来客を告げるブザーが鳴った。その時、反町はナイトキャップ代わりの新しいバーボンを抱え、見合うつまみを物色しているところだった。
 時計を見る。標準23時。アポイントなしの訪問にはかなり微妙な時間帯だ。そう思ってから、電子音の種類に気付いて眉を寄せる。
 それは一階のエントランスからの呼び出しではなく、直接、このフラットのドア前からのものなのだった。暗証登録してある知人の数はそう多くは無い。懇意のその彼らの内の一人が、夜半に突然の訪問に及ぶ理由…──。それを考えると、当然のように心中穏やかではいられなくなる。
 念のため、応答より先にセキュリティパネルをチェックする。個別登録の照会によって、ドア前の人物が一体誰であるのか、そこで表示確認出来るはずだった。しかし、ローマ字で綴られた名前を見て、反町の心脈数は一瞬だけ跳ね上がった。
 ───冬至の前夜に、過去を裁きに現われる友人の亡霊。
 そんな物語を、子供の時分に読んだことがあったのを思い出す。古い名作、確かオールドアースの作家のものだ。あれはハッピーエンドだったかな?、おかしいなラストをまるきり覚えていない…。
 もう一度、じれたようにブザーが鳴る。
 反町はガウンの帯を結び直し、矢張りインターホンでの応答はしないままドアを開けた。
「やあ。こんばんは。随分と急だね? 僕はそろそろ寝るところだったんだぜ」
 何か言いかけ、けれども訪問者の口からは結局言葉らしい言葉は出てこなかった。懐かしい面影そのままの少年は、強張った顔で反町を凝視したあと、ただ静かに目礼した。



「そこいらに座ってくれ。散らかってるが、まあ気にしないでもらえると有り難いね」
「──…。こんな、夜分にすいません」
 やっとのことで、口から石の塊を押し出すように少年は呟いた。とりあえず彼をリビングのソファに座らせ、自分も向かいに腰を下ろす。ガラステーブルには氷とグラスを一つ追加していた。彼の年頃を考えないでも無かったが、素面で話せる顔付きでも無かった。
「僕は悪いオッサンだからな。青少年にもどんどんアルコールは推進してるんだよ。もっともこりゃあ、初心者向きの酒でも無いんだが…」
「大丈夫です。結構、これでも付き合わされてるんで」
 初めて、チラリと彼は表情を見せた。懐かしい、と何度目かに思う。暫く見ない内に、随分と見てくれは育ったものだが、それでも間近にすればやや幼さの残る顔なのが判った。
「でかくなったなあ。そろそろ高等部か?」
「去年に。でも僕は二年スキップしてますから、年で言ったらまだ」
「ふうん。…で、あいつ、若島津は元気?」
 予想されてしかるべき質問を投げたのに、またふっと彼は暗い目付きになって頷いた。ああ、やっぱりな、と反町は心の中で呟く。やっぱりな、君。それでここをご訪問ってわけだ。
「元気、ですよ。相変わらず、こっちが言わないとよくものを食ってくんない人ですけど」
「あいつは昔っからそうなんだ。ハラハラすんのは側に居る連中だけさ」
「昔からですか。たまんないな」
「若い頃の方がどっちかって言やひどかったぜ。なまじ自分を過信する奴だったからな。人の言うことに耳を貸しもしないんだ」
「…誰にも?」
「え?」
 いえ、と彼は視線を逸らして、満たされたグラスを受け取った。ためらいがちに揺らしたあと、胴に入った仕草で一口あおる。
「なあ君。先に一つ質問させてくれ。…どうして、下のインターホンを押さなかったんだ?」
「それは、──多分僕の賭けだったんです」
 水を向けてやった反町に、彼はほんの少しの沈黙を挟んで答えた。不思議とその言葉自体には、何の感情の粒子も入り込む余地は無かった。
「賭けって」
 尋き返しながら、反町も自分のグラスを口元に運んだ。
「つまり、下のエントランスの入口が開かなかったら、僕はそこで帰るつもりだったんです。分のある賭けだったと思うけど」
「分のある? なぜ」
 その質問には、「口を滑らせたかな」という顔をして彼は反町を窺い見た。構わないというふうに反町が手を振ると、「怒んないで下さい」と前置きして彼は続けた。
「そういうセンチメンタリズムが、あなたにはあると思ってた。悪く言ってるんじゃないんです、ほんとに。それに、もしかしたら何かの事情で、セキュリティ全部を入れ替えたりすることがあったかもしれない。もしくはその感傷は逆方向に働いて、敢えてさっぱり登録解除する方を選んでたかもしれない。だから賭けだけど、…そうですね。やっぱり、僕には少し分があったと思います」
 腹は立たなかった。なるほどね、と反町は短い相槌だけを軽く返した。


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