「…黙れ」
「まだ言ってねえよ!」
「だからその前に釘刺してるんだ」
 チッと舌打ちして、日向は空のボトルを握って立ち上がった。このまま捨てに行くつもりらしい。
 迷ったが、若島津はその背中を呼び止めた。怪訝そうに振り返る彼を顎で呼び、もう一度、自分の視線まで屈ませる。
「───手術、いつ」
 ふっと、日向の息が微かに詰まった。
「何だよ、いきなりだね」
「そうでもない。…俺にはな」
 キッチンに向かう後ろ姿を見た時から、ずっとこれを尋ねたかった。普通に歩くのに不自由しているようには決して見えない。だが注意深く観察すれば、左足に重心をかけないよう動いているのを感じてしまう。
「まさか、それで風呂場でノリノリだったとか言う? オレの負担を減らそうとか思った?」
 この質問には答えなかった。だってまったく意味なかったし。若島津が危惧するほどには悪くもないと、そこんとこだけは身をもって了解した。
「天皇杯、終わってからのつもりでいるよ」
「そんなんで…大丈夫なのか」
「ま、フル出場は無理だよな、やっぱ。全力で走んのは、テーピングでがちがちにして20分が限度かな」
 そうか、と静かに呟いて若島津は目を閉じた。みっともなくも、視界が潤みそうになったからだ。ほっとしたのかもしれないし、逆に一層、胸に痛みが増したせいかもしれない。
 不安が、形を整えてしまったせいかもしれない。
「あー、今はさ、けっこー色々発達してんだよ! ええと何だったかな、関節鏡、とかナントカいうの使って、光ファイバーの小型カメラ入れてやるんだってさ。回復も全然早いって。次のシーズンには間に合うらしいし」
「うん…」
「……泣かないで」
 泣いてやしない、と言い返すのには無理があった。せっかく閉じたのに瞼を押し開け、滴が目尻の横を滑り落ちていくのが自分でも分かった。
 今日はよく泣く日だな、なんてぼんやり思った。嬉し涙から悔し涙から、生理的なヤツまで一通り。感情の起伏が無茶苦茶だ。瞼が腫れてないのは、いつもそうだが、多分日向が冷やしてくれたのだろうに。水分補給をしたせいなのかな、まだ止まらないよ。
 よく、泣く日だ…──。
「治すよ。リハビリもメチャクチャ頑張る。こんなの、どーってことない。…また、走るよ」
 何人も同じ症状を起こしたサッカー選手を若島津も知っている。みんなそれを克服してきた。だからここでの日向の言葉を疑うつもりは微塵もない。
 そうとも。
 彼の未来を、不安に思っての感傷なんてものじゃないハズだけど。
「お前とさ、フルでチャンピオンズシップやりたかったな…」
「だな。でも次がある。いくらでもまだあるよ。特にウチはさ」
 最後の部分は茶目っけが入った言い方になった。ファーストシーズン優勝の日向のチームと、セカンド優勝の若島津のチームは、来月頭にも年間王者決定戦を控えている。日向の方は前年もセカンド優勝、チャンピオンズシップを堂々制した。
 次。次なんてあるのかな。お前、日本にもう居ないんじゃないか。
 ───そうやって遠くへ、羽ばたいて行って欲しいのも本音なのに。寂しいなんて、本気で思ってるハズはきっとないのに。
 若島津は目で促して、自分の両腕を日向の肩に回すのを手伝わせた。支えられながら背中まで掌でさぐり、可能な限り彼を抱く。
 顔を見られたくなかったのも理由の一つ。だけどひたすら、彼の温度に埋まりたいと思わずにはいられなかった。
「──お前が、走ってるのを見るのが好きなんだ…」
「ああ」
「好きだ。……本当に。見ていたいよ、ずっと」
 どこまでも走って行け。
 転んでも膝をついても、日向、必ず。起き上がって、その瞳が目指す場所へ駆けて行け。
「──…。なあ、ところでオレ、まだあんたにシーズン優勝のお祝い言ってないんだけど」
 今言っていい? それともマヌケてる?
 抱き合いながら、困った声でそんなことを日向が耳許で囁くので、若島津は泣き笑いの表情になってしまった。
 
 
 
 この日、結果としては午後過ぎまで、抱き合ったまま二人してとにかくよく寝た。若島津に至っては昏倒状態で眠りに落ちた。冬の日だまりの猫のように、お恥ずかしいながらも幸福で暖かくて、どこか切ない惰眠の海。起きた時にしっかり日向の指と自分の指が絡んでいたので、若島津は赤面して死にそうになった。
 日向が実は夜中に寮を抜け出して来ていただとか、後にそれによってチームからがっちり懲戒を科せられただとかは、まあ致し方のない後日談。
 
 おまけで付け加えると、数日後から若島津は朝のランニングコースを変更した。日々平均2キロ、今までより多めに走ることを己に課した。
 ───いや、これがかなりマジな話で。
 持久力を鍛え直さないと気が済まない。
 



[END]

 

 


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