−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第1号        平成12年6月1日(木)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

○「野路菊だより」について
 江西中から兵庫教育大学に派遣され,大学院生活も2年目に入りました。こちらで得たものを多少なりとも還元する意味を込め,私が興味を引いた話題や授業を見直すのにいい材料になると思ったものを中心に,話題提供していこうと考えました。これを読んでの疑問やご意見を歓迎します。
 この「野路菊だより」は不定期に刊行しますが,気が向いたときに読んでいただけるとうれしいです。もちろんこれをプリントアウトして,その裏をメモ用紙にしてもいいし,集めて廃品回収に協力することもできます。紙飛行機にして空を飛ばすこともできます。ご自由に使って下さい。

○以前の私
 教科やコンピュータ利用に関して,自分なりに工夫しようと考えていたのですが,どうも前に進みませんでした。何をどこから勉強したらいいのかも分からない状態でした。教科については所属している日本理科教育学会誌は毎月読んでいたのですが,自分の授業の見直しになかなかつながらない。まさに霧の中という感じでした。これは,コンピュータの使い方でもそうでした。コンピュータネットワークはちょうど脳の神経細胞のネットワークと大変似ているから,それをうまく使ってコンピュータ利用が出来ないかなと考えていましたが,これもやっぱり霧の中状態でした。教科にもコンピュータにも自信を失っていました。何をどうしたらいいのか分からないという感じでした。

○目が開いた(?)
 そんな中で,大学院の授業を受けていると,いろいろなことがすごいヒントになって私の中に入ってきました。すべて書いているときりがないのですが,特に社会的構成主義の学習論は,まさに授業を考える上で大きな影響を私に与えました。この考えをもとにして授業を考えると,「支援」の意味や「学び」についても意味が分かってきて,まさに目の前の霧が徐々にはれていくという感じでした。

○行動主義から構成主義へ
 行動主義の授業から構成主義の授業への移行はもうすでに始まっています。構成主義の学習論を言う前に本来ならば,行動主義の学習論が破綻する経緯や理由を述べるのが筋ってもんですね。しかし,私にはそんな力量もないし,理屈っぽくなりますが,ここでは誤解を恐れず,簡単に(直感的に)触れてみることにします。
 行動主義を簡単に言えば,「○○できる」というように生徒の観察可能な行動の変化をみて生徒の成長や教師の働きかけを考えるというものです。これは,生徒の考えや学びを「○○できる」という観察可能なもので判断できるのだという前提の上に成り立っています。まあ他に見る方法がなかったからそうしただけのことです。 しかしこの方法だと,観察できないことは,評価できないということになります。本当に,子どもの学びは観察可能なものだけで判断していいのでしょうか。・・・・。こんなことを考えていくと行動主義の学習論では,行き詰まってしまいます。では,子どもの学習をどのようにとらえたらいいのでしょうか。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第2号        平成12年6月2日(金)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

○観察(事実)の理論負荷性
 構成主義の話をするつもりでしたが,その前に,ハンセンの「観察の理論負荷性」のことに触れておきます。行動主義における観察可能な事象というのは,このハンセンの観察の理論負荷性の考えが登場すると実にあやふやなことが分かるからです。  これは,簡単に言えば,ものを見る(観察する)時には,見る人の理論(背景や考え方など)に左右されるというものです。
 理科(科学)では以前,ある現象(あるいは実験結果)を見たとき,それは誰が見ても同じものだとされていました。たとえば,ものが落下する現象を見れば,それは誰が見てもものが真下に落下するのだから,見る人の理論に関係なく,それが事実なんだというわけです。でもそうでしょうか。我々は,地球の重力に引っ張られると言うことを知っているからそう見てしまうのです。知っているというのは,理屈で知っているだけでなく,経験も含まれます。ものを落とせば下に落ちるという経験を小さい頃からしているから,他の考え方が出来なくなってしまっているのです。経験はある意味では正しいのですが,まことしやかな勘違いということもあるのです。では,ものは真下に落下せずにどうなったというのでしょうか。

○次期指導要領(理科)に見る科学観
 目の前にある事実(現象,データ)について語ったり,判断するときには,当然ある考えに基づいて判断します。データは仮説が正しいか否かを判断するものという以前の常識的な科学観から論理実証主義(反証主義,文脈主義,相対主義),観察の理論負荷性などが現れてきました。次期指導要領では,理科はあまり変わってないように見えますが,実は大きく変わっていて,指導要領を執筆された角屋先生(広島大)は,ハンセンの観察の理論負荷性以後の反証主義を取り入れているようです。反証主義というのは,簡単に言えば,(正しい)実験結果というのは,確からしさを増すだけであり,理論(仮説)を証明するものではないという立場です。だから1つ反証が見つかれば理論が間違っていることが分かる,つまり反証可能であるという立場です。その後反証不可能という立場の科学観もあらわますが,次期指導要領では,反証可能という立場で書かれています。ちなみに現行の指導要領は,ハンセン以前の「経験主義」「実証主義」「合理主義」などに基づいているようです。角屋先生は,あまり先走ってもいけないが,ここ(反証主義)までもってくるのも大変だったと講義で言っていました。角屋先生は「動的自然観」という言葉で,次期指導要領の背景にある考えを説明しています。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第3号        平成12年6月3日(土)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

今回は,構成主義についてです。

○構成主義
 構成主義といってもピアジェの個人的構成主義とデューイやヴィゴツキーの社会的構成主義があります。構成主義とはどんな考えをいうのでしょうか。
 一般的に構成主義とは,「すべての知識は,子ども一人一人が多様な事象に働きかけ,その経験から何か意味を作り出そうとするとき,彼ら一人一人の中に構成される。」という認識論的な見解を指します。
 個人的構成主義では,「知識は,個人の頭の中で構成される」ということで,個人の考え(概念)の変容が起こるように授業を考え,概念の変化に注目して研究や実践が行われてきました。今でももちろん通用します。
 個人の頭の中にある知識構造を知る目的で,概念地図法などが開発されました。現在,概念地図法を使って生徒の理解の仕方を知る実践や研究は結構多いです。ただ書かれた概念地図をどのように評価するかはなかなか難しい問題です。でも,点数化するのではなく,どのような思考をするのか,どのように知識が整理されているのかを知る有力な方法だと思います。この他に生徒の学びを探る方法として,「描画法」,「予測ー観察ー説明法」,「事例面接法」,「関連図法」,「単語連想法」,「問いの生成法」などいくつかあります。

○社会的構成主義
 私が感銘を受けたのは,ヴィゴツキーの社会的構成主義です。現在この考えで新しい授業を考えている研究者や実践家は結構多くなっています。具体的な例も交えながら紹介していこうと思います。
 社会的構成主義の学習論の特徴は,「学習を意味と関わりの構成として認識し,認知的な次元と対人的な次元と自己内的な次元の3つの複合的実践」として性格づけています。ヴィゴツキーは,言語を媒介とする道具的思考を学習の基本とする理論を提唱しています。これではちょっと分かりづらいですね。 すごく乱暴に言ってしまえば,「知識構成は,自己だけでなく,他者(人だけでなく,環境や教材も含みます)との関わり合いの中で,社会的に構成される」というものです。授業でこれを実行すると,「知識伝達」型の授業ではなく,「知識構築」型の授業になっていきます。
 しかし,これだけではなく,ヴィゴツキーには大変重要な考え方があります。それは,「発達の最近接領域(ZPD)」というものです。次回はこれについて説明します。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第4号        平成12年6月5日(月)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

今回は,「発達の最近接領域」についてです。

○「発達の最近接領域」と「足場かけ」
 この考え方は,実に多くの研究や実践の理論で引用されています。ヴィゴツキーという心理学者の精神発達の理論の中心的な概念です。この「発達の最近接領域」とは,他の子どもや教師の援助によって達成できる教育の可能性の領域であり,道具や助言によって社会的に構成される領域のことです。  ブルーナーは,この「発達の最近接領域」を「足場かけ」というアイディアに発展させました。「足場かけ」とは,「発達の最近接領域」での「支援」ということになりましょうか。適切な「足場かけ」をすると,はじめは一人では出来ないけど,手助けすることによってできるようになり,やがて手助けなしでもできるようになっていきます。このような「支援」こそが,本物のような気がします。「支援という名の指導の放棄」などと言われて久しいですが,この「発達の最近接領域」での支援こそが今求められています。
 発達段階に応じて教育をしていこうという考えもあります。ピアジェなどがそうです。しかしピアジェの発達段階の考え方では,同じ中学1年生でも,学習に対する発達段階が大きく違うことや,同じ生徒でも教科や分野で発達の違いがあることなど,個々の発達の違いを説明しきれない面があります。  生徒個々の「つぼ」にはまった指導や支援ができると生徒は大きく伸びます。その「つぼ」は,まさに「発達の最近接領域」であり,「つぼにはまった支援」とは「発達の最近接領域」での「支援」つまり「足場かけ」です。
 今まで行ってきた授業を振り返ると,まさに「足場かけ」になっている「支援」も少なからずあるのではないでしょうか。今行っている指導や支援が「発達の最近接領域」での支援かどうかは,次のように問いかけてみると分かります。この生徒に対する指導(支援)は,「一人では出来ないけど,この手助けでできるようになり,やがて手助けなしで出来るようになっていく」だろうか。 手助けは,文字通り手を貸すこともあれば,教え合い活動や補助具を使うことなどもこれにあてはまります。要は,今出来ないことが,その手助けで出来るようになり,やがて手助けなしでも出来るようになる活動(授業)をしているかと言うことです。
 このような目で生徒を見ると,授業の初めは出来なかったけど,手助けされながら出来るようになっていく生徒の姿が見えてきます。たとえばこの生徒には,「教え合い学習」が有効だったなとか。この教えあい学習では,教える側も多くのことを学ぶことが報告されています。  生徒が分かるようになったり,出来るようになったとき,何がその生徒の発達(理解,達成など)を促したのかを今まで以上に意識して見ていくと,今まで気がつかなかったことに気がつくことがあるかも知れません。何か気づいたことがあったら,ぜひ教えて下さい。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第5号        平成12年6月6日(火)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

今回は,新知識観としての「分かち持たれる知能」についてです。

○テストって何だろう
 これまでの伝統的な知識観は,すべて個人の頭の中に蓄えられる情報や知識の構造を問題にしてきました。そのため,テストなどで個人の頭の中にある知識や情報を問うことが行われてきました。
 こんな話があります。ある研究者が数の概念を調べようとネパールの子どもたち一人一人に個別にテストしようとしても,周りの子がすぐに集まってきて集団で答えてしまう。「これは一人だけに聞きたいんだ」と言っても「何でそんなことするんだ」と聞かれてしまう。つまり彼らには一人だけにテストするという概念がないようなのです。問題が与えられたらみんなで考えるのが当たり前,何でこの子だけに聞くんだ」という状況になってしまってなかなかデータが取れなかったようです。
 我々はどこかでテストというのは個人が一人で受けるものだと思いこんでいて,答えが分からないものについては「お前はダメなんだ」という文化の中で慣らされてきたのかも知れません。(「情報編集力(筑摩書房)」より)

○「分かちもたれる知能」とは
 教育研究や認知科学研究の分野で,話題になっている知識観に「分かちもたれる認知」(分散知)というのがあります。「状況的認知論」と呼ばれるものです。
 この知識観は「我々が通常用いている知識は,それが用いられる状況や文脈の中で適切に生起するものであり,身の回りの道具や他者との間に分かちもたれているのであって,決して特定の個人の中にしまい込まれているものではない」というものです。
 状況論者は「正統的周辺参加」という形態を重視します。「認知的徒弟性」とか「ガイドされた(スキャフォールドされた)参加」など話さないといけないことも多いですが,簡単に言えば,学習を次のようにとらえるものです。 「自ら文化的活動の中に参加し,自分の能力に見合っただけの貢献をしながら成長する営み」として教授・学習課程をとらえます。この背景には,「同じ文化,共同体の中でも異なる個人は異なる能力・技能を兼ね備えており,それぞれの能力をまず生かしながら社会・共同体に参加,貢献することが学習の第一歩だ」という原則があります。このような考え方は特に新しい感じはしませんね。もう何年も前に言われていたような気がします。
 しかし今問い直さなければならないことは,こうした文化や共同体を教室の中に作りあげることが出来るだろうかということです。当然このような環境を作るためには何らかの支援が必要だろうと言うことになります。私はここに興味を持っており,その支援をコンピュータネットワークを使ってやってみたいというわけです。 ※感想やご意見をいただけるとうれしいです。反応が欲しい!!


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第6号        平成12年6月7日(水)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 どうも学習論というのは,理屈だけが先行している感じが拭えません。 今回は趣向を変えて,ゴールドシュタインの『人間 その精神病理学的考察』という大脳損傷者の研究の本をもとにした講義の中から,興味をひいたものを紹介します。「秩序ある行動と破局的行動」についてです。大脳損傷者は,破局的行動つまり取り乱してしまうような行動を避けるために,どういう行動をとるのかという研究です。

○破局的行動を避けるためにどうするか
 まずはじめに,秩序ある行動と破局的行動とは何かを簡単に説明しておきます。秩序ある行動とは,たとえば,「いきいき,冷静,機嫌がよい,安定,協力的,落ち着いている」などで表せる行動です。一方破局的行動とは,「呆然,顔色を変える,興奮,不機嫌,かんしゃく」などいわゆる取り乱すような行為のことを言います。大きい刺激が強制的に入ってくると,破局的な状態になりやすく,今まで出来ていたものも出来なくなったりします。
 大脳損傷者たちは,その破局的行動を避けるためにいくつかの行動パターンを示したそうです。
@意図的に世界から逃避する。(失神して意識を失う。)
A仕事を与えられても反応しない。(分かりません,出来ませんと早口で言う。「別に」という反応もあった。)
B代償反応(仕事を頼もうとすると,急に仕事を始め,忙しくて出来ないことを装う)
C過度に秩序をやかましく言う。(例えば,机の上の置いたペンの位置にこだわり,少しでもずれていることをとがめる。)
D空白恐怖症(白紙に名前を書かせると,真ん中に書くことが出来ない。強制すると,定規で線を引いてから書くなど,何か手がかりがいる。) このような@〜Dの行動は,自分が対応できるまで世界を縮小するためだと,解釈されています。
 この研究は大脳損傷者の研究ですが,行動が極端にでてしまうその人たちの研究をすることで,実は健常者の行動を知るために行われています。
 このような行動を示すのは,何も大脳損傷者たちだけでなく,健常者である我々も同じです。しかし,そのような行動がすべて破局的行動を回避するためにやっているのではない,と分かっていても他人の行動を見ると,やっぱり破局的行動を回避してるのかなあと感じてしまうこともあります。
 最近帰りも遅く,睡眠時間が少なくなってしんどいんですが,教授とドクターの学生は,ほぼ毎日徹夜状態で,59歳の教授は,「3日で2時間しか寝てないんや」という状態で仕事する人なので,何も言えません。昨日も深夜2時過ぎに,難しい問題を持ってきたのでうれしくなりました。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第7号        平成12年6月8日(木)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 今回は,大段智亮の『医療心理学』からです。この本は,倫理的職業に就いているベテランの人格的職業病をあつかったものです。

 30年のベテラン教師(医師など)ときいてどう思うかというアンケートの結果から倫理的職業者の人格的職業病について考察したものです。
 倫理的職業とは,医療・看護・福祉・教育など相手にとって援助的に行う仕事を指します。そのような職業に就いている人に対して他の人たちはどう思っているのかを調べたものです。
 結果は次のようになったそうです。「30年のベテラン教師と聞いて」
@鈍感,A論理主義,B権威主義,C専門家意識,D操作主義的傾向,E病識のなさ
ということのようです。もう少し詳しく見てみます。 @鈍感・・・アンテナを全開にしていれば,真面目な人はその対処でまいってしまうから。
A論理主義・・・知性化,合理化(へ理屈,すっぱいぶどうの話)。感情は取り扱いにくく,不安定であるため,安定していて取り扱いやすいから。
B権威主義・・・相手より優位に立とうとする。そのつもりが無くても結果的に権力を持つ。教示的・教訓的態度が現れる。格言・説得などを頻繁に使う。
C専門家意識・・・自分はプロ,相手は素人。自信たっぷりの態度。教師はこうでなければならないという役割期待が大きい。
D操作主義的傾向・・・いかに目的のところに連れていくか。強力な誘導技術を身につけたい。(それが出来なければ,カウンセラーへはおかしくないか)
E病識のなさ・・・自分たちに偏りがあるという自覚がない。 (うーん。自分にもいくつか当てはまっている気がするなあ。) 善意による不幸(ある精神科医の言葉です。)
 悪意によるものだったら,退けるのは楽だが,善意によるものだと断りにくい。言ってる方も善意であるので,お互いにうんざりしてしまう。(お互いの不幸)
 また,精神科医の木村敏は,牧師や教師の子は,押しつけがあったり役割期待によるしつけで子どもがまいることが多い,と言っています。  人間というものを一義的に考えたりするのは,人間性を切り捨てたり,見失ってしまう。両義的なものを持っていることを忘れずにいたい,ということです。  毎日研究のことを中心にいろいろなことをとことん考える生活をしています。こういう機会を与えていただいたことに感謝しています。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第8号        平成12年6月9日(金)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 今回は,デズモンド・モリスの『裸のサル』からです。

 動物行動学者のデズモンド・モリスが,人は「裸のサル」であるという観点から,人間の行動を分析していくものです。この本自体は,20年くらい前に出版されました。絶版になっていたものが昨年また復帰しました。 いくつか興味深い話題がありますが,その中の「慰安」から紹介します。  裸のサル(ヒト)は,いくつかの談話をします。 情報談話・・・普通の談話
気分談話・・・自分の感情を表現する談話
探索談話・・・詩を作る,独り言,言葉遊び
毛づくろい談話・・・いい天気ですねなど,挨拶の強化 この毛づくろい談話というものは,協力的で非攻撃的な行動であり,友好の信号です。このサルは裸なので,実際に毛づくろいされるわけではありませんが,協力的で安定した人間関係を求めている行動です。不安になると他者の存在を求めるわけです。
 社会的毛づくろいをしたいという欲求を満たすものが,ペットやぬいぐるみであり,毛づくろいされたいという欲求を満たすものが,整髪や医療行為であると言っています。
 たとえば,軽い病気になるのは社会的毛づくろいを求めているもので,他の人からの慰安を引き起こします。女優がこうとう炎になったり,レスラーが湿疹になったり,プレッシャーによって症状が出るのは,他の人からの慰安を求めているというものです。自分もちょっと風邪をひいたりおなかが痛い時,周りの人が心配して声をかけてくれると,それだけで安定した気持ちになるときがあります。
 あるいは,(本人がそのつもりが無くても)社会的逸脱行為の背後には,「願い」があるようです。その人の存在に異議を申し立てる行動であると解釈されています。意義申し立て的病気,意義申し立て的不可解な行動というわけです。
 人間が安心,安定するとき,最終的に人間関係の中でしか得られないという面が大きい,とモリスは観察しています。
 しかし,安定した人間関係を求めても裏切られたり,反発されたり,無視されたりすると,傷つくのが怖くなり,そういった人間関係を求めなくなってしまうとも言っています。このようなことは学校現場では,当たり前のことで,むしろその後どうしたらいいか知りたいところです。日々生徒指導に追われていると,どうしても対処法に関心がいくのは否めません。
 でも生徒たちは,そんな中で,傷つきにくい彼ら独自のコミュニケーション方法をあみ出して周りの人とつきあっているようにも思えます。この様子をモリスが見たらどのように分析するか興味深いところです。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第9号        平成12年6月12日(月)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 今回は改めて「情報教育」についてです。ご存じのように,「情報教育」は次期指導要領で新教科「情報」や総合的な学習の時間で位置づけられることになりました。

○ねらい
 簡単に言えば,「情報を自らの問題解決のために,収集,編集,加工,判断,伝達することができる能力」を身につけることです。コンピュータが使えるようになることがねらいではありません。
 9年10月に発表された協力者会議の報告書では,小中高を通して育成すべき情報教育の目標を3項目に整理しています。
 @情報活用の実践力,A情報の科学的な理解,B情報社会へ参画する態度です。

○総合的な学習の時間と情報教育
 総合的な学習の時間では,このなかの「情報活用の実践力」を身につけることを求めている時間として位置づけられています。総合的な学習の時間が画期的なのは,「情報活用の実践力」や「情報社会に参加する態度」のうちのネットワーク活用能力の育成のために,学校や教師の創意・工夫によって課題解決学習を展開できる,規制のない時間が与えられたことになり,まさに画期的です。
 しかし,総合の時間に情報教育をやれといわれると,ただコンピュータを使うだけだったりとねらいが全然活かされてない実践もあったりします。要は,体験的な学習などで得られた情報をいかに編集するかということです。教師も生徒も答えを知らないことを学ぶのですから,教科学習とは明らかに違います。教室場面と日常場面の違いをあらわした会話例を紹介します。 日常場面では,
 あなた:どれがオリオン座?
 友達 :あれがそうだよ。
 あなた:あれってどれ,わからないよ。
 友達 :あそこにある3つの星(オリオンのベルト)を目印にすればいい。
 あなた:わかった,ありがとう。
ところが教室では,
 あなた:どれがオリオン座?
 学習者:あれがそうです。
 あなた:正解です。
 日常場面では,質問する人は答えを知りませんが,教室では質問する人が答えを知っています。ところが,総合的な学習の時間では,教師も答えを知らないので,どのように問題を解決するか生徒と一緒に考えていかなければなりません。生徒にいつももっと考えなさいと言っているつけが回ってきたような,そんな感じもします。先生はあんちょこがないと何もできない,頭が固いというのをぬぐい去るいいチャンスかも知れません。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第10号       平成12年6月13日(火)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 今回はコンピュータウイルスについてです。

○携帯電話にもついにウイルス
 ついに携帯電話ユーザーをターゲットとする新しいコンピューター・ウイルスがスペインで登場しました。ワイヤレスの世界を対象とするウイルスはこれが初めてです。コンピューター・セキュリティー専門家たちが6日報告したところによると,このワームタイプのウイルス『ティモフォニカ』は,スペインの『モビスター』サービスの顧客に被害を与えているようで,GSM方式の携帯電話のスクリーンにテキストのメッセージを流すものです。
 今は携帯電話でもインターネット接続ができ,メール交換もできます。今回のウイルスは,電子メールによって転送されるタイプのようです。ファイルを破壊したりはしないので,「厄介」レベルのものとされています。今のところ,範囲は主にスペインだけに限られているようです。
『GSM』(Global System for Mobil Communications)は、ヨーロッパで主流のワイヤレス標準です。米国では,これと競合する『CDMA』(Code Division Multiple Access)標準が広く使われています。  問題のワームは,先月世界中に広まった悪名高い『I LOVE YOU』ワームの基本構造を利用し,それを携帯電話に応用しています。これは,ポケットサイズの通信機器やパームなどに対してウイルス攻撃が新しく登場する予兆なのかもしれない,と専門家たちは見ています。

○『I LOVE YOU』って何か。
 これは少し前にTV等でも放送されたので,知っている方も多いと思いますが,メールの題名に『I LOVE YOU』とかいてあるウイルスで,このメールを開くと,電子メールを自分で作成し,その人のアドレス帳に含まれているすべてのアドレスにこれを送信するというものです。当然それを受信した人も同じように,その人のアドレス帳に含まれているアドレスに同じメールを送ることになり,あっという間に,大変多くの人が感染することになります。

○どのように防ぐのか。
 実はそのようなウイルスは,とても簡単に防ぐことが出来ます。ウイルスは,すべてマクロかHTMLに記述されているので,HTMLメールや実行形式の添付書類を開かないようにすればいいのです。これだけでいいのです。
 メールをHTMLで書くと,字の大きさを変えたり色を付けたり,画像を貼ったり出来ますが,そんなことはせず,テキストのみで送受信すべきです。
 たったそれだけで,恐ろしいウイルスから身を守ることが出来ます。早速メールの設定をテキストにしましょう。そういうこともあって,知らない人にメールを送るときは,シンプルなテキストで送るのが礼儀とされています。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第11号       平成12年6月14日(水)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 今回はインターネットの裏のことを少し。

○インターネットの世界
 インターネットは誰も管理者がいない世界だから,これだけ発展してきました。こういうとインターネットは無法地帯のように感じる人もいるでしょうが,実際には,そのようにはなっていません。たまに掲示板が荒れたり,犯罪を助長するようなホームページがあって,そこばかり強調して報道されると,インターネットはとんでもない世界だと誤解している人もいますが,素晴らしい可能性を持った世界でもあります。ただ,どういった情報を選択するかは使う人の気持ち一つです。これは現実の世界でも同じです。

○インターネットの裏の部分
 では,実際にどういうことをしたら「おそろしい」目に遭うのでしょうか。インターネットにも裏の世界が存在します。アンダーグラウンドな世界です。そこはもう犯罪そのものといった世界です。一般の人でも間違ってそこに紛れ込んでしまうことがあります。しかし普通はその奥には行けません。様々な仕掛けがあって,あっという間にH系のホームページに飛ばされてしまいます(^^;)。そこにある画像が目的の人もいますが,まあそれならかわいいもんです。しかしそこは欲望の渦の中にあるので,やっぱり油断したらいけません。そういったところで,やってはいけないことは,実行形式(*.exe) のファイルをダウンロードしたり,実行することです。ここでの特徴は,新しい画面が次々に現れ,消しても消しても現れてきます。そこに訳の分からない英語で何かOKを押せと出てきます。あせってそれを押してしまうと,いつの間にか国際電話やQ2回線につながっていることがあります。なかなか鮮やかですね。心理的な作戦も使ってます。あとは,来月の電話代が楽しみといったところです。
 しかし,ちょっと知識があって,しかもそんなH系の誘惑に負けず,さらに奥に進むと相手もそれなりに対応します。初心者をはじき飛ばすしかけをくぐり抜けてきたんだから,それなりの覚悟も技術もあるということで,相手もそれなりに歓迎してくれます。そこでもマナーは厳然と存在します。迷惑をかける輩には,最新の技術を駆使して排斥します。時には様々な方法で報復措置をとるようです。でも考えようによっては,そのように排斥するのはまだ良心的なのかも知れません。我々に近づくなと警告してくれるからです。それを無視して進むのは良くないですね。
 インターネットやメールで注意しないといけないのは,クレジットカード番号や銀行の口座を言わない,パスワードは何があっても言わないということがまず基本です。現実の世界でもやりませんよね。そして,HTML形式や添付書類があるメールは覚悟して読むか削除しましょう。
 あっ,そういう世界に行くときは,ブラウザのセキュリティレベルを上げましょう。javaやActiveXは無効にしてから行って下さい。健闘を祈ります。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第12号       平成12年6月15日(木)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 今回はインターネットと情報です。

 前回はインターネットの怖い部分に少し触れましたが,現実の世界はどうでしょうか。繁華街や交通事情はこれにもまして怖い存在です。学校だって油断していられません。本屋にはHな画像入りの雑誌が置かれ,目も覆いたくなるようなビデオもあるやに聞きます。また,道路を歩けば,たばこや酒も買えるし,おかしなお兄さんやお姉さんもいっぱいいます。いつも怒っているおばさんもいれば,あぶらぎったおじさんもいます。こわいですね。一方動物たちは,様々な戦略で獲物を待ちかまえています。蜘蛛は網を張り,ヘビはカエルをじっと見据え,犬はしっぽを振ります。
 現実の世界もインターネットの世界も要は,情報をいかに編集するか,いかに活用するかが大きな鍵を握っているように思います。それがいわゆる情報活用の実践力などといわれるものかも知れません。
 現在インターネットでないと見られない情報も多くなってきました。それらの情報を手に入れる人は得をし,そうでない人は損をすることにつながります。情報強者と情報弱者が生まれるのです。採用情報もインターネットでしか見られないところもあるようです。これは,暗黙のうちにインターネットが使えない人はうちの会社にいらないと第1段階のセレクションをしているようなものです。情報弱者は就職も制限されてしまうことを意味します。
 すでにこういう状況になっている今,これからを生きる中学生に情報を活用するための授業をしくんでいくことは必要なことになります。
 現在中学生がホームページを開設しているのは,珍しいことではなくなってきました。そこの掲示板を見ると確かにたわいのない会話がなされていますが,中学生がどんなことを考えているのかも伝わってきます。彼らは,インターネットをごく自然に,単なる道具のように使っているのも分かります。
 しかし,掲示板が誰にでも見ることができるということを忘れているような内容も見受けられます。個人情報の漏洩はそういったことから起こることが多いのです。その掲示板からは,書き込んだ人の内容からその子の学年や部活動,行事での出来事も分かってきます。そこに書き込んでいない友達や先生も匿名で現れますが,学校名と教科とか部活の顧問という情報でその先生を特定することもできるかも知れません。本人が知らない間にその人の情報が意図しなくても流れてしまいます。匿名にしてもちょっとした情報の断片を集めれば,かなりまとまった情報が得られることになります。これは,現実の世界のおしゃべりでも同じことですが,違うのは距離を隔てて誰でも知ることが出来るということです。どこかで,誰かが自分の話題で盛り上がっているかも知れませんよ,江西太郎さん。おーこわ。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第13号       平成12年6月16日(金)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 毎回,印刷するとA4でちょうど1枚になるように書いてきました。内容がないので文字だけでも詰めてみました。今回は「問い直される学校」と題して,インターネットやカウンセリング導入について考えます。

○学校の体制とインターネット,カウンセリング
 インターネットの世界というのは,以前にも触れたように,誰かが管理しているわけではありません。それがここまでの発展を支えてきました。しかし,学校社会は中央集権的です。学校独自に何かやることは難しいです。ましてや担任や一教師が独自に何か行うのはたいへんなことです。
 そういう学校に,インターネット接続をするというのは,学校という場を根本的に変えていこうという考えがあるように感じます。今までと同じ体質や考え方でいると,インターネットは単なる「厄介者」だからです。
 また,カウンセラーを入れたり,そういった態度で子どもに接するというのも,今までの学校システムになじまないものです。学校は集団で行っているため,個を完全に生かすことは出来ません。集団あるいは規則で動かすという手法というか方法がとられてきました。
 ところが,カウンセリングはそれとは対局に位置するもので,個をとても大切にします。集団や規則ではなく,その個人を第一にします。それが集団や規則で動かそうとしている学校の中に,はいってくるのですから,学校のあり方そのものを問い直されることになります。

○個を受け入れる学校
 インターネットやカウンセリングなど,今までの学校にない考え方を持ったものが導入されるということは,学校に抜本的な体質改善が求められることになります。この問題は当然学校だけでなく,教育委員会など教育行政側にも求められることになります。文部省がこれを推進しているので,文部省の体質が旧態依然としていれば話になりませんが。
 体質改善をほぼ強制的に行おうとしているものの一つに,「総合的な学習の時間」があるように感じます。そろそろやっていかないといけないということで学校でも研修が盛んなのではないでしょうか。「総合」と聞いただけで,何かうんざりしてしまいますね。
 今までやってないことをやるのだから困ってしまいます。だから事例集を作れということになってしまう。すでに破綻しているようなものです。独創性,個の尊重なんてかけらもありません。講演しているようなおえらい大学の先生でも(たとえばYとか)なんかはでたらめですね。本ではそれなりのことを書いているのに講演では失望する内容のことを平然と話してました。これじゃどこかの総理と同じですね。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第14号       平成12年6月19日(月)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 最近ちょっと批判的な内容が多かったので,今回は総合的な学習の実践例として,まずは環境を中心としたものから紹介します。

○学びの段階と実践テーマ例(環境)
 京都教育大の広木先生は「学び手と現実世界とのかかわり」という観点から,学びの段階性についてその枠組みを提案しています。
<第1段階>遊びや仕事の手伝いを通し,体・頭・感性を丸ごと使って現実の
      世界を体験する。
<第2段階>現実の世界を調べ,その成り立ちについて理解を深める。
<第3段階>第1,2段階で得られた成果の,現実の世界への活かし方を探る。
 そしてこれらの段階に,「環境教育指導資料」(文部省)に挙げられている実践テーマの例を次のように当てはめています。
<第1段階例>「ネイチャーゲーム」,「校庭の自然観察」,「種子を保存す
       る土の働き」
<第2段階例>「水質汚濁の調査」,「川の水位とゴミ」,「大気汚染の調査」
       「大気の動きと建造物等の影響」,「星の見え方とまちの明る
       さ」,「土壌の働きと化学肥料等の影響」,・・・。
<第3段階例>「都市のゴミから環境問題を考える」,「衣服のリフォーム」,
       「室内の空気調節と省エネルギー」,「限りある資源ー水の使
       い方」,「エコマーク」・・・。
 テーマをたとえば「紙」に絞って上の段階に当てはめても,いろいろ出来そうですね。このように学びの段階性みたいなことを取り入れると考えやすいかも知れません。
 でもこういったことは,理科や家庭科や社会科でもうやってるって感じですね。テーマもそうだし,問題解決型の授業という形態もそうですね。
 実は,総合の目的というか目標としている内容は,すでに理科ですでに進められてきたこととほぼ同じです。他教科でもそうかもしれません。
 大きく異なるのは,学習内容が指導要領等で決められていないので,各学校独自にカリキュラムを組めるというところでしょう。

○「はい回る経験主義」にしないために
 体験活動は生徒に問題点を見つけさせるために行います。目標(理想)と現実とのずれが問題点になるので,それを整理する時間が必要になります。生徒個々が問題点を持って解決していくときに,他の人と議論しながら進めていくと,問題点がよりはっきりしたり,自分一人では思いつかないことに気づいたりすることが期待できます。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第15号       平成12年6月20日(火)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 「総合」の具体例は,様々な本が出てるのでそちらに譲り,今回は学力について少し考えます。

○5日制と学力
 学校教育の目的は何か。保護者は人格形成を主と考えているが,本来は学力形成です。しかし受験勉強による弊害の問題をはき違えてとらえ,学校の教育活動の中心が勉強であることを悪のように捉えている人もいます。
 名古屋大の安彦先生は講義で,週5日制になっても生徒の学力を落とさない工夫が必要だとおしゃっていました。愛教大の川上先生が,総合は教科学習と家庭学習とを結ぶ架け橋だと言ってましたが,総合をしっかりやることで,家庭学習にも好影響を及ぼすのでしょうか。また,安彦先生の言われるように週5日制になっても学力は落ちないように出来るのでしょうか。
 安彦先生は小学校3年生くらいまでの3R’sは練習による習熟が必要であると言っています。毎日15〜20分の宿題を出すことにより,金曜日までの学力を維持させるのが目的です。この9歳までの時期は,理屈よりも反復・模倣に関心があり,考えなくてもすらすら出来る状態まで,計算や漢字などを習熟させることが大切だといいます。中学校でも同じで,学力維持のために国数 英の宿題を週末に出すべきだと言ってますが,どう思われますか。

○人格教育?
 昨今の十代の犯罪のこともあり,学力より人格形成にもっと力を入れるべきだとよく言われます。県教育委員会からもそんな話がでていたように思います。しかし,学力以外のことも認めていこうという風潮がかなり根付いた今頃,また学力を悪者にして人格教育だなんていっています。
 しかしこれはもう少し慎重に考えないといけないと思います。受験学力は,人格をゆがませ,健全な学力を育てないからダメなのであって,学力自体が悪いのではありません。むしろ学校教育は,健全な学力を育てる場として立て直していった方がいいように思います。我々が担当するのは人格ではなく学力であるべきです。それをきちんとやらないで人格という実態のないものを育てようとすることは無理が来ます。健全な学力とは,たとえば問題解決的な学習をして,自分のやってきたことを振り返り(リフレクション),そしてそれをまた次の学習に活かす,というところからもっとやっていくべきだと考えます。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第16号       平成12年6月21日(水)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 昨日は,学校教育というものを健全な学力をということで考えてみましたが,それとは違う立場である「学校カウンセリングと生徒指導」の面から考えてみたいと思います。

○なぜ学校にカウンセリングか

  1. 「不登校」「いじめ」への教育的対応をどうするのか。
  2. 家庭,地域社会の急激な変化に伴う,学校側の対応はこれでいいのか。
  3. 今,学校教師に問われている教師の力量(資質)。
  4. 学校教育の危機。

こういったことにより,学校カウンセリングが必要だとされています。

○学校カウンセリングとは

  1. 治すのが目的ではなく,教育が目的。
  2. これ以上問題を起こさないための予防的カウンセリング
  3. 学校カウンセリングの課題(予防的,全生徒対象)
  4. 学校カウンセリングの柱(臨床心理学,学校教育学,精神保健学,生徒指導,道徳,特別活動)

○学校カウンセリングの立場からの生徒指導の基本理念

  1. 人間の本性は善であるとの基本的な人間観。
  2. 知育は教育のすべてではない。
  3. 個別指導は人間尊重の教育(人権教育)の基本である。
  4. 形式よりその内容に意味を見出すのが肝心である。
  5. 治すこと(正すこと)より理解することが優先する。
  6. 絶えず学ぶもののみが教える資格を有する。
  7. 有能な教師と優れたカウンセラーの資質には共通の特性が認められる。

○どう受け止めるか。
 カウンセリングについては,研修等でその考え方や方法に触れる機会が多いと思います。学校の実態を考えると,勉強ばかりしていられる状況ではなく,目の前の問題をどう解決するかということが大切になってきます。1日としてゆっくりさせてくれません。そういった面から考えると,カウンセリングは生きた人間を相手にしているので,言ってることは確かにもっともなことが多いです。
 しかし,学校全体をこのような考え方で行って大丈夫なのだろうかという考えもあります。むしろ,教師の人間的成長,自己分析(内省)のためにこのような考え方を取り入れると良いのかも知れません。生徒も教師も日々成長していると言うことでしょうか。
 カウンセリングの理念を自分なりにどう受け止めたらいいのか整理する必要がありそうです。まともに考えると,じゃ,学校っていったい何なんだという根本的なところまでいってしまいます。でも,「学校」とは何かを今一度問い直すいい機会かも知れません。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第17号       平成12年6月22日(木)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 ネットワークと教育

○学校ホームページ
 現在,全国で5000以上の学校ホームページが立ち上がっています。単純に各都道府県の数で割ると,各県100以上ということになります。しかし,県によって事情がだいぶ異なり,かなり多いところと少ないところがあります。
 学校のホームページを公開して,以前と何か変わったことがあるかということですが,ある学校の例では,「ホームページを見ました」とメールをくれるのが,ほとんどお父さんだったということです。これは実に画期的なことで,学校で何らかの形で保護者が関わるというのは,イコールお母さんが関わると言ってもいいくらいだったからです。
 アメリカのように,親がふらっと教室をのぞきに来ることはまれで,多くは運動会とか,授業参観とか保護者会などの行事のときに限られているのが普通です。学校にしてみれば,毎日いつでも誰でも来られる状態というのは,危険も伴うし,焦点もぼやけてしまいます。
 学校ホームページを公開することで,保護者や地域の人は,まさにふらっと学校に立ち寄る感覚で,学校の様子を断片的ではありますが,知ることができます。

○インターネット導入の問題点
 浜松市ではすでに,インターネット接続されています。各学校の心の準備をしてる間もなくあっという間に接続できる環境が出来てしまったというところでしょうか。インターネット接続の前からあるいは接続されてもいくつかの問題点が存在します。

  1. 教師のパソコンそのものへの抵抗感の問題
    「今まで経験してこなかったこと」で,企業利益がかかっているわけでもない。また,パソコンを生徒に使わせるのは,「手間がかかる」行為であることなど。
  2. 活用そのものの問題
     どのように活用したら,効果があるのかが分からない。生徒や教師が活場面でどのようにネットワークと関わっているのか,どのような学びが実現されるか,といった本質的なところが見えないこと。
  3. 有害情報の問題
     ポルノ情報,大人が子どもに「なりすます」トラブルなど。
  4. サポートの問題
     誰がパソコンやネットワークの諸問題を対処するのかといった問題。こういったものが主なものです。問題点ばかりで,インターネットはやっぱり単なる「厄介者」なんでしょうか。

次回は,活用事例から分かる効果と課題について考えます。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第18号       平成12年6月23日(金)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 さりげなく気軽にじゃぶじゃぶ使うネットワーク実践の効果と課題

○ザリガニ大研究
 横浜の小学校に隣接している公園の中の池では,ザリガニがザクザク取れるそうです。ザリガニが教室に持ち込まれると,子どもたちは様々な難問にぶつかります。まず数匹が死んでしまったことで,「なぜ死んでしまったのか」という疑問を中心にクラスで討論するようになりました。また,同時進行で,「ザリガニ新聞」をWeb上に発信もしました。
 発信して数日後,北海道の小学生から,ザリガニを捕っている写真が送られてきて,横浜の小学生は,騒然としました。なぜなら,その捕り方が自分たちのスタイルとは,まったく違っていたからです。大きな反響を呼んだ1枚の写真から,ザリガニの捕り方や種類などやりとりが続いたようです。
 また,ザリガニの住む場所について投げかけたところ,山口県の中学3年生から返事をくれました。そこでは,小学生と中学生が,ザリガニの住む場所について,対等にやり合うのも姿が見られたそうです。このようなこともネットワークの醍醐味なのかも知れません。

○事例からみる効果と課題
 効果と課題について,いくつかの観点から見ると以下のようになります。
<背後にあるものを感じ取る> 
 ・効果 驚き,反発から共感,共有へ
 ・課題 ネットでは一部の子にとっての深まりにしかならない
<いつもと違う自分を出せる>
 ・効果 自信につながる異年齢の生徒との交流
 ・課題 ネットワークに逃げてしまう子供を作らないか
<ネットのむこうに人がいる>
 ・効果 ぬくもりのある情報が得られる
 ・課題 心ない言葉の応酬
<自己への振り返りが起こる>
 ・効果 自分と違う立場を実感する
 ・課題 教師が見取っていられるか?
<もどかしさをエネルギーに変える>
 ・効果 一行に集中し,一行を吟味する(メール)
 ・課題 時間との戦い(書く時間がない)
<ネットワーク上に誕生するバーチャルクラスルーム>
 ・効果 学びの共同体が出来る
 ・挨拶程度で終わってしまう


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第19号       平成12年6月26日(月)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 進化する携帯電話

○2年前の携帯電話
 携帯の進化はすさまじいものです。ほんの2年前の携帯電話は,数十文字のショートメッセージを送ることさえ珍しいものでした。ましてや,携帯電話を使って,インターネットの情報を見たりメールをやり取りすることなどは,ほとんどの人は想像さえしていなかったと思います。

○現在の携帯電話利用
 現在携帯は,インターネットの小型端末のようになってきました。メールはもちろんインターネットの各種情報を見ることが出来ます。もちろん見るだけでなく,チケットを注文したり,銀行に振込をしたりとかなり便利なことが出来るようになってきました。およそ1000万人の人が携帯からインターネットにアクセスしているそうです。驚くのは,iモードの契約者数が大手プロバイダの@niftyの会員数をたった1年で抜き去ってしまったということです。
 iモードはdocomoですが,DDIセルラーやIDOグループの「EzWeb/アクセス」も同様な勢いを持っています。

○どこまで進む携帯電話
 今年の秋には,音楽配信サービスとして,動画も実験的にスタートされるようです。ゲームコンテンツも,「読む・見る」から「操作する」へ変わっていきます。また,財布代わりとして,高額商品の支払いも出来るようになります。 もちろんそれに合わせて,電子証明書などの技術や決済システムも大変うまく考えられています。

○なぜここまで一気に進んだのだろう
 携帯を持とうかどうかという時代は過ぎ,欲しい情報を欲しいときに手に入れることができるようになってきました。インターネットの世界でもそうですが,多様なニーズに応じたサービスが実現されつつあることが,ここまで一気に普及してきた大きな原因なのではないかと思います。

○欲しいものがそんな簡単に見つかるのか
 難しいのは,いかに自分のニーズにあったものを探すかということです。「検索すればいい」なんてよく言いますが,実はなかなか難しいことで,数が多くなればなるほど自分の探したいものに行き当たる確率が低くなってしまいます。でたらめだったり,いい加減にやればそれなりの結果しか出ないことにもなります。少ない情報量の中で選ぶのではなく,膨大な情報量の中から必要なものを選ぶには,行き当たりばったりではうまくいきません。そのための支援が必要です。調べ学習で,このような力をつけるきっかけができそうです。

※本日昼頃より,江西中2年有志との交流掲示板をスタートさせます。 http://pc32edu.edu.hyogo-u.ac.jp/kohsai/index.html


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第20号       平成12年6月27日(火)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 ヒドゥン・カリキュラム(潜在的カリキュラム) −その1−

○学校の潜在的機能
 学校教育は,意図的・明示的に組織されたカリキュラムを通して行われているだけではなく,無意識のうちに人間形成の暗黙の機能をはたしています。
 ヒドゥン・カリキュラムという概念を最初に提示したのは,シカゴ大学のフィリップ・ジャクソンという教育学者です。ジャクソンは『教室の生活』を著し,学校の日常生活における体験の潜在的な教育機能を解釈的アプローチによって描写しています。

○ジャクソンの見た学校生活
 ジャクソンは,子どもは小学校6年間だけで毎週教会に50年間も礼拝するのと同じ時間を費やしている点に注目するとともに,教室は教会と同様,他の日常生活では経験しえない特異な機能を備えた場所であるといいます。
 教室という場所は,物理的環境においても,社会的関係においても,日々の活動においても,毎日がほとんど同じ事柄の繰り返しとして体験される永続性を特徴としています。閉じこめられ同じことが繰り返される点において,教室は,刑務所や精神病院と類似した特徴を示しています。このような教室の経験の特徴を,ジャクソンは「群れ」「賞賛」「権力」をキーワードに読み解いています。

○「群れ」として何を学ぶか
 限られた資源と一方向的時間の中で学習を遂行しなければならない教室において,教師は,秩序を統制する交通巡査や審判や物資供給の軍曹やタイムキーパーの役割を果たし,生徒は,発言を求めて挙手する場合も,教師の援助を求める場合も,水を飲む場合も,たえず「列をつくって順番を待つ」ことを強いられることになります。
 こうして,教室は,忍耐強く待つことを学び,自分の行動を遅らせることを学び,自分の欲求をあきらめることを学び,たとえ妨害が加わろうと自分の興味が移ろうと,課せられた仕事に専念して従事することを学ぶ場所となります。

○「賞賛」という評価がともなう場所で何を学ぶか
 教師が評価するだけでなく,生徒同士も互いの行動や態度を評価し合っています。自分自身で自分の評価も行っています。評価の対象は,学習の達成,制度への適応とパーソナリティの3つの要素で,学習の評価は一部に過ぎません。
 一般に教師たちは,肯定的な評価を多くする傾向がありますが,生徒は,別な方略で教師や仲間の評価に対処しています。否定的評価を隠そうとしたり,教師の評価に反発して仲間からの逆の評価を渇望したり,評価をごまかし無視する方略をとったり,傷つくことをおそれて,どんな評価に対してもクールに振る舞う姿勢を身につけます。このように,生徒は,涙と消耗から自分自身を守る心理的な緩衝法を学んでいます。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第21号       平成12年6月28日(水)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 ヒドゥン・カリキュラム(潜在的カリキュラム) −その2−

○「権力」が作動している場所から何を学ぶか
 教室は大人の「権力」が作動している場所です。親の権力が「〜してはいけません。」という禁止する権力であるのに対して,教師の権力は「〜しなさい」という命令する権力です。
 生徒にとって,教師は仕事を権力的に統制する最初のボスです。しかも,生徒は労働者以上に権力的に統制されています。労働者は,ボスの命令に逆らって会社を辞めることが出来ますが,生徒は学校を辞めることが出来ません。
 教師の不在には代わりの教師が必要なのに,生徒の不在には何も必要でないことは小学生でも熟知しています。
 教室は,権力への適応と対処の方略を学ぶ場所ということです。

○ワイズな生徒
 この「群れ」「賞賛」「権力」への適応と対処によって生徒が教室で体験している学びを,ジャクソンは「ヒドゥン・カリキュラム」と名付けています。「ヒドゥン・カリキュラム」を通して,生徒は,分からない問題にも正解で答える「テスト・ワイズ」な生徒,学校生活の苦しみを回避して過ごす「スクール・ワイズ」な生徒,教師の権力をかわして生きる「ティーチャー・ワイズ」な生徒に育っていくのです。

○ジャクソンの捉えていた「ヒドゥン・カリキュラム」
 ジャクソンは,「ヒドゥン・カリキュラム」に対して,その機能を除去すべきとか克服すべきという主張を掲げているわけではありません。むしろ,どんな革新的な教室においても「ヒドゥン・カリキュラム」が潜在的に機能している事実に気づくことの重要性を強調しています。
 ジャクソンは,「ヒドゥン・カリキュラム」と「顕在的(公的な)カリキュラム」とは「相互に関係するもの」と認識しています。

○控え目に記述された「ヒドゥン・カリキュラム」
 『教室の生活』において,「ヒドゥン・カリキュラム」はわずか1カ所で控え目に記述されていました。しかし,以後,このことはカリキュラム研究の中心的な概念の一つとして普及し,学校教育の潜在的な政治的イデオロギー的社会化の機能に対する関心を呼び起こすものとなりました。
 それと同時に,この概念自体も多義的に用いられるようになっています。「顕在的カリキュラム」が意図的・計画的なカリキュラムであるのに対して「ヒドゥン・カリキュラム」を無意図的な機能として認識する立場や,「ヒドゥン・カリキュラム」を「深層」として認識する見解を批判して,教室の知識と行動を官僚的・経営的に抑圧して構成される支配的イデオロギーの所産として認識する立場など,今日では,学校教育の過程で不可視に機能している政治的イデオロギー的社会化のすべてを示す用語として用いられています。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第22号       平成12年6月29日(木)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 教室のコミュニケーション分析(その1) フランダースの相互作用分析
 授業と学習は,教材を媒介とするコミュニケーションの過程として展開されています。では,どのようなコミュニケーションの様式が,授業と学習の効果を高めるのでしょうか。いくつかの分析方法の中から今回は,フランダースの相互作用分析を紹介します。

○相互作用分析の分析方法

  1. フランダースの相互作用分析は,教室のコミュニケーションの分析方法の代表的なものとして1970年代に世界に広く普及しました。これは,総計10の「分析カテゴリー」を用いて授業中の教師と子どもの発言行動を3秒ごとに分類して記録し,そのデータをマトリックスで示し,領域ごとに分析して,授業の特徴を数量的・客観的に分析する方法です。
  2. 授業記録は簡単で,観察者は,教室の発言行動を3秒ごとに(1)から(10)のカテゴリーに分類された記号で記録していきます。次に,このデータを前後の2項の組み合わせで,10×10 のマトリックス上に表示していきます。たとえば,3秒ごとの記録が,5-5-5-4-8-8-3-3-・・・であれば,5-5,5-5,5-4,4-8,8-8,8-3,3-3,・・・となります。
  3. このマトリックスは,領域によって,「教師の間接的影響」「教師の直接的影響」「生徒の発言を促進する教師の対応」「生徒の発言に対する教師の対応」などに分かれているので,授業の特徴が,ます。このようにこの方法は誰もが比較的簡単にしかも「中立的」「客観的」に分析できるので,各国の授業分析と教師教育に広く普及しました。

 


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第23号       平成12年6月30日(金)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 教室のコミュニケーション分析(その2) 相互作用分析への批判

○相互作用分析への代表的な批判
 教室のコミュニケーションに関する研究は,フランダースの相互作用分析への批判を通して活発に展開されるようになりました。批判の代表的な例が,イギリスのハミルトンとデラモントが提起した問題です。
 彼らは,いずれも文化人類学の方法を教室観察の方法に導入した教育社会学者です。当時(1974年)イギリスに急速に普及していた「子供中心主義の学校」の教室のフィールドワークを通して,フランダースの相互作用分析が,ある授業を他の授業と比較して標準化するには有効であっても,その授業の個性的な特徴を解明するには有効性が乏しいことを以下のように指摘しました。

  1. 教室の環境や教具や施設など,授業の文脈を無視している。
  2. 表面的で観察可能な行動だけに関心を向け,その背後にある意図を考慮していない。
  3. 未熟な測定技術や誤ったカテゴリーによって,対象の特質を曖昧にしたり歪めたり無視してしまう。
  4. グローバルな概念よりも,活動や行為の小さな要素に焦点を当てるため,グローバルな概念は,設定された概念の枠内でしか説明されない。
  5. 分析概念の定義では,予め特殊化されたカテゴリーを使用しているため,分析概念の説明を求めると,同義反復(トートロジー)に陥ってしまう。
  6. 持続的な現象に固定的な境界を設定することによって,ある偏見(バイアス)を生み出してしまう。

○エイデルマンとウォーカーの批判
 同じく文化人類学の方法で教室の観察を行ったイギリスのエイデルマンとウォーカーは,相互作用分析の最大の難点を,分析対象の「発話」を伝統的な定型化された授業を前提としてカテゴリー化し,「人間のコミュニケーション」における「発話」の多義性と複雑さを度外視している点にあると指摘しました。
 たとえば,教室の「発話」は,情報の伝達だけでなく,知識の意味の構成や話してのアイデンティティーの表現や話し手と他者とのつながりをも表現しているが,フランダースのシステムは「発話」の機能を「情報の伝達」だけに限定している,と指摘しています。また,分析カテゴリーの「沈黙」にしても,フランダースの解釈では,「無意味」という価値しか与えられてないが,実際の授業における「沈黙」は,きわめて多様で複合的な意味を担っており,時としてその授業全体を決定するほど重大な意義を担っている,と指摘しています。
☆これらの批判点は,フランダースの相互作用分析に固有な問題ではなく,実証主義的,行動科学的な授業分析に共通の問題でした。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第24号       平成12年7月3日(月)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

【パソコン購入ガイド】 先週はだいぶ堅い話が続いたので,少し息抜きです。

○標準スペック

  1.  CPUは,普通に使うのならば,Pentium,Cerelon,Athlon,K6-2のどれを選んでもあまり変わりません。同じ周波数ならば,Athlonが最も速く,次いでPentium,K6,Cerelonと続きます。周波数は,400〜500MHz前後が激安価格帯に入ります。それよりも小さいものは,新品ではもう置いてません。最速は1GHzのものです。当然速くなればなるほど高価になります。
  2.  メモリーは,32Mか64Mが多いです。これは多い方が快適です。最低64Mある方がいいでしょう。余裕があれば,もう64Mたして,128Mにしておけば,かなり快適です。
  3.  ハードディスクは,10Gが普通です。15Gでも値段はあまり変わりません。まあこれは,10Gもあれば,事足りるでしょう。
  4.  CD-ROMはだいたいどれにもついています。CD-R/RWがあれば,書き込みが出来るので,いろいろと便利です。しかもCD-Rは1枚70円〜100円程度で買えるので,データ等のバックアップに惜しげもなく使えます。また,音楽CDも作れるので,自分だけのお気に入り曲集なんかも結構手軽に出来ます。

○タイプ別の特徴

  1.  パソコンと一口に言っても,デスクトップ型,ノート型,モバイル型などがあります。用途に応じて,必要なものを選びます。
  2.  同じスペックであれば,デスクトップ型が最も安く手に入ります。動かさないのならば,これがいいでしょう。CRT(画面)がブラウン管のものと,TFTのものがあります。TFTのものは,目には優しいですが,高価です。 15インチで,8万円前後します。CRTは17インチが主流かと思います。セットのものであれば,3万くらい,単体で4万円くらいです。
  3.  ノート型は,バイオが人気がありますが,NECもなかなかいいです。他社も最近では,かなり使い勝手が良くなってきました。ただ,画面はTFTがおすすめです。DSTNよりは高くなりますが,残像がないので見やすいです。DSTNなどは安いですが,どうしても画面表示が遅くなってしまいます。10万円そこそこのノート型のものがありますが,やはり画面はDSTNで,使っている人の評判も良くありません。ノートはどうしても最低20万は越えてしまいます。25万前後が多いでしょう。

○詳しく調べるには
 インターネットを使って,見積もりが出来ます。たとえば,価格.comでは,スペックを選ぶと,各社ごとの値段が比較できるようになっています。URLは http://www.kakaku.com です。また,DELLやGatewayやMouseのホームページでも無料の見積もりが出来るようになっています。意外と掘り出し物が見つかるかも知れません。
 また,浜松では,パソコン専門店の値段は,全国的に見ても安い方です。ただ電気店のものは,高いですね。それに店員が詳しくないから話が通じません。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第25号       平成12年7月4日(火)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

【近況】 学校の近況も聞きたいですが,こちらの近況を報告します。

○ゼミ室
 私の所属する教育方法コースは,言語棟という7階建ての建物の5階と6階 に研究室やゼミ室があります。教育方法コースはさらに研究室ごとにいくつか分かれていて,私は5階の教育工学のゼミ室にいます。教育工学のゼミ室はなぜか,認知実験室という名前になっています。
 7月になって昼間はクーラーが入るようになりました。しかし,5時になると,ぴたっとクーラーが止まってしまうので,夕方から夜にかけてはなかなかたいへんです。ゼミ室には主に夕方以降人が集まるので,夜もクーラーが欲しいとみんな言っています。
 ゼミ室には,コンピュータがたくさんあります。部屋自体が狭いので,あまり快適ではありません。コンピュータは,Mac,DOS/V,VAIO,NEC等いろいろな種類があります。サーバーとしても何台か動いています。

○社(やしろ)町
 兵庫教育大学は,神戸市の北の方に位置します。神戸の中心街から車で1時間くらいの所です。電車等を使っても同じです。ここ社町は,大学を中心に学園道路が取り巻いており,その中を学園都市としています。しかし,全然都市ではなく,この中には店を建てられないので,コンビニやスーパーはそこの外側にあります。なので,すぐ近くのコンビニでも5kmはあります。
 社町に限らずこちらは,野池や貯水池が多いです。田植えの季節になるとそこから水を供給しているんでしょうか。田んぼの所を走っている溝には,普段水がないけど,田植えの時期だけ水が流れてます。
 自然がとても多いところと言うか,田んぼばかりです。のんびりしたところでいいなと思ったのは,最初の1日だけです。あとは店はないし遊ぶところもないしで不便そのものでした。でも今はそれに慣れてしまいました。

○学会発表
 私の所属するゼミ室は教育工学なので,中心的な学会は日本教育工学会になります。10月に全国大会があって,今年は教育工学関連の連合大会になるのでとても大きい大会になります。
 発表の参加申し込みが先週締め切りだったので,先生とタイトルや要旨について話し合いを何回もしてました。くじけそうでしたが,何とか申し込みに間に合わせ,「協調学習のための話し合い支援システムの開発」というタイトルで発表することになりました。話し合い支援システムと言っても大したものを作るわけではありません。
 これが終わると,実践学会か,理科の学会か何かまた違う学会発表をすることになります。そしてそれと平行して,修士論文を書いていくことになります。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第26号       平成12年7月5日(水)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

【ベラックの授業分析】実証主義的,行動科学的な授業分析法の一つ

○相互作用分析からの課題
 ベラックらは,相互作用分析による授業研究が,教室のコミュニケーションの形式的な特徴を示すだけで,内容的な単位の構造や教授学的な意味と機能を解明していないことを克服することを課題としました。

○ベラックの授業分析とはどのようなものか
 分析カテゴリーの構成にあたって,ベラックらが参照したのは,ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の理論でした。コミュニケーションにおける発話は,内容的意味と社会的機能の2つを持つものと見なされ,しかも,そのコミュニケーションの過程は「指し手」と「受け手」の「言語ゲーム」として展開するものと見なされました。
 たとえば,教師が,授業に集中していない子どもを指名して「○○君,窓を開けて」と言ったとき,その発言は「窓を開ける」という指示の内容が表現されていると同時に,○○君に対して教師の言葉をよく聞いて授業に集中しなさいという,暗黙のメッセージが含まれています。これが発話の内容的な意味と社会的な機能です。
 また,この教師の発話は「指し手」の主導性を表現し,「はい」と答えて窓を開ける○○君の言葉と言動は「受け手」の受動性を表しています。そして,この指示と応答の会話の単位は,教師の「ありがとう」という反応において完結する一つの内容的な単位を構成しています。

○分析カテゴリー
 ベラックらは,上記のような内容的な単位と発話の意味と機能に着目して,8つのカテゴリーを設定しています。
(1)話し手(教師,生徒,視聴覚教具)
(2)教授学的手法の型
(3)題材的意味
(4)題材−論理的意味
(5)(3)と(4)の行数
(6)指導的意味
(7)指導−論理的意味
(8)(6)と(7)の行数 内容のまとまりごとに分割された発話の単位は,この8つのカテゴリーにコーディングされることになります。
 「教授学的手法」の型とは,言語ゲームの「指し手」と「受け手」の関係であり,会話の文脈を決定する「構造化(STRと表記)」の手法,発問や指示で相手の応答を導く「誘発(SOLと表記)」の手法,それに応える「応答(RESと表記)」の手法,そして,この3つの手法に対して反応したり評価したりする「反応(REAと表記)」の手法の4つのカテゴリーで表記されます。
 これだけみても,フランダースの相互作用分析に比べると,はるかに複雑で構造化されていることが分かります。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第27号       平成12年7月6日(木)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

【ベラックの授業分析(その2)】

○具体的な発言をコーディングする
 教師   いいかな。今度は原油の
     輸出国と輸入国の関係につ  T/STR/IMX/XRL/4/PRC/FAC/2
     いてだけど,中近東の地域
     は莫大な石油を埋蔵してい
     たよね。最初に地図で,埋
     蔵量を確認しておこうか。
 この教師の発言をコーディングすると,上記右側のようになります。この表記は,教師(T)が構造的手法(STR)の発話をし,その中で輸出入(IMX)に関する説明(XRL)を4行文(4)行い,授業の手続き(PRC)に関する事実(FAC)を2行文(2)述べていることを示しています。

○「教授学的手法」について
 8つの分析カテゴリーの中で,もっとも上位に属し最も決定的な意味を持つのが,「構造化(structuring)」「誘発(soliciting)」「応答(responding)」「反応(reacting)」の4つの分類で示される「教授学的手法」です。
「構造化(STR)」の手法とは,コミュニケーションの内容的な単位の基礎をなす文脈を決定する手法です。「今日どこからかな」とか「次にみんなに聞くんだけど」とか「少し関係ないけど○○についてはどうなの」というように,コミュニケーションの内容的な文脈を区切って移行する発話が,この「構造化」の手法です。
「誘発(SOL)」の手法とは,発問と指示の発話です。この手法は「構造化」の次に位置することもあれば,単独に一つの内容の単位を主導することもあります。
「応答(RES)」は,「誘発」への応答として行われる発話と行動です。「発問」に対する「回答」や「指示」に対する「対応」が,この「応答」の発話と行動に該当しています。
「反応(REA)」は,「構造化」や「誘発」や「応答」の発話に対して何らかの評価や同意や反対の意向を表現する発話です。リアクションとしての発話であり,「反応」の発話のリアクションとして「反応」が続くこともあります。

○教室のコミュニケーションの特色
 4つの「教授学的手法」に即して見ると,教室のコミュニケーションの単位は,合計21の構造的な種類を示すことになります。この21種の類型をベラックらは「教授サイクル」と呼んでいます。多数の授業からこの「教授サイクル」の頻度を調べると,8割近くが,「SOL-RES-REA」の類型に集中していたと報告されています。これは,日本の中学校の社会科の授業においてもほぼ同様の結果を示したそうです。「SOL-RES-REA」を基本単位とする会話は,教室のコミュニケーションの一般的な傾向と言うことになります。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第28号       平成12年7月7日(金)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

【メーハンの会話分析】教室のエスノメソドロジーの会話分析を紹介します。

○エスノメソドロジーとは
 カリフォルニア大学のガーフィンケルらが開拓した方法で,「ある社会集団の中で判断や行動を読み解き,その社会集団の日常生活を構成している文化規範と権力関係を行為者の行動や感覚に即して開示する方法」です。「ethno(人々の)+method(方法)」を解明するものです。ここでの社会集団は教室です。
 メーハンの研究の目的は,教室で日々繰り返されている授業のコミュニケーションの特徴的な会話構造を分析して,教室の隠された社会的な関係や権力関係を明示することです。

○メーハンの解釈
 メーハンは,ベラックらは着目した「SOL-RES-REA」の会話の単位を「教師の主導(teacher initiative)」「生徒の応答(student response)」「教師の評価(teacher evaluation)」という「IRE」の会話の構造として表現し,社会的構成主義の立場から新しい解釈を試みています。
 教室の会話の特異性は明瞭で,以前紹介したように,一般の会話では知らない人が知っている人に尋ねるのに対して,教室の会話では,知っている人が知らない人に尋ねます。また,一般の会話では,質問に対する応答に感謝の言葉を添えるのに対して,教室の会話では,質問への応答に対して評価の言葉が添えられ,この評価の言葉によって会話の単位が完結する構造を持っています。この「IRE」の構造こそ,教室のコミュニケーションの本質的な構造です。
 またメーハンは,一般の会話は,挨拶に挨拶,依頼に承認,質問に回答,厚意に感謝,指示に応答,説明に説明というように,2項の単位が会話の基礎単位をなしているのに対して,教室の会話では,評価が介在する3項の単位が会話の基礎単位をなしている点に注目しています。  このメーハンの考えは,1979年に出版された『授業を学ぶ』で述べられているものですが,授業では,「導入」「展開」「まとめ」という順次的な構造を持ち,それぞれの段階で特徴があることを述べています。

○ふと思ったんですが
 その話の前に,現在の目の前のクラスでの生徒との会話を振り返ると,必ずしもそのようにはなっていないかも知れないと思いました。少なくとも自分の場合は,評価で会話の単位を完結する場面は少なく,一般の会話と似ていることに気がつきました。これは現在の一つの姿なんでしょうか。あるいは,生徒の状態(生徒指導的な意味で)に左右されるものなんでしょうか。そんなこともふと思いました。ほんのちょっとした会話の構造に生徒が反応し,その結果生徒との関係が良くなったり悪くなったりするってこともあるんでしょうか。 こんなこともちょっと興味がわいてきました。どなたか何か気がついている人は是非教えて下さい。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第29号       平成12年7月10日(月)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

【キャズデンの社会言語学的分析】教室のディスコース

○教室言語の3つの機能
 社会言語学を基礎とするキャズデンは,教室の事象は,心理学的事実ではなく,「社会的な出来事」であり,コミュニケーションの過程に参加する教師と生徒の言語活動を通して社会的に構成された事実と捉えました。
 発話言語は,授業と学習を推進する具体的なツールであり,教室の人間関係が築かれるツールであり,同時に,教室の参加者のアイデンティティの重要な構成要素です。この立場から教室の言語を「カリキュラムの言語」「統制の言語」「個人的アイデンティティの言語」の3つの相で提示し,教室のコミュニケーションにおける言語機能の「三重の核」を次のように設定しています。 ・「命題的機能」
 教室の中で,ある知識や情報や技能が伝達される機能,すなわち認知的な機能を意味しており,教育内容の伝達と学習に関わる機能です。
・「社会的機能」
 教室の対人関係の構成と修復に関する機能です。
・「表現的機能」
 教師と生徒のアイデンティティの表現に関わる機能です。

○教室のディスコース分析
 キャズデンによる教室の具体的な事例にもとづくディスコース分析を3点紹介します。
・「文脈の創造」
 教室のコミュニケーションは,「IRE」の構造に典型的に見られるような明示的なルールの実行として遂行されるだけではなく,教師と生徒の発話によってコミュニケーションの文脈それ自体が創造され続けるような,非明示的な過程が潜在していることの発見です。
・文化的・社会的共同体
 教室を文化的・社会的共同体として認識し,授業と学習を文化的・社会的な言語実践として認識しました。教室の研究は,教師と生徒の行動の文化的意味を開示するだけでなく,その文化的意味を構成し正当化している社会的過程として探究されなければならないとしています。
・発話を学校外の人々との関わりと結合して理解
 教室における教師と生徒の発話行為を,その教室の直接的な人間関係や文化においてだけでなく,学校の制度的な文化や学校外の人々との関わりと結合して理解すべきだとしています。教室のコミュニケーションは,その内部により広い,社会的文脈を包摂し展開しているとのことです。(Cazden,1988)


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第30号       平成12年7月11日(火)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

【教師の言語と学力差の研究】子どもの帰属する社会集団の言語と学力

○知識社会学のアプローチ
 ロンドン大学のバーンステインは,まず,中産階級と労働者階級の使用している言語コードの差異に着目して,中産階級の使用している言語コードを「精密コード」,労働者階級の使用している言語コードを「限定コード」と名付けて分類しました。「精密コード」とは,抽象的な概念を論理的に構成する洗練された言語コードであり,一般に,抽象言語が多用されるとともに,関係代名詞を用いた複文で表現されることが多いとされています。「限定コード」は,特定の文脈において意味が通じる言語コードであり,一般に,具体的な事実の羅列や単語だけの発話や命令文のように短い発話で語られ,長くなる場合も「and」で並列的に接続する重文が基本になっているといいます。
 この2つの言語コードの差異が,中産階級と労働者階級の子どもの学業成績の差異の原因になっているとバーンステインは言っています。教師の発話や教室の公的なコミュニケーションの言語は,基本的に「精密コード」で構成されており,この言語コードになじんだ中産階級の子どもに有利に機能し,「限定コード」を多用する労働者階級の子どもには不利に機能するからです。(Bernstein,1975)

○文化人類学的アプローチ
 スタンフォード大学のヒースは,白人の中産階級の居住区の子どもと白人の労働者階級の居住区の子どもと黒人の労働者階級の子どもの発話のディスコースと学業成績の関係を調査して,興味深い結果を提出しました。この3つのグループの中で,最も学業成績が高いのは白人の中産階級の子どもであり,中間が白人の労働者階級の子ども,最も成績が低かったのは黒人の労働者階級の子どもでした。
 この3つのグループの発話のディスコースの特徴を分析すると,黒人の労働者階級の子どもは,抽象的な言語を含まないストーリーの形式で発話する文化であり,白人の労働者階級の子どもはストーリーを構成しない概念的な言語を単語で発話する文化であるのに対して,白人の中産階級の子どもの文化は抽象的な概念を具体的なストーリーの形式で表現する「文化人類学的な語り」を特徴としていたと言います。この「文化人類学的な語り」が学校教育における成功を導いたというわけです。(Heath,1983)

○オグブの研究
 もちろん,学業成績の差異を子どもの属する人種の階級の言語の差異だけで説明することは出来ません。カリフォルニア大学のオグブは,「アメリカのカースト制度」としての学校が,人種の学力差を拡大再生産している過程を分析するとともに,マイノリティであることが必ずしも学業成績の失敗と結合していないと言います。同じマイノリティであっても,日本人と韓国人と台湾人の多くは,白人以上の学業的成功を達成しているからです。そして,この成功するマイノリティの特徴は,自らの民族的アイデンティティを放棄してアメリカの白人文化と同一化している点にあるといいます。言い換えると,マイノリティが達成している成功は,自らの民族的アイデンティティを放棄した報酬だというのです。(Ogbu,1978)


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第31号       平成12年7月12日(水)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

【相互評価】評価について改めて考えます。

○評価の種類と本来のねらい
 すでにご承知のように,評価は評価活動を行う主体が誰であるかによって, 教師評価,自己評価,相互評価の3つに分類できます。
 評価本来のねらいは,学習者の興味関心の動向,思考の状況やつまずき,達 成状況などを的確に捉え,その情報を教師と学習者にフィードバックすること で,教師の的確な指導・支援を引き出したり,学習者自身による学習活動に対 する振り返りと軌道修正をすることで,学習者一人一人に学習を成立させてい くところにあります。また,その中で自己教育力を形成する重要な要素であるメタ認知能力と学習意欲を育成していくところにあります。

○相互評価
 相互評価は,自分が属する集団のメンバーの活動や思考状況を吟味し,正しく把握するとともに,この先どのような方向を目指せばよいかについて考え, 行動する能力を培う機能を持っています。
 他人の学習活動をうまく評価し,あるいは他人からの評価をうまく受け入れることが出来る能力や態度を身につけることが出来ます。
 その中で,自分の学習の仕方も反省し,よりよい学び方を志向するとともに,集団としての学習のあり方や思考の深まりや広がりを体験していくことになり ます。
 相互評価は,主体的学習が行われている学習者集団において,教師評価及び自己評価と密接に関わり合い,補い合いながら機能していきます。

  ○科学的認識と相互評価
 理科教育は,内容的にも方法的にも,その基盤を自然科学においています。自然科学の特質の中で,自然科学的認識の成立過程は,相互評価と密接な関わ りを持っています。というのは,自然科学的認識は個々人の個性的追求によりもたらされた結果が公表され,あらゆる角度からの批判的検討にも耐え,社会的に認められてはじめて科学の中に位置づけられます。したがって,科学的認 識は万人が認める形で実証されていきます。相互評価が十分に機能する学習集団の存在が保証されることで,相互評価を通した科学的認識の成立が可能になります。

☆お知らせ
『野路菊だより』も30号を超えましたので,ここまでのものをWebページにアップすることにしました。文字ばかりで見にくいですが,ご覧いただければ幸いです。私のホームページの中にリンクが貼ってあります。また,直接urlを入力していただいても結構です。ユーザー名とパスワードは,「江西中との交流用」のものと同じで結構です。

※参考にした文献についてはまた改めて紹介いたします。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第32号       平成12年7月13日(木)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
【教育工学】教育工学とはどんな学問なのでしょうか。日本教育工学会論文誌  Vol.22,No4(1999)の「教育工学の現状と今後の展開」という論文を中心に紹介 していきます。

○教育工学とは

 「教育工学とは,学習の過程と資源についての設計,開発,運用,管理なら びに評価に関する理論と実践である」と,米国コミュニケーション・工学会は 定義しています。また,佐伯胖氏は「教育工学とは,学習を支援する道具の開 発と,その道具の使用技術の開発をする学問である」といっています。

○教育工学の扱う分野

 日本教育工学会で制作している「教育工学事典」では,教育工学を10の分 野に分けて説明しています。10の分野とは,認知,メディア,コンピュータ 利用,データ解析,ネットワーク,授業研究,教師教育,情報教育,インスト ラクショナルデザイン(教育設計),教育工学一般です。  Johnsonらは,教育工学や教育設計の基礎となる学問を,学習心理学,情報科学,システム工学の3つに分類して,その関わりを歴史的に考察しています。 これはたとえば,人間の学習課程を調べるためには認知心理学が必要であり, 教育の具体的な改善をするためには,コンピュータやネットワークの教育利用やメディア研究の基礎となる情報科学が必要であり,これらの知見を実践にフ ィードバックしたり社会制度の中で活かしたりするためには,授業研究や教師教育といった研究が要請され,その研究方法には,システム思考や質的な研究方法が必要とされるといった解釈が出来るようです。

○認知研究からの新しいパラダイム

 近年になって,認知研究から新しいパラダイムとして「状況的学習」や「社 会的構成主義」の学習論が登場して,社会的な相互作用を重視するようになり, 研究方法として,「質的アプローチ」が持ち込まれるようになりました。
 また,ネットワークの研究分野では,インターネットをはじめとする技術が 社会全体や教育にも大きな影響を与え,教育工学の研究にも「協調学習支援」 や「CSCW/L(Computer Supported Cooperative Work/Learning)」などの技術が教育の中に取り込まれるようになってきました。

○状況的学習論のいう学習とは何か

 状況的学習(situated leaning)という概念では,学習の共同体(community)と いう概念を軸に,社会的な関わりの中でアイデンティティを形成していく過程 が学習であるとしています。こうした考え方は,個人ごとに知識や技能を身に つけていくことが学習であるとする学習観・教育観の再検討を促すものとなっています。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第33号       平成12年7月14日(金)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

【質的研究】私のゼミでは,質的アプローチによる分析を行っています。仮説 検証型ではない研究手法のさわりを紹介します。

○量的研究と質的研究

 教育研究の方法には,大きく分けて2つの方法があります。量的研究と質的研究です。量的研究とは,仮説検証型の研究で,データ処理に統計的手法を用 いるところから量的研究と呼ばれているようです。それに対して,質的研究は仮説を検証していくのではなく,ありのままの状態を見てそこから何が分かる かをデータから探っていくもので,統計など量を扱わないので質的研究と呼ばれています。

○量的研究の方法と問題点

 研究をするには,問題となることがあり,それを解決あるいは明らかにする ための仮説を考え,さらにその仮説を検証するための実験方法を考えていきます。条件を変えて行う実験群,何も条件を変えていない統制群を用意し,そこ から得られたデータを統計的な処理を行い有意な差が出たかどうかを調べるも のです。たいへんはっきりしており,データの統計的処理の方法は安定しており,万人が認めるものとなっています。
 しかし,教育研究において,実験群と統制群を用意してもその2つの集団は まったく同じではありません。統計的にはある観点に対して「同じ」というこ とになりますが,その観点に影響を与えるものまで統制していくことが必要になります。さらにある観点に影響を与える別の観点も統制し・・・・,と考え ていくとキリがありません。また,一人一人の個性が様々であっても,集団の平均を取るので,個々の比較をするのには無理があるように思います。
 このように,2つの「同じ」集団をもとに比較したり,1つの集団を2つの やり方で見ていくということをしますが,厳密には条件は同じになりません。 1つの集団でも,まずAのやり方で行い,次にBのやり方で行って,どちらがよいか調べるというわけですが,これもAをしてBの場合と,BをしてAをする場合で違いが出る可能性があるから,ABBAやBAABの順で行ってAの やり方とBのやり方のどちらが有効かを調べていくことになります。
 でも,このようなやり方は,ちょっとしたことなら出来ますが,実際にはなかなか難しいことになります。生徒もいい迷惑です。また,同じことをやっても1組と2組で違ったり,現任校と前任校とでも反応が違ったという経験があ ると思います。もちろん同じクラスでも,前回は良かったけど今日はあまりよ く無いということもあるかと思います。
 このように状況によっていろいろ変わってくるのが実状です。せっかく厳密 に統計処理をして,有意差があるとか無いとかやっても意味が無くなってしま うことはよくあることです。もちろん量的研究が無駄とか,統計処理は信頼できないといっているわけではなく,実際の教室では,状況を無視しては出来ないということです。では,状況を無視しないで,それをうまく取り入れた研究 方法があるのでしょうか。次回はこの量的な手法を補うために開発されている 質的アプローチの方法について述べます。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 野路菊だより  第34号       平成12年7月17日(月)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
【質的研究2】

○質的研究とは
 質的研究と量的研究の違いについては前号で述べました。改めて質的研究とは何かということを乱暴に言ってしまうと,自分の行った授業(実践)あるいは指導が子どもたちの考え方や日常生活にどのような変化をもたらすかを日記風に記述して解釈するものです。斉藤喜博や東井義雄らの現場の教師が始めた授業研究はそういう意味で我が国独自の質的研究と捉えている人もいます。
 質的研究法の代表的なものに,「エスノメソドロジー」「エスノグラフィー」グラウンデッドセオリー」などがあります。
 いずれの方法にも共通しているのが,仮説検証をするものではないこと(実験的研究状況を設定しないこと),主観を排さないこと,文脈を重視すること,観察や面接などの言語記録から「意味」を見出すこと(理論浮上),統計的処理など量を使って研究しないことなどがあるかと思います。

○「非行」を例にした量的アプローチと質的アプローチの違い
 「非行」について研究をしたとします。このとき,量的研究で可能なのは,非行の特性を,その種類やそれを行った者の年齢や性別などの観点から分類することや,それを年度ごとに比較したり別の地域と比較する分析などです。
 それに対して,そもそもある地域では,何をすると非行を見なされるのか,というような文化に依存する「非行のラベリング」の問題などは,量的研究では扱えないので,質的研究で扱うことになります。

○コンピュータ活用の例
 同様にコンピュータの学校教育での活用を例に考えます。質的研究手法では,コンピュータやインターネットなどのテクノロジーの特性が,子どもや教師や教室や学校の特性にどのような影響を与え,それをどう変化させるか,同時に,子どもや教師や教室や学校の特性は,テクノロジーの機能にどのような影響を与え,それをどのように変化させるか,というような問題を扱い,それを通して,新たな問題や課題が発見されることが期待されています。

○質的研究の方法
 実は「これがその方法だ」というような決まったやり方がありません。それぞれの研究者によってかなり異なっているようです。
 たとえばグランデッドセオリーは,グレイザー&ストラウスの「データ対話型理論の発見」などの書物を参考にしています。
 エスノグラフィーは,例えば佐藤郁哉の「フィールドワーク」とか志水宏吉(編)の「教育のエスノグラフィー」などが参考になります。エスノグラ
フィーの本は読み物としてもおもしろいかも知れません。
 また,名古屋大の大谷先生が主催している「質的メーリングリスト」に参加してみると様々な研究者の話が聞けておもしろいかも知れません。
http://www.educa.nagoya-u.ac.jp/otani/quality/quality-ml.html
興味ある方は一度挑戦してみたらいかがでしょう。自分も思いもよらない何かが発見できるかも知れません。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−-
 野路菊だより  第35号       平成12年7月18日(火)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
【質的研究3】グラウンデッドセオリー

○グラウンデッドセオリーとは何か。

 社会学者のグレイザーとストラウスによって作られたもので,1965年に出版された『死の認知(Awareness of Dying)』など,病院において患者が死を認識する過程を明らかにした研究が有名です。
☆この方法の特徴は,
@現実に根ざした理論を生み出す。
 「グランデッド」とは,現実に根ざしているという意味であり,グラウンデッドセオリーは,現象から帰納的に理論を生成することを目的にしています。
A社会的に意味が構成されるプロセスを分析する。
 この理論は,ハーバート・ブルーマーらのシンボリック相互作用論をベースにしています。その理論では,人間は能動的な意味構成の主体であり,その意味は社会的コミュニケーションの文脈の中で構成されるというものです。
☆グラウンデッドセオリーの方法
@フィールドに入り,観察やインタビューを行う。
 参与観察をします。参与はフィールドにとけ込むことであり,観察者は基本的にそのフィールドの主体的実践者としてふるまいません。
A記録にキーワードをつけ,分析する。
 観察やインタビューは,記録されたらすぐにキーワードがつけられます。キーワードをつけた後,キーワード間の関係について比較分析を行います。たと えば,ある条件で,A君に特徴的な行動が見られるのにB君には見られない場合,その差を生み出す要因を推測し,キーワードとして記述します。そしてこの要因の仮説に基づいて次のデータを採集することになります。この操作を続 けていく間に,仮説は精緻化されてカテゴリーとなり,カテゴリー間の構造がはっきりしてくると,最終的に理論の形を取るようになる,というものです。

○具体的な例
 山内氏(現茨城大)が行ったフィールドワークから紹介します。 山内氏は,メディアキッズという教育プロジェクトに参加していた大阪の萱野 小学校に通い,そこで起こっている子どもたちの様子を明らかにしています。 氏は,コンピュータに向かう子どものスタイルをタイプ分けをし,何人かの子 どものタイプが変容していく過程を捉えました。
タイプは,@攻撃型,A機械好き型,B自己満足型,C共同体型 の4つに分類されましたが,全員の子どもたちが固定的にこの4つのタイプに 分けられるわけではなく,基本的に攻撃型で時々機械好きになったりする子どももいます。2ヶ月ほどで,子どもの様子が変わってきて,熱狂的にメディア キッズをやっていた子どもたちが飽きて使わなくなったそうです。
 また,何人かの子どもたちの変容を追いかけると,自己満足型→共同体型, 機械好き型→共同体型,攻撃型→自己満足型など,子どもの変容が見られたと いうものです。この最後の攻撃型の子どもが暴力ではなく,言葉でコミュニケーションを始め,運動会の後しばらく沈静化していたようです。

※この号で1学期の配信は終わりです。良い夏休みをお過ごし下さい。


 [トップに戻る]     [2学期配信(第36号)へ]


Copyright (C) 2023 S.Nakane All Right Reserved.