形而学上の崩壊、
感覚は感覚の内にしかその存在意義がなく、
よって形而下の私は私を認識することすら困難であると認めざるを得ない。
私はお前を私と呼ぼう。名前はない。
なぜなら形而上は存在しえないものだからだ。
エントロピー。矛盾するメタフィジック。
常に崩壊し続けるお前。





 馬鹿な話に聞こえるかもしれないが、実際に関係を持ってしまうまで若島津は気が付いていなかった。
 ただ、それが「100パーセント」かと訊かれれば自信はない。いつだって、何にだって若島津は自信がない。逆に言えばそう思うことが──ある種の捨鉢で綱渡り的な居直りをしてみせることが──若島津にとって、あらゆる攻撃の原動力なのだった。
 執着などまるでないような顔をしておいて、実は執着心や猜疑心の塊だ。自分以外はどうだっていいんだというスタンスを崩さず、そのくせ他人の眼に自分がどう映っているのかは気になった。
 判ってはいても、これらは時に若島津をひどく憂鬱にさせた。自分という人間が薄情で神経質で見栄っ張りだと再認識するのは、どうしたって楽しい作業には為りえなかった。
 もちろんしたくてするのじゃない。正確に言えば《させられる》のだ。
 もし人間に生まれつきの「役割分担」とでも呼べるものがあるとしたら、きっと自分はこの分担を受け持ってきてしまったんだろう。そう、若島津は半ば諦めと共に考えている。
 

◆ ◆ ◆ 

「───日向! 日向ったらよッ …シカトすんな、てめぇ!」
 グラウンドのフェンス越し、三度目に怒鳴った声で、ようやく日向は若島津を振り向いた。と言うより、側に居た下級生に促されて気が付いた。
 その顔を見ると、どうやら本当に耳に入ってはいなかったらしい。集中力よりこれは単細胞さだと呆れ、若島津は朝の空気に真っ白にけぶるため息を吐いた。
「…わりィッ、マジで気が付かなかったんだって!」
「いいけどさ。…勘弁しろよ、俺がみっともねえじゃん」
 よくねえんだろ、だから。駆け寄ってきた日向はぼやき、額からこぼれ落ちる汗をTシャツの肩で拭った。
「ンなに文句たれんだったら、中、入って来いよ」
「やだよ。何で俺がそこまでしなきゃなんないんだよ」
 何でって…、と緑のフェンスを挟んで向かい合った日向が、そこでまた憮然とした顔で言葉を濁す。
 近頃、この日向の表情をよく見るなと若島津は思う。しかしそれ以上のことは深く考えずに、持っていたスポーツバッグを肩から滑り落とした。
 今朝方、バタバタと部屋を飛び出して行く日向に、無理に押し付けられた物だった。その荷物を、今度は両手を使って肩の上へ振り上げる。
「ほら、こっから放るからな」
「え、ちょい待てっ」
 慌てる日向を無視して、勢いをつけて手を放す。大きさの割にはさほど重くない。だが2メートル近くあるフェンス向こうに投げ込むには、それなりのバランスと力が要った。
「……ッ」
 とっさに手を出しはしたものの、結局ぎりぎりで日向は受け取り損ね、バッグは地面に音を立てて転がった。
 どうせ中身は制服やタオル程度で、大した物が入ってるとも思えない。それよりどうやら被害を被ったのは人間で、降ってきた重さを、日向はまともに全部指先で受けてしまったようだった。
「…、のヤロー……」
 呻き、爪を腹に庇いながら上目遣いに若島津を睨みつける。遮っているフェンスさえ無ければ、若島津の胸ぐら掴むくらいはしていたろう。
「うわー…、ご愁傷様」
「てめえっ、何考えてんだ!」
「いや、あんまり。なんにも」
 若島津は笑って歩道側に数歩下がった。
「んじゃ俺、そろそろ行くから」
 言い逃れだけでもなく、実際に後ろには登校する生徒達が増え始めている。日向たち、朝の自主練に参加しているメンバーにしたって、急いで着替え始めないとヤバい時刻だ。
「──覚えとけよッ!」
「えー? 忘れた忘れた」
 罵声を吐く日向に、ひらひらと煽ぐように手を振り、自分は制服の群れに混じり込む。
 グラウンドの中央に戻って行く日向の向こうで、チームの下級生達がこちらを窺っていた。目の端にそれを捕えながら、若島津はたった今無理して使った、左肩のごく軽い痛みに苦笑する。
 あれが日向なりの気の配り方なのだとは判っていた。何日も部活に顔を出さずにいれば、若島津が来づらくなると思っているのだろう。
 正直、もう卒業するだけなのだから、監督にもチームメイトにもそこまで気を遣う必要はない。練習復帰は自主トレからのつもりだし、この辺りは若島津の方が感覚的にはドライだった。
 大学部の進学を蹴ったのは日向もお互い様で、だが若島津はそれで監督やコーチに対して不義理をしたとまでは思っていない。冬の選手権で自分の役目は終わった。大会優勝校の東邦とヨーロッパのジュニアチームの、エキシビジョンのような試合もあるにはあったが、体調不良を理由にメンバーからは外されていた。
 やや不良品のこの肩は今に始まった話ではないし、騙し騙し付き合っていくより他にしようもない。ユース代表の合宿までに間に合えばいいさと、周囲をよそに若島津自身は意外と呑気だ。
 何を、あんなに日向は焦っているんだろう。
 今までの何年かの間にも思ったことを、歩きながらまた若島津は考える。
 言ってしまえば、日向はいつでも焦っているような所があった。常に彼には目標があり、そこへ到達するほんの一瞬一瞬を、駆けて駆けて駆けまくっているような印象なのだ。
 それらは非常に困難な目的であったり、またはこちらが拍子抜けしそうにごくありきたりな思い入れであったりした。このどれに対する時も日向の態度は同じだった。いつでも、日向は駆けていた。まるで足を止めて休んだ途端、何もかもが崩れて消えてしまうんだと言わんばかりだ。
 怖いなとも、時には思う。日向の目的意識や情の深さは、あまりにはっきりしていて真っ正直で、若島津の範疇では理解出来ないものだった。
 多分そのせいで、若島津は他と自分を常に比較し続ける羽目に陥ってしまう。自己嫌悪なんてのはクソの役にも立たねえとごちながら、横目で日向を追うのを止められない。
 ただ、これは日向という人間に対しての大方の反応のようで、若島津個人に限ったことではないらしかった。少なからずそれは若島津を安心させた。俺じゃない、あいつが規格外の生き物なんだ、と。
 チームメイトであり若島津のクラスメイトである反町一樹などにかかれば、日向は「化け物」の一種なのだそうだ。こいつも変わっていると言えば変わった奴だった。他の人間ならギョッとするようなことを、気楽にするりと口にしてしまう。
 ビール2缶で安上がりに酔っ払える反町は、ついこの間の優勝祝いでも、懲りずに日向に絡んでいた。もちろん寮監にも監督にも隠れての打ち上げだ。邪険な素振りで相手をしながら、それでも日向が楽しそうだったのを覚えている。
 ───何ご機嫌になってんの。ヘンな奴、絡まれんのが好きなのかよ。
 横から若島津がからかうと、「わりと、そうかな」とよく判らない答えを日向は返していた。
 面倒見のいい日向、人好きのするある種の才能に恵まれた日向、自分の目的に対する貪欲さを微塵も疑わない日向。お前のせいじゃないのは判ってるけど。
 時々、最悪に俺はお前といるのが嫌になるんだ。
 
 
 
「あれー、何で若島津の方が遅いの」
 教室へ入ってマフラーを外していると、どこからか目敏く反町が寄ってくる。
「職員室に顔出したら小川ティーチャーにとっ捕ってさ。なに、お前らあの後すぐに上がったわけ?」
「俺はな。日向はまだなんかやってたけど」
 ふうん、と相槌を打ち、教室後ろのフックへ脱いだコートとマフラーを掛けに行く。反町は着いて回りこそしなかったが、若島津が窓際の自分の座席に戻って来ると、手持ち無沙汰にまだそこに居た。
「…なあ、聞いたかあ? あいつアホだぜ、遅刻ペナルティ付きそうだってよ。6時起きでなーんで遅刻数トップクラスを誇るかね」
 心底に呆れた口調で、だが楽しそうに反町は毒づく。



 

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