【1】

 
 
 日向の気まぐれは今に始まった話ではなく、言ってしまえばこれは彼の特性のようなものだった。
 にしても今度のそれは唐突で、
「お前はいいよ、お前は! だけど俺の都合はどうなんだよ! お前の都合以外、頭ン中にはまったくナシかよ?! 俺の練習日程はどうなってんだよっ」
 叫んだ若島津に、ちょっと日向は戸惑ったみたいな顔つきになった。
 長年の付き合いで判る、これは若島津が「叫んで」「否を唱えた」からの戸惑いではない。本当に日向はそのことを、かけら程も頭に入れてはいなかったのだ。
 ───重症だ。
 若島津はため息で頭を振った。これは、想像していたよりもずっと重症だ。
「ああ…うん」
 日向は首の後ろに手をやり、若島津から視線を外しながら呟いた。
「うん、そのへん少し俺も…考えとくわ」
 朝のこのくそ忙しい時間帯に、会話はもうそれ以上には発展のしようがなかった。呑気に起き出してきたばかりの日向はともかく、若島津の朝練開始時間は、刻一刻と迫りつつあった。
「俺、じゃ行くから! …なあ、ちゃんと朝飯食いなよ?! 練習ないからって手ェ抜くなよっ?」
 洗面所に入って行く日向の背中から「ああ」というぼやけた返事が返される。もうひとつふたつは何か言い募りたいのは山々で、しかし時計の針は本格的にヤバい時刻を指し始めている。
 諦め、若島津はスポーツバッグを肩にひっ担ぎ、小さなアパートの2Fを飛び出した。



 大学に進学と同時に学生寮を出て、二人で同居を決め込んだ。経済的だし、楽だし、正直なところ6年続けた大所帯での集団生活は、若島津の中でそろそろ忍耐の臨界点に達しようとしていた。
『なぜ、そこでまた更に他人との同居生活が可能なのか?』
 付き合い始めたばかりの彼女に尋かれて、実際、若島津は驚いた。
 だって日向は他人じゃないよ。そんなふうに考えたことなんか一度もない。
 若島津の答えを聞いて、彼女は怪訝そうな──うさんくさそうな顔をした。
《違うの判ってるけど。心配になるな》
《心配? なにが》
 あーちょっとね、というふうに彼女は目をくるりと動かした。
《ほら、けんちゃんと日向くんてさ。そーいうウワサ、高等部の時からあったからね》
 そりゃまあ男子部だったしな、と若島津は曖昧にぼやいた。どっちかっていや、それが校舎が別の女子部で囁かれていた噂らしいのも知っていたが、特に言及はしなかった。
 ───噂。
 純然たる、それは「噂」だ。つまり事実をひとかけらも含まないという意味合いにおいて。
 同郷で、幼なじみでチームメイトで。確かにはたから見ればベタベタと男二人がつるんでいるようにも見えるだろう。必要以上の慣れ合いにも取れるだろう。だがそれでも、と若島津は思う。
 日向はあるべくしてそこにある存在で、既に自分の生活の一部分だった。頭の上には空があって、なら当然足許には地面があるといったような、日々にあえて認識はしない、ごく当たり前のことだった。
 だからさ、俺らにはこの方が自然なんだよ。
 伝わるものなら、若島津はそう彼女に説明をしたかった。だけど自分たち以外の、それこそ「他人」に、言葉をつくして納得させることの無意味さと徒労も感じた。彼女が単に拗ねているだけなのも薄々察しがついていた。
 カレシの部屋に気軽に遊びに行こうにも、なるほど、これじゃすんなりと事が運ばない。日向は愛想がいいとは言い難い奴だし、「ちょっとお邪魔しまァす」なんて言って女の子が部屋に上がり込むのを、ひょいひょい迎え入れそうなタイプにもなかなか見えない。(これは実は大きな誤解で、それを嫌うのは主に若島津の方なのだ)
 慣れた「だるさ」で、若島津はこの時は話題を軽く逸らした。
 
 
 日向は──日向は、一見とっつきにくそうな、愛嬌なんてものとはまるで無縁の場所にいるような男だった。
 子供の時からある種の暴君めいたイメージを確立し、絶対専制君主な奴だった。その意志の強さや、自分の才能に対する傲慢さは、往々にして排他的な印象を他に与えた。遠巻きにする人々も少なくなかった。
 けれども、そんな彼の中にひどく柔らかな部分があることを若島津は知っていた。子供好きだとか、弱者に対する無防備なほど優しい視点だとかは、あの攻撃性と何の矛盾もなく彼の内側に存在していた。
 日向自身がそれらををどう捉えているのかは若島津には判らなかった。同じほどに、若島津自身のことを日向がどう感じているのかも判らなかった。
 ただひとつ言えることは、あの揺るぎなき王国に住む絶対専制君主の王様が、王様たる資格は有しているということだ。その程度には他人に柔軟な人間だということだ。
 でなければ、とてもじゃないが同居なんてできないし、親友なんてスタンスを長々続けてもいられない。
 そのことを、若島津は日向に誤解を抱(いだ)く人々に、伝えたいと思うことがしばしばあった。日向という個の持つ人間性を、もっと暖かいものとして口にしたかった。
 信頼や友情にこれほど足る人間もそうはいない。日向は特別だ、そして俺の存在もおそらく、あいつに何かの影響は与えているはずなんだよ、と。
 男友達らはなし崩しそれを理解するようだった。
 6年に渡る学生寮での生活で、日向に難癖をつけてくる奴も居るには居たが、これらはさして大きな事件を生まなかった。団体生活に向かなそうに見える彼の方が、若島津よりよほどうまく体育会系の上下の関係をおさめていた。
 うっとおしく感じる人間関係に、時には頭と胃の両方を痛め、きりきりと細い糸を滑車で巻き上げるような真似をしていた若島津に、『脱・寮住まい計画、同居作戦』を日向が持ちかけてきた時は、だから心底驚いた。
 どーしてお前まで寮を出たいんだ。若島津が本気で不思議に思って尋ねると、日向は「その方がうまくいくよ」となんだか半端な答えを返して寄越した。
 ───何が?、人間関係が?、自己管理が?、サッカーに対するこれからの姿勢が?
 いろいろとさ、と日向は言葉を濁した。お前と俺と、そういういろんなことがさ。
 日向はひょっとして大学進学を放棄して、どこかのプロチームとの契約を考えているんじゃなかろうか。そこまで若島津は裏を読みそうになった。
 ちら、とその疑問を匂わせると、日向は苦笑で否定した。そうじゃない、そりゃお前深読みのしすぎだって。
 ───深読み? そうなのかな。
 日向は時々、奇妙な静けさで視線を伏せてしまうことがある。長い年月の中で幾度か目にした。子供の時からの本人も無意識らしいささいな癖で、今はともかく当時としては、それは子供らしからぬ大人びた顔になる仕種だった。
 そんな時の日向は、皆によく「以心伝心」とからかわれる若島津にも考えが読めない。あえて突っ込んでかき回すのもためらわれる。
 日向は絶対専制君主で、その王国のただ一人の神様みたいなものだった。サッカー雑誌で煽り文句的に書かれる「カリスマ」みたいなものは確かにあって、だからこそ、若島津はあんな顔をする日向を追求するのが怖かった。
 見上げた空に、太陽があることを疑うわけにはいかない。崩れるかもしれない大地に種は蒔けない。
 ───いろいろとさ。
 日向が言う意味を、そこで若島津は強引に呑み込んだ。
 煩わしい手続きやその他は意外に日向がマメにこなし、二人の同居は案外すんなりと決まった。お前らホントに仲いいよな、そんな苦笑で同級兼チームメイトの反町も肩を竦めていた。
 互いに生活習慣も熟知の上で、他愛ない諍いを除けば(例えば食事の当番のサイクルだとか、朝飯から納豆は勘弁しろだとか)問題らしい問題なんて何ひとつも起きなかった。
 この、一週間ほどまでは。
 つまりそれは、日向が練習中に派手に足を捻って肉離れを起こして、部の基本練習を休み出してからの期間を指している。
 退屈そうだったり、不機嫌そうだったり。
 変化がそれだけだったら、若島津だって同情と一緒に仕方が無いよなと納得出来る。怪我っつーのは、あれでなかなかにナーバスになるもんなのだ。日向にだってそういった「人並みの」デリケートさはあるだろう。まして総理大臣杯に続き、ユース選抜もそろそろお呼びのかかる時期なのに…。
 が。
 が、日向の表層の変化はそれだけでは済まなかった。まず、やたらと女の子が周囲に賑わった。さすがに本人いつもより暇な分、学食や図書館でぼーっとしてるもんだから、今までこらえていた女の子達が一斉に喰いついてきたとでもいう感じか(ひやかしや好奇心を含んではいるにしても)。
 加えて、アパートでの日向は、「ボケた」と言っても差し支えないほど腑抜けた状態でいることが多い。何か言いたげな顔をしたかと思えば、ふいと視線を逸らせて行ってしまう。暇だからと言って飯当番を代わってくれるのはいいが、やたら品数多く取り揃えたあげくに、米はけろっと炊き忘れるといった具合だ。





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