「日向は変なとこで真面目だよなって」
「ああ、ズボラ大王なのにとことん煮つまったりするヤツ? あいつ絶対ハゲるよな」
「それ、本人に言えよ」
「嫌に決まってんだろ!、マジ殺されっぞ」
 それから反町は松村を見て、さっきの訳文の礼を言った。松村はすっかり忘れていたらしく、言われてもしばらくは何のことだか判っていなかった。
「んじゃ感謝の印にピザマン奢れ。もち二人分」
「肉マンにして、せめて」
「お前、この後に及んで二十円ケチるかー?」
 たかっちまえよ、今の内だから、と若島津が小声で唆すと、だよねえと松村も乗って意地悪く笑う。勘弁しろよと反町は泣き声を上げて逃げようとする。それを後ろから若島津が、腕で首を絞める真似で押さえ付ける。
 こんな馬鹿みたいな戯れを、もう少しですることもなくなるんだなといきなり思った。いや、するかもしれないが確実に意味が違う。少なくともこの服を自分達は着ていない。
 寂しいとか悲しいとかいう感傷は特に湧かなかったが、その時、若島津の頭に浮かんだのは日向のことだった。
 こんなふうに日向とじゃれ合ったりは滅多にしない。むしろ、人前ではまったくしないと言った方がいいかもしれない。日向に触ることも、日向が自分に触ることも、いつからか特別な意味が付加されてしまったせいだろう。
 ───誰にも、自分達はそれを知られたくなかったせいだろう。
 そちらの事実の方が、今になって若島津を腹立たしい気分にさせた。友人のスタンスの日向を失ってしまったのは、日向のせいだったし、また紛れもなく自分自身のせいだという気がした。それは決して失いたくないものの一つだった筈だ。日向が好きだった。
「……若島津ッ! 苦しいって、おい…っ てめえ本気で絞めるかぁッ?!」
「あ、…悪ィ」
「わり、で済ますなっ、悪ィで! 高校ベストワン・キーパー様の馬鹿力でやるなよ、俺本気で死ぬじゃねえかよー」
「ウッソ、そんな簡単に死なないよ。大体そりまっちゃん、殺しても死ななそうじゃん」
「松村ァ、何言ってんの。オトスだけなら結構カンタンなんだぞ」
 …ここがさ、頚動脈でさ、……んで気管がこうだろ…。
 予鈴のチャイムも無視して、妙に真剣になって反町が松村に説明を始めている。横でぼんやりと聞き流しながら、若島津は無意識に窓の下のグラウンドへと視線をやった。
 当たり前だが、散らばる体操服の生徒達はもうさっきまでとは違うクラスだ。寒そうにしゃがみ込む者、ハードルを並べながらはしゃぐ者、何人かで固まってダベっているグループ。見つからないのをハナから承知で、目はあの人影を探そうとする。
 それに気付き、若島津は自分でもよく判らない脱力感で、他に聞こえないように軽く息を吐いた。
 

◆ ◆ ◆

 

「──何だ、マジでこれから走り込みやんのか」
「当り前だろ。冗談で着替えまでする馬鹿いないよ」
 学生寮の玄関口で、履いたシューズの紐を左右点検している若島津に、まあそうだな、と日向は曖昧な言葉を投げた。
 夕食も終わると寮内は急に開放的な、或いは無責任なざわつきで溢れ返る。例えば音量で比べれば朝の喧騒と変わらなくても、そこにはやはり「開放的」とでも言うムードが加わっている。中学から丸六年間、馴れ親しんできた空気だった。
「なに? なんか用事?」
「そうじゃねえけど…。いいや待ってろ、俺も行く」
 言うなり、日向は若島津の返事も聞かずに姿を消し、またすぐに自分のランニングシューズを持って戻って来た。服装が上下ジャージなのは、既に放課後、彼が身体を動かしてきた証拠なのだが、若島津はそれに口出しはしなかった。
「どこまで走る? この時間からフルでは走んねえだろ」
「取り敢えず神社までタイム計って、…あとはテキトーか」
 若島津の時計はアナログなので、タイムを正確に計るのならデジタルの日向の時計の方がいい。笑って、オッケー、と日向は腕の時計をタイマーに切り替えた。
 何にでもアナログ好きを示す日向にしたら珍しい持ち物だが、時計だけは特別だ。殆どこの目的の為だけに、欲しがっていた日向へ若島津が誕生日に譲った物だった。
 玄関口から道路へ向かい、砂利道の途中で上半身のストレッチをする。道路へ出て屈伸運動も軽く済ませると、待っていたように「計るぞ」と日向から声がかかる。
「あ待て、……。──うん、オッケ」
 気合いとも号令ともつかない日向の声で、同時に夜道を走り出す。
 バス通りは最初だけで、すぐに歩道と車道の区別もつかない脇道へ入る。朝練でも使う神社へのこのコースは、住宅街の奥へ続くせいで人影は少ない。
 横を走る日向と自分と、歩幅も呼吸もほぼ一緒だ。一定の確かなリズム。大勢で走る時より二人の方がはっきり感じる。肩の上がり下がり、冷たい空気に吐き出される息、きっと視線の先も。
 わざといきなりピッチを上げた若島津に、日向の虚をつかれて出遅れる気配が伝わる。くそ、と短い呟きで再び真横に並ぶ。
 と思ったら今度は日向が半歩前に出る。吹き出しそうになったが、若島津は慌ててリズムを整えてそれを追った。
 神社の鳥居下に辿り着く頃には、二人共やけくそで、メチャクチャな勢いで駆け込むはめになっていた。
「か、──勝った…っ!」
 日向は叫びながら勢い余って、本殿へ上る石段の途中まで駆け上がった。そのまま前のめりに倒れ込む。
「勝ったっ、…てッ、いつからっ、そーいう、のに、なってんの…っ」
 若島津はラストのラストで、結局三メートル近く差をつけられた。息を切らせ、自分も膝をついて階段に転がる。
「…んじらんねー、…バカかよ…」
「お前、だろー…。俺じゃねえぞっ ああくそ、頭痛ェ…」
 酸欠半分で額をさすり、よろよろと日向が立ち上がる。どこに行くのかと見ていると、長い石段を上って境内の方へ消えてしまった。
 まだ動きたくない若島津に比べれば、やはり化け物じみた体力だと思う。待っても戻って来る様子がないので、仕方なく若島津も腰を上げた。
「ちょっとおい、どこ! 日向、どこ行っちゃってんだよ…!」
 こっち、と怒鳴る声に首を回すと、日向は手水舎の所で柄杓を振っていた。
「えー、それ使ったら怒られっぞ」
「見てねえって、誰も」
 境内で部員が休憩したり、階段を上り下りの運動に使うのは容認されていたが、この手水舎は一応は使用禁止の内だ。普段、後輩らには厳しく言うくせ、今日の日向は変にハイだった。
「大体、それ飲む水と違うんだろ」
「へえ? じゃ何用だよ。撒くのか」
「清め用の、ほら手ェ洗ったり…だから口つけて飲むなって!」
 言う先から思いきりよく日向は飲み干し、ほら、と若島津にも柄杓を寄越す。まずいよとぶつぶつ言いながらも、しまいには負けて若島津はそれを受け取った。
「あれだよな、お前、こーいうの詳しいっつーか、うるせえっつーか」
「ウチはだって道場に派手な神棚もあるし。親父がうるせえんだよ、こと神サマの扱いには」
「じゃあ、こんな場所でこんな真似すっとさ、」
 言い終わらない内から、日向は水盤に屈む若島津の肩を脇から掴んだ。
 耳から首筋にかけて唇が滑る。水を飲んだばかりの日向の唇は、冷たい感触で濡れていた。
「──バチ当んのかな」
「…やっぱ当るんじゃないの。そら!」
「何すんだ、この野郎ッ」
 柄杓の水を頭に被り、日向は犬のように首を振って叫んだ。
「バチだよ、バチ! さっそく当ったじゃん」
「これ人災じゃねえかよ、どう見ても!」
 笑って、涙が出そうなほど笑って、若島津は白い砂利の上に座り込んだ。立てた両膝の間にうつむき、なぜだか本当に泣き出してしまう。
「……。」 
 そんな若島津の隣へ、日向はそっと膝をついた。日向らしくない静けさだった。
「言えよ、…判んねえよ。俺馬鹿だからな」
「──…何でだよ。何で、俺から言わなきゃなんねえんだよ。…いいのかよ。離れちゃって、俺忘れるかもしんないだろ。お前が、忘れるかもしれないだろ。一緒に居たいんだよ、日向が、…」
 好きだ。
 その最後の言葉だけ飲み込んでしまい、溢れた分がまた涙になってこぼれ落ちた。切れかかった蛍光灯だけの境内は暗く、だが目の利く日向には見られてしまったろう。
 何を思ったのか、お前も馬鹿だよな、と日向は軽くぼやいてみせ、若島津の頭を抱え込むようにして抱き締めてきた。ゆっくりと吐かれた息が、もう大分冷えた若島津の耳にかする。
「ちゃんと決まってんだからよ。大丈夫なんだ」
「…何が」
「だから、俺らがさ」
 ───幸せになるって。
 この科白に、今度こそ本気で若島津は吹き出した。それを隠すよう、濡れた頬を日向の胸へ押し付ける。
「…バッカじゃねえの……」
 呟きは、汗でしめった布地にカケラも残さず吸い込まれた。だからかもしれない。

 それが本当だったらいいのにと、心から思っている自分に気が付いてまた笑えた。
 
 



[....END] 

 

 

 


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