の裾から円筒埴輪列が出土した。

葛城台から金網越に見る佐味田の丘陵。この辺りが古墳のある所
神人車馬画像鏡、斜縁二神二獣鏡(舶載鏡)、変形方格規矩四神(獣文)鏡は、東京国立博物館で見ることができた。

丘陵の東側に真美ケ丘ニュータウンがあり、こちら側(撮影地点)は葛城台ニュータウンである。大阪への通勤圏であるので、古墳のある丘陵近くまでニュータウンが東と西から押し寄せたようだ。

帰って調べると、この丘陵を境にして東側が佐味田となっていて、葛城台の北東にある”ほのぼの公園”から東側に廻りこむ道があり、古墳への入口があるようだ。葛城台で何人かの人に尋ねたり、東側に回ったりしていたが、結局今一歩で辿り着けず、断念した。

奈良坂で
ヤマトの最終訪問先は、奈良坂の元正・元明天皇陵(疑いもある)とした。平城山(ならやま)の東端で、佐紀盾列古墳群にすぐ近いが、奈良時代の陵墓である。
元正天皇奈保山西陵 奈良県奈良市奈良坂町  陵墓 元明天皇奈保山東陵 奈良県奈良市奈良坂町  陵墓
    元正天皇(680−748) 第44代天皇(在位:715−724)
草壁皇子・元明皇后の子。草壁皇子は天武天皇・持統天皇の子。即位前の名は、氷高皇女(ひたかのひめみこ)。
    元明天皇(661−721) 第43代天皇(在位:707−715)
天智天皇の第4皇女。草壁皇子の正妃。持統天皇とは父方の異母姉妹であるが、姑にもなる。即位前の名は、安陪皇女(あへのひめみこ)。
草壁皇子・元明天皇の長男が軽皇子(第42代・文武天皇)、姉が氷高皇女(元正天皇)であり、文武天皇・宮子(藤原不比等の娘)の第一皇子が首(おびと)皇子(第45代・聖武天皇在位:724−749))である。

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