前方後方墳を見学する 1 (長野県、石川県、神奈川県)
弘法山古墳雨の宮古墳群稲荷前古墳

典型的な前方後方墳、前方後円墳と共存する前方後方墳を見学する
 古墳時代前期前半(4世紀前半)では、前方後方墳が前方後円墳に先立って築造される例が、尾張・越・信濃・毛野・常陸・会津・陸奥など、とくに東北方面に多く見られる。

3世紀末に松本平(長野県)に築かれた全長66mの弘法山古墳(前方後方墳)は、信濃(長野県下)で最も早い時期に王墓(首長墓)が築かれた例である。
3世紀末のヤマトには、箸墓古墳についで西殿塚古墳・桜井茶臼山古墳・行燈山古墳などが造営された時期である。

信濃の王墓は、4世紀末になると、善光寺平に全長91mの前方後円墳・川柳将軍塚古墳が築かれる。そこでは川柳将軍塚に先駆けて、同じ丘陵尾根上の直近に全長31mの前方後方墳・姫塚古墳が築かれていた。(姫塚と川柳の編年については異論もあり、前後関係が逆転する可能性がある)

古墳時代前期後半(4世紀後半)に、前方後方墳と前方後円墳が共存して築造された例が、能登半島にある。石川県・中能登町に築造された雨の宮古墳群で、全長64mの1号墳(前方後方墳)と全長66mの2号墳(前方後円墳)を見る。

横浜市郊外にも、4世紀後半から5世紀初に築造された盟主的な前方後方墳と前方後円墳が共存する市ケ尾古墳群がある。全長37.5mの前方後方墳・16号墳が復元保存されている。


弘法山古墳 (こうぼうやまこふん) (国史跡) 長野県松本市並柳2丁目1000番地 訪問日:2010.10
古墳時代前期(3世紀末)築造の前方後方墳。全長66m、前方部長さ25m×幅22m、後方部長さ41m×幅47m、後方部に竪穴式石室(長さ5.5m×幅1.5m×深さ1m)、石室材は、梓川、奈良井川、田川、薄川で採取したものが使われている。蓋石はない。石室の周りに石室を保護する石積みがある。石室からは、半三角縁(斜縁)四獣文鏡、銅鏃、鉄鏃、鉄剣、鉄斧、ガラス小玉などが多数埋葬品として出土し、石室上部からは、赤く塗られ底に穴をあけた壺や高杯、小型高杯、手焙形土器と呼ばれる特殊土器などが出土した。祭祀用として使用されたと考えられている。発掘調査は昭和49年以降に行なわれた。

弘法山古墳への登り口
「しののめの道」の観光案内板が古墳への登り口近くにある。
弘法山古墳についての松本市教育委員会の説明板が各所に立てられている。標高652mにあり、松本平・北アを一望する眺望抜群の古墳である。(平成16年設置) 後方部埋葬施設近くに設置された平成17年3月の松本市教育委員会の説明板より
古墳が造られた中山丘陵尾根上に付けられた遊歩道 遊歩道を歩いて行けば、後方部への登りが見えてくる。
後方部を南側から写した。 墳頂は広い。眼下に松本平、南は木曾谷の入口で北は安曇野まで、北ア連峰を背景にするパノラマが広がる。
後方部墳頂には、石畳で埋葬施設(主体部)が示されている 後方部墳頂先端から前方部を見る
後方部から前方部への繋がりを、前方部左(北)側面下より見る 前方部先の緩斜面左下から前方部の前面を見る
前方部の先端につづく緩やかな斜面。その先に塩尻市街が見える 緩やかな斜面先端の右側(東北)に美ヶ原の山々が見える
前方部先端から後方部を見る 後方部を東側の遊歩道から見る

雨の宮古墳群 (あめのみやこふんぐん) (国史跡) 石川県羽咋市鹿島郡中能登町西馬場 訪問日:2010.11 
能登の穀倉、邑知(おうち)地溝平野を見る眉丈(びじょう)山脈の最高所、「雷が峰(らいがみね)」(標高188m)を中心とする尾根筋に並ぶ古墳群で、前方後方墳1基、前方後円墳1基、方墳1基、円墳33基、合計36基からなる。1号墳(前方後方墳)と2号墳(前方後円墳)の二基の大古墳を中心とする雨の宮古墳群は、立地、墳形などから4世紀後半から5世紀初期に造られたと考えられ、能登国初期の首長墓に相応しいものである。(中能登町教育委員会の説明板より) 平成4年~9年に発掘調査を行い、平成6年から復元作業が行なわれた。
県道251号眉丈山トンネル北側出口(能登部駅側から来て)から左(旧道)に入る。 500mほどで、雨の宮林道入口の標識がある。
 雨の宮古墳群

雨の宮林道の小広場より1号墳→2号墳→王墓の館→5号墳→小広場と見学した。

1号墳と2号墳は、前方後方墳と前方後円墳の違いはあるが、類似性が強く、同じ設計規格によると考えられている。邑知地溝平野を挟んで、雨の宮古墳群と対峙する位置にある中能登町小田中の親王塚古墳(径67mの円墳)、亀塚古墳(全長61mの前方後方墳)は、雨の宮1号・2号墳と築造時期が近いと考えられ、同じように円系と方系が対になった古墳として古くから検討の対象となっている。

林道入口から約2kmで右に小広場があり、駐車できる。この下に1号墳がある。林道を進めば、古墳群下の王墓の館(資料館)に至る。
王墓の館前にある案内板(中能登町、1998)
見学した地域の拡大図
 雨の宮1号墳 (前方後方墳)
古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造された前方後方墳。全長64m、後方部幅43.6m、高さ8.5m、前方部幅31mを測る。二段構成で、雷が峰を後方部とし、主軸はほぼ東西で、墳丘全面が葺石で覆われている。埋葬施設は2基あり、中央部の1基が発掘調査された。粘土槨に割竹形木棺が納められ、銅鏡、車輪石、石釧などの腕輪形石製品、鉄製の刀・剣・甲などが副葬されていた。埋葬施設の説明板によると、主体部は三室に分れ、中央の大きな室には、遺体の頭上と足下に石釧などが、側面に銅鏡が置かれていた。頭上側の別室に腕輪形石製品と剣・刀、足下側の別室に短甲、靫などが副葬されていた。
前方部には、通称「雨の宮」・天日陰比咩神社があり、社殿を建てる際に墳丘の一部が削られ、板状の安山岩も顕れていた。後方部は古くから太鼓打場や相撲場となっていた。(中能登町教育委員会)
雨の宮林道から来ると、一度17号墳(円墳)に登る。目の前に1号墳の後方部が見える。 左側に廻り、後方部の北側の階段で墳頂に登る
後方部墳頂 埋葬施設(主体部)は南北を主軸としている 右下(西)に17号墳(円墳)を見る
発掘調査されたのは墳頂中央部に位置する第一埋葬施設で、墓壙は墳頂から掘り込んだもので、南北8.6m×東西4.5m以上×深さ1.2m前後を測る。墓壙内に、全長7.2m×幅2mの粘土槨を設けて、割竹形木棺(長さ6.2m×幅80cm)を納めている。第一埋葬施設の西側に第二埋葬施設が確認されている。未発掘であるが、墓壙は、南北10m以上×東西4.5m以上と第一埋葬施設より大きいく、埋葬時期は第一埋葬施設の方が先行するとされている。(Wilipedia)
埋葬施設の説明板 2基の埋葬施設がある。埋葬施設の立体図、車輪石・石釧の写真、木棺内の副葬品出土状況の写真が示されている。木棺には縄掛突起があった。 墳頂から東側へ前方部が伸びる。斜面に葺石が見える。墳丘下段の裾石には40-60cmの石、上段には20-30cmの石を使用し、くびれ部に近い後方部上段中位に大型岩石(直径1m)を嵌め込んでいるという。
1号墳の眼下・北東方向に2号墳が見える 前方部の先端から後方部を見る。後方部前面斜面は保護してある。
東側から前方部を見る。二段構成、葺石(貼石)の様子が分る。
前面下に「雨の宮」社がある。
36号墳から1号墳を見る。標識を右に下ると王墓の館に至る。
 36号墳
36号墳 埋葬施設は木棺と見られるが形状は不明。鉄製品と管玉・勾玉・臼玉が出土した。 36号墳上には埋葬施設の範囲が形取られている。

 雨の宮2号墳 (前方後円墳)
古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造された前方後円墳。全長65.5m、後円部径42m、前方部幅28m、くびれ部幅25.5mを測る。葺石が葺かれている範囲は二段構成で、中段のテラスがほぼ水平に全周する。前方部前面には、三段にも見える段が作られている。主軸は1号墳と同じで、ほぼ東西をとる。前方部は1号墳と向き合う。埋葬施設は未調査だが、1号墳と同様な粘土槨または木棺直葬を想定している。
1号墳から見た2号墳(前方後円墳) 前方部前面(三段に見える)

前方部に登り、後円部を見る。


北側から後円部を見る。円形であることがよく分かる。

後円部墳頂(埋葬施設は未調査)。墳頂先端(東端)に眼下の眺望・周辺の古墳群についての説明板がある。


墳頂の東側下に5号墳、6号墳が見える。5号墳左の脹らみが7号墳。2号墳→7号墳→5号墳→6号墳の順序に築造されたことが分っている。

        2号墳の南側面。二段構成、くびれ部が見える。
 7号墳・5号墳・6号墳
7号墳、5号墳。6号墳は5号墳の裏(東側)。 5号墳には埋葬施設の範囲と主体部表示がある。
王墓の館 開館日 金・土・日 国民の祝日、4月ー11月上旬(11月下旬に行ったので閉館)  館内には1号墳粘土槨の模型がある。 遊歩道を小広場の西側へと歩くと、「ようこそ中能登町へ 眼下に広がる邑知平野 碁石ケ峰・石動山系の山並み」と達筆の看板があった。

稲荷前古墳群 (いなりまえこふんぐん) 神奈川県横浜市青葉区大場町156-10  訪問日:2011.01 
稲荷前古墳群は昭和42・44年に発掘調査され、前方後円墳・前方後方墳・方墳・円墳を含む10基の古墳と9基の横穴墓が見出された。昭和57年の発掘調査後15号方墳・16号前方後方墳・17号方墳の3基の古墳が保存整備された。
稲荷前16号墳(前方後方墳)は、市域でも珍しい前方後方墳で、正方形の二つの墳丘を撥形をしたくびれ部で連結した特異な形をしている。古墳時代前期後半(4世紀後半)の築造で、全長37.5m、後方部幅15.5m、前方部幅14.0m、くびれ部幅10.0~11.5mを測る。墳丘上と周辺から底部に孔をあけた壺形土器や器台などが8個体出土し、祭祀に用いた供献土器とみられている。
15号墳(方墳)は、墳丘の大部分が削平されているが、基部が残っていて、一辺12mの方墳であることが分った。周溝の切り合いから、16号墳より新しく築かれたことが分る。17号墳(方墳)は、大量の盛土で作られた方墳であり、築成方法から16号墳との関係が考えられる。(平成9年、横浜市教育委員会説明版より)
前方後方墳(16号墳)は、5世紀初築造の前方後円墳(1号墳:全長46m)と対で存在した。両古墳は前方部が向かい合っている。古墳の規模は小さいが、中能登の雨の宮古墳の場合と似ているとも思われる。

バス停にある横浜市教育委員会の丁寧な説明板
墳丘の形状、鶴見川中・上流域の古墳編年・当地の古墳配置図
稲荷前6号墳(前方後円墳)と16号墳(前方後方墳)は4世紀末、
稲荷前1号墳(前方後円墳)は5世紀初に編年されている


バス停(東急バス・水道局青葉事務所前)西側に古墳への登り口がある。
16号墳(前方後方墳)を含む古墳群の一画が、
石垣とフェンスで住宅街と隔離・保存され、見学できるようになっている。

16号墳(前方後方墳)の近くにある説明板より
1号墳(消滅):全長46m、6号墳(消滅):全長32m、16号墳全長38m
1号墳(消滅)と16号墳が前方部を対面して近接している
 
バス停横浜市教育委員会説明板にある写真
17号墳の墳丘上から16号墳と、16号墳裏の15号墳を見る。 16号墳の東側面(後方部南下から前方部への側面)
16号墳後方部上から前方部を見る。二つの方墳を連結した形がよく分る。
16号墳の前方部前面から
16号墳の西側面(前方部から後方部)。前後の高低差は殆どない
16号墳の後方部から見下ろした17号墳           16号墳前方部端から見た15号墳

説明板によると、15号墳の裏(北)側に、14号墳(方墳)と1号墳(前方後円墳)が続くが、現在は綺麗に削られて住宅地(やよいが丘)になっている。

左写真は、削られ住宅地道路となった北東側崖下から見上げた図。

(鶴見川中流域は、縄文・弥生・古墳時代にまたがる長期間の遺跡の宝庫である。戦後の経済復興・発展による首都圏の拡大により、横浜市・町田市の多くの遺跡は消滅したが、1970年から引続き行なわれた事前調査・発掘調査により、考古学的には多くの成果が記録保存されている。港北ニュータウンの遺跡群、なすな原遺跡と町田市の諸遺跡、多摩ニュータウンの遺跡群などは、時代を跨いでの居住地の移動などが解明されている数少ない例である。稲荷前古墳の周辺には、南には港北ニュータウンの諸遺跡が、東または北には、町田市の遺跡群がひしめいている。)