何の話題の途中だったのかは忘れてしまった。取り立てて重要ではない、日常会話のひとつ程度なのは確かだった。
 それって神様の贈り物みたいだね、といった言葉を他愛なく彼女が口にした時、嫌悪じみたものが湧いた自分に日向は驚いた。可愛らしい一言だった。流れの中では不自然さもなく、感動を表現する愛らしい言葉として、それ以上でも以下でもあり得なかった。
 奇妙な言い方だが日向はそんな自分に軽い興味を覚えた。なぜあの言葉があれほどあの瞬間に響いたのか。なぜあの瞬間に自分は眉を僅かにひそめるまでして、苦い嫌悪を飲み込まなければならなかったのか。
 後々に出した結論は、つまり自分は『神様』などという響きをカケラほども信じてはいないのだ、ということだった。日本に住む大多数の人間がそうなように、信じる宗教が曖昧であるということとも違う。無神論者を哲学的に気取る気もない。ただ単に『神様』なんて全智万能のものがこの世で采配を奮うことに耐えられないだけだった。
 付き合って数カ月目にその彼女とは別れた。どんな女とも長続きしない日向を古くからの友人たちはからかった。中には本気で心配する者も居た。言われるまでもなく、自分にどこか欠陥があるのは日向自身が承知していた。どこなのか。それは分からない。深く追求するような気概もない。
 大勢の友人、あるいは仲間、あるいは崇拝者たちに囲まれながら、自分が常にどこか孤立している自覚もあった。それが日向という己の個性──集団の中のスタンスとして受け入れられているため、特に不自由は感じなかった。
 
 ふとした瞬間に孤独を感じることはあった。馴れ親しんだ感情のはずが何かの折に堰を切って、喉下のあたりをキリキリと締め付けることがあった。そんな時のパターンは決まっていて、大して見覚えもなかった女が自分に親し気に声をかけてくる、いたわりや憐れみの情を携えて日向に接しようとしてくる、数カ月はその状態がうまく続く、彼女らに愛おしさに似たものを感じさえする、家庭なんてものを持つ遠い未来の自分(おそらく)を夢想して微苦笑を浮かべる。
 だがやがて日向は憐れまれる自分にひどい違和感を覚え始める。それを愛情深く差し出す彼女らにではない、紛れもなく自分自身に。そして別離。あっけなく簡単に結末は導き出される。日向から切り出すこともあれば彼女らの口からその言葉が告げられることもあった。ありがちの愁嘆場が繰り広げられることもあれば、やけに呆気無く明日の天気の話でもするように別れの挨拶を交わし合うことも。しかしどれも同じだった、どれにしたって大差はなかった。結論として日向は一人でいることを明確な意志で選択するのだ。
 つまり、自分には自分自身以上に大切なものなど何もないのかもしれない。
 何度かの別離を繰り返したあげく、日向が出した答えはそれだった。家族、仲間、今の生活、──もちろんどれも大事だ。だがそれらはあくまで日向自身が中心に在ることで機能していた。自分を犠牲にしてまで誰かに尽くす、自分のキャパシティ以上に誰かを請う、そういった感覚は自分には欠落しているとしか思えなかった。
 端的に言えば、日向は誰かに理解を求めようとは考えたことがなかった。誰かを殊更に理解しようと努めたこともなかった。世界は日向の意志とは無関係に頑然と存在していた。その中でどう自分があがくか、どう自分として生きていくか、日向は常にそれだけで手一杯で、赤の他人にまで向ける心遣いなんてものは自己満足か幻想だと諦めきっていた。
 
 
 二十代の半ばを過ぎた頃、スペインのあるチームからオファーが来た。セグンダ・ディビション(2部リーグ)ではあったが来期の昇格はほぼ決定で、何よりリーガ・エスパニョーラは長く日向の憧れの舞台でもあった。掲示された契約金と住居環境条項も、ヨーロッパサッカー界では無名に近いアジアの一選手に提供するには破格と言っていいくらいの好条件で、迷うようなことは何ひとつなかった。
 代理人を通じて正式な契約にまで至った日、学生時代からの友人皆で飲み明かした。皆が心から日向を祝福していた。久し振りの顔ぶれに日向も珍しく羽目を外して、足許が覚束なくなるまで祝杯を交わし続けた。
 ホテルを取った方がいいんじゃないか、と忠告されたところまでは朧気に覚えている。一番の長い友人、それこそひと桁の歳の頃から付き合いのある友人に肩を貸され、店を出たことまでは覚えている。
 気付くと、日向はシャレたツインルームのベッドで横になっていた。靴と上着はかろうじて脱いでいるがそれ以外は普段着のまま、とっさに触った尻のポケットには財布もある。
 薄暗い室内のどこかで携帯の振動音がした。どうやらその音で目が覚めたらしい。すぐに音は止んだ。それからさっきから静かに聞こえていたシャワーの音も。
 この状態でまさか女をホテルに連れ込んだわけじゃないだろう。隣りのベッドにはカバーがかかっていて乱れはない。第一、ダブルではなくツインを選んでいる辺りが女相手とは思いにくい。
 そんなことを考えながら日向がぼんやりとベッドに腰掛け直していると、シャワールームのドアが開いて、見慣れた姿が現れた。
「ああ、起きた?」
「何だ。…お前か」
 安堵とも狼狽とも取れない吐息が口から漏れた。
「色っぽいお相手じゃなくて申し訳ない」
 茶化した言い方で若島津は笑って肩を竦めた。
 見慣れた姿。だがさすがに濡れ髪にバスローブをはおっただけの姿を目にしたのは初めてだろう。奇妙な齟齬を感じたのはそのせいか。長い寮生活の間に腐るほど見た風呂上がりの姿とはまったく違った。──いやそうじゃない。ユース海外遠征のホテルで一度や二度はこんな格好も見たかもしれない。違うのは髪の長さか。少し短くなった。ほんの少し。トレードマークだった長髪が少しだけ短く感じる。
「…お前、髪切ったか?」
「それさっきも訊かれたよ。覚えてない?」
 言ったかもしれない。分からない。日向は額を押さえて低く唸った。
 それを見て、「あーあ」と呆れたように若島津はまた笑った。
「ホントに飲み過ぎ。まあ、今日は特別だからしょうがないけどね」
 前髪からまだこぼれる水の雫をタオルで拭って、若島津は屈み込みながらミニ冷蔵庫の扉に手をかけた。
「日向の上着はクローゼットの中」
「ああ」
「俺と反町と二人がかりでここまで運んで、こんな状態で一人に出来ないから俺もお付き合い。日向はベッドに転がるなり速攻で撃沈。反町は嫁さんいるから帰ったけどさ、あいつと小池が飲ませまくった主犯だから、部屋代はあいつのカードで先払いさせた。そのへんは御安心を」
 予備動作もなしにいきなり放り投げられたものを慌てて受け取る。見るとペットボトルの水だった。自分の手にもペットボトルを握って、若島津は横のソファに腰を下ろした。
「まさかまだアルコールとは言わないだろ?」
 冷たい水を口に含むと頭がいくらかまともに動き始める。部屋を見渡す余裕も出てくる。
 それなりのランクのホテルの部屋。ビジネスホテルでない証拠に広さもそれなり。数センチだけ開いたぶ厚いカーテンの隙間からは朝焼けの空が見えた。
「……えらくサービスいいな」
「ホテルのグレード? 壮行会でビジネスホテルじゃカッコ付かないだろって、そこは張り込まざるを得なかったよね。あ、全額反町ってんでもないぜ、断っとくと」
「これで餞別代わりにされるんじゃねえだろうな」
「いや充分でしょ。日向の飲み代の分も全部こっちで割勘持ちだよ。何せご本人は潰れてるから払わせようにも無理だったしさ」
「俺があそこ全額払わされたかと思ってた」
 最初の内はそんな持ち上げ方をノリでされて、いいぜと日向も気軽に答えて、そのつもりもあってボトルを入れまくっていた記憶がある。
「そこはさすがにねえ、意識ないやつの財布からカード抜くわけにもいかないし」
「あいつらならやりかねねぇよ。止めたのどうせお前だろ」
「うーん、否定はしない」
 若島津はおどけて飲み終わったペットボトルをテーブルに置いた。
 こんなふうに、こいつと二人きりで話すのはいつ以来だ、と日向は思った。チーム同士の対戦で頻繁に顔は合わせる。代表合宿で寝泊まりが同じホテルのこともある。けれども二人きりになることは滅多にない。卒業してからもう何年になるのか。
 若島津もそう思ったのかもしれない。
「──…これ、今日何度も言った台詞になっちゃうんだけどさ」
 不意に、彼は静かな声で呟くように言った。
「おめでとう。本当に俺は嬉しい」
「……」
「単純に海外に行くってだけじゃなくってね。ずっと、思ってたよ。日向が自分の思う通りに生きられればいいって。お前が望むところに、行きたい場所に走って行ければいいって。叶い始めてる。日向はこれからも行きたい場所にいくらでも行ける。───おめでとう」
 何と答えていいのかとっさに分からず日向は顔を逸らした。なぜここにこいつが居るんだろう、と今さらなことを疑問に思った。ここに。この部屋にという意味ではきっとなかった。その理由なら今聞いた。
 ここに。
 誰のことも真には理解しようとしなかった、誰のことも本気では望んでこなかった自分の傍に。傲慢で思い遣りに欠けた人間の傍に。
 初めて明確に自覚した。孤独ではなかった。寄り添う気配がずっとあった。誰よりも自分は理解を得ていた。
「…あー、日向も風呂入る? 汗かいてるだろ。シャワーだけでも浴びれば?」
 自分から切り出した話題なくせ、その場の雰囲気を誤魔化すように言って若島津が立ち上がる。日向は緩く首を振った。どうしても言葉が出て来なかった。
 開いた両腿に肘を置いて俯く。視線の先には床しかない。それが若島津の目にはどんな態度に映ったのか、
「日向…」
 近寄って来た若島津は日向の足許に膝をそっと着き、母親が子供をいたわるように日向を見上げた。
「そうだね日向。……俺は知ってた」
「知ってた…?」
「……神様はお前に意地悪だった。色んなものを日向から取り上げた。でも、これからは違う。日向が手に入れたいものはきっと全部手に入る。それだけの祝福を受けていい人間だって、もう神様だって分かってくれてる。…大丈夫なんだよ。だって、」
 ───日向は愛されてるから。
 膝に手が置かれる。暖かい。若島津の掌が置かれた場所は暖かい。日向にはそこから何かが溶け出していくような気がした。
 苛立ちや憎しみかもしれない。よく分からない。神様がずっと嫌いだった。頑なな子供のようにただ嫌いだった。それを気安く口にする奴も嫌いだった。不幸や災難は単にそこにあるだけのもので、それに振り回される自分が嫌いだった。
 全部、本当は持っていたのかもしれない。愛情なんて不確かであやふやなもの、祝福なんて目に見えないものも。
「お前は、……」
「うん」
 お前、どうして俺の傍に居るんだ。最初から、まるで当たり前みたいに、当たり前の顔で、どうしてずっと俺の傍に居たんだ。
 若島津はスタンドの薄い明かりの中、小首を傾げて口許だけで笑った。
「どうしてかな…? 俺にもうまく説明は出来ないけど、たとえば運命みたいなものだったのかな。あの明和のちっぽけなグラウンドで、お前に会った瞬間に俺は決めちゃってたんだろうね」
 日向の俯いた頬に、遠慮がちに掌が這わされる。
「俺はこいつの運命に巻き込まれるんだなあって。きっと一生分。そのぐらい、こいつは強烈な相手なんだってのは、子供心にもなんとなく思ったよ。きっと、お前には俺が要るんだって」
 その手首を日向は衝動的に鷲掴んだ。我ながら容赦のない力加減だと思うのに若島津は逆らわなかった。
 けれども日向がそのまま若島津を引き寄せ、顔を近付けた時になって僅かに怯んだ。
「──、え?」
 唇は冷たい。お互いに。水を飲んだばかりのせいだろう。
「ちょっ…と、おい日向!」
 勢いを付けて体勢を入れ換える。若島津の身体をベッドに引きずり上げ、のしかかるように押さえ付ける。髪はまだ湿っていた。掌を這わせた剥き出しの喉やローブの下の素肌も。
「おいッ!」
「───くれたんだ、神様が。お前を俺に」
 真上から低く囁いた日向に、若島津は金縛りにあったように動きを止めた。両目が大きく見開かれる。
「初めて気付いた。今まで気付いてなかった俺が馬鹿だった」
「そ、……れは」
 下着も付けていなかった膝の間に指先を潜り込ませる。閉じようと若島津が慌てるが間に合わない。ひゅ、と小さく息が鳴った。そこで日向は一旦わざと手を止めた。
「イヤか」
「………」
「どうしても嫌なら言え」
 若島津は薄明かりでも分かるほど目尻を紅潮させ、キリ、と下唇を強く噛んだ。
「言えよ」
「ズルいよ、日向…!」
 それが答えなら拒否ではない。罵りにすらなっていない。その証拠に、若島津は震える指先で日向の肩を握りしめた。










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