ー美濃・大和を周回 6.1ー
  奈良盆地の幾つかの古墳 (奈良県)
平城遷都1300年祭、佐紀丘陵を歩く、橿原から葛城、
これまでに、飛鳥・奈良の旅(05.03)、三輪山西麓の古墳群(05.12)、百舌鳥・古市古墳群(07.01)、三輪山と纒向遺跡(07.10)、唐古・鍵遺跡(07.11)、桜井茶臼山古墳の現地説明会(09.11)などで、奈良盆地内の遺跡・古墳について見学する機会があった。

ヤマト王権の大王墓(陵墓)は、前期の三輪山麓「大和・柳本古墳群(おおやまとやなぎもとこふんぐん)」から前期末の「佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)・馬見古墳群(うまみこふんぐん)」へ、中期には一度奈良盆地を出て、「百舌・古市古墳群(もずふるいちこふんぐん)」へ、後期には「近つ飛鳥、飛鳥」に戻ってきて古墳時代の終焉を迎える。

ここでは、佐紀丘陵(平城山)を歩くこと、馬見丘陵中央部の幾つかの古墳、真の欽明陵とされる見瀬丸山古墳、葛城襲津彦の墓とされる宮山古墳などの見学をする。

遺跡・古墳を巡っていると、色々な保存状態に出合う。陵墓や陵墓参考地は、一切立ち入る事は許されないので、古墳の周囲を歩き回り、その大きさとか見える範囲でその形を想像するしかない。古墳周りの航空写真を見ると、墳丘長200m級の大型古墳も、周濠も含めてその形状を直感的に知る事が出来る。最近では、Google Mapの航空写真を利用する事が出来る。

平城遷都1300年祭
奈良時代の前半、和銅3年(710)に平城遷都(第一次)が行なわれた。2010年は、1300年後に当たり、奈良県あげて平城遷都1300年祭を祝っている。平城宮は、先の藤原宮の大極殿を移築し、前面に塼(せん=レンガ)を積み上げた擁壁を造成して長安城大明宮舎元殿になぞらえたものという。海外(中国・朝鮮)との交流とその情勢の緊迫化への対応が、国としての存立の意義となった時代背景がある。天智・天武期より整理された万世一系の天皇制確立を意識して、政治・経済・外交だけでなく、文化・芸術・宗教に関しても一元化を目指した時代である。
朱雀門を入り、近鉄奈良線を踏切で渡ると、第一次朝堂院跡の広場に出る。広場を横切り、南門から第一次大極殿の前庭に入る。
後方の小高い丘陵が、平城(なら)山・佐紀丘陵
  
遣唐使船は朱雀門西側の平城京歴史館前に展示されている。619年隋が滅び唐が立ち、それまでの遣隋使に代わり、遣唐使が894年まで派遣された。舒明2年(630)の第1次遣唐使派遣から、養老元年(718)の安陪仲麻呂・吉備真備、大同元年(806)の最澄、空海の派遣など20次に及んだ。第20次・寛平6年(894)、菅原道真(大使)は、唐情勢の悪化による派遣中止を建議し、907年唐滅亡によりその役を終えた。       第一次大極殿
元日朝貢、即位式、外国使節謁見などに用いる儀式空間である。正確には和銅3年には間に合わず、霊亀年間(715~717)になってから完成した。第一次大極殿は、藤原宮からの移築で、恭仁宮遷都で南山城に移築され、最終的には山城国分寺として利用された。発掘調査による基壇や恭仁宮の大極殿(国分寺金堂)の礎石などより推定され復原された。
大極殿内には、高御座(たかみくら)の実物大模型が置かれ、内壁・天井近くに四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)が描かれている。

佐紀丘陵を歩く
佐紀古墳群(佐紀盾列古墳群)は、平城山(ならやま)に築かれた大型古墳の総称である。今回訪れたのは、平城京裏(北側)の範囲であるが、さらに西北の五社神古墳(ごきしこふん・現神功皇后陵、墳長270m)と西南の宝来山古墳(現垂仁陵、墳長227m)が加わる。これら大型古墳は、陵墓または陵墓参考地であるので、確実なデータがない場合が多く、築造時期・被埋葬者を正確に断定することは難しい。考古学的な編年では、宝来山古墳→佐紀陵山古墳→佐紀石塚山古墳→五社神古墳の順に、4世紀代に造営されたとするのが妥当とされる。これらが全て大王墓であるかどうかは疑問が残っており、4世紀後半には馬見古墳群の巣山古墳(220m)、川西町島の山古墳(約200m)、河内・古市古墳群の津堂城山古墳(208m)などがあり、佐紀古墳群の全てが王墓であるかどうかは疑わしい。だだし、3世紀中葉に大和・柳本古墳群にあった大王墓が佐紀古墳群を経て、5世紀には百舌・古市古墳群に移動したことは確実とされる。(参考:白石太一郎:近畿の古墳と古代史、学生社、2007.5)
ウワナベ古墳 奈良市法華寺町  陵墓参考地
古墳時代中期中頃・5世紀中頃に築造の前方後円墳。全長205.4m、後円部径128m(高さ19.8m)、前方部幅128.5m(高さ16m)。円筒埴輪出土。陵墓参考地。
(ウワナベ古墳)法華寺から航空自衛隊に向かい、門の前を東に向うと、ウワナベ古墳、左に行くと、コナベから磐之媛陵へ行ける。 (ウワナベ古墳)前方部西角から
前方部は南(写真右辺)になる

              佐紀丘陵図(平城山)
コナベ古墳 奈良市法華寺町   陵墓参考地
古墳時代中期前葉・5世紀前半に築造の前方後円墳。全長204m、後円部径125m(高さ20m)、前方部幅129m(高さ17.5m)。円筒埴輪出土、葺石を確認。陵墓参考地。

(コナベ古墳)磐之媛陵に向い、コナベ古墳の前方部を左側に見ながら後円部へと半周する。(前方部は南(左端の辺)
ヒシアゲ古墳(磐之媛陵)  奈良市佐紀町   陵墓
古墳時代中期中頃~後半・5世紀中頃~後半に築造の前方後円墳。全長219m、後円部径124m(高さ16.2m)、前方部幅145m(高さ13.6m)。陵墓:磐之媛命(いわのひめのみこと)平城坂上陵(ならのさかのうえのみささぎ)。
(磐之媛陵)前方部前面(南)を歩く。右に落葉の浮いた周濠があり、墳丘はその奥にある。 (磐之媛陵)前方部前面の拝所(陵墓は前方部前面に拝所を置く)。磐之媛命は、葛城襲津彦の娘で、仁徳天皇の正妃で、履中・反正・允恭天皇の母。

ヒシアゲ古墳より、水上池を左に見て南へ歩く。平城京北側に市庭古墳(平城天皇陵)がある。
市庭古墳(平城天皇陵)いちにわこふん 
                奈良市佐紀町字二ジ山   陵墓
市庭古墳は、平城京を造営時に前方後円墳が取り壊され円墳になった事が判明した。当初は、古墳時代中期初め築造の前方後円墳で、全長235m、後円部径150m、前方部幅160mで、くびれ部両側に造り出しがあり、盾形周濠があった。平城天皇(774-824)の墓所とするのには無理があるとされる。
(平城陵)
平城遷都1300年祭で賑わう平城京跡を南に見て、佐紀神社に向う。佐紀神社は古社と新社の二つがある。北に向う。釣殿神社を過ぎ、溜池を過ぎ直進すると瓢箪山古墳に出る。
箪山古墳 ひょうたんやまこふん  奈良県奈良市佐紀町衛門戸3071
古墳時代前期末葉~中期初頭・4世紀末~5世紀初頭に築造の前方後円墳。全長96m、後円部径60m(高さ10m)、前方部幅45m(高さ7m)。前方部を南に向ける。前方部の西南(丸山古墳に接する)を除いて周濠がある。国史蹟。
(瓢箪山古墳)史蹟の標石。公園になっている。 (瓢箪山古墳)墳丘は整備されている。
瓢箪山古墳近辺は、家と丘陵が込合っていて、少し分りづらい所だ。丸山古墳は笹竹の中にありよく分からない。猫塚古墳も近くにあるはずだが、先を急いで溜池まで戻り西へ向う。八幡神社を通って、日葉酢媛陵に出る。
佐紀陵山古墳(日葉酢媛陵) さきみささぎやまこふん  奈良市山稜町  陵墓
古墳時代前期末~中期前半・4世紀後半~5世紀前半に築造の前方後円墳。全長206m、後円部径130m(高さ18m)、前方部幅89m(高さ12m)で、墳丘は三段構成。前方部を南に向ける。周濠は前方部途中で堤で区切られている。陵墓:垂仁天皇皇后日葉酢媛命狭木之寺間陵(ひばすひめのみことさきのてらまのみささぎ)。
(日葉酢媛陵)「狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)」。日葉酢媛は、第11代・垂仁天皇の皇后、景行天皇の母。野見宿禰の献策により、殉死を禁じて埴輪を立てたとする伝承がある。 (日葉酢媛陵)石塚山古墳を第13代・成務天皇の陵とするなら、日葉酢媛陵は、石塚古墳に先行することになる。この事は、石塚山古墳の東側周濠が狭くなっていて、石塚山古墳が後で造られたことと符合する。
左(西);成務陵、右(東);日葉酢媛陵  いずれも前方部を南に向ける
佐紀石塚山古墳(成務陵) 奈良市山稜町  陵墓
古墳時代前期に築造の前方後円墳。全長218.5m、後円部径132m(高さ19m)、前方部幅111m(高さ16m)。前方部を南に向ける。周濠は、北と南の二ヶ所で堤により区切られている。幕末に盗掘されており、石棺が納められている事が分っている。陵墓:成務天皇狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)。
(成務陵)「狭城盾列池後陵(うあきのたたなみのいけjりのみささぎ)」
佐紀高塚古墳(称徳陵) 奈良県奈良市山稜(みささぎ)町字御陵前   陵墓
古墳時代前期に築造の前方後円墳。全長127m、後円部径84m(高さ11.8m)、前方部幅70m(高さ14.8m)で、3段構成。周濠があり、埴輪が確認されている。周囲の大型古墳の主軸が南北なのに比して、この古墳の主軸は東西にある。称徳陵とされているが異論がある。古墳築造年代は、佐紀三陵(日葉酢媛陵・成務陵・称徳陵)と同時代で、称徳陵は前二者の影響を受けて不整形となっているので、一番新しいと考えられている。陵墓:称徳天皇高野陵。
(称徳陵)この御陵だけが前方部を西に向ける 手前の石杭は孝謙天皇と記し、後の石杭は称徳天皇と記す

橿原から葛城     ー話題の多い三つの古墳(群)を尋ねた。ー
見瀬丸山古墳 みせまるやまこふん  奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町   陵墓参考地
古墳時代後期後半・6世紀後半に築造の前方後円墳。全長318m、後円部径155m(高さ21m)、前方部幅210m(高さ15m)で墳丘は日本第6位の大きさを誇る。埋葬施設としては、全国第一位の大きさ(全長28.4m)の横穴式石室をもち、玄室(8.3m×4.1m×高さ4.5m)には、二つの刳抜き式家形石棺がL字型に安置されている。明治以前には、円墳と考えられ、五条野丸山古墳と呼ばれていたが、明治以降は(見瀬)丸山古墳と称せられている。欽明天皇・堅塩媛の墓として有力である。現在の欽明陵(梅山古墳)は、蘇我氏本宗(稲目)の墓所と見る考えがある。いずれにしても古墳時代最終・最大の大型古墳である。
国道169号・見瀬側の天上院から墳丘に登る。前方部が何処から始るのか分らないが、草原の高台がつづき後円部につながる。円墳としての五条野丸山古墳と呼ばれていた頃の名残か、前方部は自由に入れる。近鉄吉野線・岡寺駅東北の住宅街(五条野)から後円部に直接辿り着くことも出来る。この高台からは、東に明日香一帯が眺められる。
後円部との繋がりに到着 後円部を右に巻いて周回する
後円部の東側(五条野)には、「史蹟 丸山古墳」の立杭と説明板がある。 「畝傍陵墓参考地 宮内庁」の立札
後円部墳頂への登り口が見えるが、立入り禁止

新沢千塚古墳群 にいざわせんづかこふんぐん  奈良県橿原市北越智町川西町  国史跡
4世紀後半~6世紀後半に築かれた群集墳。
 
橿原市から御所市へ向い地方道133号を走っていくと、川西の交差点で150mも右に寄り道すると、新沢千塚古墳群がある。低い丘陵の2km四方に約600基の古墳が造られている。1962年から5年間で約130基が発掘調査された。古墳の大半は直径15m前後の円墳であるが、前方後円墳、前方後方墳、方墳なども含んでいる。中には、特別な副葬品をもつ古墳もある。126号墳は、22m×16mの長方形の墳丘に木棺が納められていて、棺内からガラス椀と皿、金・銀製指輪、金銅製帯金具、金製方形板(冠飾り)など朝鮮半島や中国大陸、中近東との関連を伺わせる品物が出土した。群集墓は、銅族共同体(ムラ)の共同墓地であろうが、その共同体内にも階級差が生じ、副葬品に差が生じる。
新沢千塚古墳群は、整備されて市民のウオーキングコースとなっている。出土した銅鏡は、千塚資料館に(川西交差点近く)にレプリカが、橿原考古学研究所付属博物館に実物が展示されている。

宮山古墳 みややまこふん (室大墓古墳) 奈良県御所市大字室  国史跡
古墳時代中期前半・5世紀前半に築造の前方後円墳。墳丘長238m、後円部径105m(高さ25m)、前方部幅110m(高さ22m)、三段構成で、周濠がある。墳丘長は全国第18位の大きさである。埋葬施設は、二重の埴輪列の下に竪穴式石室が南北に二ヶ所ある。竪穴式石室は5.5m×1,9~1.7mで、内面に朱が塗っている。石室内には長持形石棺が安置されている。副葬品は、硬玉製管玉、滑石製勾玉、ガラス製小玉が出土し、革綴短甲、琴柱形石製品、滑石製刀子、滑石製斧類、鉄製品、土器片などもある。唐草文帯二神二獣鏡の破片も出土した。石棺が埋まったままの状態で見えることで有名な古墳。葛城襲津彦の墓とされる説が有力で、竹内宿禰の墓説もある。江戸時代には孝安天皇陵と比定されたこともある。宮山古墳の東には、金剛山・葛城山の山麓が広がり、葛城一言主神社などがあり、雄略天皇にまつわる記紀伝承が多い。この一帯には大小の古墳が点在し、室大墓は盟主的存在である。

     
北側から見た宮山古墳の全景
八幡神社から後円部に登る 登り口
墳頂までに一段の広がりがある。墳丘の段らしい。 墳頂は二段になっていて、最上段は広い
墳頂(最上段)を南側(前方部側)から 中央の靫(ゆぎ)形埴輪の左右に竪穴式石室があり、右(南)側の石室は開口し、左(北)石室は天井石の一部が見える。
靫(ゆぎ)形埴輪と南石室 南側の石室 石棺(長持の柄)が見える
埴輪配列 
■:家型埴輪、
:靫形、:盾形、:甲冑形埴輪
石室と長持形石棺
近江 馬見丘陵へ