口喧嘩をレクリエーションで戦わせる。その間にドクターとコーチはぼそぼそ相談しながら去って行った。やっと解放されてシャツのボタンを留めていると、一度出て行ったはずの控えMFくんが戻って来た。わざわざオープンロッカーの一番奥の隅っこに来てまで、こちらのラストに残ったメンバーの中に首を突っ込んでくる。
「あれ、藤井。お前帰ったんじゃなかったの?」
「いえ、帰ろうと思ったんすけど。…あの、その話題の暴走野郎が廊下の途中にふんばってて」
 ───はあ?
 お前、まさかそれでビビって戻って来たのか?、と城山さんに訊かれて彼は複雑な表情で笑ってみせた。
「ビビったんじゃないですよ、ただ、なんかあの、へんな迫力で立ってるもんだから。どーも前を一人で前を通りにくいってゆーか……」
 つまり、分かりやすく言えばビビってんのね。だからてめぇは控えなんだよと、高校の先輩に当たる城山に怒鳴られ、うわははと藤井はうつろに天井を見る。
「だってずっとですよ、ずっと居るんだから! 下田さんら、分かってて俺置いて行っちまうしー。俺苦手なんですよ、でかい日本犬はー。子供ん時に噛まれたことがあって…、ね、ね、今でも跡が残ってんですよ」
 こいつもムチャクチャ言ってるな。
 勝手にやってなさいとばかりに荷物をまとめ、お先、と声をかけて若島津はドアに向かった。あまり深くは考えず廊下へ出て、しかしきっちり4歩目で足が止まる。
 藤井、鼻で笑った俺が悪かった。
 そこには前屈みの姿勢で壁にもたれ、スポーツバッグを肩にしょった日向が立っていた。日本犬という藤井の表現は言いえて妙だ。ほとんどでかい番犬並みの迫力がある。身長で言えばそう若島津と差もないはずなのに(確かこっちの方が2、3センチ高くなかったか?)何か手足の大きさを持て余しているような印象を受けてしまう。
 む、無視して通り過ぎるのも大人げないよな。だからと言ってこちらから声をかけるのじゃ立場が違うし。だいたい、こいつ何のためにこんな場所に突っ立ってんだ。
 最後の疑問はあっさり解けた。
 足音に視線を上げた日向青年が、バッと身体を壁から起こしたからだった。
「───あの!、」
 叫んだ彼の声が、初めて聞く肉声なことに若島津は気が付いた。テレビで聞くより若い感じがするのは、この切羽詰まった響きのせいなのだろうか。
「…俺?」
「そう、です。あの、……今日、スイマセンでした」
 勢いよく頭を下げた拍子に、日向のバッグは肩から滑って床に落ちた。
 若島津はあっけに取られてそれを見ていた。やがて、彼は頭を起こしてバッグを拾い、くるりときびすを返して行こうとする。反射的にこちらも声を張り上げる。
「ちょ、ちょっと待て!」
 呼び止められ、無表情に日向が振り返った。
「…何か、君はそれを言うためにここに居たのか?」
 なぜ迷う必要があるのかは分からないが、日向は頷くべきかどうか少し迷うような間を置いた。結局、また無表情に戻ってこくりと頷く。
「反町にそうしろとでも言われた?」
「───違います。オレ、…僕がそう、したかったからです」
 ちょっと怒った響きが声に加わった。誰かに言われてというのが心外だったらしい。なるほど、と若島津は彼を上から下までゆっくり眺めた。
 なるほど。言いたいことを言うだけ言って、その言葉一つで帰る気だったのか。どのくらい待ってたんだか知らないが。
「質問。───なんで待ち伏せなんてことになったんだ」
「…電話番号とか、知らないから、…です。カズさん怒ってたから教えてくんなさそうだし。僕も、それで訊いたら違う気がして」
「フロント通して詫び入れるとか、そういうのは考えなかった?」
 びっくりした顔になって彼は若島津を見た。それから困惑の表情が拡がっていって、あの、と少しどもるような感じで声を押し出す。
「メーワクだったら、…もっとすいませんでした。ただ今日中に言わなきゃヤベェ、…マズイかなと思ったんです。あれオレのミスだったから、オレあんな風にやるつもりじゃなかった。イエロー取られた方が、マシだった。オレ、僕は、……でも、これ全部言い訳です。スイマセン」
 だんだん「オレ」と「僕」と敬語の使い分けがごちゃごちゃになってきていて、もうそれが何と形容しますか、必死で切実な感じで、 
 かわいい。
 と若島津は思ってしまいましたとさ。うわ、かわいいだと?、この図体デカイよく分かんない、目つきの悪い色黒の坊やが!!
 ちょいと自分で蒼ざめそうになったけど、ポンと内心で若島津は手を打った。なんだ、あれか、秋田犬の小犬が可愛いとか、柴犬の小犬が可愛いとかいうあれと同じか。そう言や藤井の言い草じゃないが、こいつ、昔実家で飼ってた秋田犬に似てる。近所の犬の中では大きくてボス格で、なのに絶対にお袋にだけは逆らえなかった。花壇を駄目にしてこっぴどく叱られて、しょんぼり小屋にも入らずうなだれていた。
 丁度、そう。こんな顔で。
 この時、若島津の中にむくむくと楽しい計画と悪戯心が沸き上がってきた。後になって大きな後悔となってそれが返ってくるのを、幸いとゆーか不幸にしてとゆーか、彼氏はまだご存じない。ええ、この思いつきが地雷を踏むに等しい行為であることを。
 ふっ、まあいいやな、人生ってのは何があるのか分からんもんさ。
「日向、君さ。…この後ってどうするの? どうやって帰るの、まだ免許取れてなかったよな、確か」
「え? いえ、オレ寮なんで、まんま帰ります。普段はチームのバスで…移動してますけど。もう時間過ぎちゃったから、…電車かな」
「ふうん、じゃあ良かったら」
 若島津は自分から日向の方へ歩み寄った。
 後ろのドアから話し声が聞こえてきていて、ロッカールームに居る残りメンバーが、そろそろ出てくるような気配だった。
「…俺が送ってやるよ。で、ついでに夕飯付き合ってくれると有難い。どうも今日は自炊する気分じゃないんだ、一人でファミレスってのも冴えないしね」
 たっぷり息が3回吸える間硬直したかと思うと、日向は大変に元気よく、廊下中に響き渡る声で叫び返した。
「オレ、奢りますッ!」
「馬鹿言え!、お前みたいなペーペーに奢られるほど落ちぶれちゃいないよ。いいからおいで、今日は俺の顔立てておけよ。…あ、そうだ、いいか。これから乗る車見て俺の人格を判断するなよ。あれは俺の趣味の最も遠いところにあるヤツなんだからな」
 先に立って地下駐車場へ向かって歩き出すと、慌ててバタバタ足音が追っかけてくる。
 ううん、楽しい。俺、また犬飼いたかったんだよねー、でかいヤツ。マンションだし遠征遠征の生活だから諦めてたけど。都会で大型犬飼うのかわいそーだしさー、散歩もちゃんとしてやれないしさー。
 
 ───すいません、オレが免許取り途中なの何で…知ってるんですか?
 ───どっかのインタビューで言ってたじゃない。二十歳前に取りたいって。 
 ───ンなもんどうして……。 
 ───そりゃ気になったさ。あれだけ豪快に睨まれればな。…君、まさかキーパーみんなああやって睨んでんのか? 
 ───ち、…違いますよ! 
 ───へえ…? じゃあやっぱり俺を睨んでたの? 何でだよ、生意気なやつだな。
 ───何でって、オレ、ずっと睨んでたつもりじゃなくて……。
 ───? 睨んでたんじゃなくて? 
 ───だから……。
 
 だから。
 後悔するかもしんない、もう神のみぞ知る(笑)



END
NEXT STAGE!

  

 


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