「兄さん、賭場とばの梯子番に空きはねぇかい」
 しとどに着物を濡らす雨の中、振り返った男の第一声はそれだった。
 手には四尺ばかりの木切れを握り、足許の地べたには呻き声を上げながら幾人かが転がっていた。提灯の灯りがそれらを照らすと、中には見覚えのある顔がちらほらとあった。名までは舌に出なかったが、こちらの手下てかの者なのは確かなようだ。
 腹立ちや不審さよりも、その御維新前の芝居の筋立てじみた様に興じる気持ちの方が強かった。今にも突っかかって行きそうな横のタケシを制して、若島津は顎でしゃくって地べたを示した。
「あんた独りでやったのかい」
「ああ」
「どうやらウチの若えモンがいらねえ粗相をしたらしい。詫びは追々、まずはそっちを引き上げさせてもらって構わねえか」
 了承の印か、男は持っていた木切れを投げ捨てた。急いでタケシとツレが飛び出し、一人一人を抱え起こす。
 男は呑気にも聞こえる調子で、「そいつは尺骨をやってる、気ィ付けな」「こいつは胸の骨がいっちまってる、揺するんじゃねえ」などと御丁寧に忠言を差し挟む。てめぇ、と鼻息荒くするタケシの脇を気負いなくすり抜けて、若島津の前まで歩いてくると、すっと腰を落として膝を開いた。
「仁義前後を間違いましたる節は御勘弁を。通り直させて頂きやす。おひけぇなすって」
 若島津は持っていた番傘を畳んで下ろし、だが己は仁義を切らなかった。黙って目だけで先を促した。その否定とも肯定ともつかない慇懃さに、男も異を唱える事はしなかった。浅黒く掘りの深い顔立ちの中で、外連味たっぷりに口許がにやりと笑った。
「いたみいりやす。では御免被りやして、手前、生国は武蔵三芳野、渡世の縁で大胡ノ要吉親分に盃を頂きやして、名前の儀は日向と申しやす。賽の目家業、今は小兵の流れ者ではござんすが、向後、宜しくお頼み申し上げやす」
「───ふざけんな、てめぇッ」
 ついに我慢が切れて、掴みかからんばかりに若い衆の一人が前へ踏み出る。それにも男は動じる気配を見せなかった。さらにカッときたのか、身内の者の手が懷に呑ませた匕首あいくちに伸びるのを横目にして、若島津は手にした傘で容赦をせずに殴り付けた。
「馬鹿野郎ッ あちらさんから控えて仁義を切って下すったんだ。俺にこれ以上の恥かかすんじゃねえッ」
 それから男に向き直り、「すまねえが」と傘を開いて差し出した。
「こんな雨ン中での立ち話も何だろう。こっちの仁義は逆手も重々承知で、ひとまずヤサに案内させてもらいてぇんだが」
 おい、と声をかけると別の若い衆が慌てて前に進み出る。男がどこからか拾い上げた提灯は破れてぼろぼろになっていた。使い物にはもうなるまい。
 それを恭しく預ける様は、やはりどこか芝居じみていた。



 その男が現れた時に、タケシは何とはなしに嫌な予感がした。
 理屈はない。ただ『何とはなしに』だ。男の得体の知れなさ、胡散臭さが、単に鼻につくというだけではない。
 武蔵川越の大胡親分と言えばタケシにも名前は分かる。この界隈、浅草上野を広く束ねる新門の大親分とは、兄弟分も同然の間柄と聞いていた。その身内を名乗る男に面と向かって仁義を切られた以上、新門に盆のひとつを任されている若島津にとって、男の世話を見るのは渡世家業の道理ではあった。
 なのにどうにも、タケシはそれを頭っから信じる気にはなれなかった。自分のこういった勘に外れが少ないのも知っていた。だから率直に兄貴分にそう告げた。
 返事は決して意に添うものではなかった。
「ほっときな」
「したっけ、アニィ」
「聞こえねえのか、タケシ。俺が放っておけと言ってンだ」
 欅の長火鉢の端に面倒そうに頬杖をつき、若島津は結んでいない長い髪を、空いた手でこれも面倒そうに額からかきあげた。
 ほとんど寝巻き替わりにひとえを着崩し、火にわざわざ当たっている割には胸元が大きく開いている。上には縞の羽織を袖も通さず肩掛けで、今日は外に出るつもりは無いらしい。寝足りない顔で白湯をすする姿に、ひょっとして女が続きの座敷にまだ居るのではないかと勘ぐりたくなり、タケシはちらりと奥の襖に眼を走らせた。
「馬鹿、変な気を回すんじゃねえ」
 ふっと笑って若島津は湯のみを置いた。
「先夜は寂しく独り寝さ。でなきゃこんなみじめったらしく、おぶ引いてるわきゃないだろう」
 界隈きっての色男らしい言い種だった。タケシは若島津が同じ女と出歩いているのを見た事がない。そして薄々には、この仕舞屋しもたやに女を出入りさせる気がないらしいのも気付いていた。色事は色事で割り切るタチで、また万事に人を立ち入らせもしないのが若島津という男だ。ずかずかと寝間まで上がるのを容認するのは、付き合いの長い反町と自分くらいのものだった。
「おい、それ」
「へい」
「へいじゃねえよ。煙草盆だ、こっちに寄越せ」
 言われて、自分の脇にある煙草盆を慌てて押し遣る。それから若島津が手を出すより先に煙管きせるを取って、さすがに吸い付け一服つけるまではしなかったが、煙草を詰めて吸い口を向こうに差し出した。
 火種は火鉢に屈んで自分で付けて、受け取った煙管をくわえながら、若島津はからかうような目付きでタケシを見た。
「なんです」
「いや、…。お前ぇみてえなコが居たら嫁にしてもいいんだがな」
「アニィ、そりゃ何かの嫌味ですかい」
「意外と本音さ。よく気はつくし骨惜しみもしねえ。俺にはもったいねえくらいの弟分だよ」
 そりゃ相手がアニィ、あんただからだ。
 喉までせり上がった言葉をタケシは殺した。若島津の煙管を扱う腕から袖口が落ち、白い肘があらわになる。自然と目が行きつく先は、いつもは同じように白さの覗く胸元だ。だが今は寝起きのせいか、それとも火鉢に当たって火照ったからか、そこはほんのりと色づいて赤かった。
 無理にも視線を引き剥がして、タケシは畳に向かって吐き捨てた。
「だったら、俺の言い分にもちィとは耳を貸してくれてもいいんじゃねえですかい。あんな風来坊、俺にはアニィが重宝したがる気が知れねえ」  
 叱責が飛ぶかと身構えたのに、若島津は煙管を弄ぶだけだった。カン、と灰落としに打ち付けられた音にハッとして顔を上げると、中身を空けた煙管が無造作に差し向けられた。タケシも黙って受け取り、またそこに煙草を詰め替えた。
「まあ、お前ぇの心配ェも分からんじゃねえが」
「アニィ」  
 一服吸う間合いを置いて若島津は呟いた。
「正直、俺も手前ぇで不思議でならねえのさ。何がこうも…引っ掛かりやがるんだろうな」
 ほんの一瞬、気弱さのようなものがその目許を微かによぎった。タケシはそれを見逃さなかった。  
 瞬時に沸いた感情は怒りと言うに近かった。どんな相手もこの頭と度胸で手玉に取れる器量の男が、そんな弱さを身の内に持っていていいはずがない。伏せた瞼の静かな陰に、ゾッとするほどの艶を感じたから余計にだ。
「安心しな、あいつを子飼いに出来るとは俺も最初から思っちゃいねえよ。あれはそういうタチの男じゃねえ」
「…なら、もう、こン事で俺が言うこたァありやせん」
 ようやくそれだけを言葉にして押し出すと、タケシは茶櫃にいざり寄って蓋を開け、誰のものでもない湯のみをひとつ拝借した。そこへ火鉢の鉄瓶から白湯を注ぐ。  
 舌の根がカラカラに乾いて口の中が苦かった。ろくに冷ましもせずにグイとあおる。当然、舌と喉を熱に焼かれて、むせて咳き込みながら湯のみを下ろす。
「何やってんだ」  
 呆れたように若島津は笑って、水差しの冷たい水を自分の湯のみに入れて押し出した。ガキにしてやるのと大差はない、同じ気遣い、同じ優しさだった。有り難いと慕いこそすれ、これまでそれを不満に思ったりなんぞは一度もない。それじゃあ罰当たりにもほどがある。が、
「アニィ。───俺はアニィに返しきれねえ恩義がある」
「なんだ、今さら」
「あんたが拾ってくれなきゃ、どこで地ベタでのたれ死んでてもおかしかねえ。いいとこ官のお世話ンなって、ブタ箱で臭ぇメシ食うしかねえような身の上だ。この命ひとつで取っ替えがきくってんなら、いつだってアニィに投げ出す覚悟はありやす」
「随分と大仰だな」
「だから、覚えてておくんなさい。アニィが拾ったのはお恥ずかしいながらも人一人、犬っころを拾ったのとは話が違う。そこいらに投げ捨てて仕舞ぇってな訳にはいかねぇんだ。俺にとっての忠義ってのはそういう事だ」
 死ねと言われて死ぬのはいい。掌で転がされるのも本望だ。だが半竹はんちくな情であしらわれるのはどうにも我慢がならなかった。
「タケシ。……お前えはホンに」
 すい、と手を出されたのに招かれて、火鉢の横に膝でにじる。ガキの時分にそうしてくれた仕種のままで、若島津はタケシの頭を掴み寄せた。
「情のこえぇ奴だなあ……」
 この予感は不吉な胸苦しさと手を携える。タケシは奥歯を噛んで、こみ上げる何かを必死にこらえた。



「いつ気が付いた」
「いつってんなら、最初はなっからさ」  
 よもや官の手先たァ思わなんだが、と若島津は夜道に提灯を揺らせてうっすら笑った。
「旦那の川越訛りは、ちィと怪しい。そんで極めつけはあの太刀筋だね。上段から一気に落とす、あの早打ちは尋常なもんじゃねえ。俺はせんにあれを見た事がある。我流にはなっちまってるようだが、南の方の癖だろう」  
 それこそ「よもや」と驚いて、日向は首の後ろを掌で叩いた。
「あんなんで分かるもんかね」
「当たりかい」
「…お有り難い道場に通っての稽古事ってんじゃ見当が違うぜ。実の叔父貴にほんの数年手ほどきされた。あとはご推察通りに畢竟ひっきょう、我流さ」  
 少し迷う風情を見せて、結局は若島津は吐き捨てた。
「薩摩か」
「おうよ」
 薩摩 示現じげん傍流なにがし、───太刀流といったか。日向自身が忘れていた。田原坂で果てた若い叔父貴の顔が数年ぶりに頭に浮かんだ。  
 一方、堪え難い苦痛を思い出したかのように、若島津は端正な面を微かにだが歪めていた。足がふと止まって夜空を見上げる。
「今夜は月がいい案配だ」










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