「往生際悪いからだろ」
「ま、一言で言やぁ、そうなんだけどさ」
 予鈴が鳴り、駆け込んでくる奴らの数が慌ただしく増える。外部受験者は殆どもう登校しなくなっていたが、このクラスは内部進学率が高いせいで、そう目立って人数が減ったとまでは感じない。何人かと挨拶を交しながら、若島津は鞄からペンケースだの何だのを引っ張り出す。
「えウソ、一限ってリーダー? 現国じゃなかったっけ」
「バカ、それ昨日だよ。おい知らねえぞ、お前の列が今日辺り当たるんだからな」
 若島津の揃えた教科書を見て、一瞬反町は言葉を飲み込んだ。後ろの奴を捕まえてそれが間違いないことを確認し、顔色を変えて自分の席へすっ飛んで行く。
 丁度ここで、タイミングを計ったように担任が教室に入って来た。出欠席と朝のHRが義務的に進行する中、今耳にしたばかりの話を、なぜだか若島津はいつも覚えていられない。まともに聞く気がないからかもしれない。
 出席簿を手に担任が出て行くと、すぐさま反町がノートと教科書を抱えて泣きついてきた。
「お願い、若様!」
「んーなとこやってねぇって…。人の分までやってる筈ないだろ、俺が」
「だよなあ。──ああもう何でもいーからっ、勘で訳せ、勘で!」
「横文字で俺に頼んなよー…」
 本気で英訳は不得手の内だった。嫌がる若島津に、それでも三分の一程度を反町は引き受けさせた。暇なのか、隣の席の女子まで参加してきて、幾つかのセンテンスを手伝ってくれる。
 他人事だと頭では判っていても、タイムリミットがある状態は心臓に悪い。おまけに教師に見つかったら本人はもちろん、手伝った人間にまで咎が降りかかったという前例があった。いつの間にかこっちまで焦って必死になる。
 辞書を片手で引きながら、若島津は廊下の方をちらちらと見張っていた。やがて、有難いことに少し時間より遅れ、ドアの窓ガラス部分に教師の姿が現われる。
「──おい、来たぞっ 早く席戻れ!」
 叫んで反町の教科書を本人に突っ返す。まだ未練があるらしいが、仕方なく反町は自分の席へと引き上げた。どさくさ紛れ、書き込みのある若島津の教科書まで持って行こうとするが、それは若島津も気付いて取り返す。
 神経質な、留学経験何年だかの若い教師は、幸いこちらは見ていなかった。自分の席に駆け戻る生徒は何も反町だけとは限らない。どうにか全員が収まりつくと、続いて日直が号令をかける。
 皆に合わせ、若島津は重い腰を持ち上げながら、惰性で何気なく窓の下を見下ろした。
 三階の教室からは真下に広がるグラウンドがよく見える。ご苦労なことに一限から体育のクラスもあって、白い体操着と紺のジャージの生徒達が、無秩序な模様のように地面に散らばっていた。女子の姿が無いのは体育館を使っているからか。
 ふと見慣れた姿を見た気がして、一度はこちらに戻した視線を向け直す。2クラス合同分の男子生徒達。慣れた風にストレッチをしているあの人影は、そうだやっぱり、
 日向だ。
 ───ああ、火曜は5組だったな。
 それで着替える必要のない日向が呑気だったのかと、若島津はひとりで納得した。頬杖で教科書を覗いているポーズを作り、横目に日向の姿を追い続ける。
 朝練の後で身体をほぐす必要も無いだろうに、日向は一見しごく真面目にストレッチをこなしていた。一緒に組んでいるのは、確か陸上部の奴だった。何か日向がからかったのだろうか、ふざけて蹴りを入れる真似をし合って笑う。
 日向の、ああいった自然さは好きだと思う。いや、正確に言えば『見ているのが』好きだ。
 よくユース特集などを組むサッカー雑誌でも書かれているが、外見としてもまずボディバランスがいい。当り負けしないだけの身体が作ってある。もちろん先天的に恵まれた部分も大きいだろう。
 羨ましさや妬ましさを、むしろまるで感じさせない完成度がある。あの日向が、もしかして若島津の一番よく知る『日向』なのかもしれない。ずっと見続けてきた友人なのかもしれない。
 ───だとしたら。
 やっぱりちょっと救われないかな。
 苦笑と共にそんな言葉を内心呟きかけ、若島津はふっと意識を引き戻した。今度は自分が視線を感じた気がしたからだった。
 自意識過剰というわけでもないようで、さっき手伝ってくれた隣の席の松村が、グランドにと若島津にと、どちらへともつかない目を向けていた。若島津と視線が合っても表情を動かさない。
 不思議な気持ちで、しばらくそんな彼女と若島津は見合っていた。
 その内、二人目だか三人目だかで反町の名が呼ばれ、しどろもどろに訳文を読み上げ始める。若島津が訳してやった箇所で、教師は一端止めて間違いを指摘した。斜め聞きしていたつもりの若島津は、それでも小さく舌を打って教科書の行を探す。
 少しだけ、彼女が笑ったような気配がした。
 
 

◆ ◆ ◆ 

 日向に惚れる女の種類はすぐ判る。日向の好みのタイプはさっぱり見当もつかないのに、考えてみれば奇妙な話だった。
 そんなタイプの女子とは、若島津はなるべくなら距離を置くように意識していた。日向は声をかけやすい奴だとはお世辞にも言い難く、彼女らはごく当然のように若島津に仲介を頼もうとするからだ。反町辺りの方が向いた役割だと思うが、表面上、自分らはかなり互いに干渉し合っているふうな友人同士だったし、またそう見えるように努めてもいた。
 だからある程度はしょうがないんだと、覚悟はしていたとしたって、いざ目の前に突き出されれば面倒なことには変わりがない。
「若島津って、本命いないの」
「さあ…。どうだろ」
 机に山と積まれたサイン帳の一つを、膝に広げながら若島津はいい加減に言葉を返した。短い休み時間の最中、教室は騒がしさで一杯だったが、昼休みと違い外に出て行く者は少なかった。
「どうだろってさァ、自分のことなんだから」
「居ねえっつったらお前らうるさいし、居たら居たでまた騒ぐじゃんかよ。俺はな、うかつにそーいうの答えないことにしてんの」
 へえ、と覗き込んでいた松村は感心したような声を上げた。
「若島津って意外と賢いね。ちゃんと判ってんだ」
「意外とって何だよ、しっつれいな奴だな」
 ペンのキャップをくわえて外し、名前と日付を簡単に書き込む。顔見知りなら他に幾つか言葉を足してもよかったが、裏返して確認した持ち主の名前は、聞いたことがあるのにどうしても顔が思い当たらなかった。
「…誰だよ、これ」
「なに? ああ、小島レーコじゃん。一年の時同じクラスだったでしょー。今は…5組だったかな。んもう、若島津ってモテまくってる割に駄目なの、そのヘンが原因じゃないの?」
「あのなぁ。この量で来られて、いちいち覚えてたらそっちの方が異常だっての」
 半分を片付けても、またあと十冊近くは残っている。卒業記念にこういった物を押し付けていくのは大抵が女子達で、中には本当にまるで知らない名前の物も混じっていた。
「…ったく、どーいうルートで来てんだか。ムチャクチャだよ、ホント」
「うーん、未来のJリーガー様だからね。今まで我慢してた子も、ダメ元で頼んでんじゃない? ちゃんとサービスしてあげなよね」
「してるだろー。見ろって、これを! 一人のオーケーすっともう最後なんだぞ」
「どうせさあ、サインなんてこれから腐るほどすんでしょが。ホラ、練習練習」
 サインをねだられたことが皆無とは言わないが、若島津には松村の言うことは今一つピンと来ない。状況的には理解出来るのに、ヴィジュアルが現実味に乏しいのだった。
「あ、日向のだ」
 勝手に何冊かをめくっていた松村が、突然、広げた一冊を手に声を上げる。若島津は片足を横の窓枠に乗せた格好だったが、ついその無理な姿勢のままで首を伸ばす。
「うわ、相変わらず凄ぇ字…」
「え、そう? なんかこーいうの、いかにもサインぽいよ」
「狙ってんならな。あいつはマジで書いてそういう字なの」
 笑って言い返し、描き終わった分のサイン帳を机の上に積み上げる。それから、どうしようか迷った後、結局その言葉を口にした。
「…日向に、頼みたいんなら直接言っちゃっていいと思うけど」
「──え?」
「いや、あいつ結構そーゆーサービスいいぜ。俺なんかよりよっぽどマメな性格してっから」
 そうじゃなくて、と松村は眉をしかめて舌打ちした。
「なんでそーなんの。…若島津にだって、あたし頼んでないじゃん」
 あれ、俺のも欲しいの、と茶化すつもりで口にするが、松村はその不機嫌な顔で睨み続けている。若島津は軽くため息をついて、ごめん、とだけ謝った。
「だからなんで謝んのって、……」
「俺が余計なことくっちゃべったからだろ。…悪かったよ、絡むなよ」
「絡んでんじゃないよ。何よそれー、ムカつくなァ。そりゃ日向と若島津が仲いいのユーメーだしっ、知ってるけど! 若島津ってもしかして超ヤな奴」
 黙ったまま反論しなかったのは、肯定でも否定でもなく、単に言葉が思いつかなかっただけだった。だが松村はそう取らなかったようで、
「ウソ、嘘だからね。──怒んないでよ」
「怒ってねえよ、別に」
 面倒臭さを感じながら吐き捨てる。この言い方もきっとまずいんだろうなとは朧気に思う。
 怒るほど応えてもいないし、肯定も否定もするほどには興味が無いのだったが、それを馬鹿正直に説明も到底出来ない。彼女はクラスの女子の中でも気に入っていた筈だったのにと、若島津はなんだか情けなくなった。
「…もう、いいや」
「ああ?」
 億劫な気分で、適当と言うにも苦しい返事をする。しただけマシだとも自分では思う。
「ほんっとに若島津知らないんだ。…あたし、日向に突撃玉砕したクチなんだよね。いるんだってさ、本命。……そっちは若島津も知ってた?」
「あー…、みたいだな。本命っつうか、まあウダウダ言ってるわな。でも相手まで知らないぜ、断わっとくけど」
「いいよ、そんなの聞いたってしょうがないよ。…へえ、日向もウダウダ言うんだァ…」
 どう思ってんのか知らねえけど、と若島津は足を床に下ろしながら呟いた。
「その手のハナシなら、あいつくらいウダウダしてんのも珍しいんじゃねえの」
「えー?」
「うっとーしいくらいだよ、はっきり言って」
 なあ、と頭を逸らせて後ろに同意を求めたのは、そこに反町がたまたま居るのを知っていたからだ。急に巻き込まれた会話に、反町は他のクラスメイト達との話を打ち切って目を白黒させる。
「なに、何のこと」



 


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